パウル・クレー

■修行時代と旅行時代

エンリック・ジャルディ

 例外的な芸術家と言われるパウル・クレーの青年期について話を進めるにあたり、私はまず、J.W.ゲーテが有名な架空の人物ヴイルヘルム.マイスターを主人公に書いた2冊の哲学的な小説の題名をあげたい。1冊は、ヴイルヘルム・マイスターの形成期を描いた『修行時代』(1795年に出版)で、あと1冊は、有益な旅の時代を著した『遍歴時代」(1821−29年に出版)である。

 それでは、画家の誕生から話を始めることにしよう。彼は1879年12月18日スイスの首都ベルン近郊のミュンヘンブーフゼに生まれた。父親ハンス・ヴイルヘルム・クレーはドイツ国籍を持ち、ベルン州の師範大学の音楽教師をしていた。母親マリア・イダは旧姓をフリックというブザンソン生まれのスイス人で、声楽家だった。

 パウル・クレーは生地とは関係なく、実際はドイツ人だった。彼は第一次大戦中、ドイツ帝国陸軍に服し、1934年55歳ベルンに永住したが、1940年61歳半ばに死を迎えるまでドイツ国籍を持ち続けた。その年の初めにスイス市民権の申し込みをしながら、それを持つことなく他界したのである。ハンス・ヴイルヘルム・クレーマリア・イダ・フリックとの間にはマテイルデとパウルの二人の子供があり、娘は未来の画家より3歳年長で、長じて語学教師になった。

 父親の職業と母親の経歴からして、クレーが著しい音楽環境の中で育ったことは驚くまでもない。戦争の狭間に活躍したパリの有名な画商で、現代美術の主要な画家たちの中でもピカソ、ブラック、ファン・グリス等と親交のあったD.H.カーンワイラーは友人の一人に次のように述べている。

「アンリ・ローランスと共に、パウル・クレーは真に音楽について語ることのできる数少ない画家の一人である」ピエール・アスリーヌ著『芸術の男 D.H.カーンワイラー 1884−1979年』1988年 パリ、バロー社刊)

 画家の『日記』には、彼が聴いたコンサートやオペラに関する博識あるコメントや、スイスで優れたプロのヴァイオリン奏者として活動していた頃の記述がたくさんある。一般には理解しにくいが、実際のところ、こうした演奏活動から得たお金が、絵を描いて収入を得るまでの何年もの間、家族の主な収入源だったと思われる。音楽の世界に生まれ、1906年にはミュンへン出身のピアニスト、カロリーネ“リリー’’シュトウンプフ結婚したことにより、パウル・クレーはその世界を去ることは絶対ないと思われていた(彼女がピアノ・レッスンで得たお金もまた家計のたしになった)。ところで、1905年26歳の年に始まる1冊の日記には交響楽団の演奏会に参加したことが書かれておりカタロニア出身のチェロ奏者パブロ・カザルスについての印象が記されている。

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「これまで存在しなかった最も素晴らしい音楽家の一人である」(133ページ)

 私が、パウル・クレーの音楽教育とヴァイオリン奏者としての技術を非常に重視するのは、ベルン近郊で生まれたこのドイツの画家による絵画が音楽にかなり似通ったニュアンスを持っているからである。先練された感性の叙情詩人ライナー・マリア・リルケ(彼はプラハ出身(ハンガリー語)でありながら、表現手段としてドイツ語を用いた)は、1921年2月21日42歳ヴイルヘルム・ハウゼンシュタイン(Wilhelm Hausenstein)に宛てた手紙の中で、パウル・クレーに関する論文に感謝し、1915年36歳頃、「クレーの版画を自分の部屋にたくさん」飾っていたと説明している。続けて、こう書いている。

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Wilhelm Hausenstein(1882年6月17日-1957年6月3日)は、ドイツの政治家、作家、ジャーナリスト、美術評論家、歴史家、外交官でした。彼は第二次世界大戦後の最初のフランス駐在ドイツ大使でした。ハウゼンシュタインはホルンベルクで生まれ、カールスルーエの体育館に通った後、ハイデルベルク、テュービンゲン、ミュンヘンで学びました。[1]最初の妻マルガと離婚した後、彼は1919年にユダヤ人の未亡人マーゴット・コーンと結婚した(1890-1997)。Wilhelm Hausensteinは、1943年にナチスによって禁止されるまで、フランクフルターツァイトゥングで働いていました

