日本におけるアンフォルメルとその役割

■日本におけるアンフォルメルとその役割

平井幸一

▶︎アンフォルメルとは

 「アンフォルメル」という言葉をご存知だろうか。ある世代の人々には懐かしい、しかし多くの人々は初めて開く言葉かもしれない。だが、実は戦後しばらくしてフランスからやって来たこのアンフォルメルほど、日本の美術界に衝撃をもって受け留められたものはなかった。その影響はあっという間に洋画のみならず日本画、彫刻、陶芸、いけばな、その他さまざまなジャンルに広まり若手から功成り名を遂げた大ヴェテランまでを飲み込んだ。美術ジャーナリズムは、その勢いの凄まじさを「アンフォルメル旋風」、「アンフォルメル・ショック」、「アンフォルメル台風」と表現した。

放送大学・日本美術史と近代 アンフォルメル運動について 話・芳賀徹氏

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▶︎芳賀徹さんが死去 東大名誉教授 2020/2/21 17:15

 江戸時代の治世を「徳川の平和」と呼び、その文化的達成を高く評価した比較文学者で東大名誉教授の芳賀徹(はが・とおる)さんが2月20日午後9時10分、胆のうがんのため東京都内の病院で死去した。88歳だった。告別式は2月26日午前10時30分から東京・青山葬儀所。喪主は長男、満氏。

東大教養学部卒。江戸時代の蘭学や絵画、文学の研究を通して当時の文化・文明の先進性を説き、封建的とされてきた徳川時代を、いち早く再評価した。著書「文明としての徳川日本」などの業績で日本芸術院賞・恩賜賞。夏目漱石ら近代の文学者と美術との関わりを明らかにするなど日本の比較文学研究を先導した。国際日本文化研究センター教授や京都造形芸術大学長、静岡県立美術館館長などを歴任。代表作に「平賀源内」「絵画の領分」。日本経済新聞朝刊に「詩歌の森へ」を連載した。

 では、このアンフォルメルとは一体何であったのか。今日、美術辞典やインターネットでアンフォルメルを調べると、ある様式的な特徴を伴う「前衛芸術運動」と説明されていることが多い。だが、正確にはそれは、印象主義やシュルレアリスムのような芸術的主張を意味する言葉ではない。ミシェル・タピエMichel Tapie,1909年−1987年)という美術家であり音楽家であり美術評論家でもあった一人のフランス人が構想した、独自の美的概念を表す造語である。

 第二次世界大戦が終結してまもない1940年代後半、欧米の美術界において、大戦前には見られなかった新しい表現が次々と登場する。具体的には、作者自身による激しい行為(アクション)や素材が持つ生々しい物質感の強調単一的なモチーフの反復や集合、画面全体への展開、明確な輪郭を持たない形態や色面などを特徴とする絵画や彫刻である。タピエは、これら同時多発的でありながらいくつかの共通項を持った作品群に着日し、戦後初の前衛的な動向としで包括的に論じることができないかと考えた。そしてそのための基礎概念として、当時話題を集めでいた位相幾何学(トポロジー)などを援用し編み出したのが、アンフォルメル(informel)であった。

コーヒーカップからドーナツ(トーラス)への連続変形(同相写像の一種)とその逆(位相幾何学)

 タピエは、あらゆる思想や形態の可能性をはらんだ混沌とした未分化な状態アンフォルメルと呼び(したがってアンフォルメルは、よく使われる「非定形」や「不定形」ではなく、「未定形」と訳すのがもっとも的確である)、上述した作品群はそれまでのユークリッド蔑何学に基づく形態や空間の概念から絶縁し、この新しい概念から立ち現れでいるがゆえに画期的であるとした。さらには、こうした作品に底流する法則性を明らかにし、これまでの美学によらない「別の美学」を構築する必要性を論じたのであった。

 この考えにもとづき、タピエは1951(昭和26)年、自らが選んだ欧米の美術家たちの作品を集めて、パリのステュディオ・ファケッティで「アンフォルメルが意味するもの」展を開催、翌年には初のマニフェストともいえる著書『別の芸術』(un Art Autre)を刊行する。さらに、1955(昭和30)年にパリのセーヌ河左岸に開廊したスタドラー画廊の顧問に就任し、以後は同画廊を拠点に企画展や著述活動を展開した。

