1909-1930

■日本の統治政策と国家独立のための抗争

■朝鮮総督が‘武断統治を行う

▶︎大韓帝国の廃滅

景福吉勤政殿に掲げられた日章旗    (右は現在の勤政殿)

 日本政府は、1909年に大韓帝国を−併合することに決定した。しかしながら、日本よりも歴史と文化が古く、日本領土の3分の2にもなる国土を持った大韓帝国を占領することは容易なことではなかった。当時、大韓帝国では、主権回復のための坑日闘争が火のように燃え上がっていた。日本は、結局このような抗日闘争を武力で弾圧する一方、大韓帝国の大臣を懐柔し、脅迫して、1910年に “併合条約”締結した。日本は、欧米帝国主義国家の了解を得ることによって、大韓帝国の占領を正当化しようと努力した。

▶︎朝鮮総督府

 日本は大韓帝国を占領した後、その領域を朝鮮と呼び、漢陽(ハニャン)を京城に改称した。また朝鮮総督府を設置して本格な植民地支配に乗り出した。朝鮮総督府は、行政・立法・司法・軍事のすべての権限を行使することができる帝王のような存在であった。歴代総督が陸軍・海軍の現役大将であり、韓国には2個師団の日本陸軍が駐屯していたように、日本の植民統治は軍事力に基礎を置いた武断統治(武力を背景にして行われる専制的な政治のこと)であった。

 朝鮮総督府は、末端の官僚にまで日本人を派遣して全国を支配した。そして、日本人を移住させて、あらゆる産業の主導権を握ろうとした。また、鉄道と道路などを四方延長して、日本の勢力を浸透しやすくした。こうして韓国では、日本人による日本人のための支配が徹底的に行われた。

▶︎武断政治

 日本は韓国人を武力で支配するために憲兵警察制度を実施した。直民地支配の基盤を固めるために、1910年に行われたこの制度は、憲兵と警察が一体となって、民間人に対する行政事務までも担当しようとしたものであった。

 武断統治の下で、韓国人の政治・社会団体はすべて解散させられ集会・言論などの活動も禁止された。学校でさえ、日本人教師は制服を着て剣を身につけて授業をした。

▶︎土地調査事業

 日本は、韓国で近代的土地所有制度を確立するという名目で、土地の面積と所有者を徹底して調べる一方、土地調査令を宣布して、地価に基づいて税金を納付する制度をつくった(1910〜1918)。この過程で、膨大な土地が朝鮮総督府と日本人の所有になった。また、長い間農民が小作していて耕作権を持っていた官有地と開墾地などでは、国家と地主だけに所有権が認められた場合もあり、農民はいっそう苦しい立場におかれることになった。

 朝鮮総督府は、また山林令を宣布して、全国の山林を調べて大部分を国有地にした。国有地は、日本人の農民や会社に安値で払い下げられた。このような土地調査事業などを経て、土地の売買が容易になり、米の値段が上がり続けると、金持ちは土地を大量に購入して小作人に耕作させた。反面、借金に追われた零細農民は、土地を失って農村を離れて流浪した。農村に残っている韓国人の大部分は小作人で、50%以上の小作料に苦しめられた。こうして韓国では、地主と小作人の争いが深刻になった。

▶︎‘強占,か‘併合,か、‘施恵,か‘差別‘か

 大韓帝国を‘併合’した日本政府は、武力を動員して大韓帝国を強制的に占領したのでもなく、また2国が対等な立場で統合したのでもないという印象を与えるために非常に気を使った。すなわち、大韓帝国を植民地にしたのではあるが、合法を装う必要があった。日本で現在しばしば使われている‘韓国併合’という用語は、こういう苦心の末に作り出した歴史用語であった。

