第2部・韓国と日本の文化交流( 第1章・第2章)

■文化交流の歴史を正しく理解しよう

 民族、国家を問わず、形は違ってもそれぞれの文化を持っている。文化を発展させるためには、昔の人々から受け継いだ伝統文化を基礎にして、これに民族的創造の知恵を加える努力を常にしかなければならない。また、異質文化を進んで受け入れて、これを消化し摂取することで、自分のものにする能力を発揮しなければならない。自分の文化だけに固執すると、発展に限界が生じたり、時には後退したり衰えたりすることにもなる。

 異質な文化は、外から伝わったり内から求めたりするという2つの姿で受容される。隣接して暮らしてきた民族同士は、昔から現在まで、互いに知らをいうちに多様な姿で文化を交換しながら歴史を歩んできた。韓国と日本の国民は、これからもずっと隣接して暮らさなければならない地理的宿命にある。両国民は、国際化の動きがいっそう高まる現代世界と地球村時代の未来をともに生きていかなければならない。そのためには今までの歴史から貴重な生き方の教訓を得て、未来の歴史のパートナーとして、お互いに信頼し合う関係を築いていかなければならない。

 人間は同じ所でだけ暮してきたのではなく、必要に応じて個人的に移住したり、集団的に移動して暮らしてきた。このような人間の移動は文化の伝播をともなった。すなわち、人間は彼らが持っていた技術と文化を、新たに移動した地域に伝えた。その地域の先住土着民社会は、移住民が伝えた技術と文化を受け入れ自分のものとして消化した。そして、その文化に自分の知恵を加える創造的努力を傾けて、さらに新しい発展を成しとげてきた。山を越え海の向こうに移動する人間の流れは、すでに先史時代から、私たちが想像するよりずっと多様な姿で展開されてきた。狭い海峡一つを間にして暮らしてきた日韓2国の間にも、遥かな昔から人間の移動があり、そのたびごとに文化の伝播と交流があった。

 ここでその歴史を簡略ではあるが整理して、1つの項目としてまとめてみよう。これを通じて、韓国人は日本との関係がとても昔からあり、深かったことを知ることができるだろう。また、日本人は韓国をよく理解して親密に感じ、互いに助け合う心を持つようなってほしいと思う。2国の間で繰り広げられた相互交流とつながりの歴史を正しく把握し、この土台に立って互いを尊重し、真心から向かい合う国家と国民になり世界の発展に貢献できるだろう。このことが、先史時代から現在まで続いてきた親交と信頼の歴史および伝統を、正しく継承する道であるといえよう。

■原始時代、東北アジア大陸と日本列島の文化交流

■第1章・陸地と海洋を通じて文化交流が進展する

▶︎韓半島の交流史的な位置

 アジア大陸と日本列島の間にある韓半島は‘文化交流の架け橋の役割’をしてきたと言われる。しかし、この言葉は歴史的に誤解を招きやすい表現である。

 架け橋は人間が渡っていくだけで、その上に暮らす人はいない。韓半島には昔から韓国人が暮らしてきたし、独特の文化を発展させてきた。まさに歴史展開の舞台であった。韓半島が大陸文化を日本列島に伝える架け橋の役割を果たしてきたという表現は、ともすれば韓半島に暮らしてきた韓国人の存在とその歴史を忘れて誤った歴史認識を育むことになる。

 大陸文化が韓半島に伝わると同時にただちに日本列島に伝わったわけではないということである。大陸文化は韓半島で受容された後、韓半島の主人公である韓国人によって韓国的に消化され、形を変えて韓国文化になった後に、日本列島に流れていったのであるこれは大陸の文化だけでなく、韓半島に住んだ韓国人の創造的活動によってつくられた個性的な韓国文化も日本に伝わった。

▶︎ 開かれた海上の道

 地質学者は1万5000年前まで、日本列島は大陸とつにつながった陸地であり、日本海(東海)は大きな湖だったという。その時代に生きた人々の文化を旧石器文化というこ今日、旧石器時代の文化遺跡は、韓半島と日本列島の各地で発掘され、旧石器人の生活を知らせてくれる。その後、地球の気候環境が変化して、地球全体の海面水位が高くなるとともに、日本列島が生まれ韓半島が形成された

 日韓両国の先祖は、彼らが住む地域の自然条件の差によって、それぞれ異なった歴史を展開するようになり、2つの民族がつくった文化にも少しずつ差が生ずるようになった。海をまたいで暮らすようになった2つの地域の間には、新石器時代になっても人間の往来が続いていた。それぞれに違う歴史的な生き方をしながら、2つの地域が分離された後にできた対馬、壱岐を介して、海流を利用しながら丸木船で往来したこの事実は両国で出土するこの時代の遺物を通じて証明されている。