「たとえ、クレーがヴァイオリンを弾くことをあなたが知らせてくれなかったとしても、彼の絵が音楽の写しであることは何度も想像できたろう」(「パウル・クレーに関する手紙」・・・クレーの著書『現代美術の理論』第一版の序文)

 音楽教育と並行し、画家はベルンの“ギムナジウム(大学進学のための中等学校)”に通い、1898年19歳・春、文学士の資格を得た。こうした細かな事柄をあえて述べるのは、パウル・クレーが常に文学に多大な関心を寄せていたからである。

ギムナジウムとは、ヨーロッパの教育機関のことです。 ギムナジウム(Gymnasium)は、ドイツおよびその近隣諸国の、伝統的な7年制または9年制(10〜19歳)の大学進学を前提とした中等教育機関。 古典語系、現代語系、数学・自然科学系がある。

 ギムナジウムを終える頃から自分の体験や考えを日記に書き始めるが、そうした事実だけでなく、生涯を通し、いくつかの論文をまとめ一般の美学について非常に論理的な話をしている。さらに、彼は好奇心の尽きない疲れ知らずの読書家であり、興味のあった本の題名を書き留めたり、たまにはそれらにコメントを書き足したりして、日記は読んだ本のメモでいっぱいである。オビデイウス、シェークスピア、セルバンテス、モリエール、へ−ベル、イプセン、ワイルド、ゾラ、トルストイ、ショー、チェーホフ、ゴーリキイなど、古典から現代作家に至るまで文学の好みは実に幅広い。

クレーは、建築だけでなく自然そのものにも基本構造の原理を発見しました。1902年3月23日、彼はナポリに到着しました。そこで彼は、海洋研究を促進するために1872年にドイツの動物学者Anton Dohrnによって設立され、現在も存在している水族館Stazione Zoologica diNapoliを訪れました。クレーにとって、水中の世界は生命の起源と多様性の両方の縮図になるはずでした。水族館ガイドの表紙の絵は、カタツムリ、カニ、タコ、魚など、水中の世界の多様性を表しています。数年後、クレーは水族館の描写で、彼の芸術でこの経験をさらに発展させました。魚と人間の顔はほとんど区別できません。

 クレーの日記には、ギムナジウムを卒業した年の1898年19歳・夏にビール湖に遠出し、色鉛筆で何枚か写生をしたことが記されている。これ以降、絵を描くための休暇は増え始め、ついに彼は大学で美術を専攻することを決めたのであった。

ハインリヒ・クニル(Heinrich Knirr、1862年9月2日 – 1944年5月26日)は、主にドイツで活動した画家である。当時はオーストリア帝国領であった、現在のセルビアのヴォイヴォディナで生まれた。ウィーン美術アカデミーで、クリスティアン・グリーペンケールやカール・ビュルツィンガーに学んだ後、ミュンヘン美術院でガブリエル・ハックルやルートヴィヒ・レフツに学んだ。1888年にミュンヘンに、個人で美術塾を開き、ヨーロッパでも評判の美術教師になり、パウル・クレーやルドルフ・レヴィ、エルンスト・オップラー、エミール・オルリックらの画家たちがクニルの塾で学んだ。1898年から1910年の間はミュンヘン美術院でも教えた。1914年に第一次世界大戦が始まると教えるのを止めて、バイエルンのシュタルンベルク(Starnberg)に住居を移した。ミュンヘン分離派とウィーン分離派のメンバーであり、ドイツ画家協会(Deutscher Künstlerbund)の会員であった。子供を描いた人物画や風俗画、静物画を描き風景画も描いたが、クニルの作品で有名なものはアドルフ・ヒトラーを描いた肖像画である。

 10月、両親の許しを得て、彼はハインリッヒ・クニルの画塾に入るためミュンヘンに移った。画塾では、若者たちがバイエルンの首都の一流美術学校への入学に必要な予備教育を受けていた。クレーはまたクニルと五重奏団を結成した。

 美術学校に入学したクレーは、フランツ・フォン・シュトウックの授業を受けた。シュトウツクは当時、非常に有名な象徴派の画家であったばかりでなく、彫刻家版画家で建築家でもあった。彼はルネサンスの芸術家たちのように多様な側面を持ち、美術学校の教授陣に加わったのはミュンヘンに分離派(ゼツェツシオン)運動を興した2年後のことで、着任したばかりであった。ミュンへンにはこの頃、現代美術の最も前衛的な傾向が現れ始めていた。

