アントニ・タピエス-1

■アントニ・タピエス

ヴィクトリア・コンバリア・デグセウス

「何事も説き明かされれば我々の興味を引かなくなる。」ニーチェ:『善悪の彼岸』

「物に衣服を着せようとしてやまないのが我々の想像力である。しかし物自体は神ながらに裸形だ。

マルグリット・ユルスナール:「アレクシスまたは無益な闘争についての考察』

▶︎序

 抽象美術に対する反論として頻繁に用いられる論法のひとつは比較論である。それによれば、伝統美術は我々の知っている、または少なくとも信憑性のある対象を描いており、現実の姿かたちを模している。伝統美術は、したがって、わかりやすいと。確かに、以前の美術では人物を識別するとができるし、物語を読み取ることができる。しかし、一見それと見えるほど自然ではないし、その外観はその形象は外界にあるものそのままの姿ではない。

 マニエリスムの寓意画を理解するのに、当時の美術愛好家はまず第一に、象徴の表す複雑な意味を知る必要があった。プーサンを理解するには神話学の知識が不可欠だった。

 そして、『モナ・リザ』やベラスケスの『ラス・メニナス(女官たち)』のように、その解釈をめぐって今なお百家争鳴(いろいろな立場にある人が自由に議論をたたかわせること)の議論が行われている作品もある。「大画家」の絵画は、技法や構図や色彩を讃えることはできても、時代背景、画家の追求した目的、図像学、さらには作品自体の来歴に関する十全な知識がなければ作品の究極的意味を真に理解することはできない。

 芸術は現実の再現でなければならないという理論は長く複雑な、陰影の色濃い歴史を待った原則である。芸術は自然を模倣するという教義を打ち立てたアリストテレスは、現実はありのままに描くことができるが、なかんずく、より良く(悲劇)、あるいはより悪く(喜劇)表し得ると主張した。この示唆するところは二つの重大な現実操作または現実歪曲であり、絵画においては一方で理想化に、他方で表現主義につながるものである。

 たとえば、ルネサンス期の画家たちは、遠近法の発明と実体感表現技法の完成によって、ほぼ実際に見る姿のままに描くことに成功してはいるが、対象の姿態や性格を直接感知した通りにではなく、理想化した形で表した。これは彼らが讃美したギリシア古典期の美術に範を取った特色である。ルネサンス美術は他の例にもれず、因習や伝統の名残りにとらわれていた。しかし、幾何学的遠近法などの偉大な発見はやがて空間描写への道を開き、後世、固体間を流れる空気の知覚に形を与えるという成果を見ることになった。すなわち、空気遠近法である。

 さらに思い起すべきは、今でも多くの人が完壁さの手本としているラファエロの古典主義も長くはその不可侵性を保たなかったことである。たとえばミケランジェロの後期の作品は解剖学的正確さや理想化された美を描き出すことにとらわれず、何よりも、人体の歪曲を通して個人的・・・宗教的・・・葛藤を表現する試みである。

 ミケランジェロの場合と同じく、一方では直接的観察に挑戦し、他方では理想の規範に畔戦する様式はたくさんある。いわゆる原始美術を例にとれば、ここでは物の永遠の形・・・言うなれば、物の概念的イメージ・・・を示すことが好まれ、そのため外観は図解的または合成的になる。そしてエル・グレコからピカソにいたるあらゆる表現主義者たちも同様に、対象の「自然な」像をゆがめることで主観的にとらえた姿を伝えようとしている。

 したがって、ただひとつの「正常な」もしくは真実の描写などというものはない。歴史家のアロイス・リーグルが言ったように「各様式にはそれぞれ独自の自然観がある」ので、これはつまるところ、各時代は異なった「見方」をするということである。異なった見方といぅのは唐突に現れる訳ではない。各時代には支配的様式として確立されるにいたったか、いくつかの約束ごとがある。そこに、その約束ごとを打ち破る芸術家が登場して新しい規範を作り上げて行き、それがやがて伝統として確立されることになる。

 しかし、そのような芸術家といえども、無から出発するのではない哲学的あるいは宗教的理念や社会構造の変化に、いかに間接的であれ、影響を受ける。たとえば、「クワトロチェント(15世紀)」のイリュージョニズムの成果を語る時、原ブルジョワ階級の出現に触れずにいることはできない。商業活動を肯定的にとらえる彼らの思考法が刺激となって科学的精神が発達したのである。同様に、宗教改革がカトリック教会に与えた論理的傷痕を考慮に入れずしてミケランジェロの深い苦悩や神秘主義を考察することはできない。

