■ヘンリー・ムア・初期の時代

■ヘンリー・ムア・・・初期の時代

デビッド・ミッチンソン


世紀が移り変わろうとする頃のウェスト・ヨークシャー州カッスルフォードは、石炭の採掘を主要な産業とする小さな町だった。絵になるような町ではなかったが、少し足をのばせば美しい田園地帯や魅力的な村落の風景があった。ヘンリー・ムアが1898年の7月30日に生まれ、少年時代を過ごしたのはこの町でだった。

 ムアがカッスルフォード中学校の2年生だったとき、若い美術の先生が新しく赴任してきた。彼の成長期を通じての友人となり、よき助言者ともなったこの先生、アリス・ゴスティックはフランス人の母親と暮らしていたが、ウェスト・ヨークシャーの片田舎にはとても収まりきらないほどの関心をいろいろな方面に寄せていた。ヨーロッパでの美術の動向に詳しいアリスを通じて、後期印象主義やウィーン分離派、アール・ヌーヴオーなどのニュースが幼い生徒たちの耳にも届いたのだった。

 ムアは16歳のとき、ケンブリッジ上級修了試験に合格した。地元の美術大学に進むつもりで奨学金を得るための試験を受ける決心をしていたが、常に実際的な人間だった父親は、ヘンリーを姉と同じように教職につけさせたいと考えていた。わずかな期間、教育実習生として過ごしたのち、ムアはカッスルフォードの母校で正式に教え始めた。またOBだということで、これまでに出征して行った卒業生全員の名前を刻んだ銘板のデザインと制作をも依頼された。そしてまもなく、ムア自身も戦争に行く番がきた。彼は18歳で志願し、すぐに市民ライフル銃隊として知られるロンドン第15連隊に配属された

 訓練のスケジュールはきびしかったが、ロンドンでムアは初めて大英博物館とナショナル・ギャラリーを見ることができた。しかしすぐにフランスに送られ、彼の連隊はこの戦争での最後の激戦となった、カンブレの戦いに参加した。多くの戦友とともに毒ガスにやられ、戦争へのムアの積極的な参加はそれで終わりを迎える。10マイルの距離をどうにか歩いて野戦病院にたどりついたものの、症状が悪化してイギリスに送り返されたのである。

 回復後ムアは体育の指導教官となり、後にフランスヘ戻ったが、この頃には戦争は終わっていた。それからカッスルフォードの学校に復職したが、すでに教職が自分に合っていないとわかっていた。彼は退役軍人を対象にした奨学金を申込み、それを受けてリーズ美術学校に入った。

 ここには彫刻の教官が誰もいなかったが、彫刻を学びたいというムアの希望によって、1名採用されることになった。2年目の終わりに、彼はロンドンの王立美術学校への奨学金を得た。

 それからは精力的に活動する日々が続いた。知識を渇望し、アイデアがとめどなく湧き出してくる。この頃のアイデアはノートの真にたくさん書き込まれていて、今も残っている。1922年24歳から26年28歳にかけての日付のあるハードバックのノートが5冊現存しており、ほかにもう2冊あると見られている。

 1928年30歳の「地下鉄レリーフのノート」は彫刻のための素描ばかりが描かれた最初のノートで、『西風』1928−9年[LH58]や『横たわる女』(下図)も含まれている

この時期以後のノートはスケッチブックとなり、後に彫刻作品へと発展する最初の着想を描いたスケッチがたくさん詰まっている。ムアはヴィクトリア&アルバート美術館やテイト・ギャラリーのコレクションを研究し、スケッチしているが、いちばん興味をもつたのは大英博物館で、メキシコのアステカ彫刻のコレクションを熱心に調べた。こういう作業を彼は「ミュージアミング(美術館通い)」と呼んでいた。

 ロジャー・フライやアンリ・ゴーディエ=ブゼスカの著作を読み、ジュイコブ・エブスタインの作品を知り、1923年25歳には初めてパリを訪れた。1924年にムアはヨーロッパへの旅行奨学金を得たが、王立美術学校の彫刻科講師に任命されたため旅行は1年間延期した。

