ボルタンスキー1960年代~1980代まで


■クリスチャン・ボルタンスキー

 クレメント・ディリエ

 自らを好んで「表現主義の画家」と呼ぶクリスチャン・ボルタンスキーは、1944年9月6日、パリに生まれた。その約60年後の2005年に、ランス国立視聴覚研究所のアーカイヴを用いた《9月6日》(fig.1)という3分20秒の映像とサウンドから構成されるインスタレーションを制作した。それは60年分にわたる9月6日のテレビニュース、つまり彼の人生の60年間を再生するものである。観客はこの早回しのモンタージュを見ながら、停止ボタンを押していつでも好きなところで止めることができる。そして、少しばかり過去に戻るのである。

 ボルタンスキーは自身が「幸せな」と同時に「奇妙な」と描写するパリで過ごした子ども時代の記憶やイメージをほとんど覚えていないクリスチャン=リベルテ〔自由〕・ボルタンスキーという本名を持ち、第二次世界大戦のさなかに生まれた(fig.2)戦争中、彼の父親は当局から告発されないように家族向けのアパルトマンに隠れていて、ジャン=エリーとリュックという二人の兄、アンヌという妹がいた。ユダヤ教徒からキリスト教に改宗した父親は医者だった。ボルタンスキーの母親は中流階級の出身でアニー・ローランというペンネームを持つ作家であり、厳格ではないがキリスト教徒だった。幼い時から思春期を迎えた頃まで、ボルタンスキーは学校を嫌い、ほとんど行かなかった。両親は彼の外出に付き添い、長年にわたりどこへでも迎えにいった。実際のところ18歳になるまであまり一人で出かけることもなかった。このとても親密で、心配性な家族はまた同じ部屋で眠りに就いた。

▶︎1960年代

 13歳の時、ボルタンスキーは粘土で型を取って一つの小さなオブジェを作った。そして、両親と兄たちの励ましもあり、いつの日か芸術家になると決意した。彼はドローイングから始め、膨大な数の具象絵画をしばしば大きなサイズで描き、初めは油絵貝を使っていたが、後にグアッシュを用いるようになった。ある友人と一緒に母親は小さな画廊を開き、そこで若きボルタンスキーは働き、アトリエを構えた。そこでは強固で、個人的、かつ芸術的な絆を築くことになるジャン・ル・ガックを含む、多くの芸術家たちに出会った。

 1968年頃、現代美術の新しい形式を選び、ボルタンスキーは絵画制作を放棄した。彼の初個展は1968年5月にラヌラグ映画館で開かれた。「クリスチャン・ボルタンスキーの不可能な人生」と銘打った個展には、展覧会のタイトルにもなった人形を用いた最初の映像作品、約15点の写真と等身大の人形を使ったインスタレーションが含まれていた。この美術界へのデビューによって、彼のほとんどの映像を撮影することになるアラン・フレシェールと出会う。その翌年、ボルタンスキーは彼の兄であるジャン=エリーが主人公を演じた《なめる男》と《咳をする男》、そして1971年にはより意欲的な中編映画《フランソワーズ・ギニウが死ぬ直前の46日間を再現する試み》を制作した。彼の最後のフイルムによる映像作品は1973年に撮影された。

 1968年から69年にかけて、ボルタンスキーはジャン・ル・ガックと共に、「ワーク・イン・プログレス」を含めた一連の展覧会をパリのアメリカ文化センターで開催し、そこではポール=アルマン・ジェット、アントニ・ミラルダ、ジナ・パーヌ、そして工藤哲巳の作品も出品された。ボルタンスキーは当時頻繁に足を運んでいた、書籍も扱うパリのジヴオーダン画廊の助けを借りて、その後の創作において継続的で本質的な要素となるアーティストブックを初めて出版した。1969年にはキュレーターのハラルド・ゼーマンに出会った。

