日韓古地名の研究

■日韓古地名の研究

▶︎高光神社と高麗氏

 日高市では、「高麗(こま)」という地名や、「高麗神社」や「高麗川」などの名称を目にします。これは、古代朝鮮半島「高句麗(こうくり)」と深い関わりがあったことを表しています。716年(霊亀2年)に、「高麗郡」が置かれ、高麗人たちが移住しました。「郡」とはいくつかの町村をまとめた広い行政区画のことです。
江戸時代の末頃には、日高市・飯能市・鶴ヶ島市の全域と、狭山市・川越市・入間市・毛呂山町の一部を含んだ範囲を「高麗郡」と呼んでいました。

 高麗郡は「高句麗」という国から日本に渡って来た人たち(「高麗人」と呼ばれる渡来人)によってつくられました。高句麗は、中国の東北部から朝鮮半島にかけて約700年間(紀元前37年頃から668年(天智7年))栄えた大きな国でした。

  その高句麗は、唐(今の中国)や新羅と戦っていましたが、戦いにやぶれ、668年(天智7年)に滅亡します。 国がなくなってしまったため、高句麗から海を渡って日本に来る人たちが多くいました。その人たちを日本では「高麗人」と呼びました。

 高麗神社埼玉県入間郡高麗村大字新堀字大宮にある。祭神は高句麗王族である若光(じゃっこう)と猿田彦命(サルタヒコノカミ)・武内宿禰の三柱である。

 社伝によれば・若光の死後・その遺徳を忍んで霊廟(れいびょう・先祖や偉人などの霊を祭った宮)を建て,これを高麗明神としたが,高麗郡民の繁栄を祈るために猿田彦命と武内宿禰を祀った白鬚(しらひげ)明神と合祀して高麗大明神と称するに至ったという。

 若光ははじめ相模湾の大磯に上陸して,現在の神奈川県大磯町高麗地区に滞在し,やがて武蔵高麗郡の大領に任ぜられた。文武(もんむ)天皇の大宝3年(703)4月条に「乙未森五位下高寛若光腸王姓」と記してを開き,耕作の業に従事して来たのである。

 若光は鬚と髪が白かったため,高麗明神を白鬚明神と称したとの伝承もある。「高麗郷由来」によると、白鬚神社は高麗郡だけでなく,入間・秩父・多摩郡など,武蔵国に55社に及ぶということである。

若松は霊亀2年(716年)武蔵国に東海道7ヶ国から1799人の高句麗人を移住させ、高麗郡を設置しているが、若光もその一員として移住したものと推定されている

 この神社の神軌ま代々高寛家により伝承されて来た。この高寛氏家に伝えられて来た「高麗氏系図」(1巻)は,本来のものは正元元年(1259)に失火により焼失され,今のものは系統図で復元したものだという。

 それによると,その祖先は若光である。高麗氏は若光以降,高麗澄雄現宮司まで59代で,その姓を連綿として継承して来た。この「高麗氏系図」によれば,今日の「高麗・高寛井・駒井・井上・新・神田・丘登・円登・岡上・本所・和田・寺川・大野・加藤・福泉・小谷野・阿部・金子・中山・武蔵・芝木・新井」をどの20余姓は,若光以降の高麗氏から分派したものである。

▶︎狛江(こまえ)郷と高麗の名称

 「狛江」は「駒江」とも表記されるが,狛江郷は今日の東京都の西隣で,調布市の間に挟まれている。すなわち,「和名抄」には「調布市付近と思われる所に狙江郷があって,今は狛江村の名が残っている」としている。これは和泉・覚東・小笠・立岩戸・猪方・駒井の旧村を合併したもので,この大字駒井は「和名抄」の狛江郷に比定される。現在の狛江市あたりだろうか。