ジョルジュ・マシューとミシェル・タピエが新しい芸術形態の認識に向けて協力して働いたのは、戦争の直後、絵画表現にまで及んだ解放と再建の時代でした。プロモーターによると、「叙情的な抽象化」、「インフォーマル」、「芸術的自閉症」、「タキズム」など、さまざまな用語で着飾っていますが、可能な限り多様なものを再定義する共通の意志として定義することができますフロンティアは、キュービズム、シュルレアリスム、幾何学的抽象主義によってすでに探求されており、すべての決定論や形式主義からはほど遠い。MathieuとTapiéの間のコラボレーションは1948年まで開始されませんでしたが、この大胆なプロジェクトの前提が見つかるのは前年です。

 だが、このタピエの芸術論とその活動は、最初パリ在住の日本人美術家やパリ帰りの美術評論家を介して間接的に日本に伝わった。そしで後述するように、その過程で当時の日本の美術家や日本人全体が抱えていた問題に引き寄せて独自に解釈され、タピエの側からすれば曲解され誤解されて、本来は概念を表す言葉であったアンフォルメルもまた、激しい行為や生々しい物質感を強調する表現様式や、そうした表現様式に基づく芸術論、さらには(タピエ自身が「アンフォルメル『運動』なるものは存在しない」と明言していたにもかかわらず)芸術運動を意味する多義的な言葉としで定着してしまったのだった。したがっで本展や本稿でも、アンフォルメルをこの日本独自の意味合いで用いでいることを、まずお含み置きいただかねばならない

▶︎ サロン・ド・メ

 さて、アンフォルメルという言葉が日本のメディアに初めて登場したのは、1955(昭和30)年8月に『美術手帖』に掲載された海藤日出男、植村鷹千代、徳夫寺公英による座談会においでとされる。そして1956(昭和31)年の春から秋にかけては、パリ在住でタピエから作品を高く評価されていた堂本尚郎のエッセイや、同じく今井俊満の紹介記事、ヴェネツィア・ビエンナーレの審査員としで渡欧しその帰路にパリに立ち寄ってタピエの活動に接した美術評論家、などが美術雑誌に掲載され、アンフォルメルなるものへの関心が急速に高まった。

 こうした機運のなか、1956(昭和31)年11月、朝日新聞社が主催し日本橋高島屋で開催された「世界・今日の美術展」において、日本人は遂にそれまで文章や図版でしか知ることが出来なかった「別の芸術」、すなわちアンフォルメルの実作品を、まとまった形で目の当たりにすることになる。

 この展覧会は、戦前パリでアブストテクシオン・クレアシオンの一員として活動し、戦後は「対極主義」(対立する要素をひとつの精神のなかに共存させ、両極間から生まれる反発と吸引のエネルギーから何ものかを創造するべきとする考え方)のもと前衛美術界をけん引した岡本太郎が、パリに赴き旧知のジャンヨミシェル・アトランやクルトセリグマン、美術評論家のパトリック・ワイドベルグらと選抜した、戦前のシュルレアリスムや抽象の流れを組む作品群で構成される予定であった。ところがそこに急きょ、同じ年に岡本が所属する二科展に持ち込もうとしたものの会内の反発にあい展示の機会を失った一群の作品を加えることになる。この一群の作品こそ、岡本からパリの最新の動向を示す作品を二科展に送るよう依頼された今井俊満が独断で選抜した17点の絵画であり、それらはすべてシェル・タピエのコレクションであった。「世界・今日の美術展」には、海外作家47名の76点と国内作家60名の60点、計107点が出品されたが、全体からすればわずか一部強に過ぎないこの17点の作品が、大きな話題を呼ぶのである。

 その話を進める前に、ここでアンフォルメル上陸までの日本での海外の美術をめぐる状況を概観しておきたい。1945(昭和20)年8月15日、日本は連合国に無条件降伏し、第二次世界大戦は終結、以後日本は連合国の兢治下に置かれることになる。戦争中の閉鎖的で抑圧された日常から解き放たれた人々は、窓を開け新鮮な外気を取り込むかのように、海外の美術、とりわけ戦前から新しい動向の発信地と見なしてきたパリの美術を渇望した。だが占領下、海外との文化的、経済的交流は制限され、戦後のパリでどのような美術運動が興っているかの情報も入っては来なかった。日本人は戦後の数年問、戦前から国内にあったフランス近代絵画の個人コレクションで構成された「泰西名画展」や「フランス絵画複製展」などで欲求不満を紛らせるしかなかった。「フランス絵画複製展」とは、カラー印刷された海外製の複製画を有料で見せるという今日では信じがたい展覧会だが、京都に巡回した際は「開場前から入場者が列を作り、閉場すると若い美術家たちが弁当もちで画廊につめかけ、徹夜で模写した」というから、日本人が戦後、肉体的にだけでなく精神的にいかに飢えていたかが窺えよう。