 したがって、様式の変化はすべて、その時代の関心、価値、概念などの変化を前提とする。しかし、タピエスの芸術を理解する予備知識としてここで特に重要となる、現代美術の勃興について考える時、最も核心に関わるものはアカデミー芸術に対する闘いなのである。

 古典主義は、もちろん、数多い様式のうちのひとつにすぎないが、アカデミーによる美術教育において根本的重要性を持っていたことは紛れもない。アカデミーという機関は当初、造形芸術の教育のみならず芸術に関する知的認識の拠点として設置されたもので、17世紀以降は究極的権威とみなされてきたが、19世紀の頃にはその規則や指針の体系は抑圧的とも言い得るものになっていた。中でも最重要とされた指針は、理想化された人体を描くこと、崇高で高尚な「物語」を表すこと、および色より線を優位とすることである。

 しかし、初めは人文主義的理想であった。そして、芸術上の基準としては、賦課(ふか・税金などを割り当てて負担させること)というよりむしろ刺激であった・・・のが、次第に時代遅れの紋切り型となり、不充分で陳腐な決まり文句の寄せ集めとなった。19世紀の芸術家の中でも最も飽くことを知らない、探究心に富んだ精神の持主たちがこれらの指針に影響されまいとして、興味深いことに、クワトロチェント経験論的世界観をいくらか取り戻そうとしたのも、したがって、意外とするにはあたらない。コンスタブルやクールベや印象派の画家たちの業績の基本にあったのは(ラスキンの言うところの)「無垢の凝視」である。

 とは言うものの、凝視が現実には無垢であり得ない以上、彼らの仕事が当時公認の指針と衝突することは避けられなかった。コンスタブルーある意味で近代風景画の祖と言うべき画家・・・は草地を緑で描いたというので厳しく批判された。もちろん、誰でも草地は緑だと知っていたが、風景画の慣例で前景には(木や草地であっても灰色や焦げ茶色を用い、背景は奥行きを出すために銀青色で階調をつけることを定められていた。これに類したことが印象派にも起った印象派の画家たちは線描を軽視した・・・これは画家自身が充分承知していた・・・というだけでなく、色が明るいということについても咎(とが)められた。批評家はこの明るさを行き過ぎだと考えたのである。しかし現代人の眼には、印象派の輝かしい色彩に比べてそれ以前の時代の絵画は暗すぎるように見える。

 慣例の決まり文句の代りに真実性や視覚的「誠実さ」を求める気持・・・それはとりもなおさず、アカデミーの論理と道義観に対置するべき論理的真実を求める気持である・・・にうながされた19世紀の芸術家は古典様式以外の様式に目を向け、自分たちの理念の支えとなるものを探した。こうして、民族美術、中世美術、なかんずく原始美術の見直しが始まった。

 原始美術は大半の現代画家に実に大きな影響を与えている。ゴーギャン、ピカソ、ドイツ表現主義、シュールレアリスト、アメリカの抽象表現主義と、その例は枚挙にいとまがない。もちろん、原始美術と現代美術の間には大きな違いがある。原始美術にあっては集団的信仰や象徴からなる確固たる世界に属しているものが、現代美術では形態に対する自由で実験的な態度に基づいた個人的表現となっていることは、メイヤー・シャビロがいみじくも指摘したとおりである。さらにつけ加えるなら、近代精神に見る妥協を許さぬ主観主義はフランス革命とロマン主義者の批判精神がもたらした自由の結果である。ロマン主義者は、現状肯定的で物質的な価値観が精神的価値観より優勢な時代に、すでに時代と深く対立していた。

 芸術家や知識人の間の、現状に対するこの不満は、近代世界を形づくる一助となった大きな社会的変革に起源を発する。フランス革命を通じて得られた自由は、現実には、新興ブルジョワ階級の富を増すのに特に都合の良いものだった。そのうえ、この階級の趣味に最も過(よぎ)ったのは、当代の画家の描く親しみやすい、いかにも絵らしい絵であった。このような情況の中で支配階級からの注文はどんどん減り、画家たちはますます、アカデミーの規則にのっとった公のサロンや展覧会に出品せざるを得なくなった。ここでつけ加えなければならないのは、写真が発明されて急速に広まったために、それまで画家の領分だった肖像画、細密画、名所や行事の絵などの仕事がなくなってしまったという事実である。

 確かに、そのおかげで画家には実験を試みる自由が以前と比べ、格段に大きくなり、さらに言えば、自らをアヴァンギャルドと位置づける画家たちの特徴である新しい禁欲的誇りを生み出すこととなった