1928年30歳にムアは、美術学校の画学生イリナ・ラデッキーと知り合った。二人は翌年結婚し、ロンドンのハムステッド、パークヒル・ロード11Aで暮らすようになる。


 この家は1階が小さなアトリエで、2階は同じように小さなフラットになっていたDパークヒル・ロードに面した横町の先にアトリエが8つ並んだ路地があり、モール・スタジオと呼ばれていた。ムア夫妻がここへきた当時、その7番に彫刻家の夫妻、ジョン・スキービングバーバラ・ヘップワースが住んでいた。

 30年代のロンドンではハムステッドがクリエイティブな活動の中心になっており、ムア夫妻はこの地区に住む美術家や作家や建築家たちとすぐに仲良くなった。この時期、著名な顔ぶれの多くが半径1mile(1.6km)の範囲に移り住むようになった。マルセル・ブロイアー、ウェルズ・コーツ、ワルター・グロピウス、イーボン・ヒッチェンス、E・L・T・ミーセンス、ピエト・モンドリアン、ポール・ナッシュ、ベン・ニコルスンローランド・ペンローズ、エイドリアン・ストクスらである。30年代の終わりにかけて大陸から避難してきた人たちも増えて、この地区はますます国際的になっていった。

 ヴィクトリア&アルバート美術館の彫刻部長リチャード・ベッドフォードは直彫りに非常な関心を示していた。サイズウェル近くのイースト・アンダリア海岸にあるベッドフォードの別荘に、ムア夫妻、スキービング、ヘップワースらがよく出かけていって休日を過ごした。ムアは鉄鉱石の小石を持ち帰って、それを小さな彫刻に仕上げた。ケント州にあるシェイクスピア・クリフでは白亜の小石を見つけ、これも彫刻に使った。ロンドンの地質学博物館で彼はイギリスで採れる石を研究し、彫刻に適した材料を求めて国内のあちこちの採石場を訪ねている。スキービングがカンパーランド雪花石膏を見つけると、ムアもいくつかその塊を買い取ってロンドンに送った。さらにダービシヤーからホプトン・ウッド石を、エッジヒルから線色と褐色のホーントン石を送らせたりもしている。30年代にムアは、年に7点から20点の直彫りを制作しており、狭いアトリエは完成した作品や制作中の彫刻ですぐにいっぱいになった。

 パークヒル・ロードで彫った最大の作品は、現在オタワのカナダ国立美術館にある『横たわる女』上図)である。この作品も今日の基準ではかなり小さく思えるが、当時ムアは石塊をアトリエの中に入れるのに大変な困難を味わったのである。制作スペースがなく石を持ち込むのも難しいとあって、大きなスケールでの制作が不可能となったため、ムアはどこか田舎に余裕のある場所を探す以外になくなったイリナのもらったわずかな遺産を使って、1931年33歳に夫妻はケント州パルフレストン小さな別荘を購入した。さらに1934年36歳には数マイル離れたキングストンにあるバークロフトと呼ばれる家に移った。ここには5エーカーの(4 047㎡ )土地があり、必要とするスペースには十分だった。ダービシヤーから届けられたホプトン・ウッド石の塊がいくつも庭に立てられ、景色の中に置かれたその石を眺めていると新たな彫刻のアイデアが浮かんできた。1924年26歳の春、ロンドンのレッドファーン画廊で開かれた合同の展覧会にムアは彫刻3点を出品した。テラコッタの『頭部』、ブロンズの『踊る人体』、大理石の『直彫り』である

 彼の最初の個展は1928年30歳にロンドンのウオーレン画廊で開かれ、彫刻42点と素描51点で構成されていた。このときの作品の購入者には、オーガスタス・ジョン、ヘンリー・ラム、ジュイコブ・エプスタインがいた。

 2度目の個展は1931年33歳、レスタ一画廊においてであり、彫刻34点、素描19点が出品された。カタログの前書きにエプスタインはこう書いている。「きわめて明確に表現されているのは、豊かな彫刻的着想をもつビジョンである。抽象の陳腐さを避け、偉大な彫刻を構成する、あの変わることのない要素に集中している・・・イギリスの彫刻には想像力も方向性もない。