 koma−e(狛江・駒江)とkoma−i(駒井)の名称の考察と共に,日本で高麗(高句麗)をkomaと訓(よ)むことについて調べてみたい。「後漢書」に「句麗一名貊耳」の記事がみられる。句麗(高句麗の異表記,高句麗を指す)を一名貊耳というとあるが,「貊耳」は借訓によるkuma-kiの表記である。「貊(バク・えびす・見下す言葉)」は熊によく似た動物であるので,「貊」はkuma‘熊’と同じ訓のkoma(韓国語*koma>kom)の表記である。このkomaは’君’を意味し,韓国語のkem‘神’,日本語のkimi‘君’,kami‘神’と同源語であろう。また,「耳」は借訓(韓国語で耳をkuiという)による接尾辞あるいは‘城,を意味するkiの表記とみられる。

 ゆえに,「」は君主が居住した‘君城,‘王城,を意味するもので,その君城の名が国名になったのであろう。韓国の「三国史記」には,春州(春川)を古貊地といい,「東国輿地勝覧」には春川が本来であったとしているが,これは後代にをってのことであろう。komaki、またはkomaの名は高麗(高句麗)を総称する名称であり,その別称であったと考えられる。日本でが「」を「狛江」と書くが,それは略字である。日本におけるこの「狛」(koma)は(koma-ki)のkiが省略された語形の表記である。「句麗」は高句麗で‘,を意味する「溝漊」(*kuru)と同源語で,普通名詞の*kuru(溝漊)‘城,で「句麗」に表記されて国名となったのである。「後漢書」に「句麗一名」の記事があることからみて,同じ国が‘城’の語に,つまり*kuru(溝漊)に由来する「高麗」と,‘君城’に由来する*koma-ki()の,二つの名称で呼ばれたことがわかる。

 次に,「高麗」または「高句麗」の訓み方と表記を考察しよう。前にも述べたように,「高麗」をkomaと訓み,その表記にが巨摩・巨麻・巨万・胡麻・小間」などが借用された。「書記」などにおける「高麗」は‘高句麗,をいうのであるが,「高句麗はk00kuriと訓み,これを「高倉」,または「高座」とも表記した。「高句麗」を「高倉」と異表記した例は奈良の平城宮の造営に功が大きい背奈福信にみられる。彼は正倉院が天平勝宝八歳六月二十一日献物帳」の連署名に「巨萬福信」と署名したが,「高倉朝臣福信」ともいった。「高倉」は「高」の借音と「倉」の借訓による*kokuraあるいはk00kuriの表記で,「高句麗」の音によく似ている。朝臣は朝廷に職位を持つである。ゆえに,「高倉朝福信」は「万葉集」(巻19の4264)にみられる「高麗朝臣福信」と同じものである。このような表記は地名にもみられるのである。

 豊岡町の高倉(コクルと訓む)は本来,ko0kuri(高句麗)の表記であったと思われる。また,相模国の「高座」は「高」の音と「座」(訓,kura)の借訓により,高句麗を意味するk00kuriの表記と思われる。このように,日本で高句麗をkoma(高麗・狛など)やkookuri(高句麗)と呼ぶほかに,「高麗」を音読したkooraiとも読んだようである。すをわち,相模国の大横にある高麗神社は「高来神社」と表記してあることがわかる。

高来神社、高來神社(たかく じんじゃ)は、神奈川県中郡大磯町高麗(こま)に鎮座する神社。高麗神社とも呼ばれる。旧社格は郷社。社名は一説に朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人に由来するといわれる

▶︎駒木野 

 駒木野は東京都八王子市南西部に立地し,甲州街道の旧宿駅の名で残っている。宿駅とは鎌倉時代以後,街道の便利を地点に旋人を宿し,荷物の運搬に必要な人夫と馬を次の駅まで通わせられるように準備して置く所である。

