ジャコメッティ-1

アルベルトジャコメッティ(1901−1966)

豊田市美術館・国立新美術館2017

 アルベルトジャコメッティ(1901−1966)は、スイスに生まれ、フランスで活躍した、20世紀のヨーロッパにおける最も重要な彫刻家のひとりです。

 アフリカやオセアニアの造形やキュビスムへの傾倒シュルレアリスム運動への参加などを通じて、同時代の先鋭的な動きを吸収したのち、細長い形と凹凸のある表面が特徴的な唯一無二のスタイルを生み出したジャコメッティ。自身の制作について語った有名な言葉があります。

 ひとつの顔を見える通りに彫刻し、描き、あるいはデッサンすることが、私には到底不可能だということを知っています。

 にもかかわらず、これこそ私が試みている唯一のことなのです。見ることと造ることとのあいだで常に葛藤していたジャコメッティは、虚飾を取り去った、人間の本質に迫ろうとしたのです。そしてその特異な造形が実存主義の哲学者や同時代の詩人たちに高く評価されたことは、彼の彫刻が時代の精神に呼応した証だといえるでしょう。また、ジャコメッティは日本人哲学者の矢内原伊作(1918_1989)とも交流し、矢内原をモデルにした制作から多大な刺激を受けました。

 本展覧会は、世界3大ジャコメッティ・コレクションの一角を占める、南フランスのーグ財団美術館のコレクションを中心に、日本国内のコレクションのご協力を仰ぎながら実現した大回顧展です。初期から晩年まで、彫刻、油彩、素描、版画などおよそ130点の作品を通じて、ジャコメッティの全貌に迫ります。

■  1.  初期・キュビスム・シュルレアリスム

千葉真智子(豊田市美術館)

 ジャコメッティの芸術家としての足取りをたどるとき、画家であった父ジョヴァンニ・ジャコメッティ(1868−1933)の存在は小さからぬ位置を占めている。ジャコメッティは、この父のもとで、幼い頃から制作に励み、早くも彼を一生悩ませることになる大きな困難を経験することになる。18−19歳のジャコメッティを襲ったとされる、よく知られた「洋梨のデッサン」のエピソードで語られるのは、「普通の距離」に置いた洋梨を、父の求めに応じて「梨がある通りに、見える通りに」描こうとすると、決まって父が描くような「実物大」にならず、避け難く小さくなってしまうという、自身が対象と向き合ったときに生じる「見えるものを見えるままに描く」ことの困難であった。そして、1920年、父とともに訪れたイダノアのパドヴァで、前方を歩く2、3人の娘たちが「どんな比較の観念も及ばぬ果てしないものだと思われ」、その全存在に恐れおののいたジャコメッティは、決定的に大きさの観念を喪失するに至るのである。(下図は父の絵画作品・giacometti, giovanni)

 

 イタリア滞在を経て、1922年にパリに出たジャコメッティは、彫刻家アントワーヌ・ブールデル(1861−1929)のアトリエに通い、この頃から24年にかけて、集中的に人体デッサンを実践した。モデルの身体を各部位に分解し、ブロックを組むかのように構成した描写は、対象把握を巡るジャコメッティの格闘を物語っていよう。そして、その後10年の間、見えるままに描くことの困難を断ち切るために、モデルに基づく制作を放棄し、記憶に基づく制作の数々を繰り広げることになるのである。

 1926年から27年には、ジャック・リブシッツ(1891−1973)やアンリ・ローランス(1885−1954)に刺激を受けながら、矩形の塊の組み合わせからなる一連のキュビスム的な「コンポジション」を手がけている(上図左・右)。人体を想起させるそれらは、充満するマッスとヴォリュームを備えており、この時期に特有の造形となっている。一方、もうひとつの大きな創作の源泉となったのが、アフリカやオセアニアなどのプリミティヴな造形物であった。その再現性に依らない図式的・記号的置換や換喩に基づく造形表現は、男女という対関係をもとに最小限の暗喩表現をはどこした《カップル≫(下図右)や、子宮の膨らみをスプーンの窪みによって換喩的に表した《女=スプーン》(下図左)において実践されることになる。