2.先史文化が交流して稲作を伝える

▶︎櫛目文土器と縄文土器

 韓半島と日本列島が形成された後、新石器時代の歴史が開かれるとともに、韓半島では櫛目文土器文化が、日本列島では縄文土器文化が、それぞれ発達した。この時期、2つの地域の人々の主な生活基盤は、狩猟、漁持と植物採集を中心にする抹集経済から徐々に脱し、一部では農耕もはじまった。

 日本の九州では、韓半島の楠目文土器が多くの場所で発掘されている。一方、韓半島の南海岸地域では、日本の縄文土器、日本産の黒曜石とそれを材料にして製作された鏃、漁具などが出土する。このような出土品を通して、2つの地域の間に往来があったことが分かる。

 

 縄文時代前期に日本列島の九州から南西諸島まで広まった曽畑式土器も、朝鮮の櫛目文土器の影響を強く受けたと考えられている。同時代には他に朝鮮半島に起源があるとされる「結合式釣り針」、日本列島に起源があるとされる「隆起文土器」、「鋸歯尖頭器・石鋸」など南朝鮮と九州に共通する文化要素が見られる。

▶︎稲作のはじまり

 稲作は、紀元前2000年頃の炭化した種籾(たねもみ)が漢江の下流地域で発見されたが、一般的には中国から黄海を渡って韓半島に伝わり、それから約2世紀の後、九州の北部地域に伝わったと考えられている。日本の多くの場所でも韓半島と同じような炭化した米粒が出土し、稲の収穫器具である石包丁も発見され、稲作が行われていた事実が立証されている。稲作が東日本に伝わったのは縄文時代末期のことといわれているが、本州の西部で稲作が広く普及したのは弥生時代に入ってからのことであった。この時から米を主食とする新しい文化がはじまった。

▶︎弥生文化

 稲作が東日本に普及する紀元前3世紀頃、日本では弥生時代が幕をあけた。韓半島の無文土器時代と関係する青銅製の武器類である銅剣銅丈、銅鉾と細絞鏡のような青銅器文化と鉄器文化が伝わった。また、青銅器と鉄器の製造技術も伝わった。このような遺物は、九州と本州西部各地で発見されており、紀元前3世紀から紀元3世紀の間の弥生時代にも、両地域には文化交流が成立していたことを証明している。

 

■第2章・3国から日本列島に向かった人々、そして文化

■ 1.3国が‘倭’と交流する

▶︎政治生活の変化

 稲作や金属器文化を受け入れた北九州では、弥生時代中期以降、各地に農業共同体が作られ、さらに農業を基礎にして農業共同体の競合が進み、各地に小規模の国家ができるようになった。青銅器や鉄器など全域器が使われるようになると、これら小国家の間では争いが激しくなり、統合が進んでいった。こうしたなかで、周りの小さな国々を支配するようになった。「倭」が登場した。倭は4世紀に入って古代国家日本に発展する政治的母体であった(下図・3世紀頃の地図)

▶︎ヤマト政権と韓半島

 日本が弥生時代(紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代)だった頃、韓半島では古朝鮮の歴史が終わり、中国の東北部と韓半島一帯にさまざまな国が生まれ、競い合う新しい歴史が展開した‥古朝鮮の道民の一部はそのまま残って彼らの土地を支配するようになった漢の郡県勢力に対抗し、一部は遠く韓半島の南部に移住してそれぞれ新しい国を建てた。これらの諸国は、鴨緑江の流域におこった高句麗漢江の下流域におこった百済韓半島東南部の一帯を舞台に登場した新羅の3国に統合され、3国が互いに競い合うようになった。洛東江の中・下流地域には加耶連盟が生まれたが、加耶連盟は中央集権国家として発展することなく新羅に併合された。

 中国古代の歴史書には、倭の国王が中国に使臣を送って朝貢し、倭主として印綬(金印)を与えられたという記録がみえるが、これによって日本が中国と直接に文化交流を行ったわけではなかった。この時期の倭は、先進文物を韓半島から受容していたのである。

▶︎倭・ヤマト・日本

 倭は古代人が日本を呼んだ呼称である。韓国人や中国人はもちろん日本人自らも国号として使用した。例えば、5世紀に倭の五王が「倭王」を自称して中国に使者を送り、上表(意見を書いた文書を、君主に奉ること)したことがあった。「倭」の漢字の訓は‘ヤマト’であり、時代によって‘邪馬台’や’大和’とも表記された。‘日本,という国号は702年に唐に使者を派遣する時にはじめて使用されたと考えられているが、『三国史記』には新羅の文武王10年(670)12月に倭国が国名を日本に変更し、太陽が昇る場所に近いことから、このように変更したと記録されている。