 しかし、こういう誇りは、一般大衆に関する限り無理解と疎外にあうことを免れなかった。やがて、この状況を打開すべく、バウハウスやロシア構成主義などのユートピア的実験が試みられることになる

 しかし、今世紀50年代以降は、美術教育の向上、多くの美術館による作品の購入、美術市場の空前の活況などにより、現代美術は、少なくとも先進諸国では、広く受け入れられるにいたった。

▶︎抽象美術

 19世紀末頃に美術をめぐる状況が変り、画家は次第に慣例的主題から解放されていったが、だからと言って、描写とか表現というお馴染みの古い概念を根本的に新しい視点から取り上げる試みが絶えてしまった訳ではない。この試みは、一見、還元的手法であり、外界との関連を確認できる要素をすべて排除して、たとえば、モンドリアンの樹の連作の場合のように−もはや、描かれた記号群は見る側に何ごとも伝え得ないと思われるところまで行きついたかのようだ。確かにこの還元主義は歴然としている。

 しかし、造形言語の基本要素である色彩、線、ヴォリュームを「再活性」しようとする努力も同時に行われていることを見落としてはならない。20世紀初頭のアヴァンギャルドの画家たちは伝統美術のイリュージョニズムの中に絵画自体とは本来無縁の動機や欺瞞を見てとり、嫌悪を覚えたのである。しかし彼らは、自分たちには独自の絵画構造を発明する才があり、ある意味で音楽作品にも比すべき無主題」の作品を創り出す力があるという絶大な自信を持っていた。

 アポリネールは早くも1908年に、絵画の純粋性、自己充足性について語りつづけていた。アポリネールの考えは、テオ・フアン・ドゥースブルフが1930年に述べた次の言葉に要約されていると言ってよいであろう。「絵画は造形的要素、すなわち平面と色だけで構成しなければならない。造形的要素は造形的要素としての意味しか持たず、したがって絵画は絵画以外の何ものをも意味しない。」

 しかし、この種の理由づけは本質上、為にする論議であるし、またいかなる宣言(マニフェスト)であれ仮にも迫力を持たせようとすれば旗幟(きし・のぼり。旗じるし)を鮮明にしなければならないことは周知のとおりである。抽象美術の世界は、実際には、単なる形、色、テクスチェアの組み合わせと言う以上にはるかに奥が探い。

 たとえ、ありきたりの物を描写する領域での実験とされる時・・・キュビスムの場合に論じられるように・・・でも、そこに見られる歪曲は新しい世界観に呼応しており、表れた結果は次第に我々自身の世界観に影響を及ぼすようになる。ピカソとブラックが実践したキュビスムは、畢竟するに、対象をまず多元的な平面に解体したのち、直接観察によらない理念にしたがって、再びひとつにするという、モチーフとの永遠の闘いである。分析的キュビスムでは、テーブルや椅子やギターはもはやルネサンス美術の特徴である明断さを持っていない。

 代りに、テクスチュアと暗示からなる新しい物質的統一性を具えている(この新しい統一性は香水の香りのようなものだとピカソが言ったのはここで言う暗示の要素による)。

 キュビスムが美術に果たした最も価値ある貢献は還元主義とは何ら関係がなく、それとは逆に、創り出された現実の諸相、すなわち、テクスチェアや輪郭線に基づいた呼称から「トロンプ・ルイユ(だまし絵)」やコラージュの手法を含む細部にいたる諸相の間の緊張関係にある。これは言うなれば、新しい写実主義、多様な形式上の解決を手法とする写実主義であり、これらの解決がやがて20世紀美術のさまざまな描写技法を生み出すことになった。

 抽象美術には、しかし、別の表現形式がある。画家の精神世界から生まれたイメージ群を、ある程度まで、ユートピア的規範となることを意図した知的宇宙の象徴体系として描く形式である。たとえばモンドリアンが一組の垂直線と水平線と原色としか見えない作品を制作した時、その背景にあったのは神智学に基づいた哲学的世界観で、モンドリアンの野心は相反する力(物質/精神、男/女)の間に新しい均衡、新しい秩序を創造して究極的には純粋性そのものを達成することにあった。

 このように、キュビストの解決が少なくとも現実に基づいた描写であったのに対し、モンドリアンが提示した解決は、単に視覚がとらえる事象や偶発的事象を越えたところに、より高次の原理、超絶的原型とも呼ぶべき原理があるとする一連の理想主義的概念のうちにあると言うことができる。

