岡本唐貴とその時代

■前衛の岡本唐貴・・・復元画と自伝的回想画をめぐって

佐々木 千恵

▶︎はじめに

 岡本唐貴(本名・岡本登喜男)は晩年二つの仕事を試みている。長男は漫画家の白土三平(本名・岡本登)、長女は絵本作家の岡本颯子1920年代・13歳の自作の復元と、幼少期から戦後にかけてのおよそ50年間を絵画によって回想する連作・自伝的回想画の制作である。これらの二つの仕事は岡本が大正・昭和前期の洋画史においてた果たした役割に、深く関わっている。

 岡本は弱冠20歳で前衛美術家グループ(大正期当時、前衛美術は新興美術と称されていた)のひとつ、〈アクション〉に参加、後に新興美術運動大同連合である〈三科造形美術家協会〉に加わり、既成の芸術概念を否定して廃物によるインスタレーション作品を制作したこさらに、旧<アクション〉同人と共に〈造型)を結成、やがて新ロシヤ展に関わりセザンヌを継承したロシアの写実主義の絵画に接触したのを契機に、プロレタリア美術運動へと方向転換する。

 

 岡本ら新興美術運動の旗手の多くが、昭和初期に最も高まりを見せたプロレタリア美術連動の道に進んだことは戦前洋画史上との問題の一つである。新興美術運動時代プロレタリア美術運動時代の作風のギャップに驚かされるが、岡本の方向転換には、当時の美術界や社会の動向が大きく関与している。

 美術界では、明治の終わり頃から大正の初期に、後期印象派、フォーヴィスム、表現主義、未来派など、西洋の新傾向の美術が次々に紹介された。この役割を果たしたのは、当時発刊されたばかりの文芸雑誌「方寸」「スバル」「白樺」や、ヨーロッパに留学し日本に帰って来た画家たちである。

 これらの画家たちが柱となって、大正初期に(フュウザン会〉、〈二科会)、<草土杜>、などを結成し、大正期以降の洋画界を形成していった。また、東郷青児や神原泰、萬鉄五郎らがこの後次々と、未来派、抽象絵画、立体派など先鋭な傾向を示す作品を二科展に出品して注目を集めている。

 

 後期印象派以降の西洋美術を紹介したものの多くは写真図版の複製であり、加えてヨーロッパにおける美術運動と時間差があるため、フォーヴィスムから構成主義まで一気に紹介されるといった状況だったここうした中で、新興美術運動に関わった岡本らは、これら新傾向の美術様式を次々と摂取した

 

 新興美術運動・大正期(1910年代後半から1920年代前半)の各グループが短命であった理由の一つとしては、様式を生み出す思想や背景はあまり省みられず、美術運動としては骨格が脆弱だった点もあげられる。

 

 大正期の新興美術運動が終焉を迎えた頃、当時傾点に達していた労働問題と社会主義思想に牽引されるようにプロレタリア文化運動が隆盛した。既成の画壇に属することなく芸術の革命を行ってきた岡本らにとって、社会の革命を目指して労働者と連携をはかるプロレタリア美術運動は魅力的だったのだろう。安定した地位に留まって各々の作風を深めていくのでなく、時代精神を表現する新しい形式と内容を追求する方を選んだ。新興美術運動の主要作家で、プロレタリア美術運動へ方向転換した以外の者はほとんどが<二科会>など既成の画壇に再び戻るか筆を断っているこ川本は美術と社会との関わりを常に問題にしてきたが、そこに復元画や自伝的回想画を生み出す契機があるのではないだろうか。

▶︎復元画について

 復元画を制作するという発想は、1961年、岡本が日本現代美術展事務局代表として、旧ソビエト連邦を訪問した際に得た。「あちらでは作者が中央の美術館にある自分の作品を模写復元して地方の美術館の要望に答えているのを見て感じたことであるこ 日本ではその要望があるわけではなく、自分のために、失われた作品の中の好きなものを復元しておこうという考えである」。また、直接の動機は、訪ソからほどない1963年、白木屋で画業40年展を開いた時に「思えば青年期の大作がほとんど失われているのに一抹のさびしさを覚えた」との思いにあるのだろう。

