坂田一男

■坂田一男の芸術

手島 裕

 坂田一男は1889年、現在の岡山市船頭町に生まれた。この画家と同世代の洋画家たちの中には、この前に生まれた梅原龍三郎や安井曾太郎を筆頭に、わが国洋画界に輝かしい足跡を残した数多くの画家たの名をあげることができる。しかし、彼らの大半が創作の現場を東京に据え活躍したのに対し、坂田一男は約50年に及ぶ画家としての生活をパリと倉敷市玉島で送り中央画壇との接触もほとんど無いままその生涯を閉じたため、没後30年以上を経過した今日でさえ彼の画業は十分に紹介されているとは言い難い。

 最初に坂田一男の回顧展が開催されたのは、彼が没した翌1957年のことで、東京のブリヂストン美術館で開催された。帰国後の作品約60点が出品されたこの展覧会は、それまでほとんど無名の存在だったこの画家の仕事をはじめてまとまったかたちで紹介したものだった。次いで1973年、東京・南画廊の主催による「キュビスムの画家たち」展にパリ時代の作品が特別陳列として並べられ、滞欧期の貴重な仕事ぶりの一端に触れることができたのである。そして、1976年には、その後新たに将来された滞欧作を加え、初期から晩年に至る系統的な画業の流れを展観した「没後20年 坂田一男展」が西宮市大谷記念美術館で開かれ、坂田一男に対する評価の高まりを見せるきっかけをつくりだした。しかしながら、坂田一男の創作活動の中心地であった倉敷においては、大規模な展覧会が行なわれたことはこれまで一度もなかったし、全国的に見ても大谷記念美術館の坂田一男展以来すでに10年以上の年月を経過している。このたびの回顧展は、このような状況を考えるとともに生誕100周年という記念すべき年を迎えるにあたり、坂田一男の画業をあらためて紹介し、彼の業績について再考の機会になることを願い企画されたものである。

  

 これまでに開催された大小さまざまの展覧会、その他の折々にふれて発表された評論あるいは随筆によると、この画家の最も大きな特徴は創作活動において何よりもまず知性の働きを重視したことであり、それによって厳しい造形の世界を追求したことである。事実、坂田一男の画業を振り返ってみると、その知的性格を彷彿とさせる材料にはこと欠かない。あるいは、小倉忠夫氏も指摘するように、この画家の知的傾向はすでに坂田家代々の血の中に存在したのかも知れない。なるほど一族の経歴を見るとき、そこには県下でも有数の知の家系を見い出すことさえ不可能ではないだろう。

 坂田家はもともと岡山県川上郡日里町(現在の小田郡美星町)の大庄屋で、曽祖父・友次郎は酒造業を営んでいた。その弟にあたる希八郎(朗塵)は大阪に出て大塩平八郎に学び、さらに江戸では昌谷精渓や古賀洞庵に師事した。帰郷後は現在の井原市に県下で最初の私学である興譲館を創設した。また、その子芳郎は東京帝国大字を卒業後、大蔵省に入り、さらには東京市長、貴族院議員となり子爵にまで列せられた人物である。

 一男の祖父にあたる蘭法医・待園は1882年、大磯に次いでわが国で2番目の沙美海水浴場を開設するなど地方文化の向上に尽力した先覚者だった。そして、一男の父・快太郎は東京帝国大学医学部を卒業第三高等学校医学部(岡山大学医学部の前進)教授に任ぜられたほか、一方では書や文人画にもたけた文化人だった。

 彼らが辿った栄光に満ちた足跡を見るとき、そこに脈々と流れる血の存在を感じないわけにはいかないが、このような一族の経歴もさることながら、坂田一男が残した数多くの書簡を読めば、この画家が実際の創作活動においても知性の必要性を認識し、パリ滞在中から帰国後も一貫して知性というものに信頼を寄せ制作していたことがわかる。例えばパリ時代の書簡では、1924年12月26日付母・八万重に宛てた手紙に見られる次の一節。「毎夜二時頃まで、コムポジション計り考居候。何分昔の絵と遠い、数学的の組立にて、建築師の様な頭の入る仕事に御座候。」。帰国後のものでは、知人宛てのハガキに書かれた「近代画は頭と精神力をべら棒に消耗することをつくづく今更ながら感じるのであります。」(書簡1955年4月10日)あるいは「日本人はドーしてもサンチマンに流れるのは山カンが這入(はい)るのでコーなるのだろ−。」(書簡1951年2月9日)といったことば。これらは、知性というものがいかにこの画家を捕えて離さなかったかを端的に物語っている。

 それでは、坂田一男のこのような知的制作態度は、実際の絵画表現の上にどのような結果をもたらしたのだろうか。それはまず、彼が選択したモチーフの種類やその描写によく現われている。坂田一男は、1920年代後半から1940年代にかけて、机、ストーブ、本、皿、壷といった一見何の変てつもない、ごく身近なモチーフから制作している。しかし、当時の作品を見れば、このような日常的でありふれたものばかりを描いたのは決して本や壷をキャンヴァスの上に再現するためではなかったことは明らかだろう。本や壷は、かろうじて確認できるほどに断片化あるいは抽象化され、その結果、四角形や円形といった幾何学的な形態として描かれているにすぎない。このような対象の描写は、キュビスムに端を発する理知的な絵画運動に見られる、対象本来の姿を知性によって捉え、純粋に造形的な世界をキャンヴァスの上に創りあげようとする造形理念から影響を受けたものであることは言うまでもない。