 しかしこのヘンリー・ムアの作品には、その両方の特質が備わっている。」この展覧会では、初めて外国のギャラリーに作品が売れた。鉄鉱石の小品『頭部』で、購入者はハンブルク美術工芸博物館(後に破壊された)の館長、マックス・ザウアーラント博士だった。しかし、好意的な反応ばかりだったわけではない。

 ロンドンの『モーニング・ポスト』紙の美術批評担当者はこんな記事を書いて反対の立場を表明した。「ムア氏のおかげで、醜さの崇拝が(かちどき)をあげる。氏は女性や子供の自然な美しさをまったく軽蔑し、またそうすることで、美的、感情的表現の手段としての石の価値までも奪い取ってしまう。」「美的な無関心は魂と視覚を萎(な)えさせてしまうほかなく、敏感な人びとに腹立たしく感じさせるような、ぞっとするほど不格好な形を生み出すのである。」立美術学校では、このような批判がムアの直接の上司によって問題にされた。この人物はムアを追い出して、自分の気に入った者を後任に引き入れようとしたのである。また、同校の同窓会もこれを問題視してムアの解雇を求めた。

 学長であるウィリアム・ローゼンスタイン卿の支持は失われていなかったが、ムアは退官することを決心し、契約の更新を断った。その代わりにチェルシー美術学校で彫刻の授業を再開し、1940年42歳まで週に2日教壇に立っていた。

       

 20年代を通じてムアは、人物の素描を続けていた。「人物の素描はモデルの完全な3次元のフォルムを把握して、それを紙の平面に表現しようとする絶え間ない闘いだった。」しかし、1932年頃34歳には人物の素描への関心もやや薄れかけていた。ただし、数は減りながらも1935年37歳まではこの種の素描が描き続けられた。

 大英博物館のコレクションの研究はもうやめており、自然の観察に興味が向くようになっていた。自然に対するムアの関心は、生涯失われずに続くことになる。最初、ロンドンの自然史博物館で自然のフォルムを研究していたが、やがては有名な「発見されたオブジェ」の収集が始まった。自然のフォルムのいくつかを、ムアはつぎのように記している。

 小石や岩は、自然がどのように石を使って制作したかを示している。波に打たれて滑らかになった小石は、石を削って磨きあげる扱い方と、非対称の原則というものを表している。岩は、石を砕き、たたき切る扱い方を示し、ぎざぎざと苛立つ塊のリズムをもっている。骨は、構造上の驚くべき強さとフォルムの張りつめた緊張感をもつ。ある骨の形から隣の骨の形への移り変わりは微妙だし、一つ一つの部分がきわめて多様性に富んでいる。木(木の幹)は、ある部分からつぎの部分へとたやすく移行し、成長の原則と結合の強さを表している・・・貝殻は、硬くはあっても中空になった(金属彫刻のような)自然のフォルムを示しており、単一の形のみごとな完全性をもっている。

 この時期の素描は、現在〈変容の素描〉として知られている。石、ロブスターのはさみ、貝殻、小技、骨、小石など、小さな自然物のフォルムを細かく観察して、ありとあらゆる見方で捉えた何枚ものスケッチから始まり、描いているうちにそうした物がゆっくりと変化し、変容を起こして、彫刻のフォルムだとはっきりわかるものになってゆく。骨の1片が横たわる人体となり、貝殻が半身像となり、石が頭と肩になる。この時期のムアの直彫りはほとんど全部、これらの〈変容の素描〉と関係づけることができる。

 たとえば、『コンポジション』1931年(上図左)は、ある素描(上図右)の右端に描かれた骨片のフォルムから発展したものだということがわかる。1933−4年以降は、「彫刻のためのアイデア」「いくつかの部分からなるコンポジションのためのアイデア」「四角いフォルム」「木彫のためのアイデア」などが詰まったスケッチブックがつぎつぎと生まれ、それが直彫り作品のほとんどに対応している。『母と子』(下図左)1930年代初期の大型の石の直彫りの中で、もっとも野心的な作品である。

