4章・朝鮮から日本に向かう文化の流れ

■朝鮮から日本に向かう文化の流れ

■ 1.朝鮮文化が日本に流れる

▶︎文化交流の混線

 高麗の後を継いで1392年に建国した朝鮮は、その後1910年に国運を終えるまで、519年間も続いた王国でぁった。そのなかで、1897年から1910年までは大韓帝国の時代であった。日韓交流史の側面から見ると、1876年の朝鮮の開港以前には、おおよその文化が大陸と韓半島から日本列島に伝わったが、19世紀後半、朝鮮の開港以後の流れは、大勢が海洋から大陸に、日本列島から韓半島へと変わった。開港以後の湖tは、政治的、軍事的に推進されたもので、韓半島に痛みを与える流れであった。

▶︎開港前の4段階の文化交流

 朝鮮が建国され、その後開港する前までのほぼ5世紀の間の文化の流れは、さまぎまな形で日本列島に向かった。朝鮮初期の国交回復は日本側の要求によって、中期には戦争にともなう文化略奪によって、そして後期には通信使外交によって、通信使外交が終わった後には東莱と対馬を窓口とした実務外交担当の使臣の往来によって、文化の接触が続き、文化が日本列島に流入したのである。

▶︎頻繁だった使臣の往来

 1407年7月、長い間途切れていた両国の外交が、倭寇問題を契機に再びはじまると、朝鮮は建国以来の交隣政策によって、日本との平和的な国交関係を維持した。国交が再開された後、室町幕府が倒れるまで、日本は160年間に60回あまりも国王名義の使臣を朝鮮に派遣した。一方、朝鮮は初期には回礼使などの名前で日本に使臣を派遣したが、1428年から通信使を送り信義を確かめたりした。この間に日本は遣明使を明に派遣して朝貢関係を維持したが、その回数は19回にすぎなかった。日本は当時、明より朝鮮との善隣外交をより重視していたのである。

 また、朝鮮は、国王の使臣だけでなく、西日本の有力な守護大名が派遣する巨酋使(きょしゅうし)や、それより下位の武士が派遣する諸宵使(しょしゅうし)もしばしば受け入れた。

■ 2.日本と朝鮮の貿易が活発に展開される

▶︎ 文引・図書制貿易

 交隣政策に基づいて日本と接した朝鮮は、日本から派遣されるさまざまな使者を受け入れるとともに許可を受けた日本人に朝鮮との貿易を許した世宗は、対馬島主に‘文引’の発行権を与えた。文引’は倭冠でないことを保証する証明書で、それを持参した者にだけ朝鮮と交易できる特例を与えたのである。また西日本の豪族には鋼製の印章である‘図書,を与え、その印章を押した証明書を持ってきた者に三浦への入港と交易を許す制度も行った。

 国王と有力豪族の私送船、対馬船の歳遣船と特送船、そして文引制度の恩恵を受ける日本商人の往来が頻繁になり、15世紀なか頃に三浦を出入りする日本の船は、年間200隻を超えるほどであった。

▶︎朝鮮の三浦と日本の博多

 朝鮮は往来する使臣と日本からの貿易船のために、1423年に釜山浦と齋浦を開港した。その後、往来の船舶が増えると塩浦を追加した。これら三浦では日本の船舶が出入りするだけでなく、恒居倭という日本人の居留民が定住した。三浦では使臣の接待と商取引の便宜のために倭館を設置した。1443年、日本に派遣された申叔舟の『海東諸国紀』によると、釜山浦に323人、塩浦に131人、斎浦に1722人など多数の恒居倭が定住しており、三浦には、年間約5000人もの日本人が出入りしていたという。

 

 日本の博多、堺などは貿易品の集散地として発展した港湾都市であり、大規模な商取引をする巨商の本拠地であり、経済部市であった。当時、韓半島に最も近かった博多港は、朝鮮だけでなく中国と琉球遠くは南蛮からの商船も出入りしており、国際貿易港として繁栄を誇っていた。