 フォン・シュトウックは、社会的に大きな評価を得ていたばかりでなく、教師としても素晴らしかった。美術学校の生徒の一人だったロシア出身のワッシリー・カンディンスキーは、だいぶ後にパウル・クレーと兄弟のような関係を結び、さらに、バイエルンの教師とはかなり違う傾向を発展させることになるが、フランツ・フォン・シュトウックの教育者としての才能について彼なりの評論を書いている。だが、これとは違い、若いクレーがこの教師をどう考えていたかは知るよしもない。日記には、シュトウツクリュマン教授のもとで彫刻家としての修行を始めるように薦めたことが記されているだけである。しかし、同教授の反対でこの助言に従うことはなかったが、逆にクレーが、ツィーグラーのもとで版画の技法を学んだことは確かである。

 ミュンへン美術学校で3年の学業を終え美術の学位を得た後の1901年22歳10月9日、パウル・クレーは学生仲間で彫刻家のヘルマン・ヘラーイタリア旅行に出かけた。この冒険は翌年の5月まで続き、二人は真の“遍歴時代’’を体験することができたのである。これまで多くのドイツの画家や作家たちが施したように、この旅行ではアルプス山脈を越えて南に足を伸ばし、そこで太陽と実にたくさんの古典芸術に眩惑した。よく知られる先駆者としては「アルブレヒト・デューラーヨーハン・ヴ ォルフガング・ゲーテ」があげられるが、ゲーテはイタリアに着くやいなや「ついに私は生まれた!」と熱狂したと言われる。

 クレーと友人ヘラーの旅先は、ベルン、ミラノ、ジェノバ(彼はここで初めて海を見るという素晴らしい体験をした)、リボルノ、ピサ、ローマ、ナポリ、フィレンツェなどで、旅の友として、スイスの作家ヤーコプ・ブルクハルトの書いた『チチェローネ』(副題は「イタリア美術鑑賞の手引き」)を常に携えていた

 彼の日記が、巨匠たちの偉大な作品に対するコメントで溢れていたことは言うまでもない。彼は賞賛と驚嘆をもって真剣に鑑賞した。ポッティチェリ、ペルジーノ、ラファエロ、ミケランジェロ、ヴァテイカン美術館古代芸術家による彫刻群ナポリのボンベイ絵画、ドニゼッティやマスカーニ、プッチーニ、ワーグナーの音楽によるオペラ公演、そして、イタリア式の話し方や振る舞いに至るまで観察している。ベルンに戻った時は、見たものすべてが内部に堆積していた。彼はこう書いている。

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「実に多くの事柄が私の内部の奥深くで変わっていく。私は開かれた歴史の断片を目の当たりにした。フォーラムとヴァテイカンが私に話しかけてきた。人道主義が私を苦しめたがる。それは教師の拷問の道具以上のものだ。少なくともしばらくはそれを自分の中に持ち続けなければならない」

 だが、しばらくの間、彼は絵画の制作に満足が得られず、翌年から版画にとりかかっているが、版画制作が古典主義の影響を受けることはなかった。1903年24歳秋に始めたエッチングは、私の見たところ、ゴチック様式の伝統を踏まえ、強くねじれた人物を特長としている。

 たとえば.、こうした描法による最初の作品「樹の中の処女」(下図)は、裸の人物が樹木の幹とねじれた杖の上にむりやり、かつ不自然に置かれ、先の尖ったストロークで描かれている。 また、「お互いに相手が偉いと思いながら挨拶を交わす二人の男」と題して、グロテスクな人物を表した2作目のエッチングについても同じことが言えるだろう。

 1904年25歳、クレーはさらに2点の版画を制作した。1点は「女性と犬」、もう1点は「仮面を被った俳優」が題材になっている。これらの作品には男っぽい背景が使われ、前の年に制作したものとはだ−いぶ違っているが、これは、おそらく、よりはっきりとバロック的な傾向を示すためと思われる。

 さて、パウル・クレーの「遍歴時代」の中からもう一つのエピソードを紹介しよう。1905年26歳・6月の初め、ちょうどキリスト昇天祭と五句節に挟まれた時期、彼は、スイス人の友人ハンス・ブレーシュルイ・モワイエと共にパリに出かけたのである。