 初の書籍『1944年から1950年の私の幼年時代の残存物すべてについての調査と提示』は、アーティストとしてのキャリアにおいて本当の意味で出発点となった。そして、その頃、ボルタンスキーは初めて絵画から離れた作品を制作した。泥団子、ナイフ、砂糖のかけら、罠といった全ての小さなオブジェはリサイクルされた素材で手作りされた(fig.3)。同年のパリ・ビエンナーレに向けて、ボルタンスキーはジャン・ル・ガックとジナ・パーヌと共に《永代墓地〉を共同制作した。サロン・ド・メでは、後にパートナーとなるアネット・メサジェに出会った。1969年の終わりに〈郵送〉プロジェクトが始まった。

 ボルタンスキーはその後2年にわたり、約30のオブジェとメッセージを郵送するという作品に取り組む。最初の〈郵送〉プロジェクトをジャン・ル・ガックと共に手がけ、前出のアーティストブックに続き、妹の写真、「病気」という言葉が書かれた厚紙の一片髪の毛などを郵送した。再びジャン・ル・ガックと共に、彼は多数のプロジェクトとイヴェントを行った。その一つはデュモンセル通りで開かれ、〈郵送〉の受信者は住所と鍵を渡され、そして芸術家たちによって占拠されたほとんどからっぽのアパートのなかを自由に歩き回ることになった。その後オテル・モデルヌでの夜会を企画し、そしてポール=アルマン・ジェットと共に《プロムナード》を制作した。1970年、ボルタンスキーとル・ガックはダニエル・タンプロン画廊で展覧会を開催した。それはボルタンスキーが初めて画廊で開いた展覧会であり、また〈クリスチャン・ボルタンスキーの日用品を入れた日付つきのビスケット缶》といったビスケット缶を用いた最初の作品が展示された。このビスケット缶をモティーフとした数々の作品は、2000年代まで続いていた。その一つ《グラン=オルニュの記録〉(1997年)は、ベルギーに存在した炭鉱の坑夫たちの名を一覧にしたラベルと白黒写真を貼った箱を積み上げたもので、いわば壮大な「フレスコ画」を作る試みだった。

▶︎1970年代

 1970年、パリ市立近代美術館で初となる展覧会が開かれ、同館との長期的な関係が始まった。サルキスと共に、400点もの〈小さなナイフ〉を含んだ六つの展示ケースを設置した。そこでサルキスと働いていたイリアナ・ソナベンドに出会い、彼女の画廊に所属することになる。大きな画廊と仕事をする若手アーティストとして、ボルタンスキーはロバート・ラウシェンバーグとサイ・トウォンブリーに遭遇するが、どちらとも言葉を交わさなかった。1971年にソナベンド画廊で聞かれた初の個展は「1948年から1954年にクリスチャン・ボルタンスキーが所有していたものを復元する試み」と題し、ボルタンスキーが子ども時代に持っていたオブジェを粘土で形作ったものを展示した。翌年、初めて《D家のアルバム、1939年から1964年まで》を展示し、それは写真アルバムを中心とした多くの作品のうちの最初のものであった。

 1970年代(26歳)にソナベンド画廊はパリとニューヨークで10回にわたって展覧会を開催し、そして1978年にボルタンスキーはES.1(スクールプロジェクト)で紹介した最初のアーティストのうちの一一人となった。1972年、ボルタンスキーはグラン・バレで開かれた「60−72フランスにおける現代美術の12年間」展に参加した。偽りの子ども時代の記憶をケースに入れて展示し、それは《資料料陳列ケース》(fig.4)の始まりを告げるものであった。

 当時、ボルタンスキーは、ディディェ・ベイ、ポール=アルマン・ジェット、ジャック・モノリ、ル・ガック、アンドレ・カデレ、そしてサルキスと共に緩やかなグループを結成していた。そのグループはジャン・クレールが主宰する雑誌『アール・ヴイヴァン』と批評家のイルムリン・ルビール、ジルベール・ラスコー、ギュンター・メトケンによって支持された。

ジャン・クレール=1940年、パリに生まれる。美術批評家。パリ国立近代美術館、ジョルジュ・ポンピドゥ・センターの学芸員、パリのピカソ美術館館長を勤め、デュシャン、バルテュス、ボナール等の大規模な回顧展や「メランコリー展」など、数多くの展覧会を組織する。2008年よりフランス学士院会員クリムトとピカソ,一九〇七年 裸体と規範』より