 

 しかし、実際に復元制作に着手したのほ1973年5月頃からであり、白木屋の個展から10年を経ている。この間、大正期の新興美術運動から昭和初期のプロレタリア美術運動への再評価の機運が高まりつつあったことも、復元画制作の動機のひとつとなったのではないか。

 岡本は1954年、旧「日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)〉メンバーが集まったのを機に、「日本プロレタリア美術史」造形社・1967 松山文雄と共著)刊行に取り組んでいる。1971年4月から5月にかけて、東京国立近代美術館にて「近代日本美術における1930年」展が開催されて、その中の1コーナーに社会派的傾向としてプロレタリア美術作品がとりあげられている。

 岡本は自らを取り巻く情勢を絶えず分析し、歴史と自らの仕事の関連を強く意識してきた画家だった。彼は早くから芸術論を発表しているが、そこでは自分が関わっている美術運動を美術の歴史の中で正当化しようとする傾向が伺え、特に<造型美術家協会〉でロレタリア美術運動に方向転換して以降顕著である。文学、演劇、美術、音楽など複数のジャンルを包括したプロレタリア文化運動は、社会主義思想に基づいて社会改革を目指し、大衆、特に労働者階級に結びつこうとした運動であった。一方、造型美術の分野は、近代以降、芸術の自律性と個我の解放が重視され、社会や集団的意識から遊離する傾向にあった。

  

 岡本は理論的指導者として、プロレタリア美術運動を、後期印象派以降の美術の歴史を正当に発展させるものとして位置付け、また、この美術運動におけるテーマ主義的な制作方針をヤップのメンバーに伝えた。造型上の問題は最終的には作家個々人が探求していくはずのものである。岡本の本意はどうであれ、運動の特殊件により芸術の自律性と個人主義を否定し、セクト主義的な方向を取らぎるを行なかったことは、後年の岡本の創作活動において尾を引いたのではないか。1967年64歳に岡本は、戦後すぐ創立会員として参加して以来、20年以上在籍した日本美術会を退会している。前衛美術会のメンバー退会の責任をとるためであり、日本美術会が「特定のリアリズム派の流れに比重がかかりすぎては面白くないと思ったから」というこ岡本は<造型美術家協会〉のネオ・リアリズムから戦後すぐ結成した<現実会〉の綜合リアリズムまで盟友・矢部友衛とともに、リアリズムを核として一つの流派をまとめようとしてきた。

  

 さらに〈現実会〉を解散した1948年、共産党に入党、1958年離党、日本美術会主催の日本アンデパンダン展に、<地区の政治集会>(1951年)を出品するなど、1950年代の一時期、社会主義リアリズムの方向を模索している。

 しかし、先述の「1930年代展」に因んで1971年「美術グラフ」誌上で行われた桂川寛との対談で、対談当時時社会主義リアリズムの作品破棄したと岡本は語っている。ちょうどこの1970年前後頃が、戦前から戦後に士るまで、リアリズム絵画の深化を試みてきた岡本の活動における一つの転換期となるのではないだろうか。同じ対談で、岡本はプロレタリア美術運動時代には制作より運動におわれ、戦中期にはアトリエ研究会という小さなセクトに入りこんで、戦争の圧力から逃げたため現実の生々しい印象を捉えられず、いずれも芸術創造における「個人を掘りさげるという問題」を深めることができなかったと語っている。この言葉からは、思想や理念を共有する集円から離れ、個人として造型上の問題を掘り下げようという意識が伺える。復元画の制作は岡本自身が生きた歴史の一局画を後世に残すことであり、転換期におけるひとつの区切りの什事でもあるだろう。

 

