時代別によるの各地域の変遷の歴史

■時代別によるの各地域の変遷の歴史(過去の情報データで解読)

▶︎日本地図で一目でわかる国内地域の変遷を探ってみよう。

▶︎公的地名・・・国・郡・郷・村の名

 地名のうち、日常生活を営む上での広狭さまざまな範域の公的な地名(あるいは行政上の地名)を、地域名と呼ぼう。一般に地名に興味が持たれたり、地名保存運動の対象となったりするのは、この地域名についてであることが多い。地域名は山や川・海・耕作地の名前に比べて、歴史的に蓄積されていく傾向がある。また、利用者が集中するので細分化されることも多い。それだけに多様であり、現実生活とのかかわりが蜜である。ここでは大小(広狭といってもよい)を基準に幾段階かに分けて、地域名を考えていく。

 律令制下の日本は、平安時代前期には行政上66ヶ国2島に分かれ、その国・島は合計600ほどの郡、さらに郡は合計4,000ほどのに分けられていた。奈良時代中期から国や郡の数や分け方、呼び方には大きな変化はなく(郡が上下とか南北に分割されることはあったが)、律令制が崩壊したあとも、ほとんどはそれぞれ地域を区分する名として残り、江戸時代末を迎える。これら国・都・郷につけられていた名前は、早くに確定した公的な地域名と考えてよいだろう。

 参考までに、国名だけ挙げておこう。国は五畿七道ごとにまとめるのが普通であろうがここでは現在の地方ごとに、ほぼ北から順に挙げておく。

陸奥・出羽(以上、現在の東北地方)常陸・下野・上野・下総・上総・安房(あわ)・武蔵・相模(関東地方)越後・佐渡・越中・豊・加賀・越前・若狭・信濃・甲斐・伊豆・駿河・遠江(とおとうみ)・飛騨・美濃・尾張・三河(中部地方。ただし伊豆の島喚部は関東地方) 伊賀・伊勢・志摩・近江・丹後・山城・大和・紀伊・雛・河内・摂津・但馬・丹波・播磨・淡路(近畿地方)・因幡(いなば)・伯耆(ほうき)・隠岐(おき)・出雲・石見(いわみ)・美作(みまさか)・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・長門(中国地方)・讃岐(さぬき)・阿波・土佐・伊予(四国地方)肥前・筑前・筑後・豊前(ぶぜん)・豊後(ぶんご)・肥後・日向(ひゅうが)・大隈・薩摩・対馬島・壱岐島(九州地方)

 これらの国の範域の決定には、境をなす山や川とともに、当時の地域の開発の進み方や律令政府の土地把握の状況が反映している。

 日本の中心部であった現在の近畿地方は15の国に再分されているのに、近畿地方よりも広い東北地方は、と出のたった2国にしか分けられていなかったのである(東北地方を奥羽地方ともいうのはこのためである)。

 郡も同じことで、現在の大阪府の三分の一ほどの面積にしか当たらない河内国が、14もの郡に分けられていたのに、山形県全部と秋田県の大部分に当たる広大な出羽国には、11の郡しかなかった。いまだ開発が進んでいなかったからであろう。

▶︎支配者による土地支配・村の成り立ち

 国・部・郷のほか、中世末から近世初期になると太閤検地をはじめとする検地によって、当時のというものが歴史上に姿を現わしてくる。そのすべてが村と呼ばれていたかどうかは別にして、はそれ以前から日常生活上の自治組織の単位としてあったはずであるが、太閤検地が行なわれるまでその実態はほとんど明らかでなかったのである。

 太閤検地につづき、さらに江戸幕府が検地を行ない、生産・生活上何かにつけて協同していたひとまとまりの地域を村として認め、この単位に年貢を負わせようとしたことによって、村は歴史の表舞台に登場することになった。このようにして、公的地域名が一挙にふえることになったのである。村は江戸前期には6万ほどあった。検地によって、村を細分していた屋敷地や耕地きにつけられていた多くの地名も記録の上に姿を現わすことになったのである。

鎌倉後期ごろになると、地頭が荘園・公領支配へ進出していったことにより、名を中心とした生活経済は急速に姿を消していき、従来の荘園公領制が変質し始めた。そうした中で、百姓らは、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強め、まず畿内・近畿周辺において、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する村落が次第に形成されていった。このような村落は、その範囲内に住む惣て(すべて)の構成員により形成されていたことから、惣村または惣と呼ばれるようになった(中世当時も惣村・惣という用語が使用されていた)。

名田(みょうでん)は、日本の平安時代中期から中世を通じて見られる、荘園公領制における支配・収取(徴税)の基礎単位である。名(みょう)とも呼ばれるが、名と名田を本来は別のものとする見方もある。

 このようにして姿を見せた地名には、現在でも用いられているものが多い。命名理由は現在ではもう不明になつたものが多いであろうが、推測できるものも少なくなく、先に「耕作地の名前」のところで述べたのはその一例である。検地により、村の中の堀の内名堰(せき)の下鍛冶屋敷などというさまざまな小地名が明らかになったことによって、地名をとおして当時の村の実態を垣間見ることができる。地名が貴重な歴史資料だといわれるゆえんである。

▶︎町の成り立ち

 というのは平安京には早くから存在していたが、中世に宿場や市場・社寺・港湾などの近辺に居住者がさらにふえてくると、しだいにそれらの地域をも町と呼ぶようになった。江戸時代に入ると城下町も整い、そこでは呉服町・博労(ばくろう)町・城北町など、町を細分化しその地域の性格を示すさらに多くの町名が出現することになり、地名はいよいよ増大することになったのである。

▶︎近代の県・郡・市町村

 近代に入ると、行政上の必要から、新たに県や市、町を定めたほか、従来の村をいくつか合併させて新たな村を創設させたために、さらに多くの地名が創出されることになった。[ 村→町→市→郡 ・府・県]

■〔県と郡〕

 まず県名であるが、明治4年(1871)藩を廃したあといったんはそのまま藩を県としたために、3府302県という多くの府県が誕生した。その後改正が繰り返されて、明治21年(1888)には東京・京都・大阪が府となり、は現在の43に定まったのである。県の範域の確定には紆余曲折もあったが、結局は、律令時代の国を一つの目安のようにして範域を確定し、それに新たな名前がつけられて、現在のようになったのである(命名については後述)。県が設けられたことによって古代からの国は用いられなくなっていくが、郡は新たな府県の中に残ることになった。

 その後、昭和18年(1943)に東京府が東京都になった。昭和22年には北海道庁都道府県と同じように、一つの自治体としての北海道に変更になった。同47年には、終戦後占領下にあった沖縄県が本土復帰をはたすという変遷をへて、ここに、現在の47都道府県が揃うことになつたのである。

■〔市町村〕

 市町村の場合は、明治前期の大区小区制などという試行錯誤をへて同22年市制と町村制が施行され、新たな公的地名としての市町村名が定まっていった。

 明治22年4月1日に市制施行された最初の市は31市あり、京都や長崎、横浜きいくつかの例外を除けば、金沢や仙台、福岡など人口の多い旧城下町市に定められたのである。さらに、市についで人口の多い地域1,250余が町となり、残りは14,000弱の村となつた。当然、地名もふえることになつた。