 クロード・レヴィ=ストロースの著作と構造主義に影響されたこれらのアーティストたちは社会科学から、自分自身と匿名の人の過去を調べるボルタンスキーの場合は、特に民族学から着想を得ていた。

クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss、1908年11月28日 – 2009年10月30日)は、フランスの社会人類学者、民族学者。ベルギーのブリュッセルで生まれ、フランスのパリで育った[2]。コレージュ・ド・フランスの社会人類学講座を1984年まで担当し、アメリカ先住民の神話研究を中心に研究を行った。アカデミー・フランセーズ会員。

 1972年、社会学博物館で「クリスチャン・ボルタンスキーの机の引き出し3つの友好的なばら撒き」が開催され、ミシェル・デュランがオークショニアを演じ、ボルタンスキーが引き出しの中身を全て販売した。この作品は同年に制作された《フランソワ・Cの衣服》と同様に、民族学的なアプローチと当時パリで唯一の民族学博物館であった人類博物館に対するボルタンスキーの関心を象徴的に示している。これらは匿名の個人の人生を基にした作品シリーズ<目録>も予告していた。この年、ボルタンスキーはル・ガックと共に、フォンテーヌブローにある軍服博物館サン=テティエンヌ芸術産業博物館、コニャック博物館といった地方美術館において、ファクシミリ、文書、書類を見せる小擬模の展示を多数手がけた。1972年から73年にかけては、ル・ガック、サルキス、アネット・メサジェ、そしてアンドレ・カデレと共に定期的に根気強く、様々な近代美術館で開かれる展覧会に参加した。

 1972年、カッセルのドクメンタに参加した際、クラウス・ホネフに出会った。これをきっかけとして、ボルタンスキーの国際的な活動が始まり、ドイツでも評判となった。ドクメンタで、彼は《D家のアルバム、1939年から1964年まで》《資料陳列ケース〉を展示した。1973年にはグルノーブル美術館からの招待を受け、「5つの個人美術館」を4人の他の芸術家−アネット・メサジェ、ジャン=マリー・ベルトラン、トム・コヴァチェウンッチ、ジョエル・フィッシャーと企画した。セルジュリレモワンヌの招きで、ボルタンスキーはディジョンのランティエールにあるコレージュのための公的な依頼にも取りかかった。それは生徒のポートレート写真によって壁面を大きく覆う作品で、初めて白黒とカラーの写真を組み合わせたものだった。子どもたちの写真と、作家自身によって撮影された写真は、《ベルリンの子どもたち〉(1975年)、〈オワロンの小学生たち》(1993−2000年)で見られるように、彼のキャリア全体を通した様々な文脈で用いられるようになる。

 1973年、バーデン=バーデンのカールスルーエ州立美術館は、「目録」展を開催した。そこで展示された最初の《目録>は、とある名もなき女性の全ての所持品と彼女が所有していた家具から構成されており、亡くなった女性の存在を示す。このような〈目録〉シリーズは15作られることになったが、展覧会の終わりに展示物を分散させるというアーティストの意向により、現存しているのは《ボルドーの少女の所持品目録》(1973−90年)のみとなっている。1974年にパリの国立現代美術センター(CNAC)で公開された《ボワ=コロンブの女性の所持品目録》(fig.5)がフランスで初めて展示された《目録〉であった。この時作家自身が道化師として登場するアーティストブックも紹介され、ボルタンスキーの創作に新しい段階をもたらすきっかけとなった。

 1974年、ボルタンスキーは以前の作品に見られたプルースト的なキャラクターとの決別を示した《コミック・スケッチ〉(fig.6)を制作した。カール・ヴアレンティンに着想を得て、彼は再び道化のポーズを用い、表向きには幼少期の思い出を見せる一連の短い場面を演じた。このユーモラスな作品は、アーティスト自身が全てのキャラクターを演じながら、ありふれた子ども時代を描いている。