 このようないわば文化的鎖国状態がようやく解消され、待望のパリの同時代の美術が日本に紹介されたのは、敗戦後5年が経った1950(昭和25)年のことである。同年8月、東京日本橋の高島屋で開かれた読売新聞社主催による「現代世界美術展」がそれで、欧米の近現代美術、約100点で構成され、エドアール・ピニオン、アンドレ・マルシャン、ギエスターヴ・サンジェら、パリの「サロン・ド・メ」系の美術家たちの作品がその中心を占めでいた。サロン・ド・メ(Salon de Mai)は、パリがまだナチス・ドイツの占領下にあった1943(昭和18)年、美術家によるレジスタンス運動の一環として創立され、戦後1945年5月にフランス近代美術の復興と発展的な継承を掲げで第1回展を開催した、

 当時パリでもっとも新しい展覧会組織であった。 翌1951(昭和26)年三月には、毎日新聞社の主催で「現代フランス美術展」が東京日本橋の高島屋で開かれる。「サロン・ド・メェ日本展」の副題を持つこの展覧会は、その名のとおり前年5月のサロン・ド・メの出品作品を招来した展覧会であり、フォーヴィスムとキュビスムの折衷を目指した「ノン・フィギュラティフ」を中心に、新表現主義とでもいうべき具象、抽象を含んだ全58点が出品された。戦後初めて見るパリの同時代の絵画は、日本の美術家を大いに刺激する。

  戦前にパリや日本でフォーヴィスムやキュビスムの洗礼を受けた中堅美術家の多くは「ノン・フィギュラティフ」に戦後の歩むべき方向を見出し、具象と抽象の折衷的な表現へと転じた。一方、戦前の幾何学的な抽象とは一線を画したアンス・アルトゥング後にアンフォルメルの美術家としで日本に再紹介される)、ピエール・スーラージュらの流動的な凍を主体とする抽象絵画も注目を集め、若い美術家たちの問で抽象への関心が高まりを見せた。

 一方、このサロン・ド・メの作品群に物足りなさを感じる人々もいた。作品に共通する穏健な叙情性や具象と抽象との折衷的表現からは、人類史上かつてない規模の殺戮が繰り広げられ、人間の理性や存在の意義が根底から問い直された第二次世界大戦後の精神的な危機感や、新しい時代の到来を具現するような革新的な表現を見出すことは困難であった。サロン・ド・メの作品が招来された1950年代前半、主権を回復し国際社会に復帰した日本は、朝鮮戦争によるいわゆる特需景気をきっかけに復興の足がかりをつかんだが、他方では日米安全保障条約のもと再軍備が行われ、労働運動や平和運動が激しさを増すなど、社会は未だ矛盾と混乱のなかにあった。こうした現実に正面から対峙し、それを抽象やシュルレアリスムなどの前衛的な手法でも写実的に表現する社会主義リアリズムでもない「新しいリアリズム」で表現することにこそ真の戦後美術の方向性があると考える美術家たちにとっては、サロン・ド・メの作品は現実感を欠いた空虚な絵空事に過ぎなかった。彼らは政治的使命感を抱いて各地の戦争の現場に足を踏み入れ、「ルポルタージュ絵画」という独自の表現を確立した。


 また、岡本太郎はサロン・ド・メの作品を見て「このかなり軟化した穏健派は、眞のアヴァンギャルドとは云えない。その意味で私には期待外れだった」と嘆いた。

 そうしたなか、パリからサロン・ド・メに続く最新の美術動向として到来したのがアンフォルメルだったのである。

▶︎ アンフォルメル旋風

 1956(昭和31)年11月の「世界・今日の美術展」でのアンフォルメルの実作品の紹介は、いわゆるアンフォルメル旋風の引き金となった。同展開催中の12月には、アンフォルメルを基礎概念とする「別の美学」が初めてタピエ自身の文章によっで説明され、翌1957(昭和32)年2月の読売アンデパンダンや同時期の公募展の作品の一部には、早くもアンフォルメルの作品に典型的な様式である激しい行為(アクション)や物質性を強調した表現が見られるようになる。そしで同年8月から9月にかけでは、タピエとその周辺の美術家たちが来日し、ここに来てアンフォルメル旋風の勢いは頂点に達するのである。