 例えばキュビスムの場合に、しばしばサイコロの例を持ち出して説明されるように、サイコロは人間が見る位置によって当然その目の数は変化する。しかし、1から6までの目がきざまれたサイコロ本来の姿は、どんな場合でも変らないということを私たちは知っている。つまり、サイコロ本来の姿を見きわめるのは視覚ではなくて理性の働きであるとするのである。従って、さまざまな角度から捉えられた姿を同時に描写することによって、完全なサイコロの姿が画面の上に定着されることになるのである。もちろん坂田一男は、キュビスムの画家たちによるこのような理論を厳密に適用しているわけではないが、対象の解体というきわめて知的な認識作用の働きは彼の作品の中にも十分伺うことができる。

 そればかりではない。本や壷は、それらが置かれていた空間的な位置関係とも全く無関係に画面の上に配置されている。現実の空間に置かれたさまざまなモチーフは上下あるいは前後左右に自然界の法則に従って整然と並んでいる。見る者の視点が移動しないかぎり壷の口と側面が完全なかたちで同時に見えることはない。従来の静物画では、画家はある一定の視点から対象を捉え、遠近法などの原理を用いることによって、設定された場面を視覚像と同じようにキャンヴァスの上に再現した。このとき、画家の最大の拠り所となったものは、言うまでもなく現実の世界だった。しかし、坂田一男の作品には、このような意味での現実世界の再現は見られない。この時、坂田一男にとって現実の世界以外のものが創作の拠り所となっていたのであるが、それは言うまでもなく作品の造形性というものであった。坂田一男は、キャンヴァスを1つの枠組と見做し視覚の法則とは全く別の秩序に従って画面を構成したのであって、本や壷はただそのための口実にすぎなかったのである

 

 以上のようなことは、人物をモチーフとした作品についても同様に言えることである。1920年代は坂田一男が実際のモデルを使って制作した数少ない時だったが、モデルとは言え人物というモチーフは風景や静物とは比較にならないほど個性を持った存在である。性格などの内面的なものをはじめ、顔立ち、髪の色、肌の色など各人各様の変化に富んだ個性を持つものこそが人物というモチーフと言えるかも知れない。しかし、坂田一男は人間の個性には着目しなかった。それは、例えば、この時代に描かれた一連の人物像の顔の描写を見れば明らかである。人間の個性が最も明確に現われてくる部分があるとすれば、それは顔である。しかし、坂田一男が描く顔は無表情で、類型的で、人間の生気といったものを全く感じさせない。それどころか、モデルの頭部はみな等しく幾何学的な形態に変形され(中には目鼻さえ描かれていないものもある)、人体の他の部分もまるでロボットを思わせるような単純な形態として扱われ、人物はそれらの集合体として描かれているにすぎない。もちろん人物をモチーフとしたこれらの作品においても、坂田一男が創作の拠り所としたものは作品の持つ造形性であることは言うまでもない。

 さて、明治以来わが国に洋画が取り入れられてきた過程を見るとき、坂田一男の知性尊重の創作態度は、同時代多くの画家たちから彼を区別する大きな特徴であり、わが国の洋画史におけるこの画家の位置づけを考える上で格好の材料を提供してくれるものであるかも知れない。一般に、わが国の洋画は同時代の西洋の美術から多大の影響を受けながら進展してきたが、それ自体の内発的な発展性に欠けると言われている。とりわけ、19世紀末から20世紀初頭にかけては、手本となった西洋においてさえ新しい造形理論がつぎつぎに登場し、目まぐるしいほどの展開を見せた時期だったが、わが国の洋画家たちは、その背後にある造形理論や歴史的意義といったものを全く未消化のまま、表面的な技法やスタイルの獲得に終始したのだった。このような状況の中で、わが国に比較的よく定着したと言われるフォーヴィスムでさえ、例えばマチスの作品に見られるような堅固な造形性からはほど遠いと言わざるを得ないし、豊かな色彩やのびのびとした筆触は主観的な心情表白のための一手段として捉えられていたといっても過言ではないだろう。また、本来フォーヴィスムが持っていた固有色の否定といった歴史的意味についても十分に理解されているとは言い難いのである。

 このような洋画移入のあり方が、多くわ洋画家たちに共通のものであるとすれば、技法やスタイルといった表面的なものではなく、それらの支えとなった知性やそれによって追求された作品の造形性に着目した坂田一男の存在は異彩を放っていると言えるだろう。しかし、知性というものが、造形活動としてこの画家の中で開花し、しっかりと実を結ぶようになるには、多くの洋画家たち同様やはり西洋体験が必要だったこともまた事実である。渡仏以前の作品「裸婦」(下図右)などを見るとき、そこにはすでにひとつの個性とさえ言えるものを感じとることができるが、しかしそれは知性や合理的精神といったものを想起させはしない。それどころか、誇張された筋肉表現や量感の描写は、むしろ表現主義的な気配さえ漂わせているのである。