■ 3.日本の使臣が朝鮮の文物を求める

▶︎請来文物

 日本は朝鮮に使臣を派遣して、朝鮮の文物を’求請‘してきた。日本ではこのような文物を「来文物」と呼んだ。文化交流の一つの形態であった請来文物は、高麗の末期と朝鮮の初期に日本に伝えられた文物であり、大蔵経、経典、図書と文具類が代表的なものであった。綿布は文化と直接関係があるものではないが、日本が特別に望んで持ち帰った物であり、船舶の帆を製作するのにたくさん使用した。大蔵経は請来文物のなかで最も重視された文化財である。

▶︎大蔵経、梵鐘と仏画

 高麗大蔵経は、高麗木版印刷術の発達によって多くの部数が印刷されたので、朝鮮初期にはさまざまなところに伝えられていた。日本の執権者や西日本各地の有力者は、朝鮮からの大蔵経の下賜を望む者が多かった。西日本の有力者である大内氏だけでも何回かに分けて10余部も支給された。日本だけでなく、琉球王国も大蔵経と各種経典を何度も求めてきた。そしてついに日本から大蔵経を求める偽の使臣、すなわち偽使までしばしば朝鮮に来て問題をおこしたりもした

 仏教関係の請来文物は大蔵経だけではなかった。梵鐘や仏画、経函も求めてきた。現在、日本の各地に50余個の朝鮮梵鐘90点の高麗仏画などが伝えられているが、その致は韓国に現存している数より多い。戦乱の機に乗じて不法に持っていったものもあるが、その大部分はこの時期に求めていったものである。

▶︎文具と茶具 

 各種の文具と四君子といわゆる梅花、什、蘭草、菊花を画題にした絵水墨画の作品なども日本が好んで要求したものである。足利時代の日本社会では、お茶を楽しむ茶道が寺院や文人の間に流行していた。茶道が生活文化として尊重されるとともに、井戸茶碗と呼ばれるようになった朝鮮の庶民用の湯飲み茶碗は、その穏やかで素朴な実に魅了された日本人がしばしば求めた茶器で、日本茶道と関係した茶具であった。

▶︎綿布と綱

 日本の使節の求めたもののなかで注目されるものの1つが綿布であつた。朝鮮産綿布が日本に伝えられたのは15世紀後半であつた。衣料としての綿布の需要が増えるにしたがって、毎年、支給することを要請したものであつた。16世紀はじめには国王使臣の場合10万匹、それ以外の取引形式で数万匹など、大量の綿布が毎年日本に流れていった。このように日本が大量の綿布を要請するので、それにとのように対応するかが、朝鮮の朝廷で論議されるほどであった。綿布は日本人の衣生活に大きな変化をもたらしたが、また、一方では帆船の帆の製作に変化をもたらし、日本海運業の発達に大きく寄与したものでもあった。

■ 4.戦争中でも文化は伝わる

◉活字戦争、書籍戦争、陶磁器戦争 この言葉は日本のある文化人が壬辰倭乱を遠まわしに言った言葉である。倭乱により日本が得た文化的側面に焦点を当てて表現したものである。戦争は悲劇であり、破壊であり、痛みである。7年間、韓半島を苦しめた戦争によって、人命の犠牲、国土の荒廃、経済の損失、社会の苦難とともに文化的な被害も大きかった。文化の破壊と文化の略奪があったためである。文化の破壊は侵略軍と難民が宮殿、官庁、寺院、民家に放火するとともに、書籍、書画、その他の貴重な文化財を破壊することによって行われた。文化の略奪は文化財の搬出と文化の担い手の拉致としても行われた。