 1974年、「模索と激動の旧作を復元して」と副題をつけた個姑が京橋・パシフィックギャラリーで開催される。旧作を復元する例は他にあっても、個展として世に問うことばめずらしく注目を集めた。本展覧会出品作の<ペシミストの祝祭>(1974年・原作1925年) <造形の誕生>(1974年・原作1926年)<或るシナリオライターの像>(1973年・原作1927年)<争議団の工場襲撃>(1974年・原作1929年)は、この個展に出品されている複元画である。(上図4点より)

 復元された4点のうち、もっとも最初に制作されたのが、、<或るシナリオライターの像>だった。<女>と並んでドイツの新即物主義の影響を示す作品で、雑誌「アトリエ」<1927年8月号>原色版で掲載されよく知られた作品である。岡本は復元するにあたって、この作品の持つ造型上の重要性は、人物の手の表現にあると語っている。画中のシナリオライターは顔と体を心持ち斜め横に向けているが、ペンを持つ手も何じように斜めを向けたのでは表現としては面白くないので、手を正面に向けた。明暗法やぼかしなど従来の写実的表現を用いずに、手からひじにかけての距離感を出すのに、原作を描いた、当時かなり苦心したらしい。このエピソードからは、<造型>時代、岡本が新しい、写実表現を模索していたことが伺えて興味深い。

 復元画制作とその発表にあたっては、例えば<造型〉以来の友人・山上嘉吉(かきち)は「美術史上かけがえのないあれだけの運動をまいぼつさせて了わない上からも大事な仕事と思います。」とその試みを評価しているが、客組的に見て、復元という作業にはいくつかの面で困難が伴うことは忘れてはならない。絵画制作には画家のその時の心境が大きな位置を占めるのに、1920年代当時から心理的にも大きく隔たった半世紀後に復元を行えるのか、また、技術面での変化も復元にあたって障害であるという点が気がかりだったと近親者は語っている。

 

 《争議団の工場襲撃〉は原作が300号で、25歳の時に4日で描き上げたというが、再制作の際は、半分のサイズの150号を描くのに3ケ月を要している。ここの作品について松山文雄は、復元画展での感想を次のように述べている。「この頃画を半世紀も前にじかに見た時の感銘からいうと、その迫力は数段の差を感じる。当時のふん囲気の中で、青年岡本が鐘紡争議をあつかったこの作品にかたむけた情熱と、ここに造形された群像のちみつな重なりあいからくる圧力が、これからは感じられないのである。復元画や模写画のこれは限界というものだろう。」

 岡本自身がこの限界に気づいていなかったはずはない。しかし創造上の問題は別において、この時代の美術運動を伝えることの意義の上を重視し、復元画を制作したのだろう。この展覧会の翌々年、岡本は自伝的回想画シリーズを手がけることになる。

▶︎回想画について

 岡本が「自伝的回想画」シリーズに着手したのは1976年73歳頃で、83年に全20点を完成する。回想は幼少期からの約50年間にわたっているが、その表現方法は一様ではか、。絵本などの物語絵を思わせる作品が多く見られる自伝的回想画は、1920年代末より岡本が追求してきたリアリズムの方向を大きく転換したものだった。

 作品の内訳は、笠岡での幼少時から神戸での少年時代までが8点、画家を志した10代終わり頃が3点、神戸時代が3点(うち1点が出品作「或る日のカフェ・ガス」、(1980年)、「三科」「造型の」思い出が各1点ずつ(出品作竜<三科劇の一コマ>(1981年)・<グループ造型の誕生》(1980年)、プロレタリア美術運動時代が4点(うち1点が出品作「水の音」(1982年)、終戦の年が1点、終戦直後から1950年代頃で終わりとなっている。少年期までを除いても、戦前を描いた作品は、戦後の2点に比べ13点と多く、その内4点がプロレタリア美術運動の頃という構成になっている。

 

