アントニオ・タピエス-2

■国際的状況:非具象美術、実存主義

 タピエスの作品は、非具象絵画と呼ばれるものと実存主義と称される哲学運動が主流を占めていたヨーロッパの状況の中でとらえるべきであろう。本稿では共通点や差異について詳しく分析する紙幅はないが、一般的に言って当時の人々は、第二次世界大戦の結果、人類というものの意味について思いめぐらし、美術の分野においても同様の造形的解決を採り入れようとする世代を形成していたと言えるかも知れない。この意味でタピエスが実存主義者たちと共有しているものは、無数の可能性の中で自分自身の選択をしなければならない状況に立たされた主体としての人間、倫理的研究課題としての人間に対する関心である。

 彼はまた、人間の存在は特定的、歴史的、個別的であって、何らかの絶対性の顕現ではないと信じている。実存主義者の典型的見解のひとつに、人の自己認識欲は苦痛、欲求不満、病気、死などの、存在の否定的側面によって相殺されているという信条がある。ジュリオ・カルロ・アノレガンによれば、タピエスはハイデッガーの根元的存在論(人は死に向かう存在である)に対抗して「死とともに生きる存在」だととらえている。アルガンは言う。「彼は対象と同一化する。たとえそれが苦痛に満ちた、そして常に不完全な、自己放遂の過程を経るとしても‥…・素材を自らの苦悩で満たすのだ‥…・この二つの極の間には愛と憎しみ、憐憫と残忍性の激流が行き交っている。」

 しかしアルガンは同時に、タピエスの作品を彼の世代の持つ歴史的、人間的文脈と関連づけて、フランコ体制下のスペインという闇ばかりでなく今世紀ヨーロッパの他の「闇」、すなわち怖れや不安や監獄や戦争に対する暗喩と解してもいた。第二次大戦直後に興った非具象美術はこのような背景に照らして考えなければならない。非具象美術・・・「素材(マテリック)」美術と呼ばれることもある・・・はこれを論ずる批評家しだいで、肯定的評価を受けたり否定的評価を受けたりしてきた。たとえばジャン・カスーは、単に世界に対する自暴自棄の否定に過ぎないとしている。

 しかし、弁護する側の大半は、これはマチエールに自らを語らせる美術なのだと論ずる。多くの人は・・・特にジャン・フォートリエの作品を語る場合・・・その証拠として、当のマチエールが不定形のカオスと化している事実を挙げたり、事物はまさに誕生の瞬間に造形的形態を与えられるのだと主張する。まるで、根元的な原初のマグマか何かの問題を論じているような具合である。現実体験と物自体を重視し「である」と「ように見える」を区別しない、今世紀の現象学(フッサール、メルロ=ボンテイ)の衝撃が間接的影響となって、このテクスチュア詩、顛末(てんまつ・ものごとには一つ一つに対し、それぞれ計画や経緯、そして結果などの要素がありますが、これらの要素で構成されたこと)なもの(これは、サミュエル・ベケットの場合には不条理なものに変容している)や日常的なものをうたった詩が生まれたことは疑いを入れない。非具象美術は、しかし、人間の主体性を奪う種々の疎外に対する反動、また、安逸な暮しや科学技術の進歩という偽りの価値に対する弾劾ともとらえられてきた。

 この点でタピエスと比べられるのはジャン・デュビュッフェであろう。西洋文化の形式主義や理想主義を批判したり、匿名性や画一性を糾弾したというだけでなく、その反発のうちには、最もつつましいもの、最も卑近なものを再評価する積極的な側面があった点においても共通している。ただ、デュビュッフェはほろ苦いユーモアを込めて事物を見ているところがタピエスと違うことを指摘しておかねばならない。非具象美術としてのタピエスの作品についてこれまで行われてきた読み解きの多くは(形態が素材のうちに溶け入っていることを論じる際に)図像学的解釈をいっさい認めないもので、この画家の持つマチエールの概念を誤解したことから生じた二つの典型的解釈がある。

 その一つは、感覚に直接働きかける実験としてマチエールの物理的諸相を提示しているに過ぎないとする解釈、また一つは、描かれた素材は人間の実体験と対峙する「原資科」の役を果たすというようなどこか哲学めいた解釈である(粉末大理石をラテックスや他の素材と混ぜ合せるといった、タピエスにとって制作技法に属すること哲学用語とは別の次元のことであると、トマス・リョレンスはきわめて明快に論じている)。

 また、タピエスの作品の意味を絶対化しようとする誘惑にかられた批評家もある。たとえばミシェル・タピエは、安易な装飾主義に溺れた現状に対する反動としての「純粋絵画だ」と言う。「彼の作品のドラマチックな内容は‥‥‥何ら逸話的ではなト‥‥絵を描くという行為それ自体から出たもので、彼のやむにやまれぬメッセージ全体を支えているのは画面構造とテクスチェアのみである」

 一方、ジュアン・エドゥアルド・シルロは、物質の精神化・・・タピエスの一部の作品に明らかに見られる特色である・・・に触れつつ、タピエは全く逆の道すじを辿って「物質とは精神であり・・・画面の構造と秩序を通して顕在化し得るものだということをタピエスは知っている。」と述べている。

 こうして、美術のような異なる次元が理想主義的な哲学論議にとりこまれる。物質・・・外界の実在・・・は我々の理性あるいは霊魂(サイキ)の投影として以外には、それ自身の存在をいっさい持たないことになる。このカタルーニヤの画家にあっては、物質は客体と化した思考に変容する。芸術は「イデア」の地上的表現であるというヘーゲルの定義にきわめて近い概念である。

 虚無主義や、人間生活を最もあさましい部分でとらえるペシミスティック(悲観的)な還元主義云々(うんぬん)する一部の批評家に対する反論として、ベル・ジムフェレールは、彼の見るところそれは単なる死の儀式ではなく未知なる世界に通じる入口なのだと書いている。熟視することもよって聖なるものの降臨をもたらし今日失われているある価値を回復する美術なのだと