 まず8月5日に先陣を切って今井俊浦がパリから帰国。次いで8月ユタ日にジョルジュ・マチューが来日する。マテューは9月3日に日本橋白木屋のショーウインドーで浴衣にたすきがけのいで立ちで公開制作を行い、飛んだり跳ねたりの制作風景はマスコミの話題をさらった。9月5日にはタピエが来日。タピエは、東京で前衛いけばなの勅使河原昔風や前衛芸術グループの実験工房と接触。また、それまで間接的な情報をもとにアンフォルメルを論じできた美術評論家たちとの対談を積極的にこなし、自らの口からアンフォルメルの概念の解説に務めた。さらに、パリで堂本尚郎から機関誌を見せられその活動を知った具体美術協会(「具体」)を訪ねるため今井、マチエーと共に大阪に赴き、リーダーの吉原治良宅で「具体」メンバーの作品を実見した。「具体」の作品についてタピエは、「全体の『質』の高さにまったく肝をつぶしてしまった」、「作品を見せてもらった十五人ほどの作家のうち、私によれば少なくともその三分の一は問題なく超等級に属する」もので、「こんなことはアプリオリ(筆者註=「先験的」の意)に言って大体想像できぬことだし、他のグループと称されるものの中に未だかってありえたためしがない」と最大級の賛辞を贈った。9月20日には、前日に離日したマテューと入れ替わるようにサム・フランシスが来日。マチュ一同様、12月9日までの間、東京で制作を行うとともに東京・大阪で今井との二人展を開催している

 このタピエ一行の来日のハイライトは、10月11日から11月10日にかけて読売新聞社とブリヂストン美術館の共催で開かれたタピエ企画によるアンフォルメルの本格的な紹介展、「世界・現代芸術展」であった。作品の大半はタピエが来日前に選定し、日本への輸送の手はずを整えていたものであったが、タピエはそこに「具体」から吉原治良、白髪一雄、嶋本昭三、前衛いけばなの勅使河原蒼風、実験工房から福島秀子の作品を追加し、来日の成果を反映させたこの展覧会は、日本の美術にとっで歴史的かつ画期的な意味を持つものであった。なぜならばそれは、19世紀末以来、常にパリの新しい表現の後を追い、咀嚼しながら自らの美術史を形成してきた日本が、その一方通行的な関係に終止符を打ち欧米と対等の立場で世界的な前衛美術動向の中に組み込まれた瞬間だったからである。これが敗戦により欧米への劣等感に打ちひしがれてきた当時の日本人にどれほどの興奮を与えるものであったか、今日でも想像に難くない。

 しかしながらその一方で、タピエの来日はまた、日本の美術評論家のアンフォルメルへの批判も巻き起こした。冒頭で述べたように、タピエのアンフォルメルを基礎概念とした新しい芸術論は、最初パリでそれに触れた数人の日本人を介して日本に紹介され、さらにその関節的な情報にもとづき日本の美術評論家がそれぞれ独自の観点から評価した。いわば本来の提唱者であるタピエの来日以前に日本独自のアンフォルメル戦がすでに出来上がってしまっていたのである。来日にあわせでタピエの著作が翻訳紹介され、また来日後はタピエ自らが語る場が幾度か用意されたが、タピエ自身の口からその理念が明らかになればなるほど、美術評論家たちからは、自分たちの評価とのずれに落胆する声が聞かれるようになった。加藤瑞穂の論考が明らかにしているように、例えば、日本においてはアンフォルメルの作品に見られる生命の躍動感の直接的な表現に重きが置かれ、既成の美学や秩序を否定するかのような理解がなされていたのに対し、タピエはそれらをただ否定するだけでなく、それに代わる「別の美学」の構築を最終日標にしていたことや、日本や東洋の伝統的な美術とりわけ書が、西欧のアカデミズムを突破しアンフォルメルを生み出す契機となったとの理解に対しピエはアンフォルメルに見られる日本や東洋の美術とのある種の共通性を、影響関係ではなく自身の芸術論の正当性を証明するものとして語ったこと、などである。日本ではアンフォルメルの表現様式の代名詞となったアクションや物質の二大要素についでも、タピエは特にに言及していない。