■ 2.日本列島に集団で移住する

▶︎韓半島の政治的激動とヤマト社会

 弥生時代に続いて3世紀末から7世紀頃まで、日本では古墳時代の歴史が展開した。奈良地方のヤマトが権力を強化して律令国家に発展した時代であった。

 この時期の韓半島では、王朝国家として基礎を固めた高句麗、百済、新羅の3国と南部の加耶連盟が覇権をかけて激しい戦いを展開し、それぞれ特色のある文化を発達させた。一方、ヤマト勢力が先進文化と鉄資源を獲得しようと韓半島へ進出を試み、軍事的衝突をたびたびおこした時期でもある。韓半島では長い間政治的激動期が続いたので、韓民族のなかには安全と平和を得ようと海を越えて日本に集団で移動する人々も出てきた。このような移動は韓半島の情勢と関係して3段階の波となって進展した。

▶︎日本に渡っていく移住民

 韓半島から日本列島に移住した人々を、日本では’渡来人‘と表現している。渡来人は海を渡って移住してきた人という日本側の歴史用語である。彼らはたび重なる戦乱による切迫した危険や苦難を避けて韓半島から海を越えて日本列島に移住した渡航移住民であった。

 5世紀中葉以降の渡航移住民は、韓半島の政治情勢の変動と関連して、数次にわたって集団で海を渡って日本列島に渡来した移住民なので、こオt以前の弥生時代に日本にやってきた移住民とは区別されている。

<前漢の五銖銭、三翼鏃、楽浪系滑石混入土器など大陸や韓半島系の遺物発見>

 楽浪郡帯方郡の漢人集団が南下して南朝鮮(辰韓、弁韓)にいたのが、五世紀初頭に韓人に追われて半島を撤退し、日本へ来たと言う長崎県の壱岐市の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土している。

▶︎古代韓人渡航移住の波動

 日本への集団的渡航移住の波は、3つの時期に分けられる。第1の波は、5世紀前半の高句麗の南進政策によって強い軍事的圧力を貴けた百済、新羅、加耶など韓半島の南部地方の住民の渡航移住であった。第2の波は、5世紀後半から6世紀前半にかけておこった百済に対する高句麗の軍事的圧力、百済と新羅の加耶攻撃などで、困難に陥った百済や加耶の貴族勢力が主導した集団移住であった。その後の第3の波は、7世紀後半に新羅と唐の連合軍の攻撃で百済と高句麗が滅びた後、その道民が旧王族と貴族に率いられて何年もかけて渡航移住したものであった。(下図 渡航移住民の航路)

 3国統一後、韓半島の情勢が安定すると、韓半島から日本へと移住する渡航移住者の足は途絶えた。

■ 3.ヤマトが渡航移住民の文化を受け入れる渡来文化

▶︎渡来文化

 ’渡来文化‘とは、古代の韓半島から集団的に移住した人々が伝えた文化であり、日本古来の文化とは区別されている。’渡来’文化には、人の移動とともに伝わった生活技術もあったが、意図的な活動によって伝わった知的文化もあった。漢字や漢文、儒学や仏教がその例である。

 韓半島から日本に渡った渡航移住民は、先進の技術や知的な文化を持っていたので、ヤマト社会でとても歓迎された。ヤマトは彼らの技術や文化にふさわしい地位と活躍の場を与えて彼らの技術と文化を活用したので、彼らは社会の発展に大きく貢献し、国家の発展を促進したのである

▶︎技術文化の伝播

 集団で渡航した移住民による技術文化の伝達は、5世紀前半の高句麗の南進によって圧迫を受けた百済、新羅、加耶など韓半島の南部の人々の日本への移動で進んだ。

 渡航移住の後、古代日本の社会発展に大きく寄与した最も有力な集団は、ごまたうしあやう 秦氏(はたうじ)と漢氏(あやうじ)であった。

 新しい土木技術の知識を持っていた秦氏は、京都盆地の開発を行い、地方豪族として成長したこ漢氏は奈良盆地に住み、各種技術と文筆知識を発揮してヤマト政権に仕え中央官僚として活躍した。これら2つの氏族は、ヤマト政権の政治的変動に深く関わるほど大きな勢力となった移住集団であった。