 しかしジムフェレールはさらに一歩すすめて、タピエス形而上的画家であり、彼の作品は我々を導いて「交信不可能な世界との交信を再び見出させ、自然界に意味を与える霊的黙想のための器なのだと説く。また、「本質的なるものの炎を輝きわたらせるために、介在する要素を打ちこわすことによってしか救い得ないこの目に見える世界を(あがな・つぐないをする)い、救うもの」だも言う。現実なるものと神なるもの、あるいは卑俗と神聖(「未知なる世界」とか「交信不可能な世界」という言葉は明らかに曖昧である。人間存在の究極的意味とも取れるし、人間自身が達成した霊的超絶性とも取れる)という二分法を立てるジムフェレールは両者のうち後の方を特に好んでいるらしい。物体は、いったん浄化された後は、神秘主義の立場からいえば実際に経験するか呼び起すことしかできないある体験に対する媒介者としての役割以外に何の役も持たないとされているかに見える。

 「本質的なるものの炎」を語るジムフェレールの言葉は、ある種のプラトン的観念を思わせるほどである。タピエス自身が言った次のような言葉を字義通りに受け取れば、この観念にしたがって解釈しようという誘惑にかられることもあるかもしれない。「時々、足とか頭を描くとすぐ後に感じるのは、これは本当の頭ではなくてこの内側にもう一つ発見しなければけない頭があるのだから、これはこわす必要がある、ということだ。」描写の個別性を取り去ったところに理想的な頭の形が現れるという、これほど原型の概念に近い考え方はないだう。しかし私見では、タピエスの作品には図式的なところや現実逃避はいささかもなく、こにあるのは「欠点も含めてすべて」さらけ出した生命力あふれる、情熱的な、節度がないほどの肯定、作品を記念碑化し高貴にする肯定である。還元したり細分化したりする場合も、その過程は本質において詩的なものだ。

 こうしてタピエスの写実は、機械的な世界像ぎこちない写真のような世界像とはほど遠い真に本質的な写実となる。彼は現実を出発点とし、ある物は単純化しある物は拡大して、より力強いと同時により直接的なイメージを我々に差し出す。闇、沈黙、孤独、空虚さが神秘的体験を高める・・・あるいは、少なくとも瞑想的態度を促すことは確かである。その中身は、見る者自身の考え方や経験や信条次第となる。

 しかしいずれにしても、霊的なものは人生においてブーメランのように逆戻りしてくるもで、そのことは画家自身も1955年32歳に書いた文章の中で仄(ほの)めかしている。

 「美術はひとつの記号、客体であり、現実とは何かを我々の精神に示唆するものである。」彼の作品の起源をし、外界ばかりでなく感情までも蒸留してイメージ化してゆく方法に関わる画家の言葉を引用すれば、おそらく得るところがあるだろう。まず、彼が1964年41歳に書いた文の中には、識眼、鑑賞眼がなくては語れない、ティーカップの粕薬の細部について評価した言葉(実にレオナルド風の、したがって実に視覚的な)がある。

 そして1967年44歳には児童雑誌の読者に次ように助言している。「見ることです。まっすぐに物を見つめること。そしてきみたちの心響くことや目に見えるもののすべてに身を任せるのです。」さらに1982年59歳にはルバラ・カトイールのインタヴューに答えてこう語っている。「感情のひとつひとつにイメージのようなのがあって、そのイメージを忘れないように紙にメモしたりするのです・・・そうすると、自分の表現したい観念と実際に描く形の間に一種の葛藤が起るのです・・・。」

 写実主義の問題については後でまた取り上げることにしよう。ここでは、否定と肯定の二分法と見えるものについてもう少し掘り下げてみたい。たとえば、タピエスの世界についてたいへん感性豊かな理解を示しているョアン・テシドールは、彼の作品は「秘匿(ひとく・こっそりとかくすこと)に向かいがちであり」、どことなく「自発的脱走」あるいは「強迫的沈黙」という雰囲気があるとしている。彼はさらに言葉を継いで、しかしそこには常に、虚無性と対照的でありながら、しかもそのような無神論的否定から生まれたかに見えるある信仰がある、と言う。

 実際、すでに指摘したように、タピエスの芸術の偉大さは一部には、沈黙、死、鞭打ちといった暗い主題に与えられた記念碑的性格に基づいている。これらの主題はその厳粛さによって、また、処理を通して表れる存在感によって脆弱さを免れ、一種、否定的叙事詩といった性格を帯びる。これはおそらく、ハーバート・リードがピカソの『ゲルニカ』について言ったように、現代のような時代が生み出し得るのは否定的記念碑しかないということなのだろう。そして、後で個々の作品について見る時にわかるように、切り裂かれた跡が限りない憐憫(れんびん・ふびんに思うこと)で満たされている場合もある。

 しかし場合によっては、悲劇的叙事詩が・・・ゴヤの作品にあるように・・・月並なものに対する積極的肯定と対比される。科学技術による設計で汚染されていない日用品、使い込んだ跡が人の手を感じさせ、人の役に立ってきたことを思わせる、余分なところのない品々。それらは同時に、我々の手の屈く範囲にある世俗の記念碑でもある。テーブル、椅子、杖、毛布、眼鏡。作った人間の聡明さを示すとともに、人間がそれらを利用して行うさまざまな行為、休息したり、愛を交わしたり、雨露をしのいだり、本を読んだり、等々の行為をも連想させる。