 さて、坂田一男が児島虎次郎の紹介状を携え、ひとりパリへ渡ったのは1921年5月のことだった。すでに32歳のことだから初めての渡欧としては決して早い方だとは言えないだろう。パリではモンパルナスにアパートを貸り、多くの日本人留学生たちと同様、まずアカデミックな絵画を教えるアトリエをいくつか転々とした。そして、この年の10月には、後に私生活においても親しく交友を結ぶようになるアカデミー・モデルンのオトン・フリエスに師事することになる。アカデミー・モデルンは1912年にノートルダム・デ・シャン街86番地に開設された、いわゆる私塾で往年のフォーヴィスムの画家であるフリエスが教室を任されていた。坂田一男とフリエスの関係は単なる師弟という間柄にとどまらなかったようで、坂田自身、遠い異郷で送らなければならない生活の苦しみや辛さを忘れさせてくれるものをフリエスー家の中に感じていたに違いない。それは、1923年の夏、南仏へ避暑に出かけた時、坂田一男が母に送った手紙の一節からも十分伺うことができる。

 「心からこの家庭を祝福しています。私はこの家庭にいると、私の心は小供の時分の幸福さになります。それと同時に私は狂犬の様な日本の社会や日本人を益々厄介だと思ふのです。「私はたれ一人として日本の大家という為物の前に、こんな気持になったことはありません。私は先生の絵に全部好意は決して表してる訳ではないのです。而しこの家庭の声はほんとの心の伴です。人間の声です。私はそれに引き込まれます。」

 しかしながら、すでにこの文面が明らかにしているように、坂田一男はフリエスの人間性には大いに魅力を感じながらも、彼の作品については決して同調していたわけではなかった。フリエスの作品に知性の欠除を感じ、何か物足りない思いをした坂田一男は、その間の事情を「電気ジャッキ」と題された随筆の中で次のように述べている。

 「堂々たる風貌のフリエツ、ドランに接しても会見の愉快はあっても何か忘れ物をしたという後味を残す何かそこには物足りないものがある。何。これは確かに此の知性的要求の一面を否定するわけには行かない次第である。どうしても木魚を叩く気にはなれなかったのだ。製材円鋸の回転音の如く頭上を這い廻る電気ジャッキの音は正にうれしいのである。」

 すでに広く知られているとおり、坂田一男が創作活動における知性の必要性をしっかりと意識し、それを何ものにもかえがたい造形の基本に据えるようになるには、レジェとの出会いが必要だったのである。レジェの作品(1926年・下図右)

 

 アカデミー・モデルンは午前と午後、それぞれ教室が開講されていたが、自分自身に時間的余裕が無いことを感じたフリエスは1923年34年に、授業の一部を他の人物に担当してもらうことにした。その候補として浮び上がってきたのがマリー・ローランサンとレジェだった。ローランサンについては彼女がこの依頼を引き受けたのか否か、現在のところ不明であるが、一方のレジェは間違いなくこの依頼を承諾し、遅くとも翌1924年の1月には午後の部の教室を受け持っている。また、坂田一男が日本ヘ書き送った当時の手紙の中には、すでに1923年の暮れにはレジェがアカデミー・モデルンの教室を受け持っていたことを示すものが見られる。次の一節である。

 「今レーゼという立体派、この流派は、今三様あって、日本に知られているのが、ロート及びブラックの二派でレーゼのエコールは私が初めて着目している丈けです。このレーゼ氏に就いて全然日本人にない、私とても、とてもやれないものですが、コンポーズに移る為大変に必要なものなので、一生懸命やりかけて見てます。巴里でも未だ充分この人のエキスプレツションを知る人は少ない様です。」(書簡1923年34歳11月7日)

 

 ところで、同じアカデミーの教室とは言え、レジェとフリエスの教室では、教師の違いはもちろん学生の種類、教室の雰囲気、授業内容に至るまで非常に大きな隔たりがあった。当時の一般的なパリ人たちの感覚からすれば、いわゆる抽象絵画というものは、敵意の的にこそなることはなかったとはいえ、少なくとも好感をもって迎えられていたとはまだまだ言え難い状況だった。従って、フリエスの教室に通う生徒たちのほとんどがフランス人だったのに対し、レジェの教室の生徒は、ごく少数の例外を除き他はすべて外国人だったのである。そこには、スウェーデン、ノルウェーなどの北欧、ルーマニア、ポーランドをはじめとする東欧、それにロシア、オランダ、イギリス、アメリヵなど世界各国から若者たちが集合していた。もちろん、彼らの大きな特徴は単に多国籍だということではない。その多くが、パリに到着する以前に、本国あるいはドイツなどで当時最新の美術動向に接する機会を持った若者たちだったということであり、そのため、例えばパリの美術学校の生徒たちなどとは比較にならないほど自由で開かれた精神の持主だったのである。もちろん、抽象絵画に対する偏見や誤解など一切持ち合わせていなかった。

 このような生徒たちを相手にレジェが担当した教室の大きな特色は、制作の自由を与えたことだった。もちろん、彼らの大半はパリ到着以前の経歴からして、いわゆる抽象画家という共通点を持っていたし、その上、レジェの「メカニック・エレメント」あるいは「壁画」に対する強い歩み寄りがあった。しかし、この教室に集った多種多様な若者たちのことを考えるならば、特定の造形理論で彼らを縛ることなどそもそも出来るはずもなかったし、何よりもレジェ自身の考えに反するものだったに違いない。レジェの教室では、中央にモデルや机、椅子、本、壷などのさまぎまなモチーフが配置され、生徒たちは、形態や色彩のコントラストの法則を用いることによって設定された各場面を自由に描いたのである。彼らは、単純化、幾何学化あるいは部分的拡大といった手法によって対象を抽象化、分析し、さらに再構成することによって制作した。