 ところが、韓国と日本では、いまだに‘韓国併合’は合法か不法かをめぐって論争が行われている。不法であるという主張は、条約が強制的に締結されたうえに、国際法上の手続きを正しく踏まなかった点を強調する。したがって、日本による大韓帝国の廃滅は、軍事力を動員した強制占領であるという意味で‘強占’という用語を使用する。反面、合法であるという主張は、条約の締結過程で強い圧力をかけたことはあったが、国際法上の手続きを遵守し、欧米列強がこれを認定したという点を重視する。彼らは主に‘併合’または‘合併’という用語を使用する。韓国併合,に対する認識の差は、日本の朝鮮統治時代をどのように呼ぶかとも関連する。韓国の歴史教科書などでは・日帝強占期・という用語を使用し、日本の歴史教科書では‘植民地支配期’という用語を使用することもある。

 日本は韓国人を懐柔して服従させるために、韓国人の精神までも日本人と同じにする同化政策を行った。そうするためには、朝鮮が昔から日本と同じ祖先を持ち、不可分の関係であったことを一方的に強調し、また韓国人も日本人と同じように天皇の恩恵を受けてきたと宣伝しなければならなかった。けれども、これはあくまで言葉だけで、韓国人は学校と職場などだけでなく日常生活のあらゆる面で、日本人よりはるかに劣る待遇を受けた

▶︎会社令

 1910年代、日本は韓国で商工業が発展することを抑圧した。朝鮮総督府は、韓国人か日本人かを問わず、会社を設立しようとする時には、総督の許可を受けさせた。会社令、1910、1920)韓国人は日本人より資本が零細だったので、会社設立を許可されたが日本人よりはるかに少なかった。こうして、韓国人の経済力はしばらく沈滞状況から抜け出すことができなかった。


■ 3・1運動がおこる

▶︎ 3・1 運動の背景

 自国の歴史と文化に対する自負心を持っていた韓国人は、日本に統治されることを非常に不満に思った。それに加えて日本が苛酷な武断統治と経済収奪を行ったので、韓国人は‘併合,以後にも国内外で大小さまざまな独立運動を絶え間なく展開した。 3・1運動(1919年3月1日)は、このような独立運動が1つの流れに統合され爆発したものであった。

▶︎ 3・1 運動の展開

 3・1運動は、天道教、仏教、キリスト教を代表する知識人と学生が真っ先に立ち上がi)、農民、労働者、商人などが主力となった民族解放運動であった=彼らは‘大韓独立万歳,を叫んで市街を行進した。平壌など多くの地方都市でも独立万歳運動がおこった。この時発表された‘独立宣言’は、韓国が独立国であり、韓国人が自主の民であることを正々堂々と主張していたこ独立万歳運動はわずか1カ月ほどで全国へ広まり、約200万人が示威運動に参加したこ農民と労動者が中心になったデモ隊は、憲兵・警察の駐在所や面事務所を襲うなど、過激なものもあった。これは武断統治土地調査事業などに対する恨みが深かったからであった

■3・1運動の時、東大門に集まった民衆

▶︎堤岩里事件(チェアムニサゴン)

 日本は、3・1運動を警察警察と軍隊を動員して残酷に弾圧した。3・1運動を続いていた1年余りの間に殺害された人が7500余人負傷した人が1,6000余人、逮捕された人が4,6000人に達した(朴殷植『韓国独立運動の血史』)。特に水原の近くの堤岩里では、日本軍が住民30余人を教会に閉じこめて燃き殺した。堤岩里のある京畿道一帯では、当時市の立つ日を利用して独立万歳運動が絶えず起きていた。日本軍は独立運動に対する弾圧の見せしめとして、堤岩里でこのようなむごたらしいことを行ったのである。堤岩里事件の現場は、現在歴史教育の場として活用されており、犠牲になった人々の墓と教会などが建てられている。最近は日本人もたくさん訪問して、彼らの精神を称えながら罪(しょくざい・広い意味では神の救済,償い,和解,ゆるしと同義である)の意志をあらわしている。