 生理的なものと知的なものはこうして何の「階級差」もなくひとつに結び合わされる。タピエスにとっては・・・東洋の哲学者、そしてある程度までは現代のダダイストにとってそうだったように・・・両者はともに生命の表れだからである。とりわけ、よりよく見る、あるいはより「多く」見るための補助の役を果たす眼鏡は、美術そのものの暗喩、我々に新たな日で周囲の現実を見させる美術の力の暗喩となる。タピエスの作品を見た後では誰も、剥(は)げかかった壁や藁の束を、また毛布のひだやトラックの後ろからとび出ている品物に結んだ赤いボロ布を、前と同じ目で見ることはできなくなる。

 我々の日常環境にある多様な物の中でもいちばん粗末な品々を美術的対象として眺めたり描いたりすることができるのは相当豊かな暮しをしてきた人間だけだという反論・・・社会学的見地からはもっともだが、美学的見地からは的外れな・・・があるかもしれない。貧しい人が突然金持ちになると古い家具を棄てて新しいのを買うことがよくあるが、その新しい家具というのが大抵は趣味が悪くて、「高級」家具かそうでなければ現代感覚の機能的デザインの粗悪な模造品だということはよく知られている。つまり、安楽さの点では前よりよくなった・・・人間的には正当なことだが美しさの点ではとてもそうは言えないということになる。このような議論に対しては、日常生活の論理は美術にはあてはまらないと反論できよう

 18世紀後半、カント有用性の概念と美の概念を峻別した。しかし、至高なるものという基本概念を発展させて、苦痛や恐怖はそれが現実に我々を脅かさない限りにおいて美的快感になり得るという認識を確立したのはバークである。すなわち、美術を考える時、(視覚的理解を高め、世界の意味を解する力を養うといった、美術固有の機能性とは次元を異にする)対象自体の機能性は不問に付されるのである。木こりが森を見る目は植物学者や、単に美しさを楽しむだけの散策者見る目同じではない。

 さらに、「下等な」物を美術的モチーフとして考えることには歴史上豊かな伝統がある。たとえば、オランダの絵画には日用品がひきも切らずに登場する。もっとも、常に逸話や絵画性の脇役であることは確かだ。これに対し、スルバランの描く日用品は、タピエスの詩学にきわめて近い地味な記念碑的性格と精神性を与えられている。

 この点で我々は、カタルーニヤの画家と17世紀スペイン画派の文学=美術的作品の間には、直接的影響はないけれども、到達した結果の共通性においてつながりがあるとする見解に賛成しなければならない。ここで、タピエス自身のコレクションの中に「伝スルバラン作」とする絵一枚あることをつけ加えておくべきであろう。ヴァルデス・レアル、リベラ、カラヴァッジオの作品も同じく、苦痛、苦悩、死などの主題に満ちている。そして、これらはロマン主義の世界や表現主義各派の終始変らぬライトモチーフでもある。

▶︎多面的な写実主義

 これまで、タピエスの作品の表す意味および「物」・・・あらゆる写実的絵画様式に共通の定数でもあった・・・の重要性について述べてきた。しかし、写実主義に対するこの肯定はどう解釈すべきだろうか。二つの基本的観点、すなわち描写の観点および主題もしくは図像(イコン)の重要性という観点に沿って非常に広義にとらえなければならないことは、間違いない。したがって、「タピエスが我々に示しているのは、絵画は何よりもまず視覚的事実であるということだ。しかしそれだけではない。〔彼の絵は〕ひとつの主題を明示している・・・。」とハンス・プラチェクが言っているのはまさに正しい。

 このように、我々がタピエスの作品に見る(あるいは認めようと努める)ものの意味、もしくは記号の重要性は、非具象美術の・基準に基づいて行ったタピエスの絵画の解釈、形態がテクスチュアに溶け入っていることを前提とした解釈と矛盾する。タピエス自身はかつてシリシ・ペリセルに言っている。デュビュッフェやフォートリエが50年代に用いていた素材はチョコレートの塊みたいに曖昧で不定形だったが、一方、自分が好んで選ぶ素材はそれ自体が何かを語っている素材である、と(実際にはどの素材にも含意(コノテーション)がある訳だが、ここで我々の興味を引くのは、何かを語ろうとする意志という点と、定形と非定形との違いである。)

 タピエスの作品に写実的性格を読みとることは一部の批評家によってかなり頻繁に行われてきた。そういう批評家は、しかし、どれかひとつの形式、画家が用いるどれかひとつの描出方法を取り上げるのが普通である。たとえばシリシは、技法としての素材、特に、油彩から濃度の高い顔料へ、「魔術的」幻想からコラージュへの転換を軸に自分の写実主義論を展開した。ハーバート・リードは、これらの作品は「自然主義的ではないが非具象的でもなければ激動的でもない」と、問題を明確に示唆しているが、彼が着目しているのは自然の提示の仕方という点のみである。

 「自然は単に物理的客体であって、風や雨が我々の眼前で行う魔術以外何の魔術も持っていない」そして、ジュリオ・カルロ・アルガンはさらに深く踏み込んで、この絵は「物としての条件を保持しているが、それは描写という意味においてではなく、その描写が不可避的に立ち現れ具体化したという意味においてである。」と述べた。このように、ひとりシリシ)はより密度の高い、あるいはより実体的な素材について語り、もうひとりリード)は自然の提示の仕方、もしくは言い替えパラフレーズ)とも言うべきものについて語り、三人目アルガン)は物と化した描写について語る。つまり、タピエスの芸術は意図的な両義性を持つ・・・詩はすべてそうである・・・ばかりでなく、現実との関わり方や現実描写の方法、そう言ってよければ、作品として我々に現実を差し出す手法においてもきわめて複雑だということである。

 一般的に言えば、一見イリュージョニスティツクなテクスチュアとか、テクスチェアの転換、実物の提示といったさまざまな手法について述べたり、足跡、指紋、グラフィックな記号、記憶の中のイメージなど、現実または現実の記憶を暗示する仕掛けについて述べるべきだろう。