▶︎文化財の搬出と文化の担い手の拉致 

 倭乱の初期に漢城を占領した日本軍は、校書館で約9万字の金属活字と印刷機器を日本に持ち帰った。一方、各部隊に従軍した日本の僧侶が、多くの貴重な経典と仏書、仏画と梵鐘を略奪し、儒学と漢文学関係の書籍および書画はもちろん、建物の扁額までも不法に持ち出した

 文物の略奪と搬出とともに重視しなければならないことは、儒学者・医者、そして陶磁器・製紙・象蕨・裁縫など、各種の技術の担い手を強制的に日本に拉致していったことである。日本軍は、7年間の戦争期間中に、韓国人の軍人や民間人を強制的に拉致し、日本本土に連行した。

▶︎朝鮮人捕虜の生活 

 日本に強制的に拉致された数万の朝鮮人は、軍人の戦争捕虜ではなく、民間人の老若男女であった。‘俘虜(とりこ。捕虜),と呼ばれた拉致された朝鮮人の大部分は、各地で奴隷として強制労働をさせられた。

 ただ、学識が豊富であったり、特殊技術を持っていた者は、多少よい待遇を受け、日本文化の発達に寄与することになった。

▶︎日本に伝えられた朝鮮文化

 戦争中には、多数の金属活字と仏教関係の書籍だけでなく、多数の朝鮮の儒学書と朝鮮に伝わっていた中国書籍が日本に不法に持ち出された。このような書籍と金属活字、印刷術は、それ以後の日本社会に大きな文化的影響を与えた。

 朝鮮人の捕虜のなかには儒学者もいたが、彼らは朝鮮の性理学(中国で宋代から明代にかけて隆盛だった儒学の一学説。 漢・唐代の訓詁(くんこ)学に対し、宇宙の原理としての理を究明し、人間の本性を明らかにしようとしたもの)を日本社会に伝授した。特に姜沆(カン・ハン)は、その後に日本の江戸儒学の指導者として活躍する藤原惺窩(せいか)林羅山に、朝鮮性理学を伝授した。その功績によって本国に生きて戻ることができた。これ以外にも、李梅渓、李眞栄父子や洪浩然などのように、地方の領主に協力して、地方での儒学発達に大きな貢献をした捕虜の学者もいた。

▶︎ 日本の地に咲いた朝鮮の陶芸

 16世紀末当時、日本は陶器を作ることはできたが、うわ薬を塗り、高温で焼く磁器を生産することができなかった。

 一方、当時の寺院や武士の間では茶道が流行し、茶具に対する関心が高かったこ朝鮮を侵略した日本軍は、主に南海岸各地から優秀な陶磁器技術を持った陶芸家を日本に強制的に連行した。

 戦後、各地の領主は、これら朝鮮人の陶工が優秀な陶磁器を生産できるように待遇した17世紀中葉から、北九州と西日本の各地で朝鮮人陶工が優れた陶磁器を生産するようになり、上流支配層はもちろん、町人の間にも広く人気を得た。このようにして、朝鮮人陶工の子孫の活躍で日本の陶芸文化は、世界的な水準に達することができた。

▶︎江戸時代の儒学と退渓(テゲ)儒学

 鎌倉時代以後、日本の長い武士政権の時代は、仏教思想が日本人を主導していた時代であり、僧侶が学問の世界をもっぱら担っていた時代であった。徳川政権下の江戸時代になると、儒教思想が重視され、儒学者が学問を主導する世の中になり文化風土が変わった。江戸時代の儒学は、朝鮮の捕虜学者である姜沆(カン・ハン)が藤原惺窩(せいか)や林羅山などに朝鮮性理学を伝授することから出発した。特に、林羅山は江戸時代300年のなかで、最も多くの朝鮮儒学書を検討した学者であり、日本の官学としての性理学の地位を強固にした学者である。彼は、壬辰倭乱後、朝鮮通信使が来るたびに6回も外交的文化的な対応を行った。

 