 アカデミー・モデルンにおける彼らの活動は、1925年35歳からは純粋主義の画家・オザンファン(上図左・右・下)もレジェと並んで教鞭をとるなど、ひとつのまとまった造形活動としては、当時のパリにおいて最先端を行く美術の動向を実践する場であったと言える。ここでのレジェあるいはオザンフアンとの出会い、そして、彼らの教室における多くの生徒たちとの交流を通して、坂田一男は創作行為における知性の必要性を認識し、厳しい造形の世界へと進んでいったのである。では、坂田一男自身、知性というものをいかに受け止め、制作の中でどのような役割を果たすものとして位置付けていたのだろうか。

 

 パリ時代の作品は現在約20点が確認されているが、それらはおおよ そ1924年34歳から1926年36歳にかけて制作されたものである。この時期をはず れる作品は少なく、今のところ「浴槽の二人の女」(上図左)など数点が知られているにすぎない。

  パリ時代の作品は1924年に制作された数点を除きすべて抽象的作品であり、中には現実のイメージさえも全く感じさせない作品も含まれている。これらの作品に共通する大きな特徴は、すでに述べたとおり厳格な構成と造形性であると言えるが、しかし、この時代の作品群が皆等しく構成的、造形である一方で、各作品をひとつひとつ見ていくと、モチーフの描写や画面構成の仕方において必ずしも統一的であるとは言えないことに気づくはずである。キュビスムへの歩みよりを最も顕著に示している「裸婦」(下図左・1924年34歳)、チュビスムと称された時代のレジェのダイナミズムを思わせる「キュビスム的人物像、あるいは純粋主義の影響を感じさせる平面的で厳格な構成の「坐る女ⅠⅤ」(上図右)さらにはキュビスムの手法をより装飾的に展開させた「裸婦」(下図右・ 1925年35歳)など、人物をモチーフとした一連の作品を見ただけでも実に多彩な実験を試みていたことがわかるだろう

 これらの作品を見ると、レジェの歩んできた道程をたどるようにして、おおよそ初期キュビスムから分析的キュビスムを経て純粋主義へと至る過程に関して、坂田一男自身が実践的な研究を積みかさねていたことが想像される。坂田一男がキュビスムをはじめとする主知的(感情や意志よりも知性・理性の働きに優位を認める立場)な造形運動に興味を示し、書簡の中で触れるようになるのは、レジェの教室に通いはじめたと思われる1923年33歳・暮れ以降のことである。そのひとつ、1924年6月妹・日出に宛てた手紙の中に次のような一節がある。「絵は未来派の研究だ。大分進歩した。」ここで坂田一男が言う研究とは一体未来派の何の研究だったのだろうか。すでに1909年には詩人マリネッティによってパリで未来派宣言はなされているし、アポリネールが『キュビスムの画家たち』を刊行してキュビスムの造形理論を紹介したのは1913年のことだった。あるいは、オザンフアンとジャンヌレはすでに1918年には『キュビスム以後』を著わし純粋主義の造形理論を展開してみせた。従って坂田一男が彼らの主唱した美学を研究の対象とすることは決して不可能ではなかったはずである。

 しかし、この画家の研究がそれらの内容的吟味・検討に及んでいたのかというと、はなはだ疑わしいと言わざるを得ない。それは「大分進歩した」というくだりが内容的探究の表現には馴染みにくいように思われることに加えて、現在のところ、当時の書簡の中にも、あるいは帰国後の書簡の中にも該当する文面が一度も現われてこないからである。

 坂田一男は未来派や立体派に接する以前に印象派などのスタイルで制作していたことは、やはり当時の手紙から推測することができるが、このようにさまぎまな流派に接近しそれらを研究した結果、この画家が学びとったものは、「巴里の日本留学生の半分は、自分に研究さして置いてそれを模倣して土産にしている。今や自分はエキスプリカション(テキストを正確に読み、著者の言おうとしている内容を過不足ない言葉で説明する、という訓練)をかへる事三度に及んでゐる。」(書簡1924年秋)という手紙の一節にあるエキスプリカション、つまり解釈するという画家の制作態度だったのではないかと思われる。

 坂田一男は、印象派以来めまぐるしいほどにつぎつぎと生み出されてきた数多くの“イズム”に伴うスタイルの違い画家たちの解釈の違いであると据えたのではないだろうか。解釈というものが知性の働きの1つであることを思えば、はたして印象派の画家たちの制作態度は解釈と言えるものか、それはきわめて疑わしいとは言え、キュビスム以降の主知的(感情や意志よりも知性・理性の働きに優位を認める立場)な造形運動について言えば、それはかなり当を得た表現であると言えるかも知れない。また、だからこそ坂田一男自身、主知的な造形運動に強く引かれていったとも言えるのである。その結果、この解釈というものが坂田一男の創作活動においても重要な意味を持つようになったとしても決して不思議ではない。キュビスムの画家たちの制作プロセスが対象の解体と再構成という2つの流れによって説明できるように、坂田一男の場合はこの解釈というものによって説明されるのではないだろうか。しかし、坂田一男は、おそらくこの解釈という独特の制作態度のために、キュビスムに端を発する主知的な造形運動を展開していった多くの西洋の画家たちとは、また別の道を歩むことになるのである。