 この種の反応をよりよく理解するには、今世紀初めの20年間で現代物理学の根本原理が質量とエネルギーの等価性であるとか、原子は分割し得るという「発見」をもって世界を震撼させた結果、確かな現実という概念はすっかり信頼性を失ってしまったことを思い合わせると良い。いわゆる自然の法則にしても、因果律の危機にともなってかつての効力を失うにいたった。長年信じられてきた宇宙の確実性に代って登場してきたのは確率のみに基づく法則であった。

 最後に、ロマン主義の理念、たとえば芸術家の主観が外部からの知覚をふるいにかけるという理念などの影響も過小評価すべきでない。によれば、形と色に「内的響き」を与えるのは自分独自の感性である。カンディンスキーにとってはウルトラマリンはびろうどのようであり、青緑は「固くて乾いて」いた。これと別の見方をしてはいけないという理由はひとつもない。抽象美術の何よりの特徴は見る側をより十全に取り込むことにある。どの伝統美術にもつきものの主題や逸話による束縛があまりないからである。

 このように抽象美術は、現実を全く違った形に作り直したり知覚や感情を通して歪曲したりすることで現実描写の新しい指針を打ち出していく。現実を細分化し、様式化し改造し、想定する抽象美術であるが、最終的に見れば、従来のあらゆる芸術家がなし続けてきたことをしていると言えよう。すなわち、現実を解釈することである。

▶︎タピエス:幼年期、青年期およびシュールレアリスト期

 画家の作品を気性や伝記的事実の結果として説明することほど偏った解説はないであろうが、画家の人間的、社会的背景の重要性を否定することもそれに劣らず偏った見方である。ルネサンスが芸術家は奇怪な、異常な個性の持主(その異常性をさらに強調するために芸術家にまつわる逸話はしばしば誇張された)であるという伝説を広めたのに対し、今世紀になるとヴェルフリンの説く、名前を持たない美術史、すべてはひとかたまりの形式上の変遷のうちに密接につながっているとする歴史観が受け入れられた。

 しかし、芸術家の作品と人生の関係は並外れて複雑なものだという事実は厳然としてある。作品によっては意図的要素、知的投影が主導的役割を果たすこともあるが、場合によっては、特にロマン主義以降の作品は、ある主観の外在化、すなわち画家の内的生活、固定観念、幻想の造形的表現となることもある。その時、画家の作品は(アカデミックな規範に対抗する)自由の砦となり、時には「俗人による」悪魔祓い・・・となる。その最も良い例はゴヤであろう。しかし真に偉大な芸術家は単に治療的段階にとどまるものではない画家一個の問題と人間全体の深遠な問題につながる事柄との間隙を飛び越えるところにその偉大さがある。

 私見では、タピエスが幼年期と青年期に経たある体験は、この画家の基本語彙を構成する主題群が形成される上で決定的に重要であった。これらの体験について何も知らなくてもタピエスの作品の造形的価値に変りはないし、単に一世代のみならず今日の西欧世界全体に影響する問題、スペインにおけるフランコ独裁がもたらしたいくつかの価値の崩壊ならびに現代人の分裂と人工性という問題を提起する力も同様に有効である。

 しかし、画家の回顧録にも述べられているこれらの体験を知ることで我々は彼の動機づけとなった事柄や、さらには作品に見られる特定の主題についても、理解を深めることができる。1930年代以降の自伝が根本的重要性を持つピカソの場合と同じである。

 したがって、タピエスの幼年期と成長過程を扱う本節は、多かれ少なかれ逸話に類するできごとを単に羅列しただけで済むものではない。回顧録を書く芸術家は誰でも、記憶を辿る作業の中で自分がいちばん意味深いと考える事柄を選ぶであろう。しかし、作者は普通その事柄に知的正当化を加えるもので、個人としての彼の人生では正当化は重要かも知れないが、必ずしも画家としての仕事に影響を及ぼすものとは限らない。タピエスの画業を研究する者はこの回顧録から、二つの側面のそれぞれにおいて最も適切、あるいは重要と思われる事柄は何かを決定しなければならない。

 アントニ・タピエス1923年12月13日、バルセロナで生まれた。一家は、バルセロナの文化と政治に関わってきたリベラルなカタルーニヤ民族派のブルジョアの家系であった。母方の曽祖父エドアルド・ブイグ書籍商・出版業者で、リウス・イ・タクレツト市長時代に肋役をつとめた。同じく母方の祖父はプラト・デ・ラ・リバとカンポの友人で、やはり肋役をつとめ、スペイン王アルフォンソ13世が1908年にバルセロナを訪問した折には市長代理として王を迎えている。こうしたことから彼の娘?・・・マリア・ブイグ・イ・ゲラ、タピエスの母・・・は自分の社会的地位を強く意識しながら成長した。彼女はどちらかと言うと内向的で、熱烈なカトリック信者であり、画家の父ジョセプ・タピエスとは正反対の精神性の持主だった。息子の評によれば、ジョセプ・タピエスは、きわめて社交的だがどこかうわの空のところがあり、神経質で、教権反対論者だったという。内乱以前は、一流の法律事務所を開いていた。ずっと共和派を支持していたが、内乱激化の後は次第に保守的になっていった。これはカタルーニヤのリベラルなブルジョアの間で共通に見られた心境の変化であるが、タピエスの父の場合は戦後のさまざまな矛盾が特に顕著に現れた。一方では何人かの友人が新興成金になるのを見て、とり残されたように思い、意気阻喪した。

