朝鮮の歴史

■百済の建国伝説

 百済は、韓族の国で、朝鮮半島西南部を領土とし、日本とは友好な関係をつづけた。

 百済の建国伝説のひとつは、高句麗の始祖宋豪が、建国の地(草本)で王女を契り、ふたりの子もできたが、別の地にいた子(ふたりにとっては腹違いの兄)が訪ねてきたため、それを後継ぎに定めた。そこでは高句麗を逃げ出して南下し、弟の温祚(オンジョ)が、漠城(ソウル江南)に国を開いた、というものである。つまり、百済の建国者は、高句麗の建国者の子であったということになる。

※温祚王(おんそおう、生年未詳 – 後28年)は百済の初代の王(在位: 前18年 – 後28年)。源流を扶余に求める神話を持ち、は扶余、または余とする。

 この伝説をそのまま事実と考えることはないが、百済が高句麗系の国であるということは、一般に認められている。少なくとも、支配層は高句麗からやって来た、というように。高句麗は、夫余(ふよ・現在の中国東北部満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)とも表記される。)から起こったとされており、百済王をはじめとする百済人が、みずから、高句麗と同じ夫余の出であると述べているし、国号を南扶餘と称したりしていることが、それを裏付けるとされる。さらに、漠城の地には、高句麗に独特な墓制である積石塚の大型のものがあり、王陵ではないかとみられている(石村洞古項群。特に3号墳)。

しかしそうした事情にもかかわらず、事実として高句麗と百済とは、そうした系統関係にはなかったとみる見方も存在する。後進の百済が、先進の高句麗と対抗していく上で、対等性を主張した、という理解である〇また、対内的にも、支配者が被支配民に対して、みずからの優位性の根拠を、そこに求めるということも、よくあるからである。

  伝説の上では、紀元前18年に建国したとされるこ3世紀には、馬韓50余国のひとつとして伯済国(ペクチュ・はくさい)がみえるが、それが成長したのが百済である。伯済国は、現在のソウルの漢江より南側の一帯に興った。風納土城(ブンナブトソン)とよぶ土城は、3世紀後半からの拠点と考えられ、その土木工事の規模・完成度からみれば、支配層は相当の権力をもっていたとみられる。 

▶︎百済の成長

 4世紀後半になると、加耶南部と通交し、それを介して倭国とも通交関係に入り(360年代後半)、さらに東晋王朝へも使者を送るようになる(372年)それは近肖古王の時代で、大きな画期であった。その子で次王となる近仇首王がそれを支えた。

 そのころまでに、周囲の馬韓の一部や減*族の小国をあわせた連合体に成長しており、また北にあった帯方郡が実質的な支配力を失い、そこに土着化していた、あるいは新たに中国の混乱を避けて流入してきた漢人たちが、南下して、百済王権のもとに入ってきたことが考えられる。しかし北には先進の高句麗があり、後進の百済にとって、高句麗との対立は不可避であった。そこで連係する勢力をさらに南に求め、沿岸航路をとって加耶地域へ進出し、安羅(成安)・卓淳(昌原)・金官(金海)をはじめとする南海岸沿いの加都南部諸国と親好を結んだ。

またそれらを介して、倭とも接近し、友好関係を結んだ。『七支刀(しちしとう)』奈良県・石上神宮所蔵)は、369年に、百済が作製して倭王に贈ったもので、こうした百済と倭との関係樹立を記念したものである。

ここに百済・加耶南部・倭の軍事的な同盟関係が成立したことになる。371年には、高句麗故国原王を戦死に追い込んでいる。その年にはまた、王城を移しているが、おそらくそくまでの風納土城から夢村土城(モンチョントソン)への移居で、同じく漢城地域のなかでのわずかな遷都であった。384年には、東晋から胡僧摩羅難陁(まらなんだ)によって仏教が伝えられ、王室で信奉されるようになり、また都に寺も創られ、憎も得度(出家して受戒すること)された。

 その後も高句麗との戦闘はつづき、396年には広開土王みずから率いる高句麗の大軍の侵攻を受け58城を奪われる大打撃を受けた。そのため阿莘王(アシン・阿花王)は広間土王に降り、いったんはその「奴客(どきゃく・百姓)」となることを誓ったものの、すぐにまた倭と和通し、けっきょく百済は、新羅とは違って高句麗の伸長期である広開土王代にその勢力下から離れた状態を維持したのである。倭に対しては、王子腆支を質子(人質)として送っていたが、阿莘王の死後、倭の軍事力を背景に反対勢力をおさえて腆支主が即位した。新羅が以後も高句麗従属型外交をすすめるのに対し、百済は倭との友好関係を維持する。