 坂田一男が12年と6ケ月に及ぶパリ滞在を終え帰国したのは1933年11月44歳のことだった。帰国後の坂田一男は祖父・貢のもとにしばらく身を寄せていたが翌1934年9月 45歳には、現在の倉敷市玉島にアトリエが完成し、以後制作の拠点をここに据え中央画壇との交渉もほとんどないまま生涯を送ることになる。この頃の坂田一男は、絵を描くかたわら貢の干拓事業の協力をしたり、彼の経営するアパート・鴎沈荘の管理人を勤めたりもした。貢は、いわゆるパイオニア精神の持ち主で鉱山の開発にチャレンジしたような人物だったが、玉島では高梁川河口西岸一帯の干拓事業に成功し、現在でも彼の名は坂田町という地名に残され顕彰されている。また鴎沈荘というのは、娯楽室、浴室、食堂、理髪室などを備えた一種のアパートで、坂田一男はそこの管理人として働いたばかりでなく、食堂のコックとしても料理の腕をふるったと伝えられている。

高梁川河口西岸一帯の干拓事業

 ところで、坂田一男の帰国後の画業となるとそれを伝える情報は極めて少ないと言わざるを得ない。その最大の原因は、1944年と1954年の二度にわたる大水害によって多くの作品が失われてしまったことであるが、とりわけ1930年代から1940年代の前半にかけては、残された作品は非常に少ないし、現存するものでも塩害のため作品の痛みがはなはだしい。今回出品される2点の「コンポジション」(下図左・右)は幸運にも水禍を逃れた1930年代の貴重な作品であるが、これらを含めたごく少数の作品によってしか振り返ることができない帰国後の約15年間というものは坂田一男に関する空白の時代となっている。

 しかしながら、日本に戻ってからの坂田を取り巻く環境は、自由を謳歌することができたパリとは相当大きな隔たりがあったことだけは事実である。すでに日展を頂点とする各会派がピラミッド状に組織され、あるいは在野を名乗る諸団体も戦後の混乱期を抜け出し確固とした地歩を固めつつあった。坂田一男はこれら画壇との軋轢に身をやつさなければならなかったのである。彼は徹底的に画壇を批判した。その論点は当を得た内容であっただけに痛烈だった。彼の画壇批評の焦点は、その中央集権的体質と模倣、この2点に集約することができるが、前者は自由に対する坂田一男の強い欲求に対応するものであり、後者は個性重視の制作態度の反映に他ならなかった。

 そもそも、自由に対する強い憧れは、坂田一男が渡仏のきっかけを語った次のことばの中にその兆しを見つけることができるかも知れない。

 「日本では当時白樺の非常に相当勢力あり背景に草土社岸田氏等が確実な歩みをつづけ若い人はこれになびき、仲間はこれに属していた(分皆有名になった)尊敬はするが不満であった。」

 これは玉島の郷土史家・森脇正之氏が『現代浅口人物誌』を発刊するため坂田一男のアトリエを訪れ、口答筆記によって記録したものの一部である。そして、渡仏した坂田一男はパリにみなぎる自由な空気を自分自身の肌で感じ、1922年5月妹・日出に宛てた手紙の中で次のように語っている。

 「欧州の自由なる、心地よき程ノビノビと自由な思想を育て居り候。それが皆立派なるものにて、日本の新旧思想何れも頑固と不健全さに憎悪を覚え候。かかれば個性的仕事に大成する欧州人は故なきに非ずと感じ候。」

 しかしながら、個性的であることを創造の根底に据えた画家はもちろん坂田一男1人ではない。それどころか、明治末期から大正にかけて美術のみならず創作活動全搬に共通する大きな特徴だった。この点において、坂田一男は、個性の自覚に基づく斬新な芸術作品が数多く制作された大正デモクラシーと呼ばれる時代の精神的な落し子だったと言えるだろう。このような時代精神を象徴的に伝えるものに『緑色の太陽』と題された高村光太郎の一文があることは広く知られるとおりである。

 「僕は芸術界の絶対の自由を求めてゐる。従つて、芸術家のPersonlichkeit(人格、個性)に無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味に於て、芸術家を唯一箇の人間として考へたいのである。そのPersonlichkeitを出発点として其作品をschatzen(評価)したいのである。Personlichkeitそのものは其のままに研究してあまり多くの疑義を入れたくないのである。僕が青いと恩つてゐるものを人が赤だと見れば、その人が赤だと思ふことを基本として、その人が其を赤として如何に取扱ってゐるかをschatzenしたいのである。その人が其を赤と見る事については、僕は更に苦情を言ひたくないのである。むしろ自分と異った自然の視かたのあるのをangenehme Uberfall(快い衝撃)として、如何程までに其人が自然の核心を窺ひ得たか、如何程までに其の人のGefuhl(感受性)が充実してゐるか、の方を考へて見たいのである。二三人がく緑色の太陽〉を画いても僕は此を非なりと言はないつもりである。僕にもさう見える事があるかもしれないからである。〈緑色の太陽〉がある許(ばか)りで其の絵画の全価値を見ないで過す事はできない。

 ゴッホ、ゴーギャンからフォービスムに至る一連の画家たちの生きざまに寄せる人道主義的な共感を背景として、光太郎はこの一文の中で個性の絶対性を主張しているが、ここでは個性というものが人間の本能的ともいえる内面の発露によって実現されるとされている。