 また一方では、「ジュネラリタート」(カタルーニヤ自治政府)に協力したというので公式に非難され、その結果深刻な財政危機に陥ったタピエスが子供時代の思い出の中でも特にあざやかに覚えているのは一家が引越ばかりし暮ていたことである。自分の社会的地位にふさわしい家に住みたいという母の意向を満足させるためであった。次に思い出すのは自分が内気だったこと、ロレト修道会で始めて教育を受けた時の恐怖感、そしてクラスメートの中での孤立感である。彼はバルセロナのゴシック地区にあった一家の住むアパートの匂いと古い家具を覚えている。父方の祖母が子供は「規則正しい生活をさせる」ために頻繁に浣腸をしなければいけないと主張して、それにしたがわせられたことを覚えている。彼の作品にたびたび登場する墓碑(もうろく)現象と生理学的暗示はすべてこの種の不快な記憶と結びついている。ずいぶん後になってようやく、反対刺激剤として、または詩の形で再現することができるようになった思い出である。

 タピエスの幼年期と青年期の初めは宗教的葛藤(父や一族の者はカトリックの神学校で学んでいた)に苛(さいな)まれ、罪深いことや秘密なことに恐怖と魅力を感じて苦しめられた時期であったが、東洋の哲学とクラシック音楽を見出して影響を受けた時期であった。

 彼のいちばんの楽しみは、よく体の具合が悪くなるのをいいことに学校を休み家で本を読んだり絵を描いたりして過ごすことだった。いつも病気がちの子供だった。初めはチフスに、次はマルタ熱にかかり、18歳の時には結核になった。結核の最初の徴候は重い頻脈の発作で、タピエスはこの発作で危うく死ぬところだった

 思春期と重なって起った内乱は空襲と空腹をもたらした。しかしそれと同時に、当時のブルジョアの子供にとっては全く未知の、自由というものをいくらか味わうこともできたし、記憶に焼き着く体験もした。

 のちに、いろいろな手法で作品に取り込んだ体験である。性的見世物の思い出・・・思春期の少年たちがかたずを呑んで見守る中で両脚を大きく広げる若い娘・・・が起源となって『人物のコンポジション(a)題する作品が生まれたのかなしれない。

   

 この作品ではひとりの男の子が、両手で胸を隠した女の性器をまっすぐ見ている。さらに、タピエスの絵に繰り返し現れるMの字が、大きく広げられた脚の形式的隠喩と解釈される例もいくつかある。タピエスは、1939年にどこかの廃屋で行われたフランコ派の愛国的儀式のことも覚えている。ひとりの若い男が氷のように冷たい水風呂につかることに決め、バスタブの四隅に両手、両足をつけて横たわった。「まるでそのバスタブににされたみたいだった。それに場所も埋葬地の近くという異様な状況だった・・・このただならぬ光景は私の心に深く刻み込まれた。」と、画家は『回顧録』の中でそう語っている。

 これものちになって、彼は、まだ若すぎる頃に売春宿へ通った時の嫌悪感を思い起している。「すでに老いさらばえた女の体かと思うようなあの肉体。私は惹かれるよりも強い反発を感じた。偶然見た母のくたびれた体や年取った女中の体・・・この場合は匂いまでも・・・を思い出させられることもあった。」

 読書はトルストイ、ディケンズ、ドストエフスキーからウナムーノ、ニーチェ、ポー、ワイルド、スタンダール、プルースト、ジードに及んだ。1942年、プイグ・ドレナのサナトリウム(長期的な療養(結核等)を必要とする人のための療養所)にいた時、完全に信仰を失い、インド哲学を徹底的に研究し始めた。後年、彼は不思議な幻覚を体験することになる。「私は自分の体の内側を見させられるのだが、それはまるで『宇宙』全体を包み込んでいるかのようだった。」彼個人の内部からきざしたこの幻覚体験は、しかし、苦悩の種だった。「当時・・・私は衣装戸棚の戸につけた大鏡に写った自分の姿を何度も見たが、戸が開いていると、ベッドに坐って私を見つめている蒼ざめた子供と正面から向き合っていることに気づく時もあった。その子供の目の下にはいつも隈ができていた。」タピエスの最も初期の作品には自画像が何枚もあるが、その顔は苦悶の表情や幻視者の表情を浮かべている。衣装戸棚と鐘後年の作品に頻繁に登場してくる