 また、作品を全体的に見ると、そこには存在感と回避性がともにあり、統一性と細分化、もしくは「継ぎはぎ」、が併存していることがわかるという事実にも触れるべきだろう。この種の仕掛けをよりよく理解し、誤解される危険性を常にはらんでいる。一般化を避けようと思えば、作品そのものを分析し検討するに如くはない。しかし、それに取りかかる前に明確にしておかなければならないことが一点ある。すなわち、以下の論評は作品の制作年代を追って論じたものではないということだ。これは、『ダウ・アル・セット』誌時代のシュールレアリスム作品以降のタピエスの絵には、過去との大きな帝離(かいり)や様式的変化がないという単純な理由による。主題は一貫しており、手法は繰り返されている。

 時として新しい手法、たとえば(1956年の『金属シャッターとヴァイオリン。を先例とする)70年代のオブジェや、イリュージョニズム性の強い80年代の作品などが登場してはいるが、だからといって、他の手法がかえりみられなくなったということではない。

 さらに、さまざまな描写方法の違いを基本に論じるとは言え、各々の主題の持つ意味もきわめて重要であり、同様に、直接間接に影響を与えた他の作家の作品と比較検討することも重要である。後の点について言えば、問題は、「形式の発展」やその他個々の発明を最初に成し遂げた画家は誰かということを確証すること(これはこれで、別の専門的研究の主題とはなるだろうが)ではない。言うまでもなく、画家と画像(イメージ)の間には不断の関係があり、今世紀のアヴァンギャルド画家の一部が行った過去との劇的な訣別を考慮に入れずに各々の画家の作品の力と質を評価する傾向が着実に大きくなっている。

 タピエスの場合、概して、文学畑の作家によって研究されてきたこと、したがって、純粋に美術的な比較を異とする分析が、個々の作品の詳しい研究とともに、待たれていたことも指摘しておく必要があろう。

▶︎テクスチュアによる擬似性

 物の質感(テクスチェア)・・・言わば、物の「皮膚」・・・を第一として描写することは、19世紀フランスの写実主義画家ギュスターヴ・クールベが当時厳しい批判を受けた点であった。この画家が物の物理的外観滑らかさや粗さ、透明度や輝きを強調したからである。

 描写の対象とするには高貴さが足りないとみなされていた要素を描いたというので、彼は同時代の人々から、下品で粗野だと酷評された。これは、今日、カタルーニヤの美術愛好家の一部がタピエスに対して行っている批判のひとつを思い起させる。マヌエラ・メナは(使われている素材とそれが表している物質との間に等質性がある点で)非具象絵画の一つの先例として、ゴヤの有名な『犬』(現在、プラド美術館にある)を挙げている。

 絵の具を厚塗りしているために犬が砂地にうずくまっているように見えるこの絵は、砂地の質感を絵の具で完壁に模している(ただ、この壁画がもとの場所から動かされたためにこういう質感を生じたのではないかという可能性があり、未だに答えが出ていない)。

 タピエスが1954年に描いた『赤い染みのある白』(図9)のような作品を今日見ると、そのテクスチェアから直ちに連想されるのは街の落書きのように引っかいた印のある壁の一部だ。しかしイリエージョニズムは完全ではない。画家はこの白っぽい素材をニス塗りした画面の上に置いでいるからである。ちなみに、これは近年の作品に見られるニスの多用を予告している。壁という主題からはさまざまな意味を苛み取ることができる。この作品は、ゴシック地区にあった古い壁とスペイン内乱という二つの思い出から生まれたものである。

 壁は、一種の現代版「ヴァニタス」とも言うべき、移り行く時に思いを馳せるための空間であると同時に、その古びた、みすぼらしい、殆ど屈辱的な外観から、一人の人間の閲歴(えつれき・ある人が、社会的にそれまでにすぎてきたあと)彼の希望や夢、受けた罰の暗喩とも見える。ホセ・L・バリオ=ガライが指摘しているように、ボーディダルマの『マハヤーナの壁の瞑想』を読んだタピエスが、種々の想念へと導く支えまたは媒介として作用する壁の瞑想と、禅の瞑想との相似性に思いいたったのもこの頃のことだ。

 レオナルドが青年に与えた、喚起力に満ちた壁の染みを見つめるようにという助言も、近代の実証主義に対する抗議の象徴とみなされた、廃墟というロマン主養の主題も、タピエスの壁に対する偏愛の遠い祖先であることは間違いない。また、アッジュとブラッサイが1920年代に撮ったパリの古い壁の写真(ブラッサイの重要性についてはタピエス自身が、『壁に書かれた言葉』と題する有名な文の中で認めている)をも思い起すべきだろう。『赤い染みのある白』に戻ると、中央には粗っぼく引っかいた円、指の跡のような3本の線、×の形をした十字、絵の具で描いたもう1つの円、2つの染みがある。

 トマス・リョレンスの指摘のとおり、これらの記号を象徴や表象と分けているのは、その因習的でない性格、すなわち、慣習や伝統によってあらかじめ決められた有限の規則にしたがって解読することができないという点である。画家自身は、彼が自分の作品にある記号を配するのはその記号が好きだからだと言っている。おそらくこの言葉には、構図全体の中における純粋に造形的な機能ということと同時に、潜在意識的な反応(たとえばAやTは彼の名前の頭文字であり、×形の十字は消去、したがって拒絶と断絶の記号である)を見て取るべきだろう。