 6世紀なかばまで、中国に対しては一貫して南朝にのみ使節を送り貢献する。宋・斉・梁とつづく南朝も、北朝との対抗上、ことに高句麗の動静に気を配って、百済を優遇する。南朝を中心とする国際社会のなかでは、高句麗につぐ高い地位が与えられ、倭よりも上位におかれた。南朝の戦略である。この時期の百済がただ一度、北魏に使者を送ったのが472年であり、高句麗の侵攻が激しくなってきたころである。しかし北魏は、百済の高句麗非難をまったく無視し、百済も悟って、以後二度と遣使はしなくなった。475年にはついに高句麗の攻撃を受けて王都漢城が陥落し、蓋歯(ケロ)王が殺され、百済はいったん滅亡したのである。

▶︎熊津での再興

 まもなく、王族のひとりである文周(ムンジュ・蓋歯王の母弟か)が熊津(公州)で即位し百済を再興した。熊津時代の始まりである。しかしそれまでの基盤を失った流移の政権であり、当初は王権も安定しておらず、また同時にそれまで勢力をもっていた解氏・真氏も、基盤を失っての移住であったから、支配勢力に変動が起こることになった。権臣解仇は文同王を暗殺し、13歳の三斤(さんぐん)王を擁し国政の一切を掌握したが、解仇は王になる野心を捨てきれず大豆城(オニヤン)(温陽)に拠って反乱をおこした。こののち解氏は権勢を失ってしまう。この反乱を鎮圧した真老はそのごも重臣でありつづけるが、その死後は真氏の重臣も現われていない。

 東城王(牟大)が即位し、ようやく商運の混乱から立ち直り、王のもとで王権の専制化がすすんだ。このころ熊津地方に基盤があったとみられる新興貴族沙氏・氏・燕氏が旧勢力にかわって台頭してくる。王は王都熊津の整備をすすめ、宮室を重修した。しかし急遽定めた王都熊津に永住しようとは考えず、計画的な王都造営をめざした選地をかねて、消沈地方へたびたび田猟にでかけた。

 501年、重用していた百加を泗沘(シビ)の南の加林城(林川・イムチョン)城主として派遣しようとしたが、それは百加が東城王の王権伸長策に抵抗したためかと思われる。熊津に基盤をもつ百加はそれを拒否し、強要する王を暗殺するに至った。王は無道で暴虐であったとされるが、専制化を急ぎすぎたのであろう‥武ニコン寧王があとをつぐと、首加は加林城に拠って反乱をおこすが、すぐに鎮圧され、王は安定した王権をめぎしてとくに積極的な外交を展開するこ武寧王は百済中興の主となった。

 百済の南方への関心はすでに漠城時代にもみられたが、熊津に遷都し、中心が南に移ったことにより、いっそう高まった。490年と495年、中国南斉王朝に対して、地名「王・侯」号を下臣に与えるよう要求しているが、これは全羅道地域の領有権を主張したものであった。武寧王代にはその積極的な外交方針のもと、領土が大きく広がっていった。

 全羅南道の栄山江流域には、窯棺古墳を墓制とする独特な文化圏が広がっていた。馬韓の残存勢力と考えられ、とくに羅州の播南面一帯には有力な首長が存在し、副葬品にはすぐれた装飾品などがみられた。また前方後円型の封土墳も多く、倭との関係も認められる。この地域に対して、百済が本格的に侵攻したのは、5世紀末から6世紀初のことであった〇そのごは、墓制も百済的な横穴式石室墳が主流になった〇また済州島の耽羅国も、百済に使者を送るようになった。

 これについで、513年からは、加耶地域に対して侵攻を進めていったの手始めが、己校・帯沙、つまi)南原から糖津江を越えてその下流、河東方面であった。南方に広がった領域には、主邑に中央から宗族の子弟を派遣した。

武寧王陵の誌石

 射幸王都のあった公州市の宋山里古墳群にある。前に5号墳・6号墳があり、その背後にあって古墳と認識されないまま、1971年に偶然に発見された。従って未盗掘で、南朝系の文物を中心に、多くの副葬品が確認された。武寧王の墓であるとわかったのは、羨道に置かれた2つの誌石の銘文によるもので、第1石の表面には「寧東大将軍・百漬斯麻王。年六十二歳。突卯年(523)五月丙戊朔七日壬辰崩じ、乙巳年(525)八月葉酉朔十二日甲申に到り安居し、大墓に登冠す。志を立つること左の如し」とあり、「斯麻」という武寧王の謹が明記されていた