 また、そもそもタピエの芸術論は、欧米そして日本などに同時に台頭した様式的に似かよった作品を、新しい概念を打ち立ててひとくくりにしで論じようとするものだったから、その語り口は抽象的で曖昧にならざるを得ず、難解で具体性に乏しかったことや、作者や作品が生まれ出た社会的・文化的背景を考慮せず、日本と欧米の作品を同じ地平で論じる芸術至上主義的な考え方への反発、さらにはタピエの大仰(おおぎょう・おおげさ)で毀誉褒貶(きよほうへん・ほめたりけなしたりの世評)の多い言動、パリの特定の画廊を通じて作品を欧米のコレクターに斡旋するなどのマーケットとの結びつきに対する不審感も、タピエ批判に拍車をかけた。

 タピエは日本で美術評論家と紹介されていたが、タピエの言動は、当時の日本人の美術評論家の通念をはるかに超えたものであった。それまで日本での美術評論家は、文字通り作品の評論をするか、戦前のシュルレアリスム運動における瀧口修造のように、美術家たちのグループ活動に理論的道筋を与える存在であった。それに対してタピエは、独自に構築した芸術論に則って世界中から美術家を(時に本人の意思に関わらず)セレクトし、言説で包んで付加価値を付け、時には売買にも関与した。その姿は現在でいうキュレイターに近い。そしでアンフォルメル以後、欧米に相次いで登場する前衛美術運動が、多かれ少なかれ同様にキュレイターの芸術論に美術家が包含される形で展開したことを思えば、タピエは戦後の前衛美術運動のスタイルを先駆けた人物であるということもできるだろう。

 タピエがアンフォルメルを基礎概念とする「別の芸術」を構想した背景に、戦後初の国際的な前衛美術運動の主導者としで名を残したいという個人的な野心や、前衛美術界の覇権は戦後も引き続きフランス人が取らねばならないという使命感が全くなかったとは言い切れないが、そこには世界がもはや欧米だけでは語れなくなった第二次世界大戦後の状況、言い換えれば世界観の変容に即応した新しい芸術論への期待もあったにちがいない。

 しかしながら、タピエと彼の芸術論をこのような側面から肯定的に評価する日本の美術評論家はほとんどおらず、1958(昭和33)年のタピエの2度目の来日で両者の認識の相違は決定的となり、日本の美術ジャーナリズムを激しく賑わせたタピエの名前とアンフォルメルという言葉は、文字通り一過性の「旋風」や「台風」のとして、わずか1年余りでメディアから消え去っでいった。

▶︎ 主導者なき国民美術運動

 だが話はここで終わりではない。なぜなら、日本の美術評論家と美術ジャーナリズムによっでタピエやアンフォルメルが表舞台から葬られた後も、その表現様式はあたかも主導者なき国民美術運動のごとく、1960年代の前半まで日本の美術界のさまざまなジャンルを席巻し続けたからである。それは一体なぜだったのだろうか。それでもなお、なぜ美術家たちはみんな“熱かった“のだろうか。表現様式だけがなぜ生き残ったのだろうか。本展がテーマにするのはまさにこの問いである。

 アンフォルメルは、戦後フランスから到来した第二波の美術動向であったから、戦争をはさみ同時代の美術としでは十数年ぶりに紹介された第一波のサロン・ド・メの作品のほうが出会いの衝撃は大きかったと考えがちであるが、実際にはアンフォルメルのそれはサロン・ド・メとは比較にならず、また表現様式が影響を与えたジャンルも広範囲であった。その理由としで、フランス近代美術の成果の発展的継承を掲げたサロン・ド・メの作品とは異なり、過去の西欧美術の伝統からの意識的な逸脱を目指したアンフォルメルの作品が、タピエの本来の芸術論とは無関係に、日本人固有の美意識や造形感覚とある種の親和性を待ったこと、また身体や物質を使った根源的で直接的な表現が、絵画だけでなく彫刻や工芸、前衛いけばななど立体的な表現形式にも汎用可能であったことが挙げられよう。

 だが、本展ではそうした表面的な理由だけでなく、日本人美術家たちを老いも若きもアンフォルメルの表現様式に突き動かせたより深い理由や背景に迫ってみたい。そのため、まずはアンフォルメル旋風の前後、1950年から65年の問に生み出されたさまざまなジャンルの作品を、タピエが自らの芸術論に照らし「別の芸術」と認定した欧米の作品に見られる4つの様式的な特徴や特有のイメージで大別する。