 美術の世界に入ったこと・・・もっとも、父はこれをばかげた考えと思い、平行して法律の勉強をするように言って譲らなかった・・・はひとつの救いだった。もうひとつの救いはのちに妻となるテレサ・パルバとの出会いである。フランコ体制がアヴァンギャルド美術を全て禁じたことから、40年代のスペイン画壇は気が滅入るほど精彩を欠き、印象派風の作品や、気楽で安易な写実主義(牧歌的または小ぎれいな風景画や静物画)、そして20世紀初頭に興った「ノウセンチイスメ」と称するカタルーニヤ派の流れを汲む民族派が隆盛を極めていた。しかし1934年に出版された『ダシ・イ・ダラ』誌の有名な特別号のおかげでタピエスはすでに、最初のヨーロッパ・アヴァンギャルド運動の旗手たちの名前と作品を知っていた。より高次の、詩にも似た美術形式、ヘーゲル的神に代えて、知恵あるいは知見を表す美術があっていいはずだと彼は考えた。美術は道徳的選択であり、人生に対する姿勢である。これはすべてのアヴァンギャルド運動が是とする前提であるが、各運動の中からタピエスが初めて選びとったのはシュールレアリスムだった。シュールレアリスム運動が意識下の世界や、魔術的で非論理的な事柄に関心を示していたことを、既定の道徳観に対する挑戦と見て魅力を感じたのである。同様に、フアン・ゴッホの深い懊悩(なやみもだえること)にも心惹かれ、ゴッホの作品をいくつか模写している。1945年、エルノミラクルの修道院滞在中にタピエスは、シュールレアリスムの影響がはっきり見られる様式の作品を猛然と描き始めた。

 これら初期の作品群は神秘的、汎神論的、魔術的感覚を強く表している。自画像の連作を例に取れば、体は自然の中に溶け込み、足は地中にのめり込んでいたり水の中に入っており、太陽と月と星が同時に姿を見せている全て同一の精神的エネルギーを放射している。宇宙は「一なるもの」なのだ。この、動植物界全体との交信は、抽象的記号へと細分化されているとは言うものの、後期の作品にも存続していると論ずることもできよう。

 たとえば、ジョアン・エドゥアルド・シルロは、「素材的(マテリック)」な絵に現れる平行に波打つ筋を水の象徴、あるいは先史時代の焼き物に非常に頻繁に見られる爬虫類の基本的動作の象徴ととらえている。

 これら初期の素描群では人物像はある種のアルカイックな原始美術にあるように中央に、静的に置かれている。また、儀式的情景が、通過儀礼や幻視の情景がある。目は完全に閉じているか、片方を閉じ片方を開けているか、または両方とも天を仰ぎ、精神集中や透視の霊的状態を表している足と手も同様に大きな重要性を持ち、裸体もまた、規則によって束縛されていない状態、より純粋に動物的な状態の象徴として立ち現れる。それより数年先だってアメリカで活動していた抽象画家の世代の場合に見る如く、原始美術とシュールレアリスムはアカデミズムと西洋の合理主義的伝統に対するいかなる反抗においても不可欠なかけ橋となった。そしてポロック、ロスコ、ゴーキーらの最も初期の作品と同じく、タピエスの初期の作品はそれ自体の興味深さもさることながら、伝統からの離反という文脈に置くことでいっそう興味深くなる。

 

 その様式は、線やモチーフを操り返して精神的エネルギーを表したり表面全体を線描で覆うなど、「アール・ブリュ」(狂人と落伍者の美術)の手法をいくつか再現している。しかし同時にピカソやピカビアのこだまも開こえてくる。1944年制作の素描(b)の両性具有的人物像には特にピカビアの影響が濃い。タピエスの画歴を振り返ると、興味深いことに、円熟期の作品で重要な要素となっている左右対称性(シンメトリー)は、アルカイック美術の影響を受けた初期の素描に見られるものを、洗練した形で継承していることがわかる。ハンス・プラチェクが、タピエスの絵の垂直軸と左右対称的構成はマックス・エルンストの「トーテム期」と呼ばれる時期の作品に表れたイメージと関連があるかも知れないと言っているのはこのことをさしているように思われる。