 日記には、初めて訪れ心奪われるようなフランスの都市友人と過ごした楽しい日々のあれこれから書き始めている。モンマルトル、エッフェル塔、ヴェルサイユ宮殿、フォリー・ベルジュールなど典型的な観光地巡りはもちろんのこと、オペラ座やコメディー・フランセーズ、パンテオン、リエクサンブール現代美術館、ルーヴル美術館などにも足を伸ばしている。日記には、画家の好みについての走り書きもある。レオナルド、ティントレツト、ヴュロネーゼ、ヴァトー、モネ、シスレー、ゴヤを好み、ゴヤについては次のように書いている。

「黒に向かって美しく混ぜ合わせたグレーの陰影、点在させたわずかな肌色のトーン、繊細なバラのように」

 クレーが、様式も出身も活躍した時代も異なるこうした画家たちを好むとしても驚くことはない。彼らは、言わば“音楽的”という言葉につながるなめらかな色彩感覚を一様に持っているからである。

 短期間とは言え、生産的なパリ旅行を果たした1905年26歳には、辛辣で大胆で斬新な版画をさらに2点制作している。1点は「片方の翼と院を持つ古代の英雄戦士」を題材にした「翼を持った英雄」で、もう1点は「年老いたフェニックス」である。この作品では、神話の中のフェニックスが羽毛を抜かれた鶏として描かれている。

 1906年4月、クレーはイースターの休暇を利用してベルリンを訪れ、その足でパリに向かった。パリでは主だった建造物を見て回ったほか、劇場やオペラ座、フリードリヒ皇帝美術館、ベルガモン美術館、国立美術館などを訪ねた。アンゼルム・フォイアバッハ、ハンス・フォン・マレー、アードルフ・フォン・メンツェル、マックス・ライベルマンなど19世紀の画家や現代画家たちに興味を示している。

 1906年6月には、ミュンヘン・ゼツェッシオン展にエッチング10点を出品した。前述の作品6点と、「女性的な優美」「君主制主義者」「新ペルセウス」「脅迫する頭部」の4点である。この時期の日記にこう書かれている。

エッチングにはかなり満足しているが、このまま続けるわけにはいかない。自分は専門家ではないのだから」また、1906年27歳中頃にはこう記している。

 「版画は“作品1’’とし、過去に属する完壁な“作品’’とみなす。それらは、私の生涯の一つのエピソードとなるだろう」

 ベルリンに旅行し、ミュンヘン分離派(ゼッェッシオン)展に出品した年の9月15日、パウル・クレーは、ベルンでリリー・シュトゥンプフと結婚し、バイエルンの州都のシュヴアービング地区に居を構えた。ここは芸術家たちがこよなく愛した地域だった。

 この頃、作品はさらに多様化した。黒塗りしたガラス板にビュランで絵を描く技法(下図右)により、気高い父の肖像のような表現力に富んだ作品を制作したり、ミュンヘンやベルン郊外を水彩画(下図左)にまとめたりしている。また、美術雑誌に作品の掲載や出版を試みるが、うまくいかなかった。

 1907年28歳11月、息子が生まれフェリックスと名付けられた。彼は二人の唯一の子供で、2歳で重病を患ったときの両親の心配は並大抵ではなかったが、介護のかいあって、回復に向かった。

 クレーがミュンヘン・ゼツェツシオン展1908年29歳5月15日〜10月末に開催)に版画3点、またベルリン・ゼツェソシオン展(同年12月に開催)に別の6点をそれぞれ出品したのはこの頃のことである。

▶︎ゆっくりした芸術の進展

 前述のグループ展では、パウル・クレーの絵画が展示され、1909年30歳には、いよいよ大規模な個展を開催する機会が到来した。画家は、プロの画家としてのキャリアに見合うこのように大がかりなイベントを行う場所として、自分の生地、いや、もっと正確に言えば、子供時代に過ごした町ベルンを選んだ。

 この個展はベルン美術館で行われ、8月にオープンした。同展はこの後、チューリヒ美術館(10月)、ゲインタートウールのチューム画廊(1910年11月)、バーゼル美術館を回った。展覧会には、水彩画を中心に、水彩とペン+インクによる素描画、ガラス絵など56点が展示された。