「寧東大将軍」は、『梁書』本紀・百済伝にも普通2年(521)に徐隆がその号を受けたことを明記しており\隆は武寧王とみてまちがいない○それを冒頭に記したのは\梁を中心とする世界のなかに自らを積極的に位置づけようとする態度であり、百済の自信をうかがわせるものである。第2石には「銭一万文右一件 乙巳年八月十二日、寧東大将軍・百済斯麻王、前件の銭を以て土王・土伯・土父母・上下衆官二千石に訟う。申の地を買いて墓となす。故に券を立てて明となす○律令に従わず」とあり\体裁にやや問題もあるが、ほぼ買地券であり、買地の相手が土中の王をはじめ冥界であるため冥券ともよび、道教的な思想にもとづく0その裏には、王妃が亡くなったあと「丙午年(526)十二月、百清国王大妃、寿終る。喪に居ること酉地に在り○己酉年(529)二月葉未朔十二日甲午、改葬して大墓に還すc志を立つること左の如し」という、王妃の墓誌を追別している。墓として「申の地」(西〇厳密には真西より300南)を買ったとするが、王陵は\王城と考えられる公山城からおよそ西南西に位置する。王妃の頬の場所として「喪に居ること酉地に在り」とあり、やはり公山城から西にあたる艇止サン山遺跡が、想定されている。

 かねてより高句麗に対抗するために連携を求めていた新羅とは、493年に婚姻同盟を結んでいたが、521年に梁に遣使する際に、新羅の使者をともなっていった。新羅にとって南朝外交ははじめてであl)、百済の使者は梁に対し、加耶諸国とともに新羅をもみずからの附庸国として紹介し、また文字もない遅れた国で、じぶんが通訳しなければわからない、と伝えたこ 梁と百済との関係はきわめて深く、熊津に残る武寧王陵および王陵とみられる他の古墳も、埼で築かれた、梁墓に近いものであった〇武寧王陵から出土した墓誌にも、梁から与えられた寧東大将軍の号が筆頭に記され、東アジアにおける地位を標示している。 

▶︎泗沘時代        

武寧王をついだ聖王(聖明王)は538年に泗沘(しび・扶餘)に遷都する。伸長してきた新羅やあいかわらず南進姿勢をみせる高句麗に対抗し、対決するための意図的な遷都である。王宮の背後に山城(扶蘇山城)を築き、周囲に大きく羅城をめぐらし、そのなかの主都は地域区分として上・中・下・前・後の五部に分け、それぞれに兵五百人を配した。各部はさらに五巷に分けた。地方には旧都熊津を北方とし、中方・古沙城(古早)、東方・得安城(恩津)、西方・刀先城(不詳)、南方・久知下城(不詳)の五万とよぶ五拠点に、方領・方佐を派遣したc方にはおよそ10郡が属し、郡には部将(郡令)、それに属する主城には城主を派遣したこ占領下の加耶諸軌こも同じく那卜城主を派遣して領有を主張した。                   

 中央には、前内部・穀部・肉部・内椋部・外椋部などの内宮12部と、司軍部・司徒部・司空部などの外宮10弧あわせて22部司を設置し、六佐平が統括したcその上位には大佐平がおかれたcまた佐平以下、16等の官位制を整備した。とくに上位六位までは特権層である○これらは熊津時代に淵源をもつものとみられる。

 聖王は541年、新羅と和を結んだ上で、同年および544年と、のこる主要な加耶諸国の首長および倭が安羅に派遣していた吉備臣らを召集して、新羅に滅ぼされた金官などの復建を名目として会議を主宰したが、有効な策はうちだせなかった。

 551年、百済は新羅と大加耶と連合して、高句麗を攻撃し、漢城を回復した。しかしその翌年には急成長した新羅によって奪われてしまう。これに対して新羅を討とうと進撃した聖王は、554年、管山城(沃川)の戦いでぎゃくに新羅によって殺されてしまい、百済は滅亡の危機に瀕した。ぎゃくに新羅はその勢いでのこる加耶諸国を併合していった。 