 しかし、パルバラ・カトイール×は読み書きのできない者の署名であり、Ⅴは葬式の象徴だと言っているように、これらの記号を別の読み方で読んでいけないという理由もない。1955年制作の『大きな灰色の絵』(図12)では、×が、「壁」に白でくっきり描かれている。描写が物と化す、と一部の研究者が言う時、実際にその言葉が意味しているのは、絵がイリエージョニスティツクな性格を失って別の独立した実体に変るという事実である。しかし、言うまでもなく、いかにイリエージョニスティツクな絵といえども実体そのものではあり得ないので、タピエスにおけるこの「物」化は、質感を出すために使用した現実の素材によって強められるばかりではなく、浅浮彫り(バー・レリーフ)技法を強調したり、一部の作品に見られるように形態を囲い込んだりすることによっても強められる。

 『大きな灰色の絵』では、剥げかかった壁を思わせる素材は実際には、偶然とはほど遠い処理がなされている。中央の大きなマッスの下辺は、『胡桃の形をした素材』(図29)や、もっと図式的な『≪エト・ァミコールム≫(そして愛しき者たち)』(図57)のように、他の作品にもたびたび現れる形である。

 この有機的な形態は、あまり幾何学的になりすぎないための抑止として働く。また、この有様性により、マッスを人体に擬して読みとることも可能になる。腎部と女性性器(または肛門)を思わせるところもあるが、他の作品ではそれがさらに顕著になっている。要するに、この形態は作品が単なる壁のテクスチェア表現と見られることを防いでいるのだ。

 もっとも、これが実際に壁の断片である(しかも画家が壁の断片として置いている)ことももちろんあり得る。さらに留意すべきことは、断片的な像というものは近代的認識の典型的特徴(マニュリストたちの中にこの先駆的例が少数見られるが)であり、ドガや印象派の作品にその例が豊富にあるということだ。しかしタピエスは、作品を一見、スナップ写真のように、偶然切り取られたように見せるこの仕掛けを部分的に利用するにとどまっている。ここで支配的な要素は構図であり、(人体に限らず最も広義の)姿かたちを強く暗示する両義性構図のバランスとの複雑な相互作用である。もし中央の矩形が上部で連続していたら(上左隅の「入り口」にも注目のこと)絵は失敗だったろうという気がするのである。

 同様のことがモンドリアンの作品にも言える。厳格な数学的左右対称を破ることに注意を払ったモンドリアンだが、それにもかかわらず画面には新たなバランスが生じているのだ。1958年から1960年にかけて制作された『象形文字』(図14)では、落書き風の、文字らしきもので埋めつくされた壁面左側は、いい加減に切り落としたように見える。

 しかし右側では青い地と対照をなし、横に引いた何本かの線が落下の動きを作り出している。色調の違う青が海と空を連想させるところから、壁は一種の崖と化してしまった。文化は繰り返し自然と結び合わされる。ただし、この場合、文化は解読不能の暗号の形を取っているが。

 ところで、タピエスの考古学熟は昔からのもので、学生時代に論文のテーマとして彼が選んだのは『ウルク王朝と楔形文字』であった。加えて、過去の痕跡は喚起力が高い(廃墟や、時を経て古びた物についてタピエス自身が言っているように)だけでなく、同時に、あらゆる隠されたもの、深遠なもの、象形文字の場合なら、伝達不可能なもの、に対する暗示ともなる。象形文字が我々の興味をかき立てるのは、我々の理性ではその意味を明らかにすることができなかったからだけでなく、・・・こういう解読不能の書を好んだシュールレアリストたちにとってそうだったように・・・西洋文化とは異なるある象徴的座標を表しているからでもある。

 形態とテクスチェアを一見した時にはまるで「だまし絵」のように見える作品群がある。たとえば『胡桃の形をした素材』(図29)は、確かに、胡桃のしわの寄った外殻を模しているように見える。ところが細心に見ると、これはハイパー・リアリズムどころではない。胡桃の殻の外表面も、内部も、いや胡桃そのものさえも、正確に描かれてはいないのである。胡桃の殻の自然な曲線(伝統的描写では陰影をつけて表される)が、ここでは、主に中央の縦線と、底辺近くでカンヴァスの緑と平行に走る溝もしくは筋のために平面的になっている。絵がかなり大きい(195×175cm)ため胡桃は異様に拡大され、年取った人間の皮膚のしわシリシなどは、この作品に老婆の性器を読み取っている)にも似た表面に変容する。しかし、胡桃の「ゲシュタルト(形態)」から逃れることはできない。タイトルにあるからというだけでなく、単色の地と境界をなす輪郭線のためである。まるで大写しで見ているかのように物を極端に拡大するこの手法は、マグリットの1953年の作品『立ち聴きの部屋』や1960年の作品『闘士たちの墓』に見られる。この二つの作品ではそれぞれ、巨大なりんごと薔薇が部屋に納まっている(ただしマグリットにはもちろん、高度のイリュージョニズムがある)。

 また、タピエスがこの絵を制作したのと同じ頃、「ポップ・アート」の画家が何人かこの手法の作品を描いている。あるいは、マックス・エルンストの『オイディプス王』1922年)と題する有名な絵に描かれた、矢が横切っている半ば開いた胡桃を思い出してもよいだろう。

 この作品でも、胡桃は(手や烏と同じく)家とは不釣り合いの大きさである。しかし、囲い込まれた楕円によるこの型の構図について見る時にさらに想起しなければならない(タピエスは東洋の美術や思想に関心があるのだから)のは、ある種のマンダラであり、ジャイナ教徒の地図である。これらにおいては、円または平板な楕円が正方形または矩形の枠の中に置かれ、四辺に接しているものもあれば接していないものもある。

 このような地図やマンダラでは、円または楕円は基本元素をすべて具えた宇宙を表している。そして我々は一般に、楕円形を創生(細胞、胎児、など)の概念や世界の誕生(白い大理石の卵にこのとおりの題をつけたブランクーシの作品があるし、マーク・トービーが1944年に制作した『世界の卵』という作品の題も示唆的である)の概念と関連づける傾向がある。