 このようにして明治22年に、新たに市と町が行政上の単位として登場してきたのである。こうして定められた町は独立した自治体であり、江戸時代の宿場町・門前町・塗師町・呉服町などという町とは、性格が異なる。

 村の場合はどうだったのであろうか。市や町と同様に、村にも新たな自治体として議会を開設させ、役場を置いてさまざまな行政事務をとらせようとした。さらに小学校も設けようとしたのであるから、江戸時代までの村のままでは規模が小さすぎた。そこで政府は、村をいくつか合併させて、新たな村を発足させることにしたのである。そのため、江戸時代後期には65,000ほど存在した全国の村は、明治22年の町村制施行を機に、一挙に14,000弱に減ってしまった(『地方行政区画便覧』による)。

 このような近代の村を、江戸時代の村(いわゆる薄利村)と区別するために行政村と呼ぶことがある。減ったとはいえ、それまでの村が持っていた地名が消えたり減ったりしたわけではない。旧来の村名は、新たな村の中に大字名として存続することになったのである。検地によって記録化されていた小地名の多くも、大字の中の字(小字)などとして地籍台帳上に記されることになった。のみならず、合併によって生まれた村の多くは、新な村名を創出させることにもなったのである。

 このようにして明治22年に要した市町村が、その後、合併を繰り返して現在にいたっている。合併にさいしては旧来の市町村名が踏襲される場合も少なくなかったとはいえ、新たな名称が考えられることも多く、地名はその分だけふえていくことになった。

 ところで、都道府県−区・市・郡−町村-大字-字と細分されていく公的地名は、現在いくつぐらいあるのだろうか。「全国市町村要覧(平成24年版)』によると、市は788、町747、村は184となっている。繰り返された合併によって市はふえ、町村(とくに村)は減少の表をたどることになったわけである。ちなみに昭和5年には、市109、町1,582、村10,292だったのである。

 それよりさらに細分された大字と字(小字)の数はとなるとどのくらいあるのか、2,000万以上ともいわれているが確かなことはわからない。地租改正の準備としての明治初期の内務省地理局の調査によると、全国の字(小字)に相当するぐらいの小地名は150万以上あつた、とその資料を調べたことのある柳田国男は述べているが、この資料は大正12年の関東大震災で大部分焼失してしまった。その後の都市部の発展によって、土地利用はさらに細分化が進んでいるはずである。なかには消えていった地名があるとしても、ふえた地名の方がはるかに多いであろうから、現在の公的地名はじつに厖大な数にのぼるはずである。


■時代別によるの各地域の変遷の歴史(過去の情報データで解読)

後期旧石器時代(約3万年前から1万2000年前頃)

 後期旧石器時代の年代は、地域によって異なるが、約3.5万年前~約1.2万年前の期間とされている。西ヨーロッパでは、「発展した旧石器時代(アドバンスト・パレオリシック)」とも呼んでいる。約3万年前から2万4000年前にはネアンデルタール人が絶滅し、ヒト属に属する生物は現生人類のみとなった。このころ打製石器はさらに精巧なものとなり、石刃技法を用いたナイフ形石器が普遍的に生産されるようになった。また骨角器の制作や衣服の着用、装身具の使用、洞窟壁画の登場やこれに代表される呪術的な行為の発生が認められている。

 この時代から、日本列島に人類が住んだ遺跡や遺物が多く発見されている。北海道から九州までの遺跡の数は5000箇所にのぼっている。

 日本では縄文時代より前の時代を先土器時代、または無土器時代と呼んでおり、土器の時代を遡る時代の遺跡や遺物が長い間発見されず、土器以前に日本列島に人類は居住していなかったと考えられていた。ところが、1949年(昭和24年)に、相沢忠洋が、岩宿(群馬県新田郡笠懸村、現・同県みどり市笠懸町阿左美地内)で関東ローム層中から旧石器を発見した。日本の旧石器時代の調査・研究は、ここから始まった。現在までに、日本列島全域で4000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1.2万年前の後期旧石器時代に残されたものである。

 日本列島の旧石器時代の遺跡は、台地・段丘・丘陵・高原などの見晴らしの良い洪積世の台地縁辺にあることが多い。日常生活の場としての拠点遺跡、獲物の解体場遺跡、石器製作場遺跡などがある。定住住居跡の出土例が少ないことから、旧石器時代人は、一定の生活領域内を移動しながら採集狩猟生活をしていたと考えられている。

 旧石器時代の人々は多く洞穴や岩陰を住みかとして利用していたことが知られているが、そうした中にあって少ないながらも竪穴住居が見つかっている。大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡の住居はよく知られている。

■縄文時代(前14000年頃 – 前10世紀)

 縄文人は、どのような場所に住んでいたのでしょうか。これについては、多くの研究があります。縄文人が住んでいた村を、われわれは「集落」と呼びます。皆さんがイメージする典型的な縄文時代の集落には、竪穴住居があり、真ん中に広場があり、脇には墓などがあるかと思います。

 規模が大きい村と小さい村の間には、おそらく何らかの機能差があったろうと考えられます。例えば、非常に大きな環状集落は、その周辺の主要な村、つまり母村としての役割を担っていたのかもしれません。実際に、母村の周りには規模の小さな村がいくつかあることが多いのです。これらの小さな村は母村から分かれた村、つまり分村ではないかと考えられています。もしくは、専門家が集住していて、異なる専門的な機能を担っていた可能性もあります。そのような機能的な分化も起こっていたかもしれません。

 都市計画を持った環状集落では、時間がたってくるにつれて、古い竪穴住居の屋根は崩れていき、徐々に土に埋まって窪地になります。すると、今度はその窪地に、さまざまなゴミを捨てるようになります。そういった窪地には、貝層や貝塚へと発達する事例もあります。

 東日本では、規模の大きい環状集落は多々見られます。一方、西日本では、このような環状集落はほとんど見られません。例えば、島根県、鳥取県、岡山県、広島県、山口県といった中国地方では、住居の数が2軒から3軒しかない、非常に小規模な村がほとんどです。また、家の中に炉がある場合もありますが、多くの家には炉がなく、外で焚き火をした跡があるだけです。このような非常に小規模で、コンパクトな集落が中心となります。


■弥生時代(紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃まで)

 弥生時代の住居としては竪穴住居が出土例の大半を占めるが、このほかに平地式住居や掘立柱建物が想定される。平地式住居の場合、生活面が削平されて(けずられて)しまうと生活の痕跡の大半が失われてしまうことから、住居として把握することがきわめて困難になってしまうため、これまでに把握された平地式住居の具体的な例はきわめて少ない。また、掘立柱建物の場合後述する倉庫などとの区別が平面プランだけでは区別できないため、これも確実な住居の例は指摘されていない

 弥生時代には、主に米を貯蔵する倉庫が発達した。早期には北部九州など一部の集落に掘立柱建物の倉庫が半島(朝鮮)から伝播するが、前期までに地下式の倉庫が主流となり、掘立柱建物はほとんど見られなくなる。地下式倉庫は円形のものが主流で、しばしば方形・長方形のものが見られ、いずれも断面形態がフラスコ状を呈する。これらは「貯蔵穴」と呼ばれる。