 ところが、坂田一男が実の規準に据えた個性的なものは、彼が拠り所としたものにおいて光太郎に代表されるロマン主義的性格の強い一連の画家たちとは明らかに異質なものだった。創作活動における人間の本能的なものはもちろん、「日本人はドーしてもサンチマンに流れるのは山カンが這入るのでコーなるのだろうー。」(書簡1951年2月9日)と語って感覚的なものさえも否定してしまったこの画家が、個性の拠り所としたものは他でもない知性だったからである。彼はまた次のようにも述べ個性の美を唱えている。「少数の同人が個性に立脚せる丈(だ)けに、新しい角度から美を発見或は表現して行く様になるだろうと思ふのであります。」(書簡1954年11月11日)

 同人とは坂田一男が主宰したA・G・O(アヴァンギャルドオカヤマ)の同人のことで、もちろん坂田一男もその1人として参加している。ところが、西欧19世紀ロマン主義の美学をさえ連想させるこの一文を書いたわずか5ケ月後には「近代画とは頭と精神力をべら棒に消耗することをつくづく今更ながら感じるのであります。」(書簡1955年4月10日)と述べ、創作活動における知性の必要性を再確認している姿を見るとき、坂田一男という画家が持つある特異な一面が浮かび上がってくるような気がしてならない。

 それは、キュビスムに端を発し理知的な性格を強く持った絵画運動、いわば構成と造形の芸術というものは一般的に個別的なものを越える普遍的な世界を目指す傾向にあったからである。その典型であるモンドリアンが一本の樹から水平と垂直の原理を導き出した事実を思い出すまでもなく、例えば、坂田一男と同じ時期にやはりレジェの教室に学んだセルヴランクスは、次のように述べ個性の美を否定し普遍性を強調している。

 「純粋に造形的な作品は形而上学の奴隷になることもなければ、喜びや苦しみといった個人の放逸な衝動に支配されることもない。われわれは、簡潔にして雄大な規準へと向っている。われわれの美学は幾何学の諸法則つまり幾何学的空間の静的な体系に、そして、人間の感覚の生理学に基いている。」(1925年に行なわれた講演“La Plas−tiqnePure”より)

 つまり、彼らが目指したものは数学の公理のように万人に共通するものであり、完全に普遍的なものであった。彼らは人間の個性というものを否定して普遍的な合理性こそが美の基準であると考えたのである。

 しかし、坂田一男の場合はどうであったろうか。すでに述べたとおり、彼は互いに相反するとさえ言える2つの要素・・・知性と個性・・・・を等しく創作活動に不可欠なものとして両立させてしまったのである。そして、知性と個性を何ら矛盾なく結びつけることができたのは、先にも触れた解釈の働きであったろうことは容易に想像がつく。それは、解釈というものが、幾何学化、単純化といった手法を駆使することによってモチーフやある場面を抽象化するという極めて知的な精神作業であるのと同時に、当然のことであるのだが、各人の知性に強く依存しているというまさにその事実のために、結局は個人へと立ち返ってくるものでもあったからである。この背景には、坂田一男にとって抽象化という働きがかならずしも法則などの合理的なものに支えられていなかったことが考えられるが、このような事情を説明するために、日本の伝統的な美意識を思い出してもよいかも知れない。わが国においては、美の規準というものは、もっぱら感覚的なものであり、それが法則などの普遍的なものとは決して結びつくことがなかったからである。

 さて、最後に、坂田一男が彼独自のスタイルを確立したと思われる1950年代60歳代を振り返ってみることにしよう。しかし、その前に1940年代50歳代の画業について多少触れておかなくてはならない。というのは、1950年代の画業がこの時代の反省と超克の上に成立していると思われるからである。

 坂田一男にとって1940年代は模索の時代だったと言えるかも知れない。それは、当時の油彩と素描を比較したとき、この画家の造形上の持ち味である厳格な画面構成という点において素描の方にやや軍配が上がるのではないかと思われることに由来している。油彩と素描のあいだに見られるこのような質のズレは、習作としての素描から完成作としての油彩へと移行する段階でもたらされたものだろう。つまり、この両者の間で作品を成立させている造形要素が変化してしまったのである素描においては、構図上、線というものが非常に重要な役割を果しているのに対し油彩においては線そのものの存在は非常に希薄になっている。その結果、画面上におけるモチーフの形態は不明瞭になる場合が多く、坂田一男はこの問題を解決するための一案として「作品」(作品番号0−21)下図左に見られるように対象によってマチエールを変化させて描いた。

 

 マチエールの対比というものは、その前提として画面上に面を要請するが、この点においては形態を鮮明にするための助力になったにはちがいない。しかし、この時の面がつくり出す線は、面同志の境界としてのみ存在するものであって、言うまでもなく造形要素としての線そのものではなかった。坂田一男にとってマチエールの対比という方法が本質的な解決策にならなかったことは後の画業を見れば明らかであるが、だとすると、この画家が本当に恐れていたものは、実は形態が不明瞭になることではなくて、形態を把握するための線が画面から消えてしまうことだったのではないかと思われるのである。坂田一男は、当時の作品の中では比較的線そのものの果たす役割が大きいコンポジション」(作品番号0−26)上図右が完成した後、色面同志が接する境界の部分をなぞるようにして鉛筆で加筆している。このような事実をあわせて考えてみると、すでに1940年代の後半にはこのズレが何に起因していたのか、坂田一男自身気がついていたのかも知れない。そして、このことが1950年代の坂田一男の仕事に大いに影響を及ぼしたであろうと思われるのである。