 タピエスの作品には力強い物語性があるにもかかわらず、彼としては各作品が精神的エネルギーの充実した独立の造形的オブジェであることを望んでいた。彼は言う。「存在としての作品の価値が護符かイコンとしての価値と同じくらい強くなければならなかった。」つまり、作品は自らを語るものではあるが、単に神秘性だけではなく力と強さの感覚をも伝えるものとされていた訳だ。これに関して思い出すべきは、マルローの伝えるピカソの言葉である。大画家はトロカデロ博物館を訪れたあと、こう言った。

 「ニグロ美術の作品は仲裁するため、調停するために作られている・・・作品はあらゆるものに対峙している・・・未知なるものに対時し、悪霊に対峙している・・・黒人がああいう彫刻を何に使ったかわかった・・・人々が霊に惑わされて再び堕落することのないように手助けする武器、人々が独立していられるように助ける武器だ。道具なのだ・・・霊、潜在意識(この言葉は今日ほど一般化していなかったが)、感情・・・みんな同じだ。」「自分が画家である理由がわかった。」ピカソのように、一般に伝統からの離反という純粋に形式的な側面から研究されてきた画家のこの言葉はきわめて示唆に富むものであり、ここにおいても、先に触れた「俗人の」悪魔祓いに通じるものがある。

 アヴァンギャルドに対する興味、魔術の世界に対する興味、そしてワーグナーに対する興味から、タピエスはまもなく詩人ジョアン・ブロツサと親しくなった。タピエスは1950年にブロツサの肖像を描いている・・・もっとも、1970年にこれを改作し、初めの絵のアカデミックなタッチを「消す」記号を描き足して胸のところに謎めいたスポンジをつけた(右図)。当時すでにブロッサは、戦前のアヴァンギャルド運動を代表する二人の傑出した画家フォイスとミロの知己だった。ブロツサとタピエスは、現代美術の有力な後援者ジョアン・プラッツの後押しで、アルナウ・ブイグ、モデスト・クイクサルト、ジョアン・ポンスとともに、タラツを出版元とする評論誌『ダウ・アル・セット』(1948−51年)を発行した。『ダウ・アル・セット』誌の画家たちが一様に好んだ様式はシュールレアリスムであったが、彼らは他のことにも時間とエネルギーをかけた。

 ミロ、クレー、ピカビア、シェーンベルクらの知名度を広げようと努めたり、ジャズやガウディを論じたり、超自然的な事象や悪魔的なもの、あるいは現代心理学(当時スペインではフロイトはまだ殆ど知られていなかった。いずれにしても、のちにタピエスに大きな感銘を与えたのはユングの理論だった)に対して旺盛な興味を示したりした。1950年に「ライユタネス画廊」で個展を開いたタピエスのためにブロツサが書いた託宣祝詞の好例で、当時のブロツサの作品に顕著だったニーチェ風の調子を具えている。「魔法使いの棒で塚の項きに触れる、これは吉兆ではないか? そののち、見よ、人にとって新たな時代となる日が訪れ、高慢な心は最期を迎えるであろう。そしてまさにその日、卵は石の殻を捨て、沸き立つ唾が人の口からこぼれ落ちるであろう。」

 この頃は確かに、タピエスは黙示録的な、神秘的な類(たぐ)いの風景画を描いていた。しかしそれより前の1945年から1947年にかけては、絵の具を大量に使った作品を制作している。フアン・ゴッホの絵のように、筋をなす絵の具の中から原始的な顔や手が浮かび出ている作品である。同じくこの頃、紙や糸、あるいは他の型破りの素材を使ったコラージュをも制作している挑発したいという欲求がそもそもの動機となってはいるが、時に指摘されるほど否定的なものでないことは確かである。「ここには紛れもなく苦痛と悲惨さがあるが、おそらく、悲しみとか思いやりといった、最もつつましい者に対して抱くあるやさしい感情を伴っており、確かな現実の世界に完全に溶け込んでいる本質的なものを求める気持ちが込められている。」と、これらの作品について画家自身が語っているが、この解説は彼の作品すべてに完璧にあてはまるものである。これらの実験の中には、基本的には「高尚な」素材からの離反を

表明するゼスチャーからなる作品(図1)もあれば、1947年制作の『十字のコラージュ』(図3)のように構図に対する天性の感覚が現れている作品もある。

 同年制作の『厚紙の上の≪ダラッタージュ》』(図2)では、子供の絵に見られるような目鼻立ちの人物が厚紙の台紙にあけた穴でかたどった体を与えられ、基本素材がただの造形要素ではなく、表現要素ともなっている。