 これらの試みは、その後のジャコメッティの活動を大きく左右するものになった。というのも、1929年に発表した、滑らかな表面を持つ板状の彫刻cat.7)がアンドレ・マッソン(1896−1987)の目に留まったのを機に、ジャコメッティは、ジョルジュ・バタイユ(1897−1962)やミシェル・レリス(1901−1990)ら、雑誌アドキュマンニ周辺の人物たちの知遇を得、また、1930年には本格的にアンドレ・ブルトン(1896−1966)シュルレアリスムの一群と交わることになるのだが、こうした文化人類学的な関心こそは、当時、彼らをつなぐ共通のテーマとなっていたからである。

 前衛芸術家たちとの交遊の渦中にあったこの数年間に、ジャコメッティは注目すべき数々のオブジェを手がけた。ブルトンらに称賛をもって迎えられたそれらは、一面では、無意識や夢における象徴的な出来事を表すシュルレアリスム的オブジェであり、また一方で、バタイユ的な、不快なオブジェ卑近で暴力的なオブジェに接近するものでもあった。そして、こうした逸脱の方向性ゆえに、後年長い彫刻の歴史において画期をなしたと評されることにもなるのである。

 《もう遊ばない》(1933年、ニューヨーク近代美術館)に代表されるいくつかのボードゲーム型の作品。彫刻を作品として保証してきた台座を廃棄し、台座自体を作品の位置へと転じさせたこれらは、「垂直性」を旨とするモダニズムの美学に対する「別の評価基準」となる「水平性」の美学の端的な例に挙げられることになる。これはまた、大地それ自体を作品化したものとして、彫刻の本来的な横能であった「墓」そのものへの回帰としても注目すべきものである。そして、同じく台座を喪失したものに、檻の構造によるいくつかの作品があるが、愛の営みの暗喩として、眼への脅威の暗喩として、シュルレアリスム的、バタイユ的な文脈で評価された《吊り下げられた球≫(上図右)はまた、一方で三次元の造形に時間性、動性を導入した、彫刻についての新たな試みという側面を持ち、戦後の《鼻》(上図右)にも引き継がれていったのである。

 しかし、こうした記憶に基づくオブジ工の制作は、次第にジャコメッティの心を蝕むようになったのだろう。1933年の父ジョヴァンニの死を契機に、再びジャコメッティは、幼い頃から彼を捉え続けてきた「見えるものを見えるままに」表すための終わりなき探求へと回帰することになる。最も抽象度が高い《キューブ》(下図左)は、折に触れて制作してきた父の頭部像の代替物であり、《見えないオブジェ》(下図中・右)もまた、「見ること」への回帰の兆候と言えよう。

 シュルレアリスムと決別したジャコメッティは、1935年、いよいよモデルによる制作を再開することになる。(千葉真智子)


■ 2.   小 像

千葉真智子

 オブジェを放棄することを決意したジャコメッティは、彫刻として真実だと思われる抽象的なフォルムを保ちながらも、現実において彼を引きつける人体を実現するために、新たな制作に乗り出す。こうして、1935年、モデルに基づく制作に回帰するのだが、頭部や身体全体の構造を理解するためだけの、2週間ほどで終わる簡単な手順だと考えられたこの作業に、終わりが訪れることはなかった。それは、「見えるものを見えるままに」表現するための探求の再開を印付けるものだが、困難に陥ったジャコメッティは、一旦、この作業を中断すると、1938年以降、立っている人物像を記憶によって制作することを試みることになる。しかし、ここにもまた困難が訪れる。

 あろうことか台座の上の像はわずか2、3センチメートルの高さになるまで小さくなり続け、しばしば形が崩壊するに至ったのである。「それらは小さくなければ現実に似ないのだった。それでいて私はこの小ささに反抗した。私にとって大きな像は虚偽であり、小さな像もやはり許せないものだった。それに、小さな彫像はいよいよ微小になり、しばしば小刀の最後の一突きで粉になって消滅してしまうはどだった。それでも、頭部や人物像は微小のものだけが幾らか真実だと私には思われた」。この状態は、戦火を逃れ、1942年から45年まで滞在したジュネーヴにおいても続き、戦争が終わり、ジャコメッティがパリに持ち帰ることができたのは、マッチ箱に入るほどの小さな6体の彫像のみだったという。