 事実、1950年代に入るとそれまでには見られなかった造形上の大きな特色が現われてくる。つまり、多くの油彩においても線描表現が重要な役割を果すようになってくるのであるが、このことに触れる前に、まずこの時期の色彩について述べておく必要があるだろう。1930年代以前・30歳以前には、多くの作例が示すように、造形上、色彩の持つ役割はかなり高かった。とりわけレジェやオザンフアンの影響を色濃く示す1920年代の作品においては、厳格な構成と劣らぬくらい色彩の持つ意味は大きかった。しかしながら、遅くとも1940年代の後半からは、坂田一男が用いた色彩は明度の低い非常に地味なものが主流を占めるようになってくる。その結果が1940年代に見られる油彩と素描の質のズレの遠因にもなっていたことは言うまでもないが、そもそも色彩というものは線に比べ人間の感覚に強く結びついた造形要素であるだけに、知的と言われる坂田一男の作品の中で、その重要性が次第に薄れていったとしても決して不思議ではなかった。「白と黒は色彩の原点である。」といったこの画家のことばが示すとおり、1950年代は白と黒への回帰が確かに見られる時代である。白や黒は色彩の分類から言えば無彩色であり色彩自体の表現力は極めて小さいと言わざるを得ない。しかし、このことが、色彩とは常に対立する造形要素として考えられてきた線の持つ表現力を高める働きをしたこともまた事実だったのである。

 1950年代に入ると坂田はそれまでになかった新しいモチーフに取り組むようになった。1930年代、1940年代といえば彼が対象としたものは壷、皿、本、机といった、それ自体が比較的単純な形態を持ち、身近な存在のものが大半を占めていたが、それにかわって機械類、折び、オグリスク、釣師、金魚鉢、建築物など、複雑で、しかも身のまわりだけでは決して見つけることのできないものが多くなる。モチーフ変化は当然画面の上にも現われた。1930年代を中心に坂田一男の作品は複数のモチーフを入念に組合わせることによって成立していたそれに対し、単独のモチーフに集中し余分な部分を徹底的に剥ぎとすことによって、その本質的な形態へ至ろうと試みたのが1950年であったと言えるだろう。

 このとき、対象の本質に迫まろうとした家の追求の痕跡は明確な線描によってキャンヴァスの上に定着されつである。ところで、この時代の線描表現は中国の白描画にヒントをたものであることが坂田一男の書簡から想像される。白描画とは一つ彩色を施さず墨線だけで完成したものであるが、このことは、墨絵を描いた洋画家の多くが水墨画の技法を主とする文人画や南画に取りんでいる事実と比較するといかにも坂田一男らしくて興味深い。その結果、「コンポジション」(作品番号0−47)「釣」1955(作品番号−46)に見られるように作品を構成する主要な造形要素は線だけになてしまった。

 

 今、仮りに1930年代に代表されるような複数のモチーを組合わせて構成的な作品を制作した頃を構成の時代と呼ぶとすれ、坂田一男の感心が対象の抽象化の方向へと強く向かった1950年代は抽象の時代だったと言えるだろう。なかでも、メカニック・エレメトあるいは上巳のシリーズに見られる徹底した抽象化は、1950年代のみならず坂田一男生涯の画業の中でも、最も純粋な、そして独自の辞世界をつくりだしている。

作品 0-44・建築物

 坂田一男のアトリエがあった玉島は、高梁川の河口に位置し海上輸送の拠点として栄え、当時の玉島尊母近には白壁の蔵が多数建ち並んでいた。坂田一男がこの蔵から着想を得たものか否か明らかではないが、晋作と思われる素描(上図)によって、この作品が、建物の一部をトリミングし拡大して描かれたものて至ることがわかる。抽象化のためのこのような手法は、1925年前後のレジェの「メカニック・エレメントモアカデミー・モデルンの生徒たちに共通するものだった。その結果、完成作を見ただけでは何が描かれているのか全くわからないほど対象は抽象化されている。この作品の特徴は、同時代の他の作品にも見られるように限定された色彩と特徴的な線描である。用いろれている色彩は白と黒のふたつだが、それらは明暗二対比としてではなく、混色され中間調のグレーとして使用されている。また、カラス口によって引かれた鋭利な線は、あいまいになりがちな建築物の輪郭を明確にするとともに、画面全体に快いアクセントを与えている。(上図「建築物」のための習作)

 例えば機械をモチーフにしたメカニック・エレメントのシリーズ。これらの作品は2つのグループに大別することができる。

 その1つが、字する最大の作品(未完)「コンポジション」(作品番号0−43)に代表される、機械のイメージが画面いっぱいに描き込まれた作品群

 もう一つが、砕岩機を主要なモチーフにしたと思われる一連の作品であ1950年代に入ると坂田一男は近所のディーゼル工場を見学したり、工場から借りてきた機械の鋳型A・G・O展の会場に展示するど、或に対する興味を拡大していった。そして、「此のメカニック・エレメントの展示により美と均整の研究に役立つ可くと存じ居り」(書簡1954年11月22日)ということばが示すとおり、坂田一男は機械というつの中に美と均整についての手掛りを探していたようだ