 日記には、チエーム画廊の画廊主が彼に送っ7こ興味ある手紙が記録されている。画廊主はこう伝えている。

「大方の入場者は君の作品を批判し、何人かの著名な人たちは作品を取り外すよう求めています」

 画家がこの件に関して具体的な指示を求めたのに対して、画廊主は、一般大衆向けに何か展示作品の内容を書いたご説明書を用意した方がいいだろうと応えた。これに対して、パウル・クレーはいささか皮肉を込めてこう反応した。自分の作品に説明書やコメントを付けなければならない芸術家は作品に自信がないということだ。それに、たとえばベルリンの偉大な画家フェルディナント・ホードラーのように、画家としてのスタート時点で多くの芸術家たちが一般大衆の無理解の犠牲になったのだ。

 そしてさらに、これでもまだあのヴィンタートゥールの知ったかぶりの画廊主には言い足りないとでもいうように、チューリヒで行われた個展の評論記事のコピーを彼のもとに送り付けたのである。アカデミックな風潮がだんだん薄れてきてはいたが、保守的なものを好む一般の人々にパウル・クレーの芸術が喜ばれなかったのは当然と言えば、当然であった。

 彼の関心は、本能的なフォルムに向かい始めた。1912年の初めの日記には、民族博物館で見られるような原始人の作品や、子供たちの絵にこそ、独創性という芸術原理がある、と書かれている。

 こうした感性により、クレーは、自分と同じようにアカデミズムを否定する画家や作家たちと接触するようになった。1911年32歳・夏、ミュンへンの進歩的な画廊主タンハウザーに素描画30点を見せた後、ベルン在住の画家や詩人、評論家たちのグループに参加した。このグループは「セマ」の名のもとに自分たちを世に問う革新的芸術家集団を結成しようとしていたが、1912年4月のタンハウザ一画廊でのグループ展を最後に、この計画は先細りしていった。

 この少し後、彼はワッシリー・カンディンスキーとさらに親密な接触を待つようになる。このモスクワから来たロシア人は30歳法律家としての職を捨てミュンヘン美術学校のフォン・シュトウックのもとで絵の修行をしていた。しかし、クレーはこのミュンへンの美術学校で彼に会ってはいない。二人を引き合わせたのは、共通の友人で、クレーとパリに同行したベルンの画家ルイ・モワイエである。

 カンディンスキーはベルンの、しかもクレーと同じ通りに住んでいたのだが、クレーがあまりに内向的だったため、モワイエが二人の作品をそれぞれに紹介してくれたのである。カンディンスキーの作品を見て、クレーは不思議な絵画”と称した。二人の芸術家はついに出合った。クレーはこのモスクワから来た画家に会って圧倒された。日記には、

「直接彼に会い、私は深い信頼の念を抱くようになった。彼は何者かであり、他にない美と理性を兼ね備えた心の持ち主だ」

と記し、さらに、これからも行き来しようと決めたことがつけ加えられている。1911年32歳・冬クレーはカンディンスキーが主催する「青騎士」グループに加わることを決めた。この一風変わった名称はカンディンスキーの絵画の題名からとられている。

Der Blaue Reiter(青騎士)

アーティスト協会のDerBlaue Reiterは、1911年にミュンヘンで緩い同盟として設立されました。1年後、同名の本が出版されました。これには、現代美術の動きに関するイラストやテキスト、いわゆるアルマナックが含まれています。その作者であるワシリー・カンディンスキーとフランツ・マルクは「芸術における精神」に関心を持っていました。彼らが目指した「真の」芸術は、視聴者に「感情的な振動」を促すことができる芸術でした。アルマナックのさらに重要な側面は、さまざまな文化からの芸術、子供たちによる創造物、そしてさまざまな時代の一般芸術の並置と平等な扱いでした。

アルマナックと同時に、カンディンスキーとマークはミュンヘンで2つの展示会を開催しました。最初の作品には、アウグストマッケ、ガブリエレミュンター、アンリルソー、ロベールドローネー、ハインリッヒカンペンドンクの作品が含まれています。1912年の春に2回目の展覧会が続き、クレーもいくつかの作品で表現されました。青騎士の芸術家たちは、ロベール・ドローネーやアンリ・ル・フォーコニエなどのフランスの芸術家を含む他の前衛的な運動との激しい意見交換を続けました。

 このグループは、ミュンヘン新芸術家協会から分かれ、1909年にカンディンスキーが創設したもので、1911年32歳9月18日、タンハウザー画廊で最初のグループ展が開かれている。このグループ展は、自由出展とされ、ドイツのフランツ・マルクアウグスト・マッケ、ロシアのダヴイッド・ブルリュークウラデイミール・ブルリューク、フランスのロベール・ドローネー、そして他の無名の画家たちの作品が展示された。