 このことば、かつて洋梨のデッサンを試みたときに経験した、対象を、それが置かれた空間のなかで丸ごと捉えようとすることの困難に端を発するものであろう。大きな台座の上の小さな像という、このアンバランスな組み合わせは、遠くの人間を目にしたときの、自身との間にある圧倒的な隔たりそのものの造形化であり、遠くの人間が一挙に視野に入ってきたときの、その細部を消失した丸ごとの現れなのである。「僕が作りたかったその女性の彫刻は、通りで彼女を少し離れて見たまさにその瞬間の彼女のその見え方を非常に正確に実現することだったのだ。だから次第に、彼女がその距離で離れていた時の大きさをこの彫刻に与えるようになっていったのだ。だから僕のその印象を作り出すためには絵を描くべきで、彫刻を作るべきではなかったのだろう。あるいはそれとも広大な台座を作って、見え方と一致するようにするべきだったのだろう」。つまり、問題となるのは、小さな彫像それ自体ではなく、それらと一体化したような大きな台座を含む全体性なのである。とはいえ、こうした対象の知覚と認識についての問いは、ひとりジャコメッティに限らず、アレクサンドル・コジエーヴ(1902−1968)の「現象学」講義が、当時ジョルジュ・バタイユやミシェル・レリスらジャコメッティの周囲の人々にとって共通の関心事となったように、同時代的な熟を帯びたものだったことも指摘しておこう。

 戦後しばらくすると、人物像は再び大きさを取り戻していくが、こうした見えるものについての根本的な問いは、1948年、ピエール・マティス画廊で開かれたおよそ15年ぶりの個展に際して、ジャコメッティと親交を深めてきた実存主義哲学者ジャン=ポール・サルトル(1905−1980)が「絶対の探求」と題したテキストを発表したことで、その後のジャコメッティ理解の基準点となる。

 「彼はまず最初に人間を、見た通りに、つまり距離を置いて、彫刻することを想いついたのである」。実際、これは、ジャコメッティ自身の校閲(こうえつ・文書・原稿などの誤りや不備な点などをしらべること)の入った、公認の評価でもあった。そして、「世のそもそもの始まりに身を置こうというジャコメッティの自負と意思とを見別けるためには、あの大洪水前期を想わせるような彼の顔をしげしげと眺めるまでもない」とした、サルトルのロマン主義的な描写とあいまって、戦後の実存主義哲学の受容がそうであったように、ジャコメッティによる彫刻の孤高の佇まいは、戦争により存在の根拠を失った人間そのもの、その危機的な存在そのものの表象として高く評価されていくことになるのである。(M.C.)

■  3.   女性立像

 1938年頃から1940年代半ばにかけて起こった彫像の「縮小現象」に抵抗しようとしたジャコメッティは、1mという高さを自身に課し、再びモデルを前にした制作に取り組むようになる。すると、ジャコメッティの制作する女性立像に変化が訪れる。今度は彫像の幅が細くなっていったという。細部の集積ではなく、まなざしの内に現れ出るモデルの全体性を捉えようとしたジャコメッティは、見ることと造ることの間の葛藤を経て、削ぎ落とされたヴォリュームと、細かく波打つような表面をもつ造形へと到達したのである。こうして、独自のスタイルと評される彫刻を生み出したジャコメッティは、アンドレ・パリノ(1924−2006)との対話のなかで、次のように語っている。「或る作品が真実であればあるほどその作品はスタイルをもつ。スタイルというものは外観そっくりのものではないのだから、これは不思議なことだ。夏、裸の女を見るとそのことに驚かされる。彼女たちはジプトの絵画に、いいかえれば何よりも象徴的な、何よりも再構成された、何よりも直接的でない芸術に似ているのだ」。世界についてのあるヴィジョンを具現化したものをスタイルとみなしていたジャコメッティにとって、真のスタイルは、必ずしも現実の外観に似ているものではなかった。この意味で、細く長いジャコメッティの彫像も、ひとつのスタイルとみなすことができよう。

 当時の恋人であったザベル・ニコラス(1912−1992)をモデルにした1947年の《大きな像(女=レオーニ)≫(上図左)は、細長く引き伸ばされた人物像の最も初期の作品である。翌年に制作された《髪を高く束ねた女》(下図右)ではややヴォリュームが増すが、1952年頃の作品である《女性立像≫(下図左)は、細く薄い特徴を備えている。