 この連想はタピエスの1957年の作品『白い楕円』(図15)では、パラドックスの手法によるものではあるが、いっそう顕著である。一方ではその白さゆえに素材の含意を遠ざけ、マレーヴイツチの『白の上の白』(1920年)のような、殆ど形而上的な光に近づいているのに対し、他方では象の皮膚か、焼けて乾いた地面のようにひび割れた表面を表している。

 また、楕円形はどんな画家の潜在意識においても、絵画史上の伝続的型として生き続けていることを念頭に置いておくのもよい。これは17世紀に初めて登場したものだが、今でも一部のブルジョア家庭の室内装飾によく見られる、かなり後年の絵画の枠取りに確かに受け継がれている(そのため、キュビストたちはこれをパロディ化している)。しかし、西洋の伝統においてさえ、これらの形態は宇宙論的解釈を許す。中世の彫刻で幼な子イエスの手に載せられた球は宇宙の象徴なのである。

 だが、形態の相似性(『白い楕円』はきわだって両義的な作品であるため)にひかれて、実際の質感を模しているように見えるテクスチェアのことをしばらく忘れていたようだ。こういうテクスチェアの極みを1968年の作品『腋の下の形をした素材(図28)に見ることができる。イリエージョニズムは完壁と見える。毛は本物で、赤い裂け目は傷口の完全な擬造だ。しかしここでは、画家は小さな物を拡大する代りに人体の一部を切り取っている。このことは、ミロ(この作品の所有者だった)がジョルジュ・ライヤールに、自分には(わき・身体のわき)の下など見えないと言った理由の説明になるかもしれない。しかしそれとは別に、また、素材が殆ど浅浮き彫りに近いにもかかわらず、この作品には何ら、人体構造に対する関心(基本的には、筋肉組織を正確に示そうとする配慮)が見られず、肩から首にかけての部分は異常に長い。

▶︎テクスチュアの転換

 テクスチェアの「イリュージョニズム」とはいささか異なる手法に、テクスチェアの転換、つまりある表面の質を、.実際にはそれと全く違う質を持った別の表面に用いる手法がある。この場合「物」の詩的な力は、転喩もしくは暗喩の作用によって増大する。

 たとえばクールベ海を土色で一様に描いたり、水浴している女の腿(もも)を、彼女がもたれかかっている岩の質感で描いたりした。またピカソは『3人の女(1908−09年)女たちを山そのものから彫り出したかのように描いた肌は木か土を思わせ、ヴォリュームや平面は斧をふるって作り出したように見える

 タピエスが1959年の『礫にされた人物のフォルム』(図19)で示しているのはもっと図式的な処理である。人体は、背景の、均一な焦茶色の壁と同じ均質性を獲得している。しかし・・・題のせいだけではなく・・・広げられた両腕、胴体の輪郭、はっきりしるされた胸と臍があるからにはこれを人体と見ない訳にはいかない。頭部はただの矩形オーカー色をのせただけだ。穴がいくつか開いているのは茨の冠の跡と見ることができよう。傷口から流れた血が水平の帯をなし、苦痛の物理的重みを支えているようだ。人物の不動性と硬直性はロマネスク彫刻をしのばせる。

 1973年の作品『土と青』(図44)では、題は土と言っていてもその形態からは、スカイブルーで乱暴に切断された輪郭が浮き出ている。右側の優美な砂色の線は、事実上背部を表している部分に生気を与えており、本体から離れて行く伸びやかな動きを見せている(いっそう大きく切断された、土の『サモトラケのニケ』というものを想像してしまうほどである)。

 右側に書き込まれた「B、孤独」と「A、砂漠」ジョアン・ブロツサの詩から取ったものである。これはおそらく、子供時代に人と意志の疎通を欠いたことを表しているのだろうが、どのみち、大人の孤独につながってゆく。

 しかし、ここにもまた、人間の起源としての土(「創世記」、バビロニア神話)を精神的象徴および生命の源としての水の要素と対照させるという、古代の天地創造説に由来する要素の典型的転換が見られる。

▶︎物体(オブジェ)

 タピエスのこの現実重視からする論理的帰結は、「物」をあるがままに提示することである。これは、粉末大理石とラテックスの混合材を使って浅浮き彫りのような性格を持たせた、物質性の高い画面空間の延長上にあると同時に、1945年から1946年にかけて制作された、実物(新聞、糸、布)を使った作品・・・そのうちいくつかは実際にオブジェとして(両側から眺めることができる『ひもの入った箱』のような作品)制作された−の延長上にある。60年代始め頃、この「物」化は、厚紙(『厚紙とひも』、1959年)縄(『板上で交差する縄』、1960年)カンヴァス(『十字形のカンヴァス』、1962年)や、時にはまで(『厚紙と櫛のコラージュ』、1961年)使って強調された。

 すでに背景や支えから独立したオブジェとなっている作品もあった。1962年に発表された画枠(記号か絵の具の彩色がある)や1960年の『板の彩色』がその例である。後者は(Ⅴ・リンハルトヴァによれば「リバーシブルの」メダルのように)両面に彩色した木製のトランクか長もちのようなものである。60年代の末ごろになると、イタリアで興った「アルテ・ポーヴュラ(貧しい芸術)」と呼応するように、これらのオブジェ=絵画(またはオブジェそのもの)がますます多く制作されるようになった。

 美術作品に実物素材を取り入れることは今世紀の伝統となった。キュビスムの登場で、造形的な色の要素として、あるいは物の質感を表すものとしてのが現れた。もっともキュビスムの作品の中には実物を用いたものもある。ロシア構成主義でも、絵の具より「リアルな」要素だとして、木、鉄、紙などを用いた。