 聖王は日本へ仏教を伝えた主として著名であるが、この王代に沙門権益がインドから帰り、もちかえった『五分削を翻訳した。ここに百済の律宗がはじまるc541年には梁に『淫楽観を要請し、送られている。百済仏教の蔓蓋期であり、寺院造営もすす√られたとみられる。百済の寺琶.二は、山腹の洞穴を利用したて寺もあり、平地の伽藍として二、塔と金堂力滴北にならぶ、一考一金堂式が主流であった= 熊童時代には大通寺・水源寺などて;、潤批遷都以後では、寺名不等の軍守里寺址・走林寺などが司られる。父聖王を失った王子   ウイトク蓉昌(威徳王)は、はじめ即位㌧ないで出家することも考えたこ父の陵を造るとともに、陵寺を建立している。聖王はまた仏典定林寺址石塔(忠清南道扶盲余)以外に、毛詩博士などを招き、儒学も学ばれた。

 威徳王代には南北両朝(陳・北斉・北周)に遣使していたが、581年に隋が統一すると、いちはやく祝賀便をおくった。隋は王を上開府儀同三司・帯方郡公に射した。.中国はしだいに安定に向かうが、朝鮮三国の角逐はいっそう激しさをます。武王は幼名を薯章といい、『三国遺事』に伝える伝説では、新羅・真平王の王女善花公主と結ばれて、連れ帰ったとする。弥勤寺(益山)を建てたのは、その夫人とともに龍華山(弥勤山)の師子寺に行幸した際の怪異によるが、弥勤寺造営に際しても真平王が工人を送って助けたというこ 逆に新羅の皇龍寺九層塔の造営には、百済の工匠が行っておl)、そのような交流は、戦争状態とは無関係であったかもしれない(このような時代背景から薯童を武王とみるのはおかしいという意見もある)。武王は、一時期、弥勤寺の近く(王宮里)に遷都している。そこには、長方形の城壁の中に段をつくり、南半に宮殿を配し、北半には庭園や工房を配した宮城を造営した。

■新 羅

▶︎新羅の建国

 新羅の前身は、3世紀に辰韓一二国のひとつとして知られた、現在の慶尚北道産州の斯慮国である。4世紀なかばに成長し、国際舞台に登場するようになった。377年には、高句麗使とともに前案に使者をおくった。382年には、新羅王の楼寒が単独で、ふたたび前案に遣使した。楼寒とは麻立干という称号を指し、奈勿麻立干の時代にあたる:独自の派遣ではあっても、朝鮮半島東南の斯慮国が中国華北の前奏に使者を遣使できたのは、高句麗がそれを認めていたからで、新羅は、先進の高句麗に従属するかたちで、勢力をのばしていったのである。  

 始祖神話によれば、関川楊山村・突山高墟村・野山珍支村・茂山大樹村・金山加利付・明活山高耶村という6つの村があり、高墟村の村長蘇伐公が菜井という井戸の傍らの林間で、馬が脆いていなないているのを見て、行ってみてみると、そこにはただ大きな卵だけがあった。それを割いたところ、中から嬰児が出てきたので持って帰って養った。13歳になると、6村の人々は、推尊して君主とした、という。それが、始祖赫居世である。

 このように新羅の始祖は、卵生型であi)、それは南方的な神話類型に属する。6村が赫常世を推戴したというが、6村とは慶州盆地に広がる6つの邑落で、斯慮国の基盤をなし、のち六部に転化する。

 この赫居世ほ朴氏とされるが、新羅の伝説時代は、およそ、朴氏の王から昔氏のむすめむこが王位をうけつぎ、さらに昔民主から金氏のむすめむこがクーレー王位がつぐという三姓交代の形になっている。昔氏の初代王は、第4代脱解で、昔氏の始祖とされる。それに対し金氏は、王として初代は第13代の味郁であるが、始祖はその数代前の閑智とされる。この昔・金両氏の始祖にもそぞれ神話があり、脱解は卵生で、闘智は金色の箱からあらわれた〇箱の中からというのも、卵生の一変型である。

 4世紀後半には、西方で、同じく韓族のなかから百済がいち早く成長し、高句麗と対抗しつつ、東晋に遣使し、倭と通交していた〇新羅は高句麗に依存しつつ、この百済と対抗していく必要があった〇そして、高句麗の圧力を排除するのが、初期の大きな政治課題となった‥ 