 この地名も高句麗からの渡海人によって命名されたものと思わこれるが,駒木が上に説明した「菊耳」と同じ‘君城’に関連された地名なのか,または地形の長大なることを示すbm(Ⅳ小加ゎに接尾辞の,bが添加したものなのかは疑問である。bma系地名には君城に由来するもの(高麗など)と,地形の長大なものに付けられたもの(鎌倉,熊川など)(ⅣA一犯)の二つがあるが,この駒木は多分後者のものと思われる。

▶︎新羅郡,志楽,白子

 新羅郡は武蔵国の入間郡にあった。「続日本紀」の天平宝字2年(7強)8月条に「帰化した新羅僧32人足2人,男19人女21人を武護国の閑地に移住させ,はじめて薪是都を置く」とあるのは,この他の新羅郡を指しているのである。

 「和名抄」に「新座郡の二鰍こ志木・魚戸がある」とあるが,これは今日の白子村をいう。この地方民がここをsira-kuといって,「志楽」とも表記している。日本では新羅を血誠というので・「志楽」は「白子」と共に新羅の異表記である。「和名抄」の「新座」は倍音による由m孤の表記であるが,これは新羅を音読したsimと音が似ている。それで,新羅郡は後代になって新座郡となった。

はじめ新羅郡(しらぎぐん、しらぎのこおり)として設けられ、字を新座郡(しらぎぐん、しらぎのこおり)と改めてから、その字に引きずられてにいくらの読みが正式となったと考えられる。時代によっては志楽・志楽木・志羅木(しらぎ)、志木(しき)、新倉(にいくら)などとも表記し、にいざと読まれたこともある。

古墳時代の遺跡として、根岸台古墳群(一夜塚古墳、柊塚古墳)、内間木古墳群、吹上横穴墓群などがある。

天平宝字2年(758年)8月24日に、朝廷は帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の空いた場所に移した。これが新羅郡の始まりという[1][2]。これより前、武蔵国には持統天皇元年(687年)と4年(690年)にも新羅人が移されていた[3]

宝亀11年(780年)には新羅郡の人沙良真熊らに広岡造の姓を賜った。この後いつ改称されたかは不明だが、平安時代の『延喜式』には「新座郡」と記録されており、『和名類聚抄』では新座と書いて「にひくら」と読ませるようになった。その郷は志木郷と余戸で、ごく小さな郡であった。

郡衙跡については、『新編武蔵風土記稿』に午傍山が新羅王居跡と記されている[5]が時代が合わず、須恵器が出土した和光市の花の木遺跡が有力視されている。また新編武蔵風土記稿には「新倉郡」(にいくら)と呼ばれるようになり、さらに「新座郡」(にいざ)になったとある[6]

▶︎百済木

 「書軌天智5年紀(㈱)に「百済人男女2,㈱余人を東国に居らせた」,また天武1錘紀佃わ5月粂に「百済の僧尼及び俗人公人を武蔵国に居らせた」との記事がみられる。そして,上記の東京都史跡調査課刊行の「東京の史跡と文化」軌にみる「奈良朝初の鄭こは…武蔵にも沢山の朝鮮人が集団的に移住した。高寛郡・新羅郡の部名百済木の地名ができ…」に百済木がみられる。この百済木はkuda打払の表記である。日本では百済をkudara,またはkudara−kiと呼ぶ。ここにみられる−kiは血血(新軌bma一出(駒木)の心と同じ凄尾辞であるが,この百済木が何処にあったのかは未詳である。

▶︎甘良,唐子  

 武蔵野の上野(群馬県)に渡海人による地名,甘良がある。これは「甘楽」とも表記される。これは「韓」の異表記である。また・武蔵国・比企 かちこ国,今の神戸・右横・葺袋を併合させた所に唐子の地名があり・これは野本村の西に接している。下唐子には白鬚神社があり,この神社に祀った白鬚明神は高句麗の若光である。それゆえに・唐子の地名は高句麗人の居住によって命名されたものと考えられる。血aといえば・韓国の加羅(駕洛)を思い浮かべ易い。