 タピエス自身が(正しく)認識しているように、彼の作品はガウディの陶器の破片から影響を受けている。しかし、特に挙げるとすればマルセル・デュシャンで、彼はその「レディ・メイド」作品によって現代美術の地平に大きな可能性を開いたのである。デュシャンのオブジェは常に組み立て式または大量生産製品びん棚、便器、雪かきシャベル)で、画家によって選び取られ、日常性を拭い去られたこれらのオブジェは、新たな可能性として美的次元を獲得した。

 言うところのデュシャンの突破(ブレイクスルー)は、とりもなおさずひとつの意志表示であるが、芸術とは、何よりも、選び取る眼であって、虚構ではないという原則を確証したことは確かである。彼の革新はダダやシュールレアリストたちのオブジェに反映している。ただし、彼らの作品では、日用品のオブジェはキーモアか神秘性にあふれている。

 タピエスのオブジェは、デュシャンが目ざした非人格性は具えていないし、画壇に対する挑発的挑戦でもない(より広く、社会全体に対する挑戦ということは充分あり得る)。まさしくタピエス個人の詩学の一部であり、彼の目標の枠組のうちにある。この目標については、画家自身が、作品全体について語った中ではっきり述べている。「人に、自分は一体何なのか考えさせること、瞑想のテーマを提供すること、ショックを与えて偽せ物の氾濫から目を醒まさせ自己を発見して自分の本当の可能性を自覚できるようにすること。これが、私の芸術の到達目標である。」

 つまりこれらの作品は瞑想のための媒介なので、イタリアが「アルテ・ポーヴュラ」の画家たちの実証主義とは全く異質なものだ。「アルテ・ポーヴュラ」の論客シェルマーノ・チェラントの言葉を引用すると、彼らからすれば「芸術家は、自分の目に触れた素材を再加工したりしない。いかなる判断も下さず、いかなる倫理的社会的価値も追求しない。(素材を)操るのではなく、素材が被いを取って姿を表すに任せ、植物の成長か鉱物の化学反応のような自然現象の起るのを待つのである……。」10年以上たった今日から見ると厳格な経験論的中立をうたったこの宣言は必ずしも「アルテ・ポーヴェラ」の作品すべてにはあてはまらないようだ。素材が実質的には作品の構成要素となっている場合もあり、全体としてみれば、美術市場に対する意志表示(もちろん、ユートピア的な)であるとともに、科学技術過剰の世界に対する反動と読むことができよう。

 しかし、彼らにとって経験とは偶然の結果かと思われるようなイタリア画家たちの、ゴミの山や衣類の積み重ね(f)などの作品と比べると、確かにタビュスの作品は「構図が決まっている」ように見える。中には−1970年の『覆われた椅子』(h)1971年の『毛布と2つの石』(g)のように・・・密かな気品を帯びた作品もあり、Ⅴ・リンハルトヴァに「物の不変の存在」があると言わしめた。

 しかし、見てみると、どのオブジェも単一の物でできていないことがわかる(たとえ積み重ねた皿であっても、アキュミュレーション(集積技法)にはちがいないし、それが44枚積み上げられれば、これはもう円柱であり、日常性に対する記念碑である)。

 彼の作品がすべてそうであるように、基本にあるのは観念連合である。つまり、たとえば、新聞の山を洗面器の上に置くと、二つの物は「捨てられたもの」という共通の性格で結び合わされる。あるいは、読むことと病気を、つまり毎日のできごとと生理学的なことを関連させている。柳細工の籠・・・みごとな職人仕事の例・・・は乱雑にもつれた針金で囲まれる。籠を持ち上げようとする者に対するこの「障害」により、我々は作品の見方を変えさせられる(囚われたもの、しかし彫刻でもあるものとして見ることになる)。

 1971年の作品『鏡とコラージュ』(図39)と、1973年に制作された『1枚の布』(図45)を除くと(いずれにしてもこの二作は壁にもたせかけるか壁から吊るすしかない)、本書に収録したオブジェには自立しているものはなく、大きく見て、すべて壁にとりつけられた矩形のオブジェ、したがって依然として「絵」の定型という意味合いを共有している作品と言うことができよう。あるいは、より正確に言うなら、これらは、ありきたりの素材または物を転置という手段で絵・・・すなわち、「文化」・・・に変えた作品である。

 ラウシェンバーグが自分のベッドを(絵の具を飛び散らせた)壁から吊るしたのと同じで、タピエスは山と盛った素材、つまり藁を使い(『藁と木』、図31)、これをカンヴァスにくっつけて髪のように画面上に垂らした(これを真半分のところで横切っている木曜(もっかい)は構図のバランスになくてはならないもので、波打ってもつれた藁に秩序と均整美を与えている)。彼は1968年から1969年にかけて藁を非常によく使い、毛布で覆ったり、『藁の大きな包み』(図38)のように白い紙で覆ったりした。

 タビュスが執物なまでに縦長方形のモティーフを取り入れたり、ベッドを思わせる形を繰り返し用いていることから、図38のしわくちゃの紙で覆われた包みベッドの上の枕と見ることができる。さらに藁は、睡眠中の夢のように暖かくてしかも粗い。1970年制作の絵『青と麻袋』(図36)もやはりベッドを思わせる。この場合は青い紙で覆ったカンヴァスを麻袋で包んでいる。『藁と木』(図31)のようにここでも、床に置くのが「自然」であるはずの物が垂直に置かれている。

 レオ・スタインバーグが指摘しているとおり、西洋絵画の切り取る空間(抽象であれ具象であれ)は、ポロックの作品にいたるまで、直立した人間の大きさに対応しており、その上端は人の頭の高さ、下端は大体、我々が足を置く場所に相当する。スタインバーグは、ではこの原則が破られている(その先例はモネの『睡蓮』モンドリアンの「十字」など)ことをデュビュッフェラウシェンバーグの一部の作品を見て取っている。