 中期前半から中葉にかけて、掘立柱建物の倉庫が西日本一帯に展開する。主な形態のものは柱間が1間×2間の規模のもので、これに1間×1間、1間×3間などのバリエーションが加わる。この倉庫の様相は弥生時代を通じておおよそ変化はなく継続する。弥生時代末から古墳時代初頭になると、2間×2間の総柱式の建物が現れ、これが主要な倉庫の形態となる。

 弥生中期にそれぞれの地域内に複数存在した政治的まとまりが、弥生後期にはより広域の政治的まとまりに発展し2世紀末には畿内を中心とする西日本広域の国連合に発展していった。中国鏡の分配主体は北部九州から畿内に移り、環濠集落は消滅し首長居館が出現した2世紀第2四半期には纒向に巨大集落の建設が始まった

 3世紀、西日本の大半と東日本の一部によって倭国が建国された大和の政治勢力が主導したとされる(ヤマト王権)

 変化は首長層だけにとどまらず、農民層の生活でも起こった。弥生時代の住居は西日本では円形、多筒形、隅円方形などさまざまであったのが終末期には方形区画の住居が急速に普及し、古墳時代前期には東日本にも広まった。縄文時代から使われてきた石器は消滅弥生後期後半には北部九州から畿内で食器が木製から土器に転換した

 古墳時代の開始期にはすでに九州から東北南部の間で広域の地域間交流が成立していたとされる。都出比呂志は古墳時代の開始、前方後円墳体制の成立は、弥生時代から始まった民族形成において決定的な役割を果たしたとしている

 

 ただしこれらは主として西日本で起こった変化であることを注意しなければならない。青山博樹によれば古墳文化は西日本の弥生文化から継承された要素は多いが、東日本の弥生文化から古墳文化に継承された要素は皆無だと指摘し、東日本の古墳文化は、西日本の弥生文化を継承した古墳文化に転換することによって成立したとしている

■古墳時代(3世紀中頃 – 7世紀頃)

▶︎初期ヤマト王権(3世紀中頃 – 5世紀頃)

 弥生時代末期には、発掘調査の結果から、北部九州を中心とする政治勢力と奈良盆地東南部を中心とする政治勢力が存在していたことがわかっている3世紀前半に活躍した倭国王(親魏倭王)卑弥呼の所在地邪馬台国が北部九州、畿内のどちらにあったのかについては未だ学説が分かれている。いずれにせよ、この両地域の勢力が母体となって古墳時代のいずれかの時期に、畿内を本拠地とするヤマト王権が成立したと考えられている。ただしヤマト王権と邪馬台国は全くの別勢力と見なす説もある。

 成立の過程ははっきりしないが、考古学の成果は、奈良盆地勢力が吉備政権など列島各地の勢力と連合してヤマト王権へ成長してゆき、この過程で北部九州が衰退したことを示唆している。北部九州勢力が奈良盆地へ東遷の後、奈良盆地勢力を制圧してヤマト王権となったとする見解もある。

 ヤマト王権の成立期には、従前のものより格段に大規模な墓(前方後円墳)が奈良盆地を中心に登場している。弥生末期には畿内、吉備、出雲、筑紫などの各地域ごとに特色ある墓制が展開していたが(→弥生時代の墓制を参照)、前方後円墳には、それら各地域の特色が融合された様子が見られるため、ヤマト王権は列島各地域の政治勢力が連合したことによって成立したとされる。

 ヤマト王権は、ヤマト地方(畿内)を本拠として本州中部から九州北部までを支配したと考えられている。ヤマト王権は倭国を代表する政治勢力へと成長すると、支配拡大の過程では大小の勢力や種族との衝突があったと考えられる。『日本書紀』などにはそれを窺わせる記述(ヤマトタケル説話など)が残されているが、詳細な過程は不明である。

▶︎倭の五王の時代(5世紀初頭から末葉まで)

 中国の史書に266年から倭国の関係記事が見えなかったが、約1世紀半も経って、5世紀の初めの413年(東晋・義熙9年)に倭国が貢ぎ物を献じたことが『晋書』安帝紀に記されている。421年(宋・永初2年)に『宋書』倭国伝に「倭王の讃」の記事が見える。これ以後、倭王に関する記事が中国史書に散見されるようになり、讃以下、珍・済・興・武と続いている。これが「倭の五王」である。倭の五王は、『日本書紀』に見える天皇との比定が試みられた。必ずしも比定は定まっていないが、例えば倭王武は雄略天皇ではないかと見られている。武については、中国皇帝に上表した文書には、先祖代々から苦労して倭の国土を統一した事績が記されている

 埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣銘や熊本県玉名市江田船山古墳から出土した大刀銘からその治世の一端が分かる。「杖刀人(じょうとうじん)」「典曹人(てんそうじん)」とあることから、まだ「部(べ)」の制度が5世紀末には成立していなかった。

 島根県松江市岡田山古墳から出土の鉄刀銘「額田部臣(ぬかたべのおみ)」からは、6世紀の中頃には部民制の施行を知ることが出来る。また、大臣・大連の制度ができ、大臣には平群氏、大連には大伴氏・物部氏が選ばれた氏と姓の制度がある程度成立していたとされている。

 4世紀後半から5世紀にかけて、倭軍が朝鮮半島の百済・新羅や高句麗と戦ったことが「高句麗広開土王碑(こうかいどおうひ)」文にみえる。6世紀には、筑紫の国造磐井が新羅と通じ、周辺諸国を動員して倭軍の侵攻を阻もうとしたと『日本書紀』に記述があり、これを磐井の乱(527年)として扱われている。

 これは、度重なる朝鮮半島への出兵の軍事的・経済的負担が北部九州に重く、乱となったと考えられるが、この時代はまだ北部九州勢力がヤマト王権の完全支配下にはなかったことも示唆している。


■飛鳥時代(592年 – 710年)

 飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つ。広義には、飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間を指す。飛鳥時代は古墳時代、大和時代の終末期と重なるが、今日では分けて捉えるのが一般的である

▶︎古代国家の成立

 安閑(531年 – 535年)・宣化(535年 – 539年)・欽明(539年 – 571年)の各王朝を通じて、地域国家から脱して初期国家を形成していった。王権のもとには、ウジを持つ物部氏・大伴氏・蘇我氏などがいて、臣・連・国造・郡司などの職掌があった。地方では、吉備氏系氏族がウジ・臣を作るなど、各地の豪族が部などを作り、勢力を張っていた。

 宣化朝に蘇我氏が大臣になり勢いを増すと、崇峻朝(587年 – 592年)では蘇我氏が大臣一人で政権の中枢を握った崇峻天皇は592年蘇我馬子の手筈(てはず)により暗殺される。稲目・馬子・蝦夷・入鹿と蘇我氏が政治上重要な地位を占めた時代645年(皇極天皇4年)の乙巳の変までの約半世紀間続いた。

 欽明朝では、戸籍が造られ、国造・郡司の前身的な国家機構が整備された。また、この欽明朝では仏教の伝来があった。538年に百済から伝来した。『日本書紀』は、552年に伝わったと書いているが、他の史料から編者の改変である事が分かっている。仏教伝来については、仏教受け入れ派の蘇我氏と反対派の物部氏とが争い蘇我氏の勝利に終わる。

奈良時代(710年 – 794年)