 驚くことに、この“青騎士”たちによるグループ展では、“税官吏’’ルソーの作品や作曲家アルノルト・シェーンベルクの作品も数点紹介された。シェーンベルクは同年、革新的な『調和に関する論文』を出版している。

 1912年33歳、「青騎士」の芸術家たちは、ブルリューク、マッケ、シェーンベルク、マルク、そして、もちろんカンディンスキーらの理論に関する小論を収めた年鑑を出版した。また同年、カンディンスキーは『芸術における精神的なもの』を出版している。

 パウル・クレーはカンディンスキーの主催するグループに参加したが、最初のグループ展には出品していない。だが、2月にミュンヘンのハンス・ゴルツの画廊で行われた第2回展には16点の作品を出品している。ピカソやドラン、ブラックの作品を扱う、この創意に富んだ画商は、「青騎士」に所属していない画家も集めた現代美術の作家たちによる別のグループ展を企画したのである。パウル・クレーもその一人であった(このグループ展は後にベルリンに巡回した)。

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 1912年33歳4月2日から18日まで、つまりイースターの休暇を利用して画家は再びパリに旅行し、1905年に訪れた時のように、大半を美術館や近代美術の画廊で時を過ごした。日記には、ベルネイム・ジュヌ画廊でマティスの作品を、ヴィルヘルム・ウーテ画廊でピカソとブラックの絵画を、カーンワイラー画廊でピカソ、ドラン、ヴラマンクの作品をそれぞれ見たと記している。また、キュビストの画家アンリ・ル・フォーコニュと会ったことも記されているが、フォーコニュは、1911年にミュンヘンで行われたカンディンスキー率いる前述の「青騎士」グループ第1回展の出品者の一人だった。

 パリ滞在中、パウル・クレーはロベール・ドローネーにも会った。ドローネーは、前の年に行われた最初の「青騎士」展に招待出品した唯一のフランス人画家で、セザンヌを通じて印象派からキュビスムまでを修得し、後に原色の組み合わせを基調としたリズミカルな抽象に関する非常に私的な概念を展開した。

1914年、クレーはついにドローネの絵画に取り組み、それらを抽象的な形と色の彼自身のダイナミックな構図に翻訳しました。ドローネは、色と還元的なフォームのみを使用して作業しました。クレーは、そのような抽象的なカラーフィールド構成を、オブジェクトの表現に一貫性がないと考えた純粋なキュビズムの作品よりも高く評価しました。それに取り組んできた1人のアーティストによって、驚くほど簡単な方法で修正されました。私たちの時代の最も輝かしい精神の1つであるドローネは、自然からのモチーフのない完全に抽象的な形として人生を送る一種の自律的なイメージを作成しました。

 クレーがドローネーをどれほど賞賛していたかは1913年1月に発行された『シュトゥルム(嵐)』誌ドローネーの著書『光について』翻訳を掲載したことでも明らかである。同誌はベルリンで発行されていた芸術文化に関する隔週誌で、ヘルヴアルト・ヴァルデンによって10年前に創刊された。

 クレーは、1913年12月にも、「部族の戦士」と題するペン画1点同誌に掲載している。構図は傾き、戦士を表す鈍い塊が描かれた、あえて攻撃的で野蛮で原始的な作品である。これは、「青騎士」の一人で、まもなくしてクレーの友人となる画家フランツ・マルが、1912年1月に同グループが発行した雑誌の中でグループの名称を「ドイツの野蛮人たち」にしようと叫んだこととは無縁である。また、「フォーヴ(野獣派)」という名は、ある評論家が、パリのサロン・ドートンヌ展でマティスやドラン、マルケ、ヴラマンクなど前衛画家たちのグループに付けたものであったこと、クレー自身、『シュトゥルム』誌にペン画を掲載した年に原始民族の芸術と子供たちの絵を評価していたことなどを心に止めておく必要があろう。