 《コミック・スケッチ》に続き、1975年から1984年にかけて、ボルタンスキーはカラー写真を用いるという、初期作品の方向性から抜本的な変更を試みた。フォト・スタジオのウインドウにある写真に触発されて制作した《モデル・イメージ》は1977年のドクメンタで展示され、その様式は《日本庭園》、《英雄的コンポジション≫、《装飾的コンポジション》といった〈コンポジション〉シリーズのなかでも、より絵画的な作品のなかに継承された。これらの作品は、「美しい写真」の基準を探究することを通じ、「人々に受け入れられている」趣味の概念について調べるというものであった。1975年にはアネット・メサジェと協同し、自身の作品である《モデル・イメージ》と、メサジェの《幸福のデッサン》を組み合わせ、街を主題とした《ヴェネツィアへの新婚旅行》を制作した。

▶︎1980年代

 1981年37歳、ボルタンスキーはパリ南西の郊外にあるマラコフへと移り住んだため、彼のアトリエはもはや両親の家の屋根裏部屋ではなくなった。はるかに広い場所へ越したことで、ボルタンスキーは作品のスケールと空間に対する考えを変え、この変化はその後の展覧会において目に見える形で表れていった。ボンピドゥ・センターで初めて個展を開いた後、1984年にはプリントした写真を中心に用いる時代に幕を閉じることになった。パリの個展はその後、スイスとドイツに巡回した。展覧会は2部構成となっていて、一方では1974年より前の作品を展示し、もう一方ではランプやワイヤーの存在が未来の作品を予告していた《西洋的コンポジション》を含む、50点以上の〈コンポジション〉シリーズが出品された。この展覧会カタログでは、タデウシュ・カントールによるエッセイが重要なものとして掲載されている。1983年にパリのシャイヨー国立劇場で行われたカントールのパフォーマンスは、ボルタンスキーにとって参照すべき指標を与えた。ボンピドゥ・センターでの最初の個展から35年後、ボルタンスキーが75歳の誕生日を迎える2019年には、同館で大規模な回顧展が開催される。

 1984年に開かれたボンピドゥ・センターでの展覧会の後、ボルタンスキーは彼が若い時に扱っていた主題と制作の手法に立ち戻った。それ以降、作品が展示される状況を一層考慮し、より見世物に近いアプローチによって、日用品で作品を制作するという日曜大工的な特徴を強めていった。1982年に大きな1枚のスライドを回転させて投影する《幻灯》を制作したのを皮切りに、光と影によるプロジェクションに取り組んだ時代が始まり、それはパリ市立近代美術館で開かれたグループ展「別の独断」で展示された《日本庭園》へと続いていった。伝統的な影絵芝居に見られる非常に単純な原理を用いた《影》は、1985年にパリ・ビエンナーレで展示され、すぐに成功を収めた。

無数に積み上げられたビスケット缶の作品は『死んだスイス人の資料』。近づいて見ると一つひとつの箱には顔写真が貼り付けられている。この写真は新聞の死亡告知欄から切り取られたスイス人の顔写真だという。『シャス高校の祭壇』は1931年にウィーンの高校に在籍したユダヤ系の学生の写真を用いている。死者の存在や喪失による痛みを想起させる。

 1980年代半ば以降、ボルタンスキーの作品は父親の死によってより一層暗い時代を迎え、そのあいだ、死と死者への追悼をめぐる考えを作品に取り入れるようになった。〈モニュメント〉は、もとは初期作品から引き継がれた様々な要素(金属製のフレーム、ランスクリスマス用の包装紙を写した写真など)によって、ピラミッド、祭壇、あるいは聖堂の形を壁面に作り上げるインスタレーションである。特定の宗教について言及することなく、神聖な建物の形を思わせるこのメランコリックな作品は、大抵の場合暗闇のなかで展示される。〈モニュメント〉シリーズに属する《ディジョンの子どもたち》は1985年にディジョンのル・コンソルシウムで発表された。そして、同シリーズは1986年にパリのユスノー=クルーゼル画廊でも展示された。ユスノー=クルーゼルは、パリのソナベンド画廊が1984年に閉廊した後、ボルタンスキーの作品を取り扱う新しい画廊となった。