▶︎ 3・1運動の成果

 3・1運動は、すぐに韓国の独立をもたらさなかったが、日本の植民地統治政策に、ある程度の変化をおこさせた。そして帝国主義国家による圧迫に苦しめられていた弱小国民が民族意識を呼び覚ますきっかけになった

▶︎大韓民国臨時政府 

 3・1運動を契機に、中国の上海に大韓民国臨時政府が樹立されたこ当時上海には、多くの韓国独立運動家が亡命していた。上海にはフランスなどの外国人居住地(租界・もと中国の開港都市で、外国人が警察・行政を管理した一定の地域)が設定されていて、日本の弾圧を避けて独立運動を指導するのに便利だった。

 大韓民国臨時政府は、民主共和政治体制を標榜し、初代大統領には李承晩を推戴し、パリとワシントンに代表を派遣する一方、国内に秘密連絡網を組織して情報のやりとりを行った。この政府が樹立されたことで、韓国人は国を失ってから10年ぶりに、自身の政府を持つことになった。大韓民国臨時政府は、民族解放のその日まで独立運動を指導した。

1919年の3.1・運動の展開のなかで組織され,45年解放まで朝鮮の民族独立運動を推進した機関。初めはウラジオストック,上海,ソウルの3ヵ所で樹立宣言されたが,19年9月上海臨時政府に統合され,臨時大統領イ・スンマン (李承晩) ,国務総理李東輝,および安昌浩らが主導した。アメリカ,ソ連,中国諸国や国際連盟などに対し外交交渉を展開する一方,『独立新聞』を発行して内外の朝鮮人の独立思想を鼓吹し,中国東北地方 (満州) の武装独立軍や秘密組織 (連通制) を通じて国内とも結ばれていた。日本警察の妨害,圧力や内部でのイデオロギーの対立による社会主義者の離脱などで,20年代の後半は一時凋落したが,満州事変以後再び活発になり,40年重慶に移ってからは主席金九の指導のもとに大韓光復軍を組織して,連合国に協力した。

▶︎独立軍

 満州(現在の中国東北三省)は、韓国と国境を接していたために、昔から多くの韓国人が居住していた。特に日本の占領期には、多くの韓国人が移住し、解放時には200万人を超える韓国人が住んでいた。

 韓国の独立運動家は、ここを根拠地として武装独立闘争を展開した。3・1運動で独立への願望が高まった1920年には、豆満江近くの青山里と鳳梧洞で、独立軍が多数の日本軍を射殺する戦果をあげた。日本軍はこれに対する報復として、韓国人の村を襲撃して多くの人を殺し、家屋と学校を破壊した。その後も独立軍の抗日闘争は満州全域に広まっていった。

■ ‘文化政治,を標榜(善行をほめたたえ、その事実を記した札を立てて世に示すこと)して韓国人を分裂させる

▶︎‘文化政治’の実像

 3・1運動の発生によって国内外から批判を受けた日本政府は、従来の武断統治を一文化政治に転換した。一例として、憲兵警察を普通警察に変えた。また、韓国人にハングルで書かれた新聞、雑誌などの発行と、制限された範囲内での政治、結社の自由を許した。韓国人は、この機会を利用して『朝鮮日報」『東亜日報」などの新聞と『創造』などの雑誌を発行し、総督府の末端官吏や面協議会道議会などの議員に進出した。

 ‘文化政治,を通して、日本は韓国人の思考と行動を幅広く把握して、韓国人を植民地支配体制にいっそう深く引き入れた。しかし、警察署と警察官の数がむしろ2倍以上に増加したことを見れば、力による支配という本質には変化がなかった民族を分裂させたことでむしろ統治方法がよりいっそう巧妙になったといえる。

▶︎多様化した民族運動

 日本が韓国で・文化政治’を標榜した1920年代は、日本国内での’大正デモクラシー’の時期と部分的に重なっていた。こうして韓国にも各種の思想と風潮が流入し、武断統治期よりは活気が出てきた。韓国人は’文化政治’がもたらしたこのような機会を利用していろいろな民族運動を展開した。例えばハングルで書かれた新聞と維誌によって植民地支配に対する批判を強化し、各種団体を結成して意思をあらわした。また、農民と労働者は、社会主義思想の影響を受けて全国規模の組織をつくって小作争議と労働争議を展開した。