 奈良時代(ならじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つで、平城京(奈良・現奈良県奈良市)に都が置かれた時代で平城時代(へいじょうじだい)ともいう。元号による時代区分では天平時代とされる。日本仏教による鎮護国家を目指して天平文化が花開いた時期とされる。




平安時代(794年 – 1185年) 

 平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) – 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇平安京(京都・現京都府京都市)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。

 通常、古代の末期に位置づけられるが、中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されている。近年では、荘園公領制が確立した院政期(1100年頃以降)を中世初期に含める見解が有力になり、学校教育においてもこれに沿った構成を取る教科書が増えている。さらに遡って、律令制から王朝国家体制に移行する平安中期(900年頃以降)を中世の発端とする意見もある。平安時代を古代と中世のどちらに分類するかはいまだに議論があり、中立的な概念として、古くから主に文学史の世界で使われてきた中古」という語を用いることもある。

▶︎王朝国家(10世紀初頭 – 12世紀後期)

 王朝国家(おうちょうこっか)は、日本が律令国家体制から中世国家体制へ移行する過渡期の国家体制を表す歴史概念。王朝国家体制とも。10世紀初頭に成立し、11世紀中期ないし12世紀後期までの期間に存続したとされる。

 律令国家体制は、中央集権的な政治機構に立脚し、個別人身支配人民支配・租税収取の原則としていたが、それらを実際に支えていたのは現地で人民支配租税収取にあたる地方行政であった。9世紀後期に至って律令制的な人民支配・租税収取に限界が生じたため、10世紀初頭より、地方政治への大幅な統治委任や個別人身支配から土地課税原則への方針転換が進められ、こうして新たに構築された統治体制が王朝国家体制であるとされている。

 11世紀中期から12世紀・13世紀初頭にかけて、荘園公領制の成立院政・武家政治の登場などに対応した中世国家体制が漸進的に構築されていったため、この時期に王朝国家体制は終期を迎えた。ただし、王朝国家の終期をめぐっては複数の説が提示されている。

 王朝の語は、戦前期より、鎌倉時代以降を武家時代と称したのに対し奈良時代・平安時代を王朝時代と称したことに由来する。戦後、日本史研究の進展に伴い、律令支配を原則としていた奈良期-平安前期と、律令を必ずしも支配原則としなくなった平安中期・後期とを別個の時代ととらえる考えが主流を占めていった。それに伴い、前者の時代区分を律令時代、前者の国家体制を律令国家と称したのに対し、王朝時代は後者の時代区分として認識され、同様に後者の国家体制を指して王朝国家という語が使用されるようになった。

▶︎平氏政権(1167年 – 1185年)

 平氏政権(へいしせいけん)は、平安時代末期(1160年代 – 1185年)における日本の武家政権。創始者平清盛を中心とする伊勢平氏による政権であった。清盛の館が京都の六波羅にあったことから、六波羅政権(ろくはらせいけん)ともいう。

 以前、学界では平氏政権を貴族政権的な性格が強いとする見解が主流であったが、1970年代・1980年代頃からは、平氏政権が地頭や国守護人を設置した事実に着目し、最初期の武家政権とする見解が非常に有力となっている。

 平氏政権の成立時期については、仁安2年(1167年)5月宣旨を画期とする見解と、治承三年の政変(1179年)の時点とする見解とが出されている。前者の宣旨は平重盛へ東山・東海・山陽・南海諸道の治安警察権を委ねる内容であり、源頼朝による諸国の治安維持権を承認した建久2年(1191年)3月新制につながるものと評価されており、武家政権の性格を持つ平氏政権がこの宣旨によって成立したとする見方である。一方、後者は、治承三年の政変の際に平氏勢力が従来の国家機構の支配権を掌握したことを重視している。一般的に平氏政権は12世紀中期から段階的に成立したのであり、仁安2年5月宣旨を大きな画期としつつ、治承三年の政変により平氏政権の成立が完了したものと考えられている。

鎌倉時代

 鎌倉時代(かまくらじだい、諸説あり – 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉(現神奈川県鎌倉市)に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。

 始期については、各種歴史教科書で記述されていた3つの諸説(1192年の源頼朝征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力)になっている。さらに承久の乱後に全国の支配権を得た1221年説もある。

 12世紀末に、源頼朝が鎌倉殿として武士の頂点に立ち、全国に守護を置いて、鎌倉幕府を開いた。京都の朝廷と地方の荘園・公領はそのままで、地方支配に地頭等の形で支配構造ができあがった。

 幕府は「鎌倉殿」頼朝の私的家政機関として設立されており、公的機関ではない。したがって基本的に鎌倉幕府が支配下に置いたのは鎌倉殿の知行国および主従関係を結んだ武士(御家人)であり、守護の設置などで諸国の治安維持等を担当したものの、全国の武士を完全な支配下に治めたわけではない。平氏政権が朝廷に入り込み、朝廷を通じて支配を試みたのとは対照的である。元寇以降は全国の武士に軍事動員をかける権限などを手にすると、全国支配が強化されることとなった。

 鎌倉幕府がそれ以前の武家政権である平氏政権と最も異なる点は「問注所」と呼ばれる訴訟受付機関を設置したことで、これまでは地所の支配権をめぐる争いは当事者同士の武力闘争に容易に発展していたものをこれにより実質的に禁止することになった。武士の、つまり全国各地の騒乱のほぼ全ての原因が土地支配に関するものであり、頼朝の新統治理論はこの後永く幕藩体制の根幹を成すものになった。

 13世紀には、1274年の文永の役と1281年の弘安の役の二度にわたる元寇があったが、元の侵攻を撃退した。これにより「日本は神国」という神国思想の発端となり、後世に影響を与える事となった。また元の侵攻は阻止したものの、今までの幕府の戦争と違い、外国を相手にした防衛戦であったため、この戦いによって実質的に獲得したものは何も無く、そのため出征した武士(御家人)への恩賞の支払いが少なかったこともあって、「いざ鎌倉」といった幕府と御家人との御恩と奉公という信頼関係を損ねる結果となる。

 また、承久の乱以後の朝廷の衰退は皇位継承を巡る自己解決能力をも失わせ、結果的に幕府を否応無しに巻き込む事になった。幕府は両統迭立原則によって大覚寺統・持明院統両皇統間における話し合いによる皇位継承を勧めて深入りを避ける方針を採ったが、結果的に紛糾の長期化による朝廷から幕府に対する新たな介入要請を招き、その幕府の介入結果に不満を抱く反対派による更なる介入要請が出されるという結果的に幕府の方針と相反した悪循環に陥った。その結果、大覚寺統傍流出身の後醍醐天皇直系への皇位継承を認めないという結論に達したとき、これに反発した後醍醐天皇が、これを支持する公家と幕府に対して不満を抱く武士達の連携の動きが現れるのを見て、叛乱を起こす討幕運動へと発展する事になった(正中の変、元弘の乱)。




▶︎建武の新政

 建武の新政(けんむのしんせい)は、1333年7月4日(元弘3年/正慶2年5月22日)に、元弘の乱で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇が、7月17日(和暦6月5日)に「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した建武政権(けんむせいけん)の新政策(「新政」)。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。広義の南北朝時代には含まれるが、広義の室町時代には含まれない。新政の名は、翌年の元弘4年=建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する