 4世紀末、5世紀初には、高句麗や倭に人質をおくった=高句麗の拡開土王碑』は、高句麗と倭の両勢力圏の間を揺れ動く、しかしたくみな新羅の外交をうきぼりにしている。400年には、高句麗の救援軍が、新羅領内にいた倭軍を掛)、新羅はそれにこたえて高句麗に朝貢したc417年の納祇王の即位に際しては高句麗兵が関与し、418年の人質帰還以後は、高句麗に従属する姿勢がより鮮明になった。そのころ高句覧が建てた 子中原高句麗碑』によれば、高句麗はみずからを兄とし、新羅を弟とするような、やや接近した関係を記すものの、高句麗の官位制に直結する衣服を与え、新羅領内に「新羅土内帳主」という軍司令官を派遣し、新羅人から兵を募集するなど、なお高句麗の抑圧的な態度がうかがえる。

 高句麗に対抗しようとする努力は、433年に百済と和をむすび、翌年に相互に交碑したことにみられる。450年に新羅の辺境で高句麗将を殺した時は、王が高句麗に謝罪したが、そのご、454年には高句麗が侵入したのに対抗し、翌年に高句麗が百済に侵入した際には百済側に救援軍を送るなど、百済と連係して、高句麗との抗争をつづけた。しかし、460年ころにもなお王都には高句麗軍が駐留した。5世紀を通して、およそ高句麗の制圧下にあったといってよく、同時にその圧力を排除する過程であったともいえる。

 5世紀には領土的にもまだそれほど拡大はしていなかった。東海岸には古くから減族がおり、その任地であった悉直(三陸卜向芽羅(江陵ノ)は、奪ったり、奪い返されたり、長く係争の地となった。減の背後には、高句麗がおり、共同で攻めてくることも多く、481年には、百済や新興の大加耶の援兵を得て、破っている。けっきょくその地を獲得・領有するようになったのさばつ 斗ンシュは、505年であった。西北には、沙伐(尚州)にまで達し、470年にはその西 ポウンの報恩に三年山城を築いている。また南では、463年に、加耶南部と結んだ  そうりょう ヤンサン倭が款良(梁山)に侵入したが、新羅が撃退している。しかし、慶州盆地周辺地域以外の多くの小国は、新羅に対する従属姿勢をみせたまま独立した状態がつづき、領土化したのは5世紀末以後のことであった。

このころ新羅王は、窺錦という王号をもち、慶州盆地の中心やや南よiフの、南川に沿った独立丘陵に部分的に城壁を築いた月城に居住し、周囲を明活山〈城や南山城などの山城で防御していた。盆地は、曝部・沙曝部・牟梁部・本彼部・習比部・漢岐部の六部に区分され、とくに曝部・沙曝部が優勢であった。王や、王を補佐する葛文王はこれら二部から出た。しかし王は、まだ超越的な存在ではなかった。領土が慶州盆地の外側に広がるにともなって、六部の地とそれ以外が対比されて扱われるようになった〇つまり六部の地は王宗土して意識され、他は地方として厳格に区別されたのである。 

 500年に智証麻立干が即位すると、王権の強化をはかi)、国号を正式に「新葺_と定め、寝錦・麻立干などの称号に代えて「王」を称した〇智証王から三貴王にかけて、内政の整備を果たしてあらたな外交が推進され、521年に;、百済を介してはじめて南朝梁に使者をおくった。ただし南朝よl)に転じ1ということではなく、本格的な中国との外交は、新羅が西海岸を獲得するラ灘年代をまたなければならない〇その後は、564年には北斉へ、568年には雫へと、南北両朝に対して、自立的な外交を進めるようになるのである。

 514年に即位した法輿王は、国利の整備につとめた〇兵部を設け、法憧軍を創設した。王京六部には軍屯地として六味評を置き、また地方も邑落を軍屯地として邑勒とよび、ともに法悼軍団を配した〇520年には、律令を頒布し、官位制を定めた。律令の具体的内容は十分にわからないが、独苛の衣冠制など、固有法を明文化したものとみられる。衣冠制とつらなる官位制は、王京人に対する官位(京位)と地方人に対する外位に分けられた。王つさん京位は伊伐浪(角干)以下、17等からなり、外位は嶽干以下、11等からなるが、外位第1等の嶽干は京位第7等の一書浪に相当するなど、大きな格差があった。王京人も、骨品制という厳格な身分制に規制され、第5等大阿浪以上は、真骨出身のものにのみ許さjl、特権層をなした。真骨の下は、六頭二\ん品・五頭品・四頭品・三頭品・二頭品・一頭品とつづくが、三頭品以下は、しだいに形骸化し、まとめて平民とよぶようになる。この時期の王京人は、王京六部に住み、骨品別に包摂され、京位を持ちえた特権層であi)、地方人に対して総体として支配者共同体を形成したのであった= また最高の官職として上大等を置き、独自の年号「建元」を始めた.=上大等は一王代に一人が通例で、統一以前は貴族を代表して王を制肘する意味が強かったe独自年号はこののち、唐の年号を使用するまで断続的に剛、ている。