 同じ頃の写真から判断すると、もともとムアはこの母親を着衣のままで、膝から足にかけての部分が衣服のひだに覆われているようにしようとしていた可能性もあるようだ。このことは、足とふくらはぎが不釣り合いなほど大きく、腰掛けの構造の一部になりきれずにいるように見えるという、台座部分のいくぶん中途半端な処理の説明になるかもしれない。この点を別にすれば、ムアは人体の角ばったいろいろな部分の間にみごとなバランスを生み出している。頭部の処理にとくに顕著なようにコロンブス以前の影響を顧みている点ばかりでなく、この堂々とした頭の位置や突き出した肩の線も、この作品が1975−6年の『横たわる母と子』の先触れであることを示している。

 1930年から1932年までの間に、ムアは「母と子」の彫刻を全部で12点制作した。しかし1932年以降は、戦争の終わり近くになってノーサンプトンの聖マタイ教会のための直彫り『聖母と幼児キリスト』(下図左・右)の制作の予備研究としてテラコッタの像を作るまで、この主題に新しい発展はなかった。〈横たわる人体〉と「母と子」の主題を組み合わせたく横たわる「母と子」の彫刻作品が、さらにその後30年間現われなかったのも驚くべき事実である。

 ソリッドなフォルムに穴があくようになるのは、1929−30年以降の作品においてである。コンクリートの流し込みによる1929年の『半身像』(下図左右)での胴体につけられた空所や、スレートの『頭部』(下図)の両目を貫通する穴をみると、その後の展開の手がかりが得られる。

 ムアはアステカの『ヒぺー・トーチク神のマスク』に強く印象づけられていた。「ソリッドな部分に対するフォルムの上の対照」として同じように穴を用いて、1933年の『コンポジション』(下図左)1934年の『穴と塊』(下図右)などの初期の作品は、アステカのマスクに比べて描写的でない。つまり、穿たれた穴が直接的な表象の対象をもっていない。

 単に腕と胴体との、脚と地面との間の空間だとか、目鼻の一部としての穴だとかではなく、彫刻的な工夫として彫り込まれた穴なのである。ムアがこうした穴をもっと描写的な作品で使い始めるのは、1935−6年の 「横たわる人体」の作品(たとえ下図左など)以降である。

 『穴と塊』について、ムアはこう述べている。「わたしは意識的にフォルムの単純な関係に関心を向けていた。ここにある穴は塊の反対物である。このようなフォルムへの意識・・・自然の単なる模倣ではない彫刻への意識を、わたしは強調しようとしていた。」

 彫刻のソリッドな塊を二つかそれ以上の部分に分割することは1934年頃から始まった。ある場合には、いくつかの独立した形がその周囲の空間によって結合され関係づけられて一つの全体を構成しているが、それ以上に多いのは、さらにその考えを発展させて、一つのフォルムをいくつかの要素に分解するやり方である。ピンカドの木の直彫り(上図右)は前者の例である。現在オッテルロのクレラー=ミューラー美術館にある素描は「母と子」から派生したもので、大きなフォルムが小さなフォルムをかばうように覆っている。

 この主題は後になって、1960−61年『横たわる母と子』(上図左)から1973年の『丘のアーチ』(上図右)にかけて繰り返されることになる。

 カンパーランド雪花石膏の『四つの部分のコンポジション:横たわる人体』(上図左)は、一つのフォルムを独立した要素に分解した例である。この場合、それぞれのフォルムとそのまわりの空間との関係がきわめて重要になる。横たわる人体の着想を理解することへの見る者の反応を、作者は極限まで拡大した。実際のところ、この人体の上に視線を走らせるとき目が知覚する内容を「手がかり」ととい二正確に述べなおすことが必要だと、たぶん作者は感じたのである。滑らかに磨かれた石の表面に鋭い線を刻み込むことによって、ムアはなかば描写的なかたちで、自分が焦点だと考えるものを示したのだった。これらの線は胴体の側面に刻まれており、横たわる人体の水平の位置を表している。それぞれの要素は「頭部、脚部、胴体、そして各部を結合する臍(へそ)の部分の小さく丸いフォルム」だとムアは説明した。このように横たわる人体をばらばらにすることは、その後の25年間、まったく行われなかった。1960年代の二つか三つの部分に分かれたく横たわる人体〉、さらに1972−3年の『大きな四つの部分の横たわる人体』(上図右)まで、ムアがこのアイデアに戻って発展させることはなかった。