 後醍醐天皇は鎌倉時代の公武の政治体制・法制度・人材の結合を図ったが、元弘の乱後の混乱を収拾しきれず、延元元年/建武3年10月10日(ユリウス暦1336年11月13日)に河内源氏の有力者であった足利尊氏との戦いである建武の乱で敗北したことにより、政権は崩壊した。

 鎌倉時代後期には、鎌倉幕府は北条得宗家による執政体制にあり、内管領の長崎氏が勢力を持っていた。元寇以来の政局不安などにより、諸国では悪党が活動する。幕府は次第に武士層からの支持を失っていった。その一方で、朝廷では大覚寺統と持明院統が対立しており、相互に皇位を交代する両統迭立が行われており、文保2年(1318年)に大覚寺統の傍流から出た後醍醐天皇が即位して、平安時代の醍醐天皇、村上天皇の治世である延喜・天暦の治を理想としていた。だが、皇位継承を巡って大覚寺統嫡流派(兄・後二条天皇の系統、後の木寺宮家)と持明院統派の双方と対立していた後醍醐天皇は自己の政策を安定して進めかつ皇統の自己への一本化を図るために、両派の排除及びこれを支持する鎌倉幕府の打倒をひそかに目指していた。

 後醍醐天皇の討幕計画は、正中元年(1324年)の正中の変、元弘元年(1331年)の元弘の乱(元弘の変)と2度までも発覚する。この過程で、日野資朝・花山院師賢・北畠具行といった側近の公卿が命を落とした。元弘の乱で後醍醐天皇は捕らわれて隠岐島に配流され、鎌倉幕府に擁立された持明院統の光厳天皇が即位した。後醍醐天皇の討幕運動に呼応した河内の楠木正成や後醍醐天皇の皇子で天台座主から還俗した護良 (もりよし)親王、護良を支援した播磨の赤松則村(円心)らが幕府軍に抵抗した。これを奉じる形で幕府側の御家人である上野国の新田義貞や下野国の足利尊氏(高氏)らが幕府から朝廷へ寝返り、諸国の反幕府勢力を集める

 元弘3年/正慶2年(1333年)後醍醐天皇は隠岐を脱出。伯耆国で名和長年に迎えられ船上山で倒幕の兵を挙げる。足利尊氏は、京都で赤松則村や千種忠顕らと六波羅探題を滅ぼした後、新田義貞は、稲村ヶ崎から鎌倉を攻め、北条高時ら北条氏一族を滅ぼして鎌倉幕府が滅亡した。後醍醐は赤松氏や楠木氏に迎えられて京都へ帰還する。


■室町時代(1336年 – 1573年)

▶︎南北朝時代(1336年から1392年)

 南北朝時代は、日本の歴史区分の一つ。1336年から1392年までの57年間を指す。ただし、始期の日付から終期の日付までの期間は、56年弱である。始期は(延元元年/建武3年12月21日)、建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が京都で新たに光明天皇北朝持明院統)を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇南朝大覚寺統)が吉野行宮に遷った時期であり、終期は1392年11月19日、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一した時期である(明徳の和約)。

▶︎戦国時代(1467年<1493年>~ 1590年)

  日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って、守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。

大名領国制(だいみょうりょうごくせい)とは、中世日本における守護大名・戦国大名による領国支配体制を指す。近世の藩体制については大名領国制の延長上(近世大名領国制)にあるものの幕藩体制の一部として別個のものとして扱われているものとみるか、大名領国制の否定の上に成立した新たな体制とみるかで見解が分かれる。更に守護大名の体制を大名領国制の前段階の守護領国制として捉え、大名領国制を戦国大名による領国統治体制に限定する見解もある。

 応仁・文明の乱以後の乱れた世相を、当時の公家が古代中国の「春秋戦国時代」の乱世になぞらえ「戦国の世」と表現したことに由来する

 一条兼良の『樵談治要』の「諸国の守護たる人廉直をさきとすべき事」の条に、「諸国の国司は一任4ヶ年に過ぎず、当時の守護職は昔の国司に同じといへども、子々孫々につたへて知行をいたす事は、春秋の時の12諸侯、戦国の世の7雄にことならず」とある。また、近衛尚通の日記『後法成寺尚通公記』(近衛尚通公記)の永正5年(1508年)4月16日条に「戦国の世の時の如し」とある。「…にことならず」「…の時の如し」という直喩表現からも明らかな通り、当時の公家が使った「戦国の世」という語は、直接的には古代中国の戦国時代を指していた。


戦国時代

■安土桃山時代(1573年 – 1603年)

 安土桃山時代は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。

 織田信長の居城であった安土城(滋賀県近江八幡市安土町)と豊臣秀吉の居城伏見城のあった京都市伏見区桃山地域から、このように歴史学者から呼ばれる。特に、豊臣家が全国支配を担った後半を桃山時代といい、この時代を中心に栄えた文化を桃山文化と呼ぶ。ただし、桃山の名称は江戸時代になって廃城された伏見城の跡地に桃の木が植えられ、安永9年『伏見鑑』が発行された頃から「桃山」と呼ばれるようになったことから名付けられたもので、桃山城と呼ばれる城が存在したわけではない。

▶︎信長の道路管理

 信長は、自由経済の障害となる関所を廃し、道路・橋梁の建設を推進した。この朱印状は、年三回の道の補修を命じたもの。天下布武」の印章も確認できる。この他、道路直線化、道路幅員の規格化と並木整備、勢田橋建設などに関わる朱印状も残されており、天下人の交通基盤施設に対する眼差しを窺い知ることができる

▶︎国土の把握

 全国を制圧した秀吉は、国土経営の基盤を整えるため、統一的な度量衡に基づく検地を行った。それは、荘園制の終焉と、武士による国土経営の到来を告げる一大事業であった。検地が秀吉の重要施策であったことは、担当者の顔ぶれからも明らかで、例えばこの検地帳には、検地奉行を務めた「石田治部少輔」(石田三成)の名を確認することができる。


「常陸国那賀郡内上河内村御検地帳」茨城大学図書館所蔵

 そのため、歴史的経緯を尊重するなら「伏見時代」の方が適切な呼称となるが、そもそも安土城は完成からわずか3年余りしか存在しておらず、伏見城(指月城と木幡山城)についても文禄元年(1592年)の築城から秀吉の死までわずか7年であったなど、それぞれ在城は短期間であり、これらを時代の呼称に用いること自体が適切ではないという主張もある(ただし秀吉の死後、徳川家康が伏見城で政務を執っている)。

江戸時代(1603年 – 1868年)

 江戸時代は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代を指す区分である。徳川時代とも言う。この時代の将軍家による政府(武家政権)は、江戸幕府あるいは徳川幕府と呼ぶ。藩政時代という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。

 江戸時代の期間は主流の学説では、1603年3月24日(慶長8年2月12日)に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸(現在の東京)に幕府を樹立してから、1868年10月23日慶応4年明治元年9月8日)の「一世一元の詔」の発布一世一元への移行)に伴い、慶応から明治に改元されるまでの265年間を指す。

 始期については、豊臣秀吉が薨(こう・皇族や三位以上の人が死ぬ)じた1598年(慶長3年)や関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した1600年10月21日(慶長5年9月15日)、あるいは豊臣氏滅亡の1615年(元和元年)を始まりとする見方もある。