 ヴァルデンはドイツ帝国の首都で画廊も経営し、初めからドイツやオーストリア、フランス、イタリア、ロシアの最も前衛的な芸術家たちの作品を展示していた。したがって、ベルリンの「シュトゥルム」画廊で開催された総合展にパウル・クレーの作品が展示されたことが、これによって理解されよう。ここでの展覧会は、1912年(4−5月)、1913年(3月、5月、9月、12月;「第1回ドイツ秋季展」)、1914年(4月)、1915年(6〜7月)、1916年(3月、7月、8月)、1917年(3〜4月、12月)、1919年(1月)、1920年(9月)、1921年(7〜8月)に行われた。

 ところで、話は飛んでしまったが、年代順に話を戻せば、クレーは1914年4月、後に作品に多大な影響を及ぼすことになるチュニス13日間の旅行をしている。この旅には二人の友人が同行した。

 「青騎士」で知り合ったスイス人のルイ・モワイエとドイツ人のアウダスト・マッケである。クレーの旅行費用を援助したのはポルナントという名のベルン出身の薬剤師で、また、三人の芸術家の滞在曹はチュニジアの首都サンージェルマン住宅地区に住むベルン出身の医師が負担した。この旅行で、クレーは光に狂気した。日記にはこう書いている。

色彩が私を捕らえた私が光を捕らえる必要はない。光が永遠に私を捕らえたことを認識した。これこそ、幸せの一瞬の意味するところなのだ色彩と私が一体になる。私は画家なのだ。」

 彼は制作に一心に打ち込んだ。ヨーロッパ入居住地区やハンマメット、カイルアンなど、その町をテーマに、都合の建造物全体をベースに両家独自の建造物を創造し、真の水彩画家であることを立証したのである。

 ドイツヘの帰途、ナポリ、ローマ、フィレンツェ、ミラノを経由し、4月25日、家族のもとに戻った。そして、その少し後、バイエルンの首都に在住する数人の芸術家仲間と「ミュンヘン新ゼツェッシオン」を結成し、5月30日にオープンしたグループ展に8点の作品を出品した。

 1914年35歳6月29日、サラエボにおけるオーストリア=ハンガリー帝国皇太子の暗殺を引き金に、第一次世界大戦へとつながる恐怖の殺戟の鎖が切って落とされた。戦争は実際、8月3日まで勃発しなかったが、関係諸国の人々の生活に自ずから大変動をもたらした。

 パウル・クレーは、両陣営の兵士約50万人が命を落としたヴェルダンの前線で友人フランツ・マルクが戦死したことを開いてうちひしがれた。マルクが戦死したのは1916年37歳・3月4日のことであった。その月の11日、クレーは徴兵され、ラントシュット・バラックスの歩兵連隊に送られた。そして、それからまもなくして一 任務の希望をきかれるまもなく、バイエルンのシュレスハイム航空予備隊に配属され、最終的には、1917年1月ゲルストホーフェンの航空訓練学校に転属されて主計局勤務となった。

 したがって、クレーの人生が戦争によって手痛い影響を受けたとは言えない。実際のところ、彼は、戦時下の国々から難民を受け入れていた中立国スイスに短期旅行をする機会すら待った。難民の中には、後に美術や音楽の分野で有名になるロマン・ロラン、ジェームズ・ジョイス、トリスタン・ツアラ、ストラヴィンスキー等がいた。クレーが、だいぶ後に彼の画商となるマンハイム生まれのユダヤ人D.Itカーンワイラーに会ったのは1916年のベルンだった。画家は、カーンワイラーのパリの画廊を1912年に密かに訪れている(カーンワイラーはドイツ国民であったため、フランスを去らざるをえなかった)。

 1918年39歳11月11日に戦争は終結し、クレーはミュンへンの家族のもとに帰還することができた。しかし、バイエルンの政治社会状況は混乱状態にあり、ルートヴィヒⅢ世はドイツ皇帝ヴイルヘルムⅠⅠ世がオランダに逃亡したと同時に退位させられた。それと同時に、ベルリンやその他の主要都市では、前年10月のボルシェビキによるロシア革命の影響を受け、革命が勃発した。以前のバイエルン王国は今や、独立社会民主党員クルト・アイスナー率いる社会主義共和国となった。1919年2月、アイスナーの暗殺を期にソヴイエト社会主義共和国が設立され、作家エルンスト・トラー率いる ‘労農兵中央委員会’’がこれを治めた。この頃、クレーはミュンヘンにあるバロック様式の小さなシュレーヌ城内のアパートに家族と移り住み社会主義政府芸術家語間会議の委員に任命された。