 6世紀を前後して、’今来才伎’(いまきのてひと)と呼ばれるようになる新しい技術集団を含む渡航移住民が大挙して日本に渡った。ヤマト政権は、彼らを奈良地方の各おごと地に技術別に集団で住まわせて、品部として編成して、首の管轄下で手工業生産に従事させた。今来才伎の日本定着とその活動によって、鉄器の生産が活発になり、新しい農耕具や工具が作られ、武器、馬具などが生され広く用いられた。

 新羅の秦氏は、中国古代の秦の始皇帝とは無関係です。ネット上では、堂々と、秦氏は、秦の始皇帝の末裔だと書いている人がいますが、それは間違いです。坂上田村麻呂らが後世になって自称したに過ぎません。秦氏の秦は、(1)機織のハタ説(2)朝鮮語のパタ(海)説(3)梵語の綿布説などがあります。「古事記」では、「波陀」と書くので、本来は、ハダ(肌)と呼んでいたのではないかと言われています。秦氏の名前の由来は、慶尚北道の新羅古碑によって、古地名「波旦」ではないかという説が最新の学説で有力になっています。

 秦氏は五世紀の頃に、灌漑治水や馬の文化を半島から伝えて京都伏見に移住し、その後、嵯峨あたりに居住します。701年(大宝元年)に秦都理(とり)が松尾大社を創建し、711年(和銅4年)には秦伊侶巨(いろこ)が、稲荷社の総本社となる伏見稲荷大社を造営します。話は前後しますが、聖徳太子の臣下で、秦氏の中で最も有名な秦河勝(かわかつ)が603年(推古11年)、蜂岡寺、後に葛野(かどの)の太秦(うずまさ)寺(今の広隆寺)を建立します。ここでは、現在、国宝となっている弥勒菩薩をまつっていますが、やはり、新羅の仏像の影響が見られます。

 仏像といえは、日本史で最も有名な仏師は、法隆寺の釈迦三尊像(国宝)をつくった鞍作首止利(くらつくりのおびととり=通称鳥仏師)ですが、彼は、敏達朝に百済から渡来して仏教を伝えた司馬達等の孫と言われています。鞍作とは、馬具をつくる技術者に付けられました。著書「古代の日本と東アジアの新研究」(藤原書店)からの抜粋

■ 4. 学問と技術文化を伝える

▶︎ 漢字・漢文

 漢字は中国で発展し広がった文化であり、儒学は中国に起源を持つ文化である。これを取り入れた民族によって、漢字を読む音や用法、学問理解の内容をどに違いがあったが、漢字と儒学は前近代の東アジア世界では精神文明の基盤として作用した文字であり学問であった。

 古代日本の社会では、5世紀はじめに日本に渡った阿直岐(アジッキ)の推薦王仁(ワンイン)が渡来し、「千字文」や「論語」を伝えて、漢字や儒学が広まったこ阿直岐の後裔である東漢氏(やまとのあやうじ)や王仁の子孫とされる西文氏(かわちのふみうじ)は代々記録や出納を担当してヤマト政権を支えた。

 千字文はかつて、多くの国の漢字の初級読本となった。注釈本も多数出版されている。また、書道の手本用の文章に使われ、歴代の能書家が千字文を書いている。中国では智永(隋)、褚遂良(唐)、孫過庭(唐)、張旭(唐)、懐素(唐)、米元章(北宋)、高宗(南宋)、趙子昂(元)、文徴明(明)などの作品が有名で、敦煌出土文書にも千字文の手本や習字した断片があり、遅くとも7世紀には普及していた。日本でも巻菱湖(江戸)、市河米庵(江戸)、貫名菘翁(江戸)、日下部鳴鶴(明治)、小野鵞堂(明治)などの作品がある。書道の手本としては、智永が楷書と草書の2種の書体で書いた『真草千字文』が有名である。その後、草書千字文、楷書千字文など、様々な書体の千字文が作られた。また、篆書、隷書、楷書、草書で千字文を書いて並べた『四体千字文』などもある

 阿直岐は、記紀によれば、百済から日本に派遣されたとされる人物。阿自岐神社の祭神であり、子孫が始祖を祀ったとも考えられている、また彼は同時代の人物の阿知使主と同一人物だったのではないかとも言われている。 『古事記』では照古王から、雄馬雌馬各一匹と共に献上されたという。

▶︎儒学と技術学

 6世紀はじめ頃、百済は、段陽爾(ダンヤンイ)、高安茂(コアンム)など五経博士を交代で日本に派遣して儒学の修得を助けた。663年には五経博士に加えて、暦博士、医博士など多方面にわたる技術の専門家を派遣して古代日本の開明に寄与した。