 本展覧会で出品したのは、展覧会内容に関連して、新興美術運動からプロレタリア美術運動までと、回想画の中でも限られた時代のものであるが、特に新興美術運動の頃に関しては、様々な資料を元に過去の再現が試みられている。例えば、<或る日のカフェ・ガス」は、1923年から25年にかけて、神戸で浅野孟府や寺島貞志らとともに<DVL>を結成、三宮にあったカフェ・ガスでグループ展を開いていた時の様子で、壁面に展示されているのは当時の作品である。これらの作品は岡本旧蔵の写真(1924年11月第4回兵庫県展搬出人時)や雑誌「みずゑ」(1925年7月号)掲載写真が典拠になっている。ある特定の回の展覧会を厳密に再現した過去の正確な記録というよりは、断片のコラージュにより当時の雰囲気を再現したものである。同じことはも<グループ造型の誕生>でも言える。自作<丘の上の二人の女>(1927年)をバックに<造型〉同人の作品がちりばめられ、その前に雑誌「アトリエ」(1926年5日号)掲載号写真などを元にして、メンバーの姿を描きこんでいる。

   

 一方、プロレタリア美術運動時代の回想画は対照的に、どの作品にも具体的な美術運動の様子が描かれているのではなく、検挙、警察での取調べ(<水の音>、刑務所の中、小林多喜二の死と、連動に加えられた弾庄が題材にされている。不思議と展覧会の様子や同盟の他のメンバー、研究所の光景など、当時のプロレタリア美術連動の熱気が伝わる作品が描かれていない。<水の音>は、特に拷問され気を失った岡本が、遠くに微かに水の音を聞いて、グロツスの絵を思い出しつつ意識を取り戻すと、手を洗う特高と眼があったというシーンを描いたもので、陰惨なシーンであるにも関わらず、岡本と特高の眼の表現が点なのが印象的である。回想画という仕事をするにあたって、この作品のように一連の意識の流れを表現するのに、画中の人物の夢を同じ画面に描きこんだり、気絶した岡本が意識を取り戻すまでを青からピンクの3態の顔で示すなど、これまでになく漫画的な表現を取り入れている。

 一連の時間の流れを表現するための工夫は、<十五歳の少年の見た米騒動の印象》(1983年)にも見られる。神戸の鈴木商店の焼き打ちを、複数の場面をモンタージュして描いた作品で、画面中央右よりにこちらを向いて、軍隊に銃で段られて倒れた人々を見ているのが、15歳当時の岡本である。左端には子どもを背に米を拾う女性がおり、米は実物を画面に張り合わせたものである。米騒動の光景は何度も描こうと思っていたが、(扱う主題としては最も適しているはずの)社会主義リアリズムという方法では、主要なモメントをつかむことができないので、若い自分の手法を使ったと岡本は述べている。若い頃の手法とは、具体的には《制作≫(1924年)に見られるように、複数の場面を同両面に抑く手法を指すのだろう

 「15歳の時、米騒動の現場を見て以来、その情景が心に焼き付いて残っており、いつか描きたいテーマだった。特に、庶民の動きと、軍隊による庶民の容赦ない弾圧との二つが描きたかった。でも長い間、描けなかった。しかしついに、スタイルもくそもない、という気分になれて、ようやく描けた。社会主義リアリズムからやっと解放された思いだった。これから、自由に絵が描けるのではないか」。1983年7月、岡本は渋谷のギャラリー・ジュイコにて、「岡本唐貴自選展・・・新作シリーズ自伝的回想画20点を含む・・・」を開催し、その後1986年3月、練馬の自宅で死去する

■結び

 復元画と回想画を描くことによって、晩年の岡本が得たものは何か。岡本は新興美術運動からプロレタリア美術運動と、激動の戦前期を生き時代の特殊な局面における証言者としての自負がありながら、戦後は前衛の立場から退く形となったこ岡本にとって自作の復元は、戦前期渦中にあった美術運動を歴史的意義のあるものとして肯定することだった。一方、回想画においては、過去をまず内面化し、ひとつの様式にとらわれず自由に表現することで、歴史を一個人の目から見つめ直そうとしたのではないか。回想画制作は、美術運動の理論家や時代の証言者といった役割から離れ、個としての画家・岡本唐貴をとりもどそうという試みだったのかもしれない。

<倉敷市立美術館学芸員 ささき ちえ〉