 5世紀にはすでに仏教が伝わっており、王室などでも私的に信奉されたが、法輿王は527年、反対する群臣をおさえ、仏教を正式に認めた‥王は王宮近くに輿倫寺を創し、王妃も永輿寺を創した。以後、国家仏教として栄え、王京は寺院・仏塔であふれるようになっていく。 

対外的には、522年、大加耶塙霊)に対して王女を嫁がせ、524年から

本格的に加耶に進出したc529年に滅ぼした金官国(金海)の王仇亥愴庚信の曽祖)と一族は、532年になって慶州に移住したが、新羅では例外的な措置として、それを支配層にとりこみ沙味部に属させ、真骨としている。

 新羅の飛躍的な領土拡大は、つぎの真輿王代にみられ、とくに540年代後半から竹嶺をこえて高句麗領に入り、百済と共同して漠江流域に進出した。 竹嶺を越えた地に第一歩をしるしたのが、ア丹陽赤城剛である。552年には百済が先に占領した漢城を奪い取i)、ついに西海岸に到達した。こうして高句麗・百済に匹敵する、あるいはそれをしのぐ勢力として、三国分立を決定真興王昌寧碑(561年)(慶尚南道昌寧)08(5づけた。554年には、反撃してきた百済の聖王を菅山城の戦いで戦死させ百済を混乱におとしいれ、562年には大加耶を滅ぼして、それと連合していた諸国もとりこみ、加耶の分割を完了させた。

 真輿王は、拡大した領土を、高僧や高官とともに巡狩し、その記念碑を残しているが、現在確認されているかぎりでも、北ははるか成鏡南道の磨雲嶺・黄草嶺にまで及んでいる。ま七前線の拠点には、軍団の拠与としての州を設置し、軍主を派遣して統治した。領土の正大にともない、州治も移っていった。また新たに獲得した国原(忠州)などには、小京を設置し、王京やあるいは芥皇寺石塔(慶尚北道慶州)加耶からの亡命者などを移住させた。

 こうした対外的発展において、活躍をしたのが花郎集団である。花郎集団とは花郎が率いる郎徒集団であl)、貴族の子弟を複数の集団に分け互いに鍛錬しあうもので、その集団の中心になる人物を花郎という。そのご統一戦争においてもはなばなしい活躍をみせるが、全焼信はその一人である。

 553年には月城の東北に皇龍寺を創建した。もともと宮殿を造営しようとして、途中で寺院に変えたもので、王室の私的な寺院として出発するが、のちに護国仏教の中心道場として、新羅で最も重要な寺院となった。 

 真平王代には581年に位和府・船府署・調府・乗府・礼部・領客典などを設置し、中央官制を整備した。中国が隋によって再び統一されると、新羅は594年に隋に使者をおくり、冊封をうけた。

■加耶諸国

▶︎金官の時代

 加耶は、小国の汎称であり、加耶諸国というべきである。百済は馬韓の一国から、新羅は辰韓の一国からそれぞれ成長したが、ともに、馬韓・辰韓の地域を早くに統合したわけではなかった。5世紀段階でも、それにとi)こまれない馬韓(慕韓卜辰韓(秦韓)・弁韓がなお残っていた。加耶諸国は、これら残された諸小国を総称していうこともあi)、また弁韓地方に限っていうこともある。けっきょく最後までひとつにまとまらないまま滅亡したが、いくつかの国が連合して、外圧にたちむかったことがあった。日本では、「任な那」諸国とよぶこともあるが、「任那」とはほんらい、加耶の一国(金官国)の別名にすぎない。諸国は、およそひとつの盆地を単位とし、平地の王宮と、周囲の山城とで、構成される。王宮に近い丘陵には古墳群も形成された。