 林の後を継いだ日本の儒学は、後にいくつかの学派に分かれたこそのなかでも江戸で活動した山崎闇斎(あんさい)や、熊本を中心に活動した大塚退野(たいや)とその学問に影響を受けた儒学者は、特に朝鮮の退渓儒学を尊敬した。明治時代の日本の近代儒学の流れを主導した横井小楠(こなん)、元田永孚(もとだながざね)なども退渓儒学の教えを受け、近代日本の国民思想の形成に大きな影響を与えた。退渓先生の著書は、ほとんどすべて江戸時代に出版され広く普及した。特に『自省録』は活字版にハングルが入ったまま何度も繰り返し復刊されて、学者の間に広く読まれた。

■ 5.通信使が文化交流に貢献する

◉妻綿羊と日本の国交回復

 壬辰・丁酉の戦争で両国の国交は断絶してしまい、戦後、再び国交が回復するかどうかは予測できなかった。しかし、日本の新しい執権者となった徳川家康は対馬島主を通して積極的に交渉を行い、朝鮮が交隣精神に立って呼応したので、終戦後10年も経たない1607年に国交が回復された。そして2年後には、己酉約條を締結して通信関係を再開した。この時から約200年間、朝鮮は通信使を派遣して日本と外交関係を続けた。

己酉約条(きゆうやくじょう)とは、慶長14年(1609年)、対馬の宗氏と李氏朝鮮の間で結ばれた条約のこと。 慶長条約とも。 己酉とは、条約締結年の干支。 全12条。

▶︎通信使の意味

 通信使は、朝鮮国土が一国際的信者を貫くために日本に派遣した外交使節である。400〜500人ほどの人数で編成された通信使一行は、国際的信義と政権の威信を高めようとする江戸幕府の意図によって、最大の便宜と待遇を受けた。通信使一行の帰国報告書や紀行文、日本側の関係記録を見ると、彼らは比較的自由に各界各層の日本人と文化的な交流を行ったことが分かる。

 通信使を、日本の統治者である将軍が代わるたびに派遣された使臣であるとして、通信使を事大使臣と把握する見解もあるが、これは通信使の趣旨を誤解したものである。朝鮮は、江戸幕府に9回通信使を派遣した。通信使は12回派遣されたといわれるが、最初の3回は儀礼便あるいは回答兼刷還使の名前で派遣された使節である。通信使は日本の要請によって派遣された外交使節であった。

▶︎通信使派遣の手続き

 朝鮮通信使行列図 日本で将軍が新しく就任すると、最初に対馬島主が、朝鮮に、大慶参判使(朝鮮では関白承襲告慶差倭と呼んだ)を派遣してその事実を伝え、続いて参判使(通信使請来差倭)が来て、通信使の派遣を朝鮮に要請した。その後、両国の準備が終わる頃、迎聘参判使(通信使請来差倭参判使(通信使迎接差倭)が、束莱に采て通信使を日本に案内することになっていたこ一行の警護と接待費用は、後に幕府内で物議をかもすほど日本側には大きな負担であった。通信使が通過するすべての地域と江戸では、彼らを手厚く接待して歓迎した。

▶︎ 日本人との接触

 古代文化の流れは、日本列島に集団的に渡った渡航移住民の日本社会への定着により進行した。以後、中世の文化交流は海上活動によって、細々と維持された。しかし、通信使外交による近世の文化交流は、少数の通信使一行が日本で現地人と直接に接触する形で展開した点で、新しい次元の文化交流であった

 大規模な通信使の船団や数千人で構成された華麗な通信使の行列外交的儀式などは、これを見る日本人には異なる文化に接する良い様会であった。非常な関心と文化的意欲を持って通信使一行との交流を望む日本人が多かった。通信使一行が彼らと積極的に接触する過程で、日韓間に実質的な文化交流が行われた