▶︎仏教と仏教美術        、

 仏教は4世紀後半に中国から高句麗に伝わり、次いで百済に伝わった。その後、高句麗の仏教は新羅に伝わり、百済の聖王(聖明王)が仏像と仏教経典を日本に送り日本に仏教が伝えられた(538)。

 新しい信仰、新しい生き方を説く仏教を受容するかどうかをめぐって、ヤマトの貴族は互いに争ったが、渡航移住民勢力を背景にした崇仏派の蘇我氏が政権を掌握すると、その支持を背景に仏教の信仰は日本社会に深く根付いていった

 日本社会が仏教を受け入れた後、韓半島から恵慈(フジャ)・観勒(クァンノク)・曇徴(タムジン)・慧潅(えかん)などの高僧が相次いで日本に渡って、日本古代仏教の発展に貢献した。.一方、寺院、塔、仏像、仏具、仏画などの製作に関連する仏教美術の専門技術者が日本に渡り、各地に寺院を建立して信仰を支えた。

▶︎ 渡航移住民氏族と日本古代王家の血脈関係

『続日本紀』によれば、光仁天皇の王妃であり、桓武渡航移住民氏族日本古代王家の血脈関係 天皇の生母であった高野新笠は、和氏系の一族であり、百済の武寧王の末裔だったという。ヤマト王族と渡航移住民民族間の婚姻関係はこのほかにも数例あり、日本の豪族と婚姻した例も数多く知られている(上田正昭『帰化人』より)。2002年に日本と韓国で開催されたワールドカップの際に、日本の天皇が『続日本紀』の記録を取り上げて、韓国との縁故を感じると言及したことは、多くの韓国人に深い印象を残した。

■ 5.日本が遣隋使・遣唐使を派遣し、百済・高句麗の道民を受け入れる

▶︎日本古代社会と渡航移住民文化に関する正しい理解

 多くの人々が韓半島から日本列島へ渡ったこと によって、移住民が持っていた技術や知識が古代日本にも入ってきた。日本の古代社会は渡航移住民の技術や学問を進んで受け入れ、これを消化して自分たちの発展のために活用した。この事実を歴史的に理解する時、古代の日本が韓半島から渡っていった渡航移住民による絶対的影響のもとで発展したという考え方は、一方的で偏った見方である。また、これとは反対に、日本古代史の発展は日本人自身の努力によって成しとげたものであり、渡航移住民も日本人として活動したのであり、‘渡来人’の歴史的貢献を無視しても構わないという考えも正しい見方であるとは言えない。先進文化を新天地に伝えた事実は重視されるべきである。ただし、その文化を自身の発展に賢明に活用した努力と活動、移住民を果敢に受け入れた古代日本社会の開放性と進歩的な文化風土もあわせて考えなければならない。隣国間の人的、文化的交流が どれほど重要であったかを客観的に事実として理解し、評価しなければならない。

▶︎遣隋使と遣唐使

 漢文と儒学、そして仏教の受容と学習を通じて、倭はアジアの文化に関する見識を広げることができた。以後、しだいに韓半島をとび越えて中国と直接交渉して文化を導入するようになった。

 607年以降、日本は政治的交渉と先進文化の導入のために、数次に遣隋使を派遣した。遣隋使とともに、高向玄理(たかむこのくろまろ)、南淵請安(みなみのぶちのしょうあん)、僧旻(そうみん)などの留学生留学僧も中国に派遣された。彼らの多くは帰国して大化改新の政治改革の主役として活躍した。彼らはほとんどが渡航移住民の子孫であった。倭(日本)は9世紀末まで20回近く隋に続く唐にも遣唐便を派遣して唐との政治的交流と文化の導入に努力した。

▶︎百済・高句麗道民の渡航移住

 麗神社の扁額 武蔵の開発に貢献した高句麗からの移住民の指導者若光を祀った神社である。


 韓半島の覇権を争ってきた新羅は、676年についに統一を果たした。激しい統一戟争のなかで祖国を失った百済と高句麗の道民の一部は日本に移り住んだ。これらの集団渡航移住民は、高句麗と百済の旧王族、豪族、そして宮人を含んだ政治的亡命者でもあった。彼ら新しい移住民は、高い水準の政治的見識や文化的能力を持っていた。古代日本の政府は彼らの経験や学識、技術を活用するために、彼らを律令編纂や学問担当の職務に従事させて行政官僚として登用した。

 一方、ヤマトは彼ら移住民を集団的に辺境の地に送り、辺境の開拓に従事させた。今日、日本の首都である東京の武蔵野は、高句麗人や新羅の道民によって開拓された地域である。