 1930年代にムアは、撫(ぶな)、樫、柘植(つげ)、桜、大楓(おおかえで)、胡桃(くるみ)など、さまざまな国内産の木を実験的に使つている。それと同時にロンドンにある連邦の研究所から、黒檀、癒瘡木(ゆそうぼく)など、熱帯の硬材の標本を手に入れることもできた。大きな木彫の『横たわる人体』3点には、楡(にれ)材を使っている。この材料はもっともありふれたもので、大きなものを入手するのも簡単だった。『横たわる人物1935−6年(下図)の制作について、ムアはつぎのように述べている。

 この彫刻は2フィート角、長さ3フィートの直方体の喩材から彫り上げたものである。木目はもちろん3フィートの長さの方向に入っている。楡材にはかなり幅の広い木目がある。そのため小さな彫刻には向かないが、大きな「横たわる人体」では、水平の姿勢を水平の木目が強調してくれる。このように大きく重い塊を使った制作には利点があることを、わたしは知った。最初に荒く削る段階で使う道具が小さな丸鑿だけに制限されず、鋸や斧で作業することもできる。それがとても楽しく、木彫に対するわたしの態度も変わった。小さい材料を彫っていると、ときどき自分のやっている作業が、木をかじって穴をあけようとしている鼠みたいに思えることがあったのだ。

 このすぐ後に制作されたのが『横たわる人体』1936年(上図右)である。この作品でムアは、一方から他方へ貫通する穴を用いて、塊を大きく開かれたものにするという目標を達成した。1929年の『横たわる女』(下図)では、まだメキシコのアステカ彫刻の原型にならって人体をソリッドな塊の内に収めていたが、1936年の作品では十分に発展したムアのスタイルが示されている。1937年にムアはこう書いている。

石に穴を穿(ほじく)っても、力を弱めないようにすることは可能だ・・・大きさ、形状、方向をよく研究してあけた穴であれば。アーチの原則によって、もとと同じ力強さを保つことができる。一個の石に穿(うが)つ最初の穴は啓示である。穴は一方の側を他方と結びつけ、たちまちにしてより立体的にする。一個の穴は、それ自体が一個のソリッドな塊と同じほどの形態の意味をもちうる。空中の彫刻は可能だ。よく考えられ、意図されたフォルムをもつ穴だけを石が含んでいるようにすればよい。穴のもつ神秘性∬丘や崖に口をあけた洞窟の神秘的な魅惑。

 1938年40歳にバークロフトで制作された『寄りかかる人体』(上図右)は、もともと建築家のセルジュ・シェルメイエフのための作品だった。シェルメイエフはサセックス州のハランドの家の、テラスと庭の交わるところに彫刻を置きたいと考えていた。ムアはこう書いている。「それは長くて背の低い建物で、そこからダウンズ丘陵の長くうねる稜線が見渡せた。こうした水平に延びる線を妨げることには意味がないように思われ、背の高い垂直の像では、対照をきわだたせるというよりは邪魔物にしかならず、あらずもがなのドラマを持ち込むことになるのではないかとわたしは考えた。この作品は30年代の石の彫刻の中で、そして7こぶん、それ以後にムアが制作した石の彫刻すべての中で、もっとも開口部の大きい作品である。肘から前の膝へ、それから基底部へと下がり、近くの膝へとまわってゆき、さらに胸、首を通って頭に向かう、この像の隅から隅まで移動する運動がある。ムアはこう説明している。「野外の彫刻には遠くを見る視線を与えることが必要だと、わたしは気がついた。わたしの作った像は雄大なダウンズ丘陵を見渡し、その視線は地平線に集まっていた。」『寄りかかる人体』のすぐ後に続いて、楡材の『横たわる人体』1939年(写真9)が制作された。