▶︎文化交流の実情

 通信使は両国の間で具体的な情報を交流し、理解を深める良い機会となったが、特に日本にとっては朝鮮の事情とともに中国に関する情報も得られる機会であった。

 通信使一行は列島の各地で日本の僧侶、儒生、医者、文人と筆談の応答詩文の唱和、文芸の交流などを通して、朝鮮の学問と文芸を伝えた。通信使一行が宿泊する宿と船を訪ね、文化的接触を願う日本の官僚や知識人の要請で、製述官と正副使に随行した書員は、時には夜を徹して彼らに対応し、医者は日本の医者との医事問答を交換して医書を贈呈する活動を展開したこまた、一行に同伴した画家も多くの絵を日本に残し、これに刺激を受けた日本の画家は、通信使の行列や通信使に関する絵を喜んで作品にして後世に残した。両国の文化交流は絵画にまで拡大したのである。

 通信使は日本の民衆文化にも大きな影響をおよぼした。大規模で華麗な通信使の行列や通信使一行が演出する馬上才楽器演奏、舞踊演出などは、沿道の民衆に大きな印象を与え、後にこれを紹介した民衆の演劇と文芸作品が日本各地で流行したりした。

■ 6.通信使が途絶えて文化交流が少なくなる

▶︎文化交流の抑制

 日本国内の事情によって通信使外交は1811年に幕を下ろした。その後、両国間の外交と通商業務は、実務処理のために東莱副使と対馬島主の間を往来する通訳使と参判使によって、どうにか維持された。このような外交体制の下で両国人の接触は、指定された港の指定された場所で、少数の官員と出入り商人の間で行われただけだったので、文化交流は以前に比べて大きく抑制されてしまった。

 反面、当時の日本では、国学思想が力を得るようになり、その影響で偏向した朝鮮観が頭をもたげ、さらに征韓論さえもおこっていた。そして、朝鮮でも西欧植民主義勢力の侵略的接近に刺激され、天主教迫害がおこり、衛正斥邪思想が勢力を得て、両国関係はさらに疎遠になっていった。

征韓論(せいかんろん)は、日本の明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力をもって朝を開国しようとする主張である  

衛正斥邪(えいせいせきじゃ)は、李朝時代の朝鮮で、「邪教」「邪説」を排斥して国家の「正学」である朱子学を墨守しようとする考え。

▶︎朝鮮と対馬の交流

 対馬が宗氏の家役として朝鮮との外交実務を担当したのは江戸幕府のはじめからのことであった。対馬は通信使外交が行われた時期はもちろん、1811年にこれが断絶した後も、朝鮮との外交と交易実務を担当する役割を明治碓新の時まで続けていた東莱と対馬の間に行われた公的な外交は、交易関係をめぐって成立したもので、文化交流は不振であった。しかし、両国はこの通路を通して、大陸情勢と西欧植民主義国家東アジア進出に関する情報を交換し、朝鮮文化、特に多数の書籍が対馬に伝えられた。これは、宗家文書や宗家御文庫(現宗家文庫)に所蔵されている相当数の書籍が、朝鮮で刊行されたものであることからよく分かる。

▶︎相手を知り、誠信を持って交隣に力を尽くさなければならない

 “朝鮮と国交を結ぶのに最も大切な点は、最初に人情と時勢を知ることである。…誠信とは、実意を意味し、互いにだまさず、戦わず、真心で接することを誠信という。”この言葉は、対馬で外交文書を取り扱い、朝鮮使臣に対応する真文役の職を長く担当した雨森芳洲が、朝鮮外交の原則を後世の人に教えるために1693年に書いた『交隣提醒」に載っている。彼は自分が提示した原則通り、朝鮮の事情と時勢を知るために東菜に渡り、朝鮮語を学習して、日韓間の外交を誠実に行った外交実務者で、このような自己の信念をそのまま実践しながら生きた人物である。相手を理解して、信義を分けなければならないという教えは、隣の国民として現代社会を生きていく韓国人と日本人の模範とするに十分な交隣精神である。