 終期については、ペリーが来航した1853年(嘉永6年)や桜田門外の変があった1860年(万延元年)、徳川慶喜が大政奉還を明治天皇に上奏した1867年11月9日(慶応3年10月14日)とする見方や、王政復古の大号令によって明治政府樹立を宣言した1868年1月3日(慶応3年12月9日)、江戸開城された1868年5月3日(慶応4年4月11日)、あるいは廃藩置県が断行された1871年(明治4年)とする見方も存在する。

▶︎鎖国(1639年 – 1854年)

 鎖国とは、江戸幕府が、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策であり、ならびに、そこから生まれた日本の孤立状態、外交不在の状態及び、日本を中心とした経済圏を指す。

 一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」 (英closed country) と呼ぶ。

 幕末に「開国」を主導した井伊直弼は、「鎖国」のことを閉洋之御法とも呼んでおり、籠城と同じようなものだと見做(みな)していた。

 なお海外との交流・貿易を制限する政策は江戸時代の日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国(具体的には、日本、中国、東トルキスタン、朝鮮半島、モンゴル、シベリア、極東ロシア)でも「海禁政策」が採られていた。

 対外関係は朝鮮王朝(朝鮮国)及び琉球王国との「通信」(正規の外交)、中国(明朝と清朝)及びオランダ(オランダ東インド会社)との間の通商関係に限定されていた。鎖国というとオランダとの貿易が取り上げられるが、実際には幕府が認めていたオランダとの貿易額は中国の半分であった。

▶︎幕末(1853年 – 1868年)

 幕末は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。

 幕末の期間に関する厳密な定義はないが、1853年7月8日(嘉永6年旧暦6月3日)の黒船、即ちマシュー・ペリーが率いるアメリカ海軍艦隊の来航をその始期とする見方が一般的であり、王政復古の大号令(1868年)においても「抑癸丑(1853年)以来未曾有の国難」が体制変革の画期として指摘されている。

 終期については、1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)に徳川慶喜が大政奉還を行った時点、翌1868年5月3日(旧暦4月11日)の江戸開城の時点など、様々な見方があり得る。旧幕府軍による抵抗が終わった箱館戦争の終結(1869年)幕藩体制が完全に終結した廃藩置県を断行した1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)、西欧式の太陽暦であるグレゴリオ暦を元号に採用する前日の1872年12月31日(明治5年旧暦12月2日)なども終期となりうる。

 幕末は、「西洋の衝撃」を受けた国防意識の高まりとナショナリズムの勃興を背景に、水戸のような日本型華夷思想を基盤として国体意識が高まり、徳川将軍が事実上の国家主権者として君臨する幕藩体制が解体され、国内の政治権力の再編が進む過程である。その中心を担ったのは薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩などの、いわゆる西南雄藩であった。この時期には「鎖国」を放棄して開港した日本が、外国との自由貿易の開始によって世界的な資本主義市場経済と植民地主義に組み込まれた。

 また一部での排外主義(尊王攘夷運動)の高まりにも関わらず、列強の圧倒的な存在感により社会自体が西洋文明の影響を受けて劇的に変化していった時期でもある。この幕末の過程は、たとえば島崎藤村の長編小説『夜明け前』など多くの文学作品にも描かれている。

 政治的側面においては、幕末を、単なる過渡期とするか、あるいはそれ以前以後とは異なった独自の政治体制とするかの2つの見方に分かれる。一方で、国際関係史的には「近代」として扱われ、一連の条約の締結により日本が西洋近代システムへの参入を果たした幕末から、第二次世界大戦で敗れて天皇を主権者とする帝国主義国家が崩壊するまで、即ち開国(1854年)から第二次世界大戦敗北(1945年)までを「近代」とする見方も存在する。幕末とそれに続く明治時代は「幕末・明治」として一括されて呼ばれることも多い。


明治時代(1868年 – 1912年)

 慶応体制に移行した時代であり、「明治」は、憲政上最初の元号となる。また、「一世一元の制」による最初の元号である。

 西暦1868年10月23日(明治元年9月8日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指し[1]明治天皇の践祚から2年後に即位に伴って改元されたので、明治天皇の在位期間とは、最初の2年が一致しない。元号が明治であった期間を時代区分として、明治時代という。時代区分名は江戸時代(最後の元号: 慶応)までは中央政権の所在地に基づく名称で呼ばれているが、明治以降は一世一元の制により、元号に基づく名称となっている。

一世一元の制(いっせいいちげんのせい)とは、君主(皇帝、天皇、国王)1人につき年号(元号)を一つ制定する制度である。

▶︎東京奠都・版籍奉還・廃藩置県

 人心を一新するため同年9月8日(1868年10月23日)には年号を「明治」と改めて、天皇一代の間に一年号とする「一世一元の制」を立てた。4月11日の江戸開城後の関東農民一揆を抑えるため、東征大総督府軍監・江藤新平は、閏4月1日に「江戸を東京と改め天皇を迎えたい」と岩倉具視に建言。

 これに前内大臣・久我建通ら京都守旧派の公卿が相次いで反発したため、大久保利通が「大坂遷都論」を建言し、閏3月11日に天皇が関東親征のため、大坂に行幸するという形で部分的に遷都の準備に取り掛かった。これに、京都市民や神道家が反発し、伊勢神宮祠官・山田大路陸奥守親彦が天皇東行の中止を朝廷に申し入れたが、7月17日に江戸は東京と改称され、鎮将府、東京府設置の政府決定が発表され、鎮将府参与に任ぜられた大久保と鎮将の三条実美が駿河以東の13ヶ国を管轄し、京都と東京に2つの政府が並立する形となった。

▶︎明治国家の形成

 1869年(明治2年)に、律令制度の行政機構を復活させ、役所機構を整備して宮内省・民部省・大蔵省・刑部省・兵部省・外務省の六省設置したが、律令体制時代に存在した中務省・式部省・治部省の三省は復活設置されなかった。

 しかし、戸籍、土木、租税、駅逓、通商、鉱山を管轄する民部省と出納、秩禄、造幣、営繕を管轄する大蔵省の民蔵両省官吏(かんり)は、財政及び貿易問題で外国人と接する機会が多く、また職務が実質的合理的思考を必要としたので、1870年(明治3年)4月に太政官が旧朝敵藩の贖罪金免除に大蔵省が反発するなど、しばしば両省の争いが政府内の紛乱の種となった。しかし、後に民部省が大蔵省に統合されると、大蔵省に産業、財政の強大な権力権限が集中し、官僚社会に強固な勢力を築き上げた。

▶︎士族反乱(自由民権運動)

1873年(明治6年)征韓論政変により下野した板垣退助は翌1874年(明治7年)後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らと愛国公党を結成、由利公正らと民撰議院設立建白書を明治7年(1874年)1月政府左院に提出し、高知に立志社を設立する。この建白書が各地の新聞に掲載されたことで、政府に不満を持つ士族を中心に運動が進められるようになった。

 一方、民選議院を設立すべきか否かの議論も新聞雑誌紙上で盛んに交わされるようになった。翌1875年(明治8年)には愛国社が結成されるが、大阪会議で板垣が参議に復帰して漸次立憲政体樹立の詔を出すとともに、官選の元老院を設け大審院を置いて裁判制度を整備し、地方官会議を開いて地方議会の開設について討議した。