 1980年から90年までの特徴として、ボルタンスキーが空間に対する考えと展覧会を総合的な一つの作品として捉えることをより重要視するようになったことが挙げられる。「暗闇のレッスン」展(fig.7)は、1986年にサルベトリエール病院付属礼拝堂で開催され、多くの影と光を用いた作品を展示し、展覧会を一つのインスタレーションとして示すという新しい概念の始まりを告げた。

 この展覧会はキュレーターのリン・ガンバートとメアリー・ジェーン・ジェイコブの仲介により、北アメリカ(シカゴ、ロサンゼルス、ニューヨーク、バンクーバー、そしてトロント)に巡回した。同じ要素で構成されてはいるが、場所に応じて全く異なる一連の展示は、ボルタンスキーの創作において重要な変化を先取りしていた。この時から彼は各展示で作品を再編成し、また再構成するようになる。彼はニューヨークのマリアン・グッドマン画廊と契約し、定期的に展覧会を開いた。

 1987年、ボルタンスキーはカッセルで開かれるドクメンタに三度目の参加を果たす。この時、金属の格子に掛けられた大量の顔写真を展示する《アーカイヴス〉を発表し、それはホロコーストについて初めて直接的に言及した作品であった。彼はこの時「私は作品のなかに沢山の人々、多くの人間を登場させたい」と明言している。

 人間を表す様々な手法を用いたインスタレーションで、ボルタンスキーは集団から個人(スイスの死亡記事用の写真、名前のリスト、衣料品など)を抽出することを意図していた。シヤス高校の生徒の写真を使って制作された大きな〈祭壇〉(1987−88年)、《墓》、またシテ・ド・ラ・ミュージックに常設展示されている現存作品のなかでは最も大きい《音楽院の保存室〉(1991年)で証明されているように、〈アーカイヴス》は彼の作品のなかでもミニマルで極めて陰鬱な時代の到来を示していた。

 1988年に彼はトロントのイデッサ・ヘンデルス芸術財団で《保存室(カナダ)》を展示した。巨大な壁全てを衣服で覆い、この新しい素材を便った一連の作品の制作を開始したのである。衣服を使った作品群にはパリ市立近代美術館の《子どもミュージアムの保存室〉(1989年)、エルサレムのイスラエル博物館にコレクションされた〈保存室〉(1989年)、日本で発表されたインスタレーション〈保存(死者の湖)〉(1990年、fig.8)、そしてもっと後になるがグラン・バレで公開された《ペルソンヌ〉(2010年)も含まれる。

 1988年42歳から9349歳にかけて、ボルタンスキーはハンブルク美術館、ロンドンのホワイトチャペル・ギャラリー、グルノーブル美術館、アイントホーフェンのフアン・アッベ美術館、マドリードの国立ソフィア王妃芸術センター、ローザン列こあるヴオー州立美術館、1974年に制作したボルタンスキーに似せたパペット〈小ざなクリスチャン》を寄贈したミュンへンのカール・ヴァレンティン博物館といったヨーロッパの美術館で多くの展覧会を開催した。

1990年には密接な関係性を築くことになる日本で初めての個展を、ICA名古屋と水戸芸術館現代美術ギャラリーで開いた(fig.9)。特に2000年以降は、ほぼ全ての「大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ」に参加しており(fig.10−11)、ジャン・カルマンと共に制作した《最後の教室≫(2006年)は常設作品として継続的に展示されている。

 ボルタンスキーは150以上の複製書類の寄せ集めを含む『欠けた家』(1991年)といった、多数のアーティストブックも制作している。この本は同名のプロジェクトの実現の後に出版された。そのプロジェクトとは、ドイツ統一を祝すために企画され、依頼者の協力を得て、ベルリンの公共空間では初となる展示を実現させたものだった。この《欠けた家》第二次世界大戦の犠牲者、特にその家に暮らしていたユダヤ人居住者を追悼するために考えられた戦争中に壊された建物の二つの壁面を直接用いるもので、当時の居住者の名前を彼らがかつて住んでいた場所に示し、建物の外に設置したガラスの箱には失われた所有者についての夥(おびただ)しい数に上る記録書類を展示した。