第Ⅳ章 晩年の制作

村田真宏(元愛知県美術館学芸員)

■第Ⅳ章 晩年の制作

 彼の絵画制作のまた、それを具体的な表現に結びつけカに十分に構想を練って制作を進めるという方法から抜け出て、もっ由な絵画表現を志向するようになっても)つた。パブロ・ピカソに刺激て制作を始めた≪エロテイカ≫(下図4点)に代表される性〉を主した数々のエッチングによる作品では、人間がもつ基本的な欲求を、女の姿を時にユーモラスに構成してみせるなど、描くことそのものを画自身が楽しんでいるような表現を見せはじめた。

そして≪バッタと三人≪手のひらの上の≪バッタ≫(下図)など『バッタの哲学」いわゆるバッタのシリーズでは、擬人化して描いたバッタに民衆の姿を、また自分自身の姿を投書して、北川らしい含蓄をみせながらも独特の面白味のある表現を展開した。

 ◉バッタと三人の女≫、◉《手のひらの上の・くッタ≫、ここに紹介したバッタをモティーフにしたエッチング.「バッタの哲学』の出版に向けて制作された作品群てある。この『バッタの哲学』は、北川の人間や社会こついての理解、また〈性〉についての考え方などを版画と文によって表明したものである。この版画のシリーズでは、擬人化して描いたバッタに民衆の姿を、また自分自身の姿を投影して、北川らしい含蓄をみせながらも、独特の面白味のある表現を展開している。幼児と老人とには自由を許し、壮年者からはなるべく其れを奪い去る。というのが東洋的方法で、これを瓢箪形とゆう。西欧諸国ではこれと反対にビール樽形の方法をとる。この相違を来した原因には性に対する両方の見解が少なからず作用している。つまり、東洋では性活動の盛んな者に自由は危険として抑圧するのだ。しかし、斯様な根本的本能を圧迫することは健全な策ではない。バッタの道徳は寧ろ西欧式を択び、東洋的道徳がいかに人間的なものを否定する曲者であるかをBattaは嘆くのである。」『バッタの哲学』

 1970年76歳・前後の時期は、これに母子や花など、彼が得意とするさまぎ主なモティーフを次々と自在にエッチングに描き、最も盛んであった1970年には一年間で60点を超える銅版画作品を制作している。この時期には、彼がメキシコ時代から折にふれて制作してきた水墨画にも多くの作品を残している。メキシコの女性をたっぷりとしたうるおいのある墨線の効果と透明な彩色によって描いた≪童女≫(下図左右)は、彼の水墨での境地を余すところなく伝えている。

また《不動明王≫(下図右)、≪鍾馗》(下図左)は、伝統的な画題を何のためらいもなく奔放に描いている。1970年代のなかばになると、北川は油彩作品で一つの新しい画題を取り上げシリーズのように制作を始めた。それは故郷、静岡の茶畑を描いたものである。二十歳の時に日本を離れ、アメリカ、メキシコで過ごした後に帰国して以来、戦中から戦後へと制作を続けた北川は八十歳近くになって故郷の風景に向かった。

とりわけ《茶畑≫(下図右)≪茶畑と母子≫(下図左)には、この画家の晩年の心の風景が描かれているように思われる。単純化された形態、滑らかな絵肌の効果、澄んだ色彩で描かれた≪茶畑≫に一人働く女性には、母の遠いイメージが重ねられているのかも知れない。そして《茶畑と母子≫に描かれた丘の上の一本の松の木は、長い人生の遍歴の末に故郷に帰った自身の姿なのであろうか。北川は、この茶畑のシリーズなど彼の晩年の制作を代表する作品を描いて、1978年に二科会を退くとともに、ほぼ同じ頃に絵筆をおくことを表明している。

≪献花セレモニアル≫(cat.no.109)は、絵筆をおこうとする自身の六十年を超える画業への献花であろう。

献花セレモニアル 1978(昭和53)年・・・北川は茶畑のシリーズなど、その晩年の制作を代表する作品を描いて、1978年に二科会を退くとともに、ほぼ時を同じくして絵筆をおくことを表明した。北川が愛したメキシコの花である〈かいう〉を抱えるようにしている人物。それに不思議な形態に表された黒い人間と犬、それは空間の合理的な秩序など無視した自由な構成によって描かれた特別な世界のようである。《献花セレモニアル≫は、絵筆をおこうとする自身の六十年を超える画業への献花であり、その引退のセレモニーを意味しているのであろう。北川民次の画業は一般的にはこの頃に幕を閉じることになる。実際に、これ以後の北川はもうほとんど筆を持つことはなかった。しかし、最晩年の1985年から1987年頃、彼は周囲の人にも知られぬように再び絵筆をとった。もはや油絵を制作する体力も残されていなかったという。数ヶ月に一点ほどのペースで、アクリル絵具を用いて色紙に描かれたのが《かいうと母子≫(下図左)《抱擁≫(下図右)など十点ほどの作品である。単純化された形態と色面で描かれた子どもの表情は、愛情とか喜びというような具体的な感情を越えた人間の心の結晶のようなものでも見ているようにさえ感じられる。未発表のままに残されたこれらの作品には〈愛と人間〉を描き続けた北川民次の真に純化された表現を見ることがる。

 北川民次の画業は一般的にはこの頃に幕を閉じることになる。実際に、これ以後の北川はもうほとんど絵筆を持つことはなかった。しかし、最晩年の1985年91歳から1987年93歳頃、彼は周囲の人にも知られぬように再び絵筆をとった。もはや油絵を制作する体力も残されていなかったという。数ヶ月に一点ほどのペースで、アクリル絵具を用いて描かれたのが<かいうと母子>(上図左)、≪抱擁≫(上図右)などの作品である。未発表のままに残されたこれらの作品には〈愛と人間〉を描き続けた画家、北川民次の真に純化された表現を見ることができる。