 大韓帝国の最後の皇帝だった純宗の葬儀をきっかけに、韓国では再度独立万歳のデモがおこった(6・10万歳運動、1926)。韓国の民族運動家は、新幹会を組織して日本の植民地統治に対抗した(1927~1931)また、1929年には光州で学生の主導した民族運動が起き、全国に広まった。そして元山(ウォンサン)では労働者のゼネストが3カ月以上も続いた。各界各層の韓国人は、学生達動と労働者のゼネストを応接して活発に運動を展開した。

▶︎日本の弾圧と民族の分裂

 朝鮮総督府は、剛柔の両面作戦によって民放連動を巧妙に弾圧した。韓国人が発行する新聞と雑誌は、検閲によって削除と停刊が繰り返され新幹会などは全国大会を開くこともできないうちに解散させられた。

 朝鮮総督府はさらに韓国人を分裂させようとした。韓国の政治運動家に自治を実現できるという幻想を与えたり、植民地統治に協力させるために韓国人を下位の官僚に採用して植民地支配の一部分を担当させたりした。こうして、韓国の民族運動家のなかには、日本に対する直接的抵抗ではなく、妥協の道を模索する人々もあらわれた。

▶︎産米増殖計画

 日本は、1920年代に資本主義が発展し、都市人口が急激に増え、食糧不足に悩まされるようになると、韓国米にねらいをつけた韓国米は日本の食糧不足を解決するのに良い食糧資源であった。日本は、食料不足を緩和し農家経済を安定させるという口実で、米の生産を奨励した。このために開墾と干拓などで耕地面積を増やし、貯水池などを築いて水の供給を安定させた。また、農業経営の方法を改良して日本人の口に合う米の品種を普及した。その結果、米の生産量は多少増加した。しかし、日本への米の流出量は、生産量の増加より何倍も多かった。10余年の間に、米の生産高は1200余万石から1500余万石へ増加しただけだったが日本への米の移出高は300余万石から800万石へ急激に増加した。

 そして韓国人の米の消費は、1人当り1年平均0.8石から0.5石へ減少し、中国東北地域で生産された雑穀や豆粕(まめかす)で飢えた腹を満たさぎるを得なかった

 米の販売で大金を稼いだ地主と商人は、より広い農地を買い占めたのに対し、零細な農民は土地を失って流浪したり、故郷を離れて中国東北部や日本に移住した。

▶︎鉄道建設に執着した日本

 

 日本は韓国のすみずみまで支配網を広げ、経済的収奪を強化するために、鉄道建設に拍車をかけた。釜山から漢陽を経て新義州に達する南北縦断線は、すでに占領前に建設していた。占領以後には、漢陽から元山を経て会寧に達する鉄道と、大田から木浦にいたる鉄道などをつぎつぎと建設した。この鉄道は、韓国と中国東北部の安価な農産品と鉱山品を日本に積み出し、日本の高い工産品と軍需品を韓国と中国東北部に運ぶ役割をした。

 韓国人は、鉄道が日本の侵略と収奪を強める手段に利用されることを自覚し、鉄道施設を破壊したり列車の運行を妨害したりした。日本はこのような韓国人を処罰する一方、鉄道周辺に軍隊と警察を配置して監視の態勢を崩さなかった。

 日本が建設した鉄道は、解放以後、改良を繰り返しながら現在まで利用されている。このため、ある人々は、日本の植民が韓国の近代化を助けたと主張した。だが、彼らは、鉄道の侵略と支配を先導する動脈であり、鉄道の敷設過程で韓国人が労働者として動員され、数多くの土地や家屋などが奪われたことを無視し、あえて事実を歪曲して主張しているといえる。