 1949年アネット・アルム(1922−1993)結婚し彼女との間に深い信頼関係が育まれると、作品にもまた新たな変化が生じた。とりわけ、1953年から1954年にかけてアネットが集中してモデルをつとめたのち、女性の身体は胸や下腹部に膨らみが増し、全体的に丸みを帯びるようになる。いずれも1955年の作であるアネットをモデルにした3点のエッチング(下図左・右)では、細長い矩形の枠のなかにアネットを配し、極力正確な肉付けが試みられている。

 女性立像をめぐるこうした展開は、1956年の「ヴェネツィアの女」シリーズ(cat・114−122)において、さまざまなヴァリエーションとともに繰り返された。

 

 さらに、1958年の《大きな人物≫(下図左)では、長い首と頭部を後ろに反らせた新たな造形が生まれている。こうして、1947年に始まる女性立像の彫刻は、多様な変化を見せながら、最も単純化された形態をもつ1960年の《大きな女性立像》(下図右)まで続けられた。

 

 また、《裸婦立像≫《裸婦立像Ⅰ≫(下図左)にみられるような、デッサンやリトグラフによる女性立像は∴終わりなきパリ(下図右)にその最後の変奏を見出すことができる。

 ジャコメッティの作品のモデルとなったのは限られた人物であり、女性においても例外ではなかった。母アネッタ、妻アネット、若い頃の恋人であったイザベル(元は職業モデル)、晩年の恋人のカロリーヌらが代表的な女性のモデルとして挙げられる。いずれもジャコメッティと親しい関係を築いた女性ばかりである。ジャコメッティとモデルとなった女性たちとの関係について、ジャック・デュパン(1927−2012)は以下のような言葉を残している。「ポーズする女性は、かくある如くに、ではなく、誰が見てもかく見える如くに、でもなく、ただ一人の人間が、固有の記憶と愛情を持って、忍耐づよく彼女に問いかけ、彼女を通して自分に問いかける、そのような彼女として、表現される。ある意味では、芸術家が作るのは、つねに自画像でもある」。ジャコメッティは初期から晩年に至るまで、人物をいかにして見える通りに表現するかという命題に挑み続けた芸術家であるが、その試行錯誤は、女性立像において端的に現れているといえよう。(Y.O.)

■ 4. 群 像

長屋光枝(国立新美術館)

 ジャコメッティは、細長い人体像を確立する時期に、複数の人物を配した群像形式の彫刻にも取り組んでいた。本セクションには、そうした群像が2点(下図左右)出品される。

 シュルレアリスムに傾倒していた第二次世界大戦前にもジャコメッティは、子どものボードゲームを思わせる《男、女、子ども》(1931年頃、バーゼル美術館)など、平たい盤の上にオブジェや幾何学的な形象を置いた彫刻を制作していた。一方、戦後の群像は、「周囲の現実」に着想を得ている点で、こうした戦前の試みとは一線を画す。転機はモンパルナスの映画館で訪れたという。ジャコメッティの回想によれば、それまで未知のものを伝えてくれるのはスクリーン上の映像だったが、それらはたちまち「一切の意味を失ってしまった」という。「未知のものは、もはやスクリーンにうつっているものではなくて、私の周囲の現実だった!外の通りに出た時、私は、未だかつて見たことのない或るものを前にしている印象をもった。現実は完全に変ってしまったのだ‥‥‥」。1940年代後半から1950年代初めにかけてジャコメッティは、パリの街を行く名もない人々の姿を盛んにスケッチした。そして《市の広郡(1948年、ニューヨーク近代美術館)では、その即興的なイメージを研ぎ澄まされた構成へと昇華してみせた。《市の広場》の平たい台座の上には、直立するひとりの女性と、歩を進める4人の男性が絶妙なバランスで配されている