 しかし、この諮問会議の実態は、4月22日には都市にあるすべての美術コレクションを没収し、社会目的のための資金集めと称してそれらの美術品を海外に売り飛ばすという過激な手段を発議するギリギリのところまで来ていたのである。

 5月の中頃、革命は、かつて準軍事的な“義勇軍’’部隊に配属されていた、ドイツ共和国国防大臣ダスタフ・ノスケによって鎮圧された。クレーは、政府による弾圧の恐怖からあえて家を放れようとはしなかったが、一時的にべルンに移り住もうと決意した(クレーは気づかなかったが、偶然にも、アパートの隣室にトラーが隠れ住んでいた)。

 ところで、ドイツの画家、とりわけ、O.K.ヴェルクマイスターの作品の解説者たちは、1919年に描かれた鉛筆画「抽象」(現在、カリフォルニア州のノートン・サイモン・パサディナ美術館蔵)を非常に重視する(ヴェルクマイスターの作品「革命から亡命まで」は1987年にニューヨークの近代美術館で開催されたクレー展のりっぱなカタログの中に納められている)。この鉛筆画には、耳も口もなく、まるで自分を外界から閉ざし何かの決意を伝えたいかのように両目を堅く閉じている一人の男が描かれている。この歴史家の意見では、問題の作品は自画像か、もしくはもっと正確に言って、心の変化に潜む画家の感情を表す自己風刺向であるかもしれない。バイエルン革命の勃発によって膨れ上がった希望は、今や残虐行為によって粉々に打ち砕かれ、彼自身がノスケの残忍な弾圧行為で病気になってしまったのである。

 パウル・クレーがデュッセルドルフ美術学校に教師の職を見つけようとしたのはあの悲劇の年と同じ1919年40歳だった。しかし、画家仲間のヴイリイー・バウマイスターやオスカー・シュレンマーからの推薦状があったにもかかわらず、努力は無駄に終わった。だが、幸いにも彼は画商ハンス・ゴルツと3年間の契約を結ぶことができた。ゴルツの画廊ニュー・クンスト画廊はミュンヘンで免除特権をほしいままにしていた。また、ミュンヘンのミュラー社からクレーの押し絵を配した著書が出版されたことも、1919年の彼の生活の中で明るい出来事である。『ポツダム広場・・・新しいメシアの夜・・・恍惚の幻影』、と題する、社会を鋭く風刺したこの本は、ドイツの首都の中央公園にたむろする売春婦を身請けしようとする純朴なある田舎男の物語である。

 6点のペン画からなる挿し絵は、大都市のダイナミックな力強さを想わせるジグザグした角のある繰で描かれているが、全く写実的ではない。この本の序文はライプチヒ出身の歴史家で美術評論家のエクアルト・フォン・ジドゥが書いているが、1919年に日の目を見たこの出版計画は彼の考えに寄るところが多いように思われる。パウル・クレーがこれらの大胆な挿し絵を依頼されたのは、彼がまだ兵籍にある時であった。

 1920年41歳から、ベルン生まれのドイツの画家は、今世紀の造形美術に多大な影響を及ぼした教授法の実験を共同で行おうとしていた。バウハウスである。

▶︎バウハウス時代

 1902年、サクソニーーワイマール大公が、ベルギーのモダニスム運動を美術の分野に適印した世紀末の大人物アンリ・ヴァン・デ・ヴュルデに委託したワイマール美術工芸学校は、戦後の1919年に改革され、「国立バウハウス」と名称を改められた。

 再スタートした学校の校長ベルリン出身の建築家ヴァルター・グローピウスで、彼は戦争が勃発する少し前、「ドイツ工作連盟」と呼ばれる建築家グループで傑出した人物だった。グローピウスは「芸術家」と「工芸家」の概念の違いを少しも認めず、芸術家という職業にあえて栄誉を与えようとはしなかった。「芸術家は程度の高い工芸家にすぎない」と彼は言ったであろう

 ワイマール「バウハウス(建築の家)」の最初の声明文は1919年4月に出され、この中でグローピウスは、建築家も彫刻家も画家も一体となって参加できる、将来に向けた新しい建物の建造計画を公表した。それは、何百万もの職人の手で建てられる、将来を支配する新しい信頼の象徴となる建物である。

 この意欲的な教育機関の幹部教授会は、最初、彫刻家のグールハルト・マルクス、画家のライオネル・ファイニンガーヨハネス・イッテンによって構成された。