 加耶諸国のなかで、まず早くに成長したのは、洛東江河口の金官(金海)であった。神話を伝える国がふたつあるが、それはこの金官と、内陸部の大加耶(高霊)である。金官の場合は、天から六つの卵が降l)てきて、それから生まれた童子のうち、最初にあらわれたのが(首露)金官の、残i)が五つの加耶国の始祖となった、というもので、『駕洛国記三に伝わる。新羅と同じく、卵生で、天孫降臨型である。大加耶の場合は、加郡山の山神と天神とが結ばれて生まれたのが、大加耶の始祖と、金官の始祖であったとするものである。こちらは金官の存在を意識した神話形成がうかがえる。これら二国に神話が残されているのは偶然ではなく、これらはともに大加耶とよばれた国であった。高霊の大加耶が一般的ではあるが、そもそも大加耶とは大なる伝首露王陵(慶尚南道全海)0只只加耶という美称であi)、それとは別に固有の名をもっていた。J=〈、伴扱がそれである。いっぼう金官も大加耶(大駕洛)とよばれたことが確認される。

 金官は、3世紀の狗邪国の後身であi)、鉄生産や海上交易などの利を得て、まず大加耶とよばれる勢力となったこ政治的な成長は百済や新羅につぐ4世紀のこととみられるが、基本的には伯済や斯t二司質の小国として出発するc海をへだてた倭とも関係が深く、それは南二くじゅん子十ンウォン あら ノ、マン暮重.つ卓淳(昌原卜安羅(成安)なども同様で、たがいに連係していた‥曹,こ鼓をはじめ先進の文化をこれら加耶南部から人手した。364年、百済が再三ニ蔓との対抗上、背後をかためる必要から、古くからの交易ルートである昏董航路をとってこれら加耶南部と通交するようになったが、南部諸国は倭二.「関係を仲介し、ここに百済一加耶南部一倭の同盟関係が成立した‥400星.つ高句麗広開土王の侵入に対して、金官(任那加羅)と安薙が倭の側にた′‥て戟っている。こうした関係が、ほぼそのまま6世紀初めまで維持された。

▶︎大加耶の時代

 洋扱が大加耶として成長するのは、5世紀後半のことであるが、金官はそ.「ニろまでに勢力が衰えていた。内陸部の伴披が、有力になるのは、やはi)罠生産の優位が考えられるが、明確ではない。442年に、倭が加耶南部との司盟関係を背景として、大加耶に侵攻するが、大加耶はかねて関係のある百膏に救援を求め、百済は倭のそこまでの進出を認めず、倭を排除した:この尊から、百済は大加耶に対して影響力をもつようになった。倭は、この失敗をうけて、翌年、南朝宋に都督加羅諸軍事の号を要求し、利害のない宋は451年にそれを認めるが、実質的に機能することはなかった。

 470年代に、百済が高句麗の侵攻をうけて衰勢におちいると、百済の圧力をはねのけることで利害の一放した加耶西部の諸国と連合し、大加耶王嘉悉王(荷知)はその盟主となった。そして連合に加わった帯沙(河東)の港から船出して、479年に南朝の南斉に使者を送った。加耶の唯一の中国への遣使であった。南斉は、輔国将軍・加羅国王の号を与えた。それほど高い地位ではないが、最初の冊封としては、順当なところであった。また連合の形成は、百済と対抗していこうとするものであったため、新羅に連係を求めて接近していった。 嘉悉王は、南斉の撃にならって、独特の形状をもった十二彼の加耶琴をつくり、連合の一員である斯二岐(宜寧富林)出身の干即こ命じて曲をつくらせた。子勤は連合諸国の土俗的な歌謡を抹集して作曲し、連合の集まりには、それが演奏され、一体感を高めた。干勒はそのご、540年代に、新羅に亡命し、加耶琴およびその楽曲を伝えた。

 復興した百済は、全羅南道まで進出すると、ほこさきを東にむけて加耶に進出していった。まずぶつかるのが大加耶を中心とする連合で、513年から、大加耶の抵抗を排して、己汝・帯沙を占領・確保していった。大加耶は、こうした百済の進出に対抗すべく新羅に婚姻を求めた。522年、新羅は王女を大加耶の異脳王に嫁がせたが、婚姻はわずか数年で破綻する。それは、新羅もまた侵略的な意図をもっており、王女につけた従者の服装を、大加耶のものから勝手に新羅の新たな衣冠制に基づくものに変えたので、大加耶王が従者たちを放還したためであった。

 新羅は、524年から、本格的に洛東江を越えた加耶南部への進出をはじめた。529年には金官が攻撃され、壊滅的な打撃を受けたが、532年にその王族が新羅に投降して最終的に滅亡した。金官につづいて、曝己春(不詳)や卓淳が攻撃され、滅ぼされた。加耶南部として連係する安羅は、金官進出に際して、倭に救援を求め、倭もそれに応じて近江毛野臣を派遣したが、結局、何もできなかった。そこで金官が敗れたあと、安羅は、帯沙まで進出していた百済に救援を求め、百済は531年、安羅まで進駐し、前線の卓淳の久礼山を守備したが、新羅の攻撃をとどめることはできなかった。