 《3人の男のグループ Ⅰ(3人の歩く男たちⅠ)》(上図)は、街路の人物に着想を得ている点で<市の広場>に連なるが、そこに女性の姿はなく、すれ違う瞬間の男たちに焦点が当てられている。ついては離れ、離れてはまた合流する人々の群れ。ジャコメッティは、そこから抽出した人物たちから、身体的ヴォリュームはもとより、個性を示すすべての要素を剥ぎ取った。その一方で、彼らが進み行く方向や、互いとの関係、空間と身体のバランスには、入念な思考を凝らしている。本作品でジャコメッティは、見知らぬ人物たちが行き支う絶え間ない変化の瞬間を抽象化し、人間の一瞬の出会いと別れを形象化することに成功したのだ。

 一方、1950年の前半に相次いで制作された《広場、3人の人物とひとつの頭那、《森、広場、7人の人物とひとつの頭部≫(上図左)《林間の空地、広場、9人の人物》(上図右)は、イメージと人間の想像力との果てしない相互作用のひとつの現れである。そのあいだでは、偶然と無意識そして記憶が重要な役割を果たす

 《広場、3人の人物とひとつの頭部≫を制作したジャコメッティは、その硬さを克服しようと試行錯誤していた。そしてその過程で、アトリエの床の上に偶然置かれていた彫刻がふたつのグループを形づくっているのに気づき、それらを台の上に置いたという。こうしてできた《林間の空地、広場、9人の人物≫と《森、広場、7人の人物とひとつの頭>は、今度はジャコメッティの記憶と結びついた新たなイメージをまとうことになる。もともとすべて「市の広場と題されていたこれらの作品の完成後に、「林間の空地」や「森」という、それぞれにふさわしい主題が見出されたのである。ジャコメッティは次のように言う。「たとえば私は《広場、9人の人物≫を作ってしまった後で、この作品のなかに、この前の春に描きたいと患っていたここの森の空地があるのに気がついた」。

 こうしたイメージの連鎖反応の背景にあるのは、ジャコメッティの幼少期の記憶である。事実、幼い頃に遊び場としていたスタンパの巨石が転がる斜面や林のヴィジョンは、繰り返しジャコメッティの脳裏に現れた。例えば、アンリ・ローランスの彫刻を見て呼び覚まされたイメージのひとつは、「森の中のそこだけ木がない空地」、「何となく円を成していて全体が秋の木の葉の色をしている空」だったが、それはまさに《林間の空地、広場、9人の人>にも見出されることになるのである。したがってジャコメッティが、森ならば森と「もし言えば歪みが生じ、狭められてしまう。なぜなら、あらゆることを考えうる状態であるべきなのだから」と警戒してみせたのも当然であろう。イメージの固定は想像力を遮断してしまうのである。イメージは、作者としてのジャコメッティにだけでなくすべての観者に開かれている。(長屋光枝

■ 5. 書物のための下絵

横山由梨子

 1951年、ジャコメッティはパリのマーク画廊で初めての大規模な個展を開き、画商のエメ・マーク(1906−1981)が編集する雑誌「デリエール・ル・ミロワール」のために、リトグラフという新たな領域に本格的に足を踏み入れる。1947年にピエール・ローブ画廊での版画展のために銅版画を試みた際、ピエール(1897−1964)の弟エドゥアール(1897−1984)にリトグラフの制作を勧められたことがきっかけであった。それまでジャコメッティの版画制作はエッチングに限定されていたが、このとき以降、マークの版画出版への情熱に影響されて、継続的にリトグラフを制作するようになった。そして世を去るまでの続く15年間で、実に300を超えるリトグラフ作品を残している。

 

 《書物のための下絵》(上図左右)は、まさしく1951年に、リトグラフ用の鉛筆を用いて試みられた40点あまりデッサンの一部である。これらをまとめて、編集者テリアード(本名ストラティス・エレフセリアデス、1897−1983)のもとから、トウキディデスの『ペロポネソス戦争史』の挿絵として出版する計画があったが、最終的には実現しなかった。本属に出品される8点のデッサンは、ジャコメッティの生前にマークが買い取ったものである。そこでは、街や室内を舞台に、複数の人物が生き生きと描き出されている。オリヴィエ・キャブランの論文で詳細に分析されている通り(12−14頁参照)、ジャコメッティがここで試みているのは、人間と空間をめぐる関係性の考察である。ひとりで立つ人物、歩く人物、向かい合うふたりの男女、囲われた空間のなかの人物、向かい合う大きな人物と小さな人物といった、空間的・社会的な人間の有り様が展開されている。白い紙の表面がそのまま背景になっていることもあれば、地面を暗示する線が引かれていたり、大小の粋が書き込まれていることもある。これらのデッサンからは、人物の静止や運動によって空気に生じる緊張や振動までもが伝わってくる。