讒謗律(ざんぼうりつ、明治8年6月28日太政官布告第110号)とは、明治初期の日本における、名誉毀損に対する処罰を定めた太政官布告。

 また一方で、政府は新聞紙条例や讒謗律を制定して急進的な反政府の言論活動を取り締まった。後になり立志社が西南戦争に乗じて挙兵しようとしたとする立志社の獄が発生して幹部が逮捕されている。

▶︎条約改正問題

 19世紀後半にアジアの多くの国々は欧米諸国の植民地となっていたが、幕末以来の不平等条約を改正して関税自主権の確立(税権回復)領事裁判制度の撤廃(法権回復)とを実現することが、日本にとって欧米諸国と対等の地位に立つためには何よりも重要であった。

  1871年(明治4年)、日本と清国は日清修好条規に調印。1873年(明治6年)に外務卿・副島種臣は、清国皇帝に謁見し日清修好条規批准書の交換を行った。

▶︎大日本帝国憲法

 憲法制定に至るまで伊藤博文井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎、ヘルマン・ロエスレルらと憲法制定の準備を開始し、1888年(明治21年)枢密院を設置した。そして、1889年(明治22年)黒田清隆内閣の時に君主権が強いプロイセン憲法を模倣した大日本帝国憲法が明治天皇から臣下に授ける形で制定された。

 発布憲法の発布により天皇中心の国家体制が確立されるとともに国民の権利と自由が認められ、国政参加への道が開かれた。不十分であったとはいえ、他のアジア諸国に先駆けて憲法と議会を持つ近代国家への道を歩み始めた

▶︎日露戦争

 日清戦争終了後(1894~95)、ロシア帝国は清に圧力をかけ、遼東半島の旅順大連を租借した。また、シベリア鉄道およびその支線である東清鉄道を建設し南下政策を進めていった。とりわけ、義和団の乱(義和団事件)以降、ロシアは満州に軍隊を駐留させて利権を確保していった。日本はロシアの動きを牽制すべく、1902年(明治35年)イギリスとの間に日英同盟を締結した。当時、世界第一の大帝国で「栄光ある孤立」を貫いていたイギリスが初めて同盟を締結したということとアジアの新興国家である日本が相手ということから世界の注目を受けたが、ヨーロッパでは極東において成り上がりの日本を手先にして火中の栗(中国)を拾わせようとするものとする風刺も見られた。その後、満州、朝鮮半島の利害が対立したロシア帝国相手に日露戦争が勃発した。

 陸軍は遼東半島上陸後旅順攻囲戦奉天会戦と圧倒的物量で上回ロシア陸軍を辛うじて後退させることに成功した。一方、海軍は最終的には日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅した。

▶︎条約改正の実現と帝国主義国家への道

 1905年(明治38年)、韓国統監府初代統監には伊藤博文が任命されたが、1908年(明治41年)に辞任した。また、1906年(明治39年)のポーツマス条約で獲得した遼東半島南部(関東州)および長春以南の東清鉄道に対し、それぞれ関東都督府、南満州鉄道株式会社(満鉄)が設置された。

 その後1909年(明治42年)7月、第2次桂内閣が韓国併合を閣議決定、10月26日に伊藤はロシアとの会談を行うため渡満したが、ハルビンに到着した際大韓帝国の独立運動家安重根から撃たれて暗殺された

 1910年(明治43年)には日韓併合条約を結んで大韓帝国を併合し、ここに諸列強と並ぶ帝国主義国家にのし上がった。大国ロシアに対して戦勝を記録したことは諸外国にも反響を与えた。

 1911年(明治44年)、日本はアメリカ合衆国と新しい日米通商航海条約を締結、イギリス、ドイツ、フランスおよびイタリアとも同内容の条約を締結した。外務大臣小村壽太郎は関税自主権の全面回復に成功し、これにより、かつて江戸幕府の政権時に西洋列強と結んだ不平等条約を対等な国家間条約に改善する条約改正の主要な部分が完了、日本は長年の課題を克服し、名実ともに西欧諸国と対等な国際関係を結ぶこととなった。嘉永年間以来の黒船の衝撃と、その後に目指した西欧列強と並ぶ近代国家作りは一応達成された。

▶︎産業の変化

 明治時代で特徴的な点が、西洋式文物の大量輸入による産業革命である。しかし明治維新が起こった時には神仏分離令により廃仏毀釈運動が起こった。1870年代(明治3年〜12年)中期になると、西洋文明の輸入が本格化。1872年(明治5年)の「殖産興業」による鉄道開業と富岡製糸場設立は、これを象徴する出来事である。


■大正時代(1912年 – 1926年)

 大正時代は、大正天皇の治世を指している。日本の歴史の時代区分は通常(一世一元の制以前まで)、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸と政権の中心地による呼称である。大正時代は(年数が大正元年〜大正15年の15年間で、期間は1912年〜1926年の14年間)日本史で一番短い時代区分である。

 大正デモクラシー時代1918年(大正7年)の米騒動の前と後で区別されることが多いが、米騒動後同年に初めて爵位を持たない非華族階級であり、衆議院に議席を有する平民の原敬(「平民宰相」とあだ名された)が日本初の本格的な政党内閣(=原内閣)を組織した。

何をもって「大正デモクラシー」とするかについては諸説ある。政治面においては普通選挙制度を求める普選運動や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては男女平等、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立など、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展開された。

▶︎護憲運動と政治

 1911年(明治44年)に第2次西園寺内閣が成立した頃、日本の国家財政は非常に悪化していたが、中国の辛亥革命に刺激された陸軍は、抗日運動対策も兼ねて、前年に併合した朝鮮に駐屯させる2個師団の増設を強く政府に迫った。緊縮財政方針の西園寺公望がこれを拒否し、政府・与党(立憲政友会)と陸軍が対立すると、多くの国民が陸軍の横暴に憤り、政治改革の機運が高まった。

 また1912年(明治45年/大正元年)7月30日に明治天皇が崩御して大正天皇が即位したり、美濃部達吉が『憲法講話』を刊行して、天皇機関説や政党内閣論を唱えたことも国民に新しい政治を期待させた。

▶︎第一次世界大戦と景気

 1914年(大正3年)には、第一次世界大戦が勃発した。元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦した。本土や植民地が被害を被ることこそなかったものの、連合国の要請を受けてヨーロッパにも派兵し多数の戦死者を出した結果、戦勝国の一員となった。

 発生直後こそは世界的規模への拡大に対する混乱から一時恐慌寸前にまで陥ったが、やがて戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本とアメリカの両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させ、日本経済は空前の好景気となり、大きく経済を発展させた。特に世界的に品不足となった影響で繊維(紡績産業・漁網製造産業)などの軽工業や造船業・製鉄業など重工業が飛躍的に発展して、後進的な未発達産業であった化学工業も最大の輸入先であるドイツとの交戦によって自国による生産が必要とされて、一気に近代化が進んだ。こうした中で多数の「成金」が出現する。また、政府財政も日露戦争以来続いた財政難を克服することに成功する。

▶︎震災復興

 1923年(大正12年)には関東大震災が生じた。この未曾有の大災害に首都東京は甚大な損害を受けるが震災後、元首相の山本権兵衛が再び政権を担い、第2次山本内閣が成立した。新内閣の内務大臣(第2次山本内閣の内務相)となった後藤新平が震災復興で大規模な都市計画を構想して手腕を振るった。

