由良妙印尼の軌跡

■戦国末期の女傑

▶︎由良氏とは

 由良氏は、新田義貞の子孫 由良氏は新田義貞の子孫であり、徳川将軍家と同じ清和源氏新田系となる。由良成繁の代に群馬県大田市を中心に館林・足利・桐生などを支配して戦国大名に成長した。

 

 今回、注目するのは成繁の正室である妙印尼輝子。『のぼうの城』に登場する姫武者・成田甲斐の祖母にあたる。そして彼女の実績は時代を代表する女傑と評価も高まってきている。一方そうした研究は群馬県の人たちが中心で、茨城県で由良氏への関心は薄いのが現状

▶︎妙印尼の驚異的決断と実行力

 では妙印尼活躍の一端を紹介したい。まず第一が後北条氏に謀(たば)られ(騙される)、長男の由良国繁たちが捉えられ降伏を迫られた時点の対応に注目したい。時に天正12年(1584年)、71歳の妙印尼は、甲胃を纏(まと)い(身に着ける)三千名の将士を率いて金山に籠城(ろうじょう・立て籠もる)。後北条軍に善戦し和睦。金山城を失うも息子達を奪還し、桐生に移ることで由良家を守った。

 次の危機は、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めで発生国繁は後北条の命令に従い主力家臣と小田原籠城となった。巨大な豊臣軍に対し後北条軍の勝利は薄い。由良氏存続は絶望的状況となった。だが77歳の妙印尼は、孫の忠繁を中心に三百の兵を集め前田利家の軍に強行参加。見事な戦果を上げ秀吉からも賞賛された。

 その実績で牛久に妙印尼名で5400石を与えられ転封(てんぽう・知行地、所領を別の場所に移すことである。 国替(くにがえ)、移封(いほう)とほぼ同義である)となる。国繁も許され牛久城主に就任妙印尼の迅速な決断と行動が家名存続を可能にし、後に高家旗本とし過され明治維新を迎えられた。妙印尼が地域に残したもの 晩年の妙印尼は、牛久城の大手門そばに庵を造り、後に曹洞宗「得月院」となり彼女の墓もある。同院は日本画の巨匠・小川芋銭の菩提寺でもあり、巨木が芋銭のモチーフにもなった。

 そして最大の功績は、討ち死にした将士を敵味方関係なく弔うため七観音八薬師街内に建立したことだ。街主変更で起きる民心不安解消にも役立った。

 

 まず七観音では、つくば市羽成の「羽成観音堂」が知られている。地域の信仰を集め、谷田部藩の藩医・広瀬周度作の天井画は圧巻(非公開)。牛久市牛久の正源寺「牛久観音」も並び立つ山門と共に深い趣を醸し出す。はかに龍ヶ崎小通草町慈眼院「小通観苦」、つくば市下岩崎の「下岩崎観音堂」などが現存している。

 八薬師としては、つくば市谷田部にある医王寺「谷田部薬師」はその一つ。旧暦4月4日の花祭りでは露店・植木市がならび賑わいを見せる。取手市藤代の高蔵寺「藤代薬師」も大切に保存されている。

 

金竜寺にある新田義貞の墓(龍ヶ崎市若柴)

 龍ヶ崎若柴の「太田山金竜寺」に新田義貞の正式な墓がある。同寺は新田貞氏の創建で群馬県大田市金山にあったが、子孫である由良氏転封に伴い桐生などを経て移転。同地には貞氏や国繁の墓も並んでいる。なお同寺院は曹洞宗で、一都九県に末寺を百五十程有している。数々の寺宝が遺され、特に重要文化財・十六羅漢像は、義貞ゆかりの仏画として有名。

 

▶︎妙印尼パワーが息づく

 兵農分離が未成熟で領民皆兵の時期だけに敵味方を問わずに七観音八薬師で祀ることの効果は想像以上の成果を上げたはず。嶺内にくまなく建設した発想は、現代でも参考となる事例と言えよう。由良氏代官として続いた家系と家を守っている

 さらに広瀬周度小川芋銭などの作品を生み出すパワーを創り出したことにも驚かされる。そして取材中、羽成観音堂をボランティアで清掃している方に出合い、その利他に溢れた人生観に敬服しあらためて妙印尼の偉大さを痛感した。