 《書物のための下絵≫の幾つかで用いられているリトグラフ用の鉛筆は、容易に消すことのできない、黒々とした線によって特徴づけられる。ジャコメッティはのちに、「この〔リトグラフ用の〕鉛筆は速く描くための唯一の画材で、そのかわりまた手を入れたり、消したり、ゴムを使ったり、やり直したりすることができない」と書いている。エッチングの細く繊細な線や、描いては消し、消しては描いて幾重にも重ねられる鉛筆の停い繰に比べて、その力強い線には自発性に満ちたエネルギーが宿っている。ジャコメッティがリトグラフの鉛筆を手にしたばかりの時期に試みられた《書物のための下絵》をはじめ、同じく1951年に制作された《4人の男のグループ≫や《頭部》は、即興的に引かれた線の戯れによって、他のどの時期のチノサンよりも、描かれた人物たちの軽やかさが際立つものとなっている。(横山由梨子

■  矢内原伊作

長屋光枝(国立新美術館)

 哲学者、矢内原伊作(1918−1989)は、継続してジャコメッティのモデルをつとめた数少ない人物のひとりであり、家族やパートナー以外でその忍耐強い役割を引き受けることのできた、ほとんど唯一の存在だった。

 大阪大学文学部助教授だった矢内原は、1954年10月、フランス国立科学研究センターの研究員として現代フランス哲学を学ぶためにパリ大学に留学した。パリでの日々は、大学で専門分野を学ぶだけでなく、遠く日本にあっては接しえなかった生きた西欧文化を吸収すること、つまり芝居や音楽会や展覧会、あるいはフランス人との交流に努めることにも充てられた。そんな彼がジャコメッティに初めて会ったのは、パリに到着して1年ほどが経過した1955年11月8日のことだった。きっかけを作ったのは、旧制第一高等学校以来の生涯にわたる親友であり、詩人にしてフランス文学者、また美術批評も手がけていた宇佐見英治(1918−2002)である。宇佐見は、日本で初めてのジャコメッティ論である「ジャコメッティ一人と作品」『美術手帖』1955年4月号に掲載しており、パリ留学中の矢内原に、これを本人に届けてはしいと依頼したのである。なお、宇佐見もまた、1960年に矢内原の紹介でジャコメッティに会っている。《裸婦小立像≫は、その宇佐見が持ち帰った石膏像であり、「終わりなきパリ』にはカフェでくつろぐ宇佐見の姿も留められている。

 さて、1955年の最初の邂逅(かいこう・思いがけなく会うこと。めぐりあい)から互いに親近感を抱きあったジャコメッティと矢内原は、時おり会っては語り合うようになっていた。したがって、留学の終わりが近づいた1956年に矢内原が、別れの日を告げるためにアトリエを訪ねたのも自然な流れだった。このとき矢内原は、その姿をデッサンしたいというジャコメッティの提案を快諾し、パリからの出発を2日後に控えた10月6日に本格的にポーズをとることとなった。その鬼気迫る制作に心を打たれた矢内原は、帰国を惜しむジャコメッティの言葉を受け、まずは10日あまり先まで出発を延ばした。そして、その後も何度か予定を変更し、結局のところ12月半ばまでの実に72日間、一日も休むことなくジャコメッティの前でポーズをとり続けることになるのである。

 この最初の集中的な制作の経緯や、ジャコメッティの壮絶なまでの仕事ぶり、そして制作の合間に交わされたふたりの数々の会話について矢内原は、ジャコメッティとともに詳細に記録している。その滋味に溢れた記述が示すのは、矢内原にとってポーズをとることが、単なる受身の行為ではなく、まさにジャコメッティとの共闘だったということだ。矢内原は次のように述べている。「疲れたらそう言ってくれ、いつでもやめるから。彼はそう言うのだが、血走った真剣な顔で絶えずぽくを見ながら筆を動かしている彼に、ぼくが疲れたなどとどうして言えるだろうか。ほとんどそれは真剣勝負といってもいいものだった。ぼくは勝ちもしなかったが、負けもしなかった。あるいは、ふたりとも勝ったのである」。ジャコメッティの制作にただ伴走するだけでなく、そこに主体的に関与しているという自覚が、矢内原にはあったのである。