0−49背戸 坂田一男によってキャンヴァスの木枠に書かれた背戸という記載によってこの作品のタイトルを知ること;できるが、このことは現実のイメージを全く感じさせない本作品においても、この画家が現実世界とのつごがりを持っていたことを示している。この時期の他の作品と同じように、色彩は限定され白と黒が使われているにすぎず、この作品を構成する造形要素はこの限られた色彩と線ばかりである。主に水平方向に引かれたやや太めの線は、垂直方向に引かれた震えるような細い線によって結合され、きわめて幾何学的な画面構成になっているが、この作品が無機的で機械的な冷たさを感じさせないのは、限られた色彩がつくり出す微妙な濃淡の変化と独得の味わいを持ったマチエールに負うところが大きい。古くから日本人は墨の濃淡の中に無限の妙味を感じたものだが、この作品にも同様の美意識の現われを見ることができるかも知れない。

0−52 コンポジション 機械は1950年代の坂田一男にとって最も主要なモチーフのひとつだった。このモチーフは直ちにレジェとのつながりを連想させる。機械は、1920年代半ばのレジェあるいはアカデミー・モデルンの生徒たちに共通した抽象の源泉だった。それは、彼らが用いていた抽象化のための手法、つまり拡大、幾何学化等によってモチーフの個性が容易に消去され、抽象化が容易に行なわれるためであると同時に、このモチーフが近代生活を象徴するものだったからである。

 坂田一男が何を契機にこのモチーフに立ち返ったのか明らかではないが、玉島にあるディーゼル工場と決して無関係ではなかった。坂田一男は1954年5月のA・G・O例会で、この工場を訪れ機械の見学をするとを計画し同人たちに通知している。翌1954年にはこの年の12月に開催される第3回A・G・O展の会場機械の鋳型を展示することを思いつき次のように述ている。『我々は日本の彫刻に厭き足らんので今度の会場は彫刻の代用にヂーゼル工場から古いキカイの鋳型天然のもの例えば鳥獣の作品(巣の様なもの)等を5点々と飾りつける予定で居ります。』(1954年7月日)。

 機械をモチーフにした作品はふたつのグループに別することができる。坂田一男は一連の作品を描くあたり、機械のイメージを借りてきているが、その源泉となったものの一つが「Handbook of Rock Excavation Method and Cost」(H.P.GILLETTE, NewYork,1916年)だった。坂田一男がこの本をい1どこで入手したのかは不明であるが、この中に多券載されている砕岩機の図面(挿図6、7)下図2点は、確か何らかの影響があった。事実、彼自身『昨年は小生作品を通じてエキスケーベーション的素因を参考にしましたから……』(1954年11月11日)と述べている。

挿図6、7「Handbook of Rock Excavation」の図面

 そうだとすれば、砕岩機をモチーフに制作した作品の中に、われわれはこの画家がたどり着いた一つの回答を発見することができるかも知れない。1955年の制作とされる「コンポジション」(作品番号0−52)では、モチーフとなった砕岩機は完全に線にまで還元され機械のイメージなど全く感じさせないこの作品に描かれた線は対象の再現的な描写から解放されているばかりでなく、以前の多くの作品において見られたように、面を規定する線としての働きさえも与えられていない。つまり、純粋に線としての造形的な役割しか持っていないのである。

 

 坂田は、これらの作品のために習作(作品番号D−45)を数点残しているが、そこに描かれているものは10数本の平行線にすぎない。もし、完成作のための習作としての、簡潔きわまりないこの素描の中に画家のヴィジョンを端的に伝えるものがあるとすれば、それはまさしくこれら平行線がつくり出す均整の美と言えるのではないだろうか。

 以上概観してきたように、坂田一男は知性というものに絶対の信頼を寄せ、厳しい造形の世界を追求した。線描によって対象のもつ本質的な形態に迫ろうとした独特の造形世界は、知的と言われたこの画家の晩年にいかにもふさわしいものであったと言えるだろう。明治以来、西欧の芸術の動向は皆等しく忠実に受け入れてきた中で、キュビスムについてはごく限られた成果しか生み出すことができなかったと言われるわが国の洋画界において、坂田一男の仕事は確かに異例の重みを持っている。しかし、彼の歩んだ道は、多くの洋画家たちとは明らかに異なるものだったに違いないが、西欧の画家たちともやはり異質のものだったことを忘れてはならない。坂田一男にとって、知性というものは解釈の働きを通して個性を実現するためのものであった以上、彼のとった立場は、合理的・幾何学的な形態によって純粋造形へと向っていった西欧の画家たちの多くが、自己を空しくして普遍的な実の世界を追求したのとはおよそ正反対のものだったからである。しかし、坂田一男の造形世界は、ある種の矛盾・・・それは日本と西洋の伝統がつくり出す歪みだったかも知れない・・・を内包しながらも、きわめて強靭なものだった。それは、この画家の理知的な造形世界が内発的であると同時に、求道的とさえ言える生き方によって支えられていたからである。

 彼は次のように述べている。「何分私など技巧家としての画家になるのではなく、人生の悶えから、ここへたどり着いたので、只本質と哲学の変形に過ぎないのです。」(書簡1923年) 坂田一男にとって、描くということは自分自身の哲学の化身に他ならなかったのである。               (学芸員 手島裕)

■参考資料