 これらの作品では、垂直性は消えている。スタインバーグがやや大げさに言うところでは、これは自然から(あるいは視覚的行為から)文化への推移である。この考え方でいけば、タピエスがありきたりの物を、西洋絵画の特徴であるとともに人間自身の特徴でもある垂直性を強調した配置に置くのは、眠ったり、病後の体を休めたり、出産したりという、我々の最も本能的、生理的な部分と関連づけられる地上的なの素材と人間の行為を高めたり、品位あるものにするためであると思われる。したがって、これらの作品で「古典的」配置が使われているのは意味内容の変化を目的としている。制作手順について言えば、これらの作品の大多数は素材が重いために、床に寝かせて描いたのちに壁にかけられているのは興味深い。

 文化の「気品」と、人生の最も粗野で世俗的なものとを結びつけた好例は、排泄物や血のしみや破片を主題にした作品である。1970年制作の『黒と土』(図34)では、カンヴァス上の絵の具と、下にある土と藁が同じ茶色(画家は「馬糞のような」と言っている)で塗ら叫ている。絵はこのように素材の構成上、縦の長さが引き延ばされているだけでなく、二つの部分をつなぐ木の支えもある。上辺には、センチメートルで表した作品サイズと作品の向き(矢印)と制作年が、カタログ記載事項のような冷やかさで描きこまれている。

 これは、「コンセプチエアル・アート(概念芸術)」の画家たちの計測に対する情熱の影響であるかもしれないが、ここでの意義はそれよりはるかに複雑なこともまた確かである。すなわち、芸術作品すベてに固有の芸術的メタ言語(ある言語について何らかの記述をするための言語である。それだけでは具体的な利用に関する目的をもっておらず、特定のルールを加えることで具体的な応用として利用可能となる。)を想起させると同時にその素材が一時的に獲得している文化性をも思い出させる一しかしこの素材は土そのものや、捨てられた物の中でも最も粗末なものと混じり合っており、市場による(あるいは研究者による)「聖化」とともに、明白な「脱聖化」をも表している。

 最後に、『一枚の布』(図45)も、各種の布を使った一連の作品の中に入れることができる。布はカンヴァスに糊づけされたり、物を覆ったり、この作品のように殆ど自立していたりする。たたみ、しわを寄せ、結び目を作り、中に詰めものをする。物を隠したり、その一部を覆うこともある。これほど粗末な素材が・・・というのは、使い古した毛布やシーツ、粗い生地の台所用ふきんの類いがほとんどだから・・・これほど高い喚起力を与えられることはめったにない。時には人間や人間の感情を端的に表すこともある。中に詰めものをした、かさ高い布が太鼓腹に似ていたり、結わえた布が浮浪者の荷物を思わせると同時に、我々自身の情熱や考えや未解決の問題などの込み入った結ぼれ(結ばれて解けにくくなる)を思い起させたりするのである。

 しかしこれらの布は西洋美術におけるドラペリー手法の長い伝統(i)の流れをくむものでもあり、タピエスは「聖屍衣」の霊的喚起を経て、1970年の作品『覆われた椅子』(h)の優雅に垂れた布にいたる。あるいは、『一枚の布』(図45)では、店員がするように布をたたむことで、ドラペリーの伝統を逆に打ち破っている(それでいて、たたまれた部分は、糸ではないにしても針金で吊り下げられ、クッションの形を思わせる)。

 最後に挙げる布の用法は、古典的伝統と特に関係の深い、効果の技法である。人体の形がいっそうくっきり浮き出るように着衣を濡らす習わしだった古代人の制作手法を思い出して、タビュスは濡れた布の下に対象を置いてその輪郭とヴォリュームをきわだたせ、そのあとエアーブラシで固定する。ともに1979年に制作された『ステッキのレリーフの効果』(図58)『人体レリーフの効果』(図60)はこの技法の例である。画家はここで、大変古い方法、しかもアカデミー教育で非常に重要視された方法を用いた訳だが、少しばかり異なった意味を与えている。古代ギリシアでは、ドラペリーは装飾として(様式的固さを残したアルカイック期のひだを含めて)用いるか、人体の形を洗練し、姿態に動きを与えるために用いた。同時に、布は人工的でありながらそれ自身の生命を持っていると考えられていたから、布の動きの中にある造形的可能性を活用する意味もあった。

 しかし、タビュスにとっては、布は人間の形跡、人体の残したしるしの延長であった。これは彼の作品に何度となく登場する主題で、霊的喚起として、神秘に満ちた印象として、記憶として現される。また、麻袋、小包、包み、布で覆った画枠など、物を覆ったり包み隠したりしたいくつかの作品とも関連する。つまり、腋の下の直裁な提示とは対照的に、ここにあるのは、陰影による喚起、砂や壁に残された刻印を通しての喚起一言うなれば、見る側の想像力をさらに研ぎすますために設けられた障壁である。この覆いかくす手法において、彼はマン・レイの有名な写真『イシドール・デュカスの謎』(1920年)の神秘性を再現している。

 また、ブロツサが魅せられた魔術の影響もあるかもしれない。魔術は事物の現実の外観に疑問を投げかけることから、両義性によってさまざまな意味を暗示する美術に相い通ずるものがあるのだ。同様に、東洋哲学、ことに「マーヤ」、すなわち、現象世界として立ち現れる幻影の概念を示唆するところもある。作家が一人ならず指摘しているのは、この隠蔽欲のうちには、事物の究極的意味を仄(ほの)めかしたいと思う気持ちがあるということだ。『人体レリーフの効果』を見て、プラトンの「洞窟の神話」・・・ここでは人体の概念の本質を覆い隠している・・・の影を読みとる者もあろう。しかし人体の輪郭は、とらえどころがないにもかかわらず、明確な物質性を表しており、そこにはいささかの理想化もない。開いた雨脚とねじ曲げられた両手は骸骨のようで、苦痛、抑圧、シーツの下での閉所恐怖症といった特別の感覚を暗示している。