 ムアはカンタベリーの木材業省から、大きな楡の丸太を手に入れた。完成した彫刻は長さが2mを超え、彼のこれまでの作品の中でとび抜けて大きく、1936年の『横たわる人体』(上左図)の倍近い長さがあった。1936年の作品や『寄りかかる人体』よりもずっと角ばっているし、貫通した穴も一つや二つではなく端から端までずらっと並んで口をあけている。「洞窟」とか「トンネル」のような印象を与えるその穴が、身体のいろいろな要素を孤立させると同時に結びつけるのである。この作品は建築家バートホールド・ルベトキンのために制作されたが、後にゴードン・オンズロウ・フォードに売却された。

 大きな作品を制作するための準備段階として、立体的なマケット(小さな模型)をこしらえるという考えは、1935年頃まではムア自身も明確にはもっていなかった。それ以前は直彫りに全力を注いでいたのである。自分のアイデアを表現する手段としては素描を使い、まず文字どおりそれを紙の上に定着させてから、立体として実現させるべきものを選び出すという方法である。しかし、ムアが後に語った言葉によれば、マケットを作ることによってフォルムを自分の手の中で研究することができ、あらゆる方向からその形状を完全に把握して、フルサイズになったときどう見えるかを思い浮かべられるようになったという。例外的に直彫りをしていなかったのは、現存する主要な金属の〈横たわる人体〉のうちでもっとも初期に属する『横たわる人体』1931年で、この作品はまず型を作り、鉛を流し込んで鋳造するという方法で作られた。

 1935年以降もアイデアをまず素描に描く例はあったが、その後で小さなスケールの模型が作られた。模型は必然的に粘土や漆喰などといった長持ちしない材料で作り、次はそれを使って金属で鋳造し、耐久性のある作品に仕上げることになる。鋳造に使う鉛を溶かすためにムアが妻のイリナの鍋を借りて使い、だめにしてしまったという逸話はこの時期のものである・・・ムアと助手のバーナード・メドゥズはバークロフトに自分たちの鋳造場を作った。このようにして鉛で自家製の鋳造作品を作ることから、専門の鋳造場でブロンズのエディションをいくつか作らせるというやり方に発展していった。戦争が始まった頃も依然として直彫りがムアの中心的な制作方法だったが、マケットを作ってから鋳造する作品の数は1937年から際立って増えていた。

 弦を使ったムアの最初の作品『弦のあるレリーフ』(上写真左)で、ロンドンのマーケットで買った橅(ぶな)材の靴型が部分的に使われた。一群の作品としての〈弦のある像〉は2年以上の期間にわたっており、10cm以下のものから50cmを超える大きさのものまでさまざまだった。彫ったものもあれば(上図右)、型を作ってから鉛やブロンズで鋳造したものもあり(下図左・右)弦ではなくワイヤーを使った作品もあった。この種の作品の発展について、ムアはこう語っている。

 疑いもなく、わたしの「弦のある像」のみなもとは科学博物館だった。王立美術学校の学生の頃わたしは、当時モダン・アートの一画を占めていたマシン・アートに夢中になった。レジェだとか、機械のフォルムを使った未来派の作品に関心があったが、機械そのものから直接影響を受けたことは一度もなかった。わたしの関心がどこに向いていたかといえば、機械のもつ運動の能力、要するに機械のもつ機能だった。わたしは科学博物館で見た数学的な模型に魅了された。それは正方形と円との中間のフォルムの変化を示すために作られたものだった。ある模型は一方の端に正方形が置かれ、各辺に20個、合計80個の穴があいていた。これらの穴に弦が通っていて、反対側の端にある同じ数の穴があいた円につながっている。中間にある平面は正方形と円の中間的な形になる。また片方の端をねじって、平面に描き出すのが恐ろしく困難な形を作ることもできる。わたしが熱中したのは、こうした模型を科学的に研究することではなく、鳥かごでものぞくように弦の間をのぞくことができるということ、あるフォルムの中に別のフォルムを見ることができるということだった。