1.身体・アクション・線の流動
2.原始・生命・生態的イメージ
3.反復・集合・覆われる画面
4.マチエール・物質

 ここで取り上げた美術家や作品が、すべてタビュ自身が評価したいわば「公認美術家」、「公認作品」というわけではない。そうした美術家はごくひと握りであり、日本のアンフォルメルは、無数の「非公認」の美術家たちによって展開したといえる。そして、ここに並んだ作品の作者のすべてが、自作へのアンフォルメルの影響を認めでいるわけでもないし、それを確認するすべもない。また当然ながら、複数の側面や傾向にまたがる作品もある。この分類も美術家や作品の選択も、ひとつの試みに過ぎない。

 そのうえで、アンフォルメル旋風が吹き荒れた一時期だけでなく1950年代初頭から60年代半ばに至る時問の流れのなかで作品を眺め直してみることで、アンフォルメルが日本の美術に直接、問接に果たした役割が浮かび上がっては来ないだろうか。詳しくは各章のテキストに譲るが、いずれについてもいえるのは、作品の紹介やタピエの来日で突如火が付いたかに思われているアンフォルメルという表現様式が、実は敗戦直後から日本の美術家が抱えてきた表現上の課題や、ひいでは日本人全体に内在しできた精神的な課題を覚醒させ、新たな表現へと導く触媒としで機能したということである。つまり、アンフォルメルの爆発的な流行の発端には、そこに至る複数の伏流が存在したように思われる。

 日本の美術評論家たちもまた、アンフォルメルに同様の役割を見ようとしたが、それがタピエの本来の主張と合致しないことが明白になった時点で、アンフォルメルを芸術論としで語ることを止めてしまった。しかし、概念に拘泥しない当時の多くの美術家たちにとって、その表現様式にアンフォルメルの名前も難解な芸術論も不要であり、それゆえ様式はそれぞれの課題において有効性や必然性を失うまで存続し続けたのだった。

 ところで、このように戦後美術においでかつてない規模の広がりを見せ、触媒としで重要な役割を担ったといえるアンフォルメルだが、1950年代末に美術評論家たちによって下された否定的な評価は、1980年代から本格化する日本の戦後美術再検証の取り組みにも影響を及ぼし日本固有の文脈を探ろうとするあまり、アンフォルメルを「他国からのあからさまの影響を示した」「現代美術史の汚点」としで等閑視(とうかんし・いいかげんに扱って、放っておくこと)、あるいは断罪する傾向が続いてきた。

 その典型が「具体」の活動におけるアンフォルメルの評価であり、1954(昭和29)年に結成された「具体」は、「人のやらないことをやれ」というリーダーの吉原治良が掲げたモットーのもと、同時代の欧米にも例を見ないインスタレーションパフォーマンスの先駆ともいえる作品を生み出していたが、1957(昭和32)年にタピエと出会いアンフォルメルに組み入れられたことで、欧米進出と引き換えに彼の求めに応じて絵画を量産する凡庸なグループに堕落した、とされた。また、1998(平成10)年の芦屋市立美術博物館と千葉市美術館で開かれた草月とその時代1945−1970」以降、日本におけるアンフォルメルの意義を問い直す展覧会が一度も開催されていないことも、アンフォルメルへの低評価の証左(しょうさ・証人)といえるだろう。言葉としで一般の人々に知られていないのも道理なのである。

 だが、ここ数年のアメリカを中心にした世界的規模による戦後美術史再編の動きは、私たちにアンフォルメルの新たな視座からの見直しを求めているようにも思われる。それは、タピエの汎世界芸術論に対略した60年前の日本の美術批評家たちの三者三様の解釈や反応、最終的な見切り方と、一方での美術家たちによる表現様式の換骨奪胎(他人の詩文の語句や構想をうまく利用し、その着想・形式をまねながら、自分の作としても(独自の)価値があるものに作ること)の展開が、今日美術におけるグローバリズムとローカリズム、あるいはグローカリズムを考える上で、有益な示唆を含んでいるからである。

 日本にはタピエがいう「別の芸術」は、本当は存在しなかったかもしれない。だが表現様式としての、触媒としての、内発的発展としての「アンフォルメル」は確かに存在した。そのことの意味もまた、問われようとしている。

(ひらい・しょういち 京都国立近代術館主任研究員)