 こうして加耶南部において百済と新羅がちょくせつ対略する形勢となった。加耶諸国は百済か新羅か二者択一の通しか残されない状況になったのである。

■任那日本府について

 任那日本府とは、「日本書紀」の、しかも欽明紀にのみみえる用語である。『日本書紀よ は「任那」を朝鮮半島南部にあった天皇の直轄地ミヤケの意味でも用いており、それを統治するための機関とみられたこともあった。古代の日本が朝鮮半島に軍事的に進出して、植民地支配を行った、という考えは、1970年代までは、日本の学界における通説とされてきた。そうした通説と結びつけた理解がされてきたのであった。

 しかし1963年に発表された、北朝鮮の全錫亨の「三韓三国の日本列島内の分国について」(ぎ歴史科学』1963−1)を転機として、学界動向が大きく変わっていった。その考えは分国論とよばれ、『日本書紀二 にみえる三韓や三国など朝鮮半島にあったとみられる地名は、実はすべて日本列島の中にあったもので、朝鮮半島にあった国を本国とする、同じ名の分国のことである、というもので、そのような分国は、本国にとっての植民地的なものであり、すなわち朝鮮半島の国々が、かつては日本列島に植民地を置いていた、という考え方である。それを支持する日本の研究者はほとんどいなかったが、それまで疑いなく認めてきた通説を、考え直す大きな機縁となった。

 広間土王碑文に対する理解も、それを機に大きく変わっていった。実態としては倭から派遣された使節団を意味する。4世紀以来、倭と深い関係にあった加耶南部諸国が、520年代に新羅に攻撃され危機的状況になったため、その一国安羅国が倭に救援を求めた。しかし派遣された近江毛野臣らは何もできず、全官国・卓淳国は新羅に降った。安羅はいっぼうの友好国百活にも救援を求め、百済は容易に安羅に進駐しえた。

 こうして加耶南部で新羅・百済が対峠する形勢になり、膠着状態になる。その時、百済の「下韓」に対する郡令.城主派遣をみた安羅が、新羅寄りの姿勢をとるようになると、百済は危機意識をもち、541年、新羅に和議をもちかけ、日を高句麗へむけさせた上で、加耶諸国に対して働きかけをする。それがいわゆる「任那復興会議」で、すでに新羅によって滅ぼされた全宮国などの復興を議論するという名目で、百済王が諸国の芋支たちを召集し、新羅に通じることの危険を指摘し、百済側につくよう説得するものであった。実際に開かれたのは二回のみであるが、百済は継続して同じ意図でよびかけをしており、史料的にもー達のもの。

 そこに任那日本府が登場。単に日本府とする用例も、雄略紀八年条の日本府行軍元帥を除けばすべて欽明紀で、ほとんどこの会議に関わる。日本府はこのような特殊な事態になってはじめて登場する。倭国はそもそもすべての加耶の政治に関わることができたわけではなく、加耶南部との友好関係が中心であった。日本府は、卿・執事・臣などから構成される人的組織で、具体的に的臣・吉備臣・河内直らが含まれている。彼らは倭から派遣された人たちで、欽明紀一五年条にみえる在安羅諸倭臣が実態を伝えることばである。彼らを実際に動かしたのは、現地で手采用した倭系人の阿賢移那斯・佐魯麻都の兄弟で、恐らく安羅の意向を受けて、新羅と通じていた。倭からの使臣たちは安羅を支持し、百済と対立したのであった。ノ百済は新羅と和議を結んだ上で、加耶に対する野心をすてず、541年と544年、加耶諸国の早岐(首長)層を召集するが、新羅と百済の対加耶策の落差を感じた安羅は、それまでの同盟関係を断って新羅よりの姿勢をみせる。

 倭は安定を支持し、百済をおさえる立場をとった。こうして、4世紀後半以来つづいてきた南方のラインはくずれるにいたったのである。 まもなく安羅は新羅にとI)こまれ、百済よりの姿勢をとることを選んだ大加耶を中心とする諸国は、百済の聖王が新羅に敗死して(554年)まもなく、新羅によって滅ぼされ(562年)、加耶はすべて消滅した‥そのごは、名実ともに三国の争いとなっていく。092