 震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラが整備され、大変革を遂げた。

▶︎芸能文化

 日本初のレコードでヒットした歌謡曲とされる松井須磨子の「カチューシャの唄」をはじめとする数々の歌謡曲が誕生した。実はジャズもこの時代に日本に伝わり、それなりに発展する。落語・講談・能・文楽・歌舞伎・新派劇・新国劇などの日本的な伝統演劇に対して西洋劇を導入する新劇運動が盛んになり、昭和時代に発展する芸能界の基礎となる俳優・女優・歌手などの職業が新しく誕生して、その後の大衆文化の原型が生まれた。活動写真(現在の映画)や少女歌劇(現在の宝塚歌劇団)が登場した。

■昭和時代(1926年 – 1989年)

 大正天皇の崩御に伴い、皇太子裕仁親王が皇位を継承し、即日「昭和」と改元された。昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、「元年」と「64年」は使用期間が共に7日間であるため実際の期間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。

 第二次世界大戦(太平洋戦争)が終結した1945年(昭和20年)9月2日或いは玉音放送された同年8月15日(終戦記念日)を境にして近代と現代に区切ることがある。また1947年(昭和22年)5月2日以前は天皇主権体制の大日本帝国憲法下(いわゆる戦前期)の時代、1947年(昭和22年)5月3日以降はGHQ占領期を含めて国民主権体制と日米安全保障条約体制の日本国憲法下(いわゆる戦後期)と冷戦と高度経済成長の時代という異なる政治体制である。

▶︎第一次世界大戦後(1945~1989)

 急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。

 日本は国内的には立憲君主制の体裁を取り、当初の藩閥政治を脱して1920年代には政党が内閣を構成するようになり、大正デモクラシーの風潮を受け継ぐ形での政党政治が行われた。

 しかし、政党政治がその一面で見せた腐敗は相次ぐ不況下で困窮する国民の不信怒りを買い、大陸侵略による事態の打開国家改造を志向する勢力の台頭を招く。1920年代末から独立性を強めた軍部は、1930年(昭和5年)以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし、相次ぐ軍事クーデターにより、ついには政党政治を葬り去った。

▶︎金融恐慌

 第一次世界大戦では大戦景気による稀に見る好況を迎え、日本経済は大きく急成長を遂げた。しかし、大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して早くも戦後恐慌となった。

 さらに1927年(昭和2年)には関東大震災による手形の焦げつきが累積し、それをきっかけとする銀行への取りつけ騒動が1927年(昭和2年)3月15日から生じて、4月20日前後には最高潮に達して、昭和金融恐慌となった。昭和初期に東北地方が大凶作に見舞われて農家の女性達は養育能力がなかったため、間引きが盛んに行われた。冷害や貧困のために東北地方の農村では「娘の身売り(未婚女子の人身売買)」があり社会問題となった。

▶︎第二次世界大戦(参戦した国々)

  枢軸国は1940年に成立した三国同盟に加入した国と、それらと同盟関係にあった国を指す。一方、連合国は枢軸国の攻撃を受けた国、そして1942年に成立した連合国共同宣言に署名した国を指す。

 すべての連合国と枢軸国が常に戦争状態にあったわけではなく、一部の相手には宣戦を行わないこともあった。しかし大戦末期には当時世界に存在した国家の大部分が連合国側に立って参戦した。

また、イタリアなど連合国に降伏したあとに、枢軸国陣営に対して戦争を行った旧枢軸国も存在するが、これらは共同参戦国と呼ばれ、連合国の一員であるとはみなされなかった。枢軸国の中核となったのはドイツ、日本、イタリアの3か国連合国の中核となったのはイギリス、ソビエト連邦、中華民国、アメリカ合衆国、フランスの5か国である。

 太平洋戦線は太平洋戦争と連合国により呼称され(当時の日本側の呼称は「大東亜戦争」)、日本とイギリス、オーストラリア、アメリカなどが太平洋の島々とアラスカやハワイを含むアメリカやその領土のフィリピン、オーストラリアなどで戦った太平洋戦域(英語版)、オランダの植民地のインドネシアやイギリス領のマレー半島、フランス領インドシナなどで日本とオランダ、イギリス、アメリカ、フランスなどが戦った南西太平洋戦域(英語版)、英領ビルマや英領インド、英領セイロンやフランス領東アフリカで日本がイギリスやオーストラリアなどと戦った東南アジア戦域(英語版)、そして中国大陸や満州国などで日本や満州国が中華民国とアメリカ、イギリスなどと戦った日中戦争に分けられる。

■平成時代(1989年 ~ 2019年)

 1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇の崩御に伴い皇太子明仁親王が第125代天皇に即位した。この皇位の継承を受け、同日、1979年(昭和54年)に施行された元号法に基づき改元の政令が出され、その翌日を「平成元年1月8日」とすることにより改元がなされた。日本史上初めて、法律(及び政令)に基づいて改元された元号である。

 日本国内では、不動産や証券への投機熱でバブル景気が起き、日米貿易摩擦を受けて日米構造協議が始まった。昭和から平成に改元された1989年(平成元年)にはベルリンの壁が崩壊した。東ヨーロッパでは次々と革命が起こって共産主義政権が次々と倒され、東アジアでは天安門事件が起きた。マルタ会談で米ソ首脳が冷戦終結を宣言して、第二次世界大戦後に44年間も続いた冷戦は終結した。

 1990年(平成2年)には湾岸戦争が勃発し、小切手外交を批判された日本は初の自衛隊海外派遣を行うこととなった。翌年の1991年(平成3年)には冷戦の盟主国の一角であったソ連が崩壊して、日本ではバブル経済が崩壊した。湾岸戦争の勃発・ソ連崩壊・バブル崩壊によりアメリカナイゼーションとグローバル資本主義が世界を席巻した。アメリカ一極体制の時代が到来した。また、経済成長期に日本政府と企業が築いた終身雇用・年功序列・護送船団方式のサラリーマン主流社会(企業社会)が崩壊して、内需縮小とデフレが始まる。

 日本国内では、不動産や証券への投機熱でバブル景気が起き、日米貿易摩擦を受けて日米構造協議が始まった。昭和から平成に改元された1989年(平成元年)にはベルリンの壁が崩壊した。東ヨーロッパでは次々と革命が起こって共産主義政権が次々と倒され、東アジアでは天安門事件が起きた。マルタ会談で米ソ首脳が冷戦終結を宣言して、第二次世界大戦後に44年間も続いた冷戦は終結した。

▶︎阪神大震災

▶︎東日本大震災3.11

■令和時代(2019年 ~)

 2019年(令和元年)5月1日午前0時、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」(平成29年法律第63号)の規定に基づいて、第125代天皇明仁が退位して「上皇」になり[1]、明仁の第一皇男子である徳仁親王が第126代天皇に即位した。この皇位の継承を受けて、元号法並びに元号を改める政令(平成31年政令第143号)の規定に基づき[4]、「平成」から「令和」に改元された。

これは明治以降の憲政史上初めてであり、202年ぶりの天皇の譲位に伴う改元である。また、徳仁の即位礼正殿の儀が同年10月22日に行われた。