 矢内原と知り合い、その肖像画に集中的に取り組んだ頃のジャコメッティが、精神面でも創作の上でも、作家としての危機を迎えていたことはよく知られている。1955年と1956年、ヨーロッパやアメリカの著名な美術館で個展を立て続けに開催し、ますます活躍の場を広げていたジャコメッティだったが、皮肉なことに制作は振るわず、自信を喪失していた。矢内原を前にした制作においてもジャコメッティは、休むことなく邁進しつつも、満足に進まない制作に苛立ちをあらわにした。うめき声をあげ、罵りの言葉を吐きつつ、一度描きとめたイメージを消しては描き、描いてはまた消すことを繰り返したジャコメッティ。矢内原がいみじくも誓えたように、その仕事はまさに「何度搬びあげても落下する岩塊をその度毎に山のうえに押しあげるシジフォスの苦闘にも似た、狂気じみた凄惨な格闘だった」のである。

 なぜジャコメッティは、これはどまでに執拗に矢内原に没頭したのか。その理由は、その平板で直線的な東洋人独特の風貌や、だれよりも長時間にわたってポーズをとることのできる忍耐強さヨーロッパの思想や哲学に関する深い見識と知性等にあっただけではなく、矢内原その人が、ジャコメッティの探究をだれよりも正確に理解していたことに求められる。その姿を見えるままに描くことは、ジャコメッティにとっては自らの知覚の探究でもあった。矢内原のイメージがジャコメッティと切り離された表面的な形象にとどまっていたとすれば、それは他者としての矢内原の表層をなぞったものに過ぎなかっただろう。しかし、ジャコメッティが矢内原の真のヴィジョンを獲得しようともがいていたとき、他者としての矢内原のイメージには、ジャコメッティ自身の感覚や知覚が深く入り込んでいた。ジャコメッティの知覚と連動し、そのときどきにおいて見え方を変えては現れる矢内原のヴィジョン。ここでは、矢内原と、矢内原を知覚するジャコメッティがまさに合一している。こうした意味で、矢内原のヴィジョンは計り知れない潜在性と無限の可能性を秘めひたのであり、だからこそ何度も繰り返し描かれたのである。矢内原は言う。

 「彼の仕事は、見えるがままにぼくの顔を描くということだ。見えるがままに描く、この一見簡単なことを、しかしいったい誰が本当に試みたであろう力雌ジャコメッティにとって矢内原は、この困難を関するためにともに闘うことができた稀有なモデルであり、もうひとりの挑戦者だったのである。

 1956年12月16日、ついに矢内原は帰国の途についた。しかし、ふたりの探究が終わることはなかつた矢内原を描くことに執心したジャコメッティは、1957年および、1959年から1961年までの毎夏、矢内原をパリに招待し、アトリエでポーズをとらせたのである。その日数は、1956年の72日間と合わせると、計230日にも達し、20点を超える油彩による肖像画と2点の彫刻が生み出されたのだった。1962年以降もジャコメッティは、矢内原に渡仏を懇願したが、矢内原がこれに応えることはなかつた。そして、最後のポーズをとってから5年後の1966年に、ジャコメッティは急逝した。没後のアトリエには、矢内原をモデルにした石膏像2点のほか、油彩よる肖像画8点が残されていたという。ジャコメッティがこれらの作品を手放そうとしなかったのは、この日本人哲学者に対する特別な想いがあったからであろう。

 一方、本セクションに出品される、矢内原の姿を生き生きとした筆致で捉えた即興的な素描(下図)は、矢内原その人が最後まで手元に置いていた作品である。

 手近な新聞紙やナプキンにスケッチされたこれらの紙作品は、ともにカフェで休息しているときに描かれたものであり、それらを矢内原は大切に保管していた。常に制作していたジャコメッティの唯一の気晴らしは、カフェで新聞を読むことだったという。いま私たちに残された臨場感あふれるスケッチは、そのくつろぎの場も手を動かさずにはいられなかつたジャコメッティの、飽くなき探究の姿を彷彿とさせる。(M.N.)