 光もまた、狙い通りに現実と非現実のあわいを作り出すのに一役買っている。

 大いなる閣の真中に斑点あるいは照らされた部分をなす神秘的な光(ちなみに、ターナーやレンブラントを思わせる)は、1948年から1952年にかけて描かれたコンポジション作品群で、クレーやミロ(c)および(d)との関わりを示すようなシルエット風の人物や記号をともなって、再び登場してくる。

 このような光の点は構図に奥行を与えているが、1950年と1951年に描かれた作品では背景図法によってその効果がいっそう高められている。これらのうち、余分なものを一切そぎ落とした作品はその建築的要素から、シュールレアリスト画家タンギーの描いた夢幻空間を思い出させる。

 画面が別し得る要素で満たされている時には、、各物体は不合理な並置や遠近法の改変によって不安定さを強く・・・表している。『滋養」(図5)『ウォタンの手品』(図6)がその例である。

 後者のタイトルは、ワーグナーの楽劇の主人公である詩人=英雄から「蜂蜜水(ハイドロメル)」(この飲み物は生命の起源であるとする解釈もある)を盗み取った魔術師で詩人の北欧神話の神を意識させる。留意すべきは、ワーグナー熱はカタルーニヤでも相当広まっていたものの、50年代当時、ワーグナーを賛美することは、ナチズムとの連想で、左翼の知識人から挑発と受け取られかねない行為だったということである。

 1949年と1950年には、前向きの姿勢を持った芸術家たちが、現代美術と関連する政治的懸案に対する有効な解釈を求めて問題提起をしていた。10年前のアメリカの画家たちの場合と同じく、彼らのジレンマは、時代の最も先鋭的な政治的立場、つまりマルクス主義、と一敦する造形美術として何を選択すべきかということにあった。バルセロナ駐在のブラジル領事で詩人でもあったジョアン・カブラルの人間性がブロッサ(のちに、詩的ではあるがいくらか社会現実主義的内容の戯曲を書いている)にもタピエスにも決定的影響を与えた。タピエスは、現代美術の形式主義に代るものは「人間世界の再発見」でなければならないとするカブラルの見解は受け入れたが、抽象美術切り捨てには同調しなかった。タピエスが『紙幣のコラージュ』(図7)を制作したのはこの転換期である。作品は現代の人工的産物の一つに対する明快な解釈と見ることができよう。

 18世紀末以来、紙幣という慣例的基準によって表されてきた「物」の物質的価値がここでは赤インクで汚されている紙幣は「Ⅹ」の形をしている。のちの作品で何度も繰り返し用いられる記号である。1952年から1953年にタピエスが着手したのは、月や非現実的な光などの要素を入れて神秘性を残しつつも、ある程度、幾何学的抽象が現れた作品群「アンフォラ』(図8)はその最善の例ではないだろうが・・・であった。

 1953年以降、タピエスは次第に逸話的要素やシュールレアリスムの最後の痕跡をそぎ落として行き、かわりに円熟した独自の様式を作り上げた。もちろん、これは突然の変化ではなく、きわめて知的な錬磨の過程を踏まえたものだ。それまで依然として「物語」に従属していた、初期作品の神秘性は、素材の処理を通して両義性へと変えられた。この素材処理は初期の実験から生まれたものだが、タピエスは、単なる意志表示としてではなく造形に直接関わる問題として正面から実験に取り組むようになっていた。彼自身回想しているように、その契機となったのはミロの作品にあふれる自由と実験感覚である。1954年制作「赤い染みのある白」(図9)などの絵はすでに完成の域に達した美術作品である。

 こうしてタピエスは30歳にして造形的力と独創性を身につけ、国際的評価への扉が開かれた

 1950年27歳にカーネギー賞を受賞し、1952年29歳には「ヴェネツィア・ビエンナーレ」に選ばれた1953年30歳には「サンパウロ・ビエンナーレ」で大賞を獲得し、ニューヨークの「マーサ・ジャクソン画廊」で個展を開いた。スペインではこの頃フランコ政権が、スペイン抽象美術界で最も傑出した作家たちを後押しする政策を取っていた。文化的でリベラルな体制というイメージを対外的に与えるためである。タピエスは当時確かに公の展覧会に出品しているけれども、どんな画家であれ国際舞台(たとえそこに参入するつてがあったとしても)のみに活動を制限したり、体制「反対派」の貧弱な芸術活動だけにとらわれたりすれば命取りになる。この点に関しては、相反する行軌、自ら取った立場、後に反フランコ抵抗運動に協力したことなどについての詳細な説明とといこ画家の『回顧録』に多くの資料がある。