 1930年代(30歳代)に、ムアはいくつもの主要なグループ展に参加した。1931年の夏にチューリヒ美術館で開かれた『プラスティク(彫刻)』展には、彼の作品が3点展示された。また、ユニット・ワン」の創立メンバーとして、1934年36歳にロンドンのメイヤー画廊で開かれたグループ展にも出品した。

 1936年ニュー・バーリントン画廊で開催された国際シェルレアリスト展ではイギリス側の委員会に加わり、素描3点と彫刻4点(直彫り2点、鉛の作品が1点、強化コンクリートの作品が1点)を出品した。この展覧会のためにロンドンヘやってきた芸術家の中には、アルプ、ダリ、マグリット、ミロ、タンギーらがいた。ジャコメッティ、リプシッツ、ザドカインには1933年までにすでに会っている

 また、マックス・エルンスト1936年38歳にムアのアトリエを訪問した。1年後、ムアとイリナはパリを訪れブルトン、エリュアール、エルンスト、ジャコメッティらとともにピカソのアトリエに行った。193840歳にはアムステルダムの市立美術館での『抽象美術』展に出品した。しかし、ヨーロッパは確実に戦争への道(第二次大戦)を歩んでおり、難民の流入が始まっていた。「ユニットワン」は純粋にイギリス国内の運動だったが、1935年37歳ナウム・ガボがロンドンに到着したことは、〈ユニット・ワン〉を継承した「サークル」の運動がより国際的な色彩を帯びたものであることを示していた。

 ムアは1936年38歳シュルレアリスト宣言に署名し、これによってスペイン情勢には不干渉というわけにもいかなくなり、1937年39歳に英国シュールレアリスト・グループの一となった。1934年36歳にはイリナとともに、けっきょく一度きりになったスペイン旅行にでかけ、マドリッド、トレド、バルセロナ、そしてアルタミラの洞窟を訪れた。3年後、ムアは初のリトグラフ作品『スペインの虜囚』(下図)を制作した。

 これはフランスの収容キャンプに拘束されているスペインの戦争捕虜を援助するために売ることになっていた。しかし、戦争が勃発してこの計画は実行できなくなり、現在は試し刷りが数枚残っているだけである。『1939年9月3日』と記された素描(下右図)はドーバー沖の海でガスマスクをつけた人たちが水浴をしているという想像上の光景を描いており、30年代がほとんど終わり、第2次世界大戦が始まった時の恐ろしい記憶を思い出させる。

 戦争が始まったとき、ムアはまだチェルシー美術学校の教職についていて、この学校がノーサンプトンに疎開することになるまで敢えていた。ムアー家はやはりハムステッドに暮らしていたが、このときにはベン・ニコルソンと再婚していたバーバラ・ヘップワースがセント・アイブズに移った折りに、パークヒル・ロードからモール・スタジオ7番へと引っ越した。

 

 ムアは彫刻の制作を中止した。バークロフトが制限区域にかかっていたため、出入りが不自由になったからである。この小さな別荘は戦争の間、人に貸し、戦後まもなく売り払った。ムアはブレアム・サザーランドとともに戦争に力を貸したいと考え、精密工具製作の訓練をするチェルシー工芸学校に応募した。しかし、学校が始まるのを待つ間に、ムアは戦争の素描のシリーズを描き始めた。工芸学校への応募は無駄になったが、その後ムアは「戦争芸術家に選ばれることになる。

 1940年の10月、友人たちとハートフォードシヤーのマッチ・ハダムに滞在していたムア夫妻がロンドンヘ戻ってみると、アトリエは爆撃で破壊されていた。ふたたびマッチ・ハダムに戻った二人は、友人たちからペリー・グリーン近くの家が売りに出されているという話を耳にする。ゴードン・オンズロウ・フォードから『横たわる人体』(下図)の代金として受け取った金で二人はその家の手付け金を払い、残りの生涯をそこで過ごすことになる。