李禹煥

■他者の国・・・李禹煥の新作群のなかで 

水沢勉 

■  Ⅰ

 李禹煥は、いま、ゆっくりと、しかし、たしかに変貌しようとしている。

 新作の300号の巨大なカンヴァスは、そっけないほど真っ白であり、そのなかに大きな句読点のように一回かぎりのストロークが容易ならざる集中力で配されていき、それがカンヴァスの広がりにある種の分節をもたらす。分節・・・しかし、このことばは、きっと不正確だ・・・画家の簡潔なストロークがもたらすものは、けっして幾何学的な精微な図式ではなく、また、そこからなんとか垣間見ようと、あの1910年代の抽象の胎動に時代に、多くの急進的な芸術家たちが模索した基本要素(エレメント)の存在でもないからである。むしろ、手入れのゆきとどいた厚みある経験が、寡黙に、だが、じわじわと潜勢力を潜ませながら、たっぷりと貯められ、おのずとそこからあふれ、みているものに伝わってくる、という気配がある。

 今回の展覧会のために新たに描かれた絵画もまた連作であり、「照応」と題されている。

 1970年代の終わり頃から、ざわめきを画面にすこしづつ抱え込みはじめた李禹煥

の絵画は、80年代に入ると、みるみるうちに奔放なストロークが離合し集散する、活性化した場へと変貌した。そして、そのストロークは、ときには重なりあい、絡み合って、李禹煥の絵画作品の場合めったにないことだが、その濃密なマチエールによって、絵画的な空間のイリュージョンが成立する間際にまでも、かなり接近したのだった(「風より」1985年、fig.1)。かつての「点」「線」といった造形手段ではなく(「点より」1973年、fig.2)、本来、造形的にそのものを対象化しがたい自然現象である「風」が、題名に含まれるようになる。「風より」、そして、1987年以降の「風と共に」へと。

 この変貌は、1980年代の美術市場とそれと連絡した批評を舞台に、狂い咲きとみえたペインタリーな「絵画」の時代への李禹煥の側からのかなり戦略的な、冷ややかな距離を置いた応答であったにちがいない。しかし、それは、いまからふりかえるときに、結果的にそうみえるのであり、すでに経験豊かな画家であった李禹煥は、自身の内部の気圏に、到に動勢に富んだストロークという他者を、危険をあえて承知で導き入れたのだった。この「風より」と「風と共に」の両シリーズに触れて、峯村敏明が(おそらく題名から詩的な喚起をえて)「気象的変幻変化」を指摘し、「宇宙的生成力を一つの理法として把握しようとする欲求」を見て取り、李禹煥のしごとの本質が「コスモス的な秩序」の探求にあることを論じているのは(峯村敏明「コスモスと気象」『李禹煥展』図録所収、岐阜県美術館、1988年)、基本的に正しい見方だろう。

 「コスモス的な」という形容詞が、しかしあまりにも得体が知れないというのならば、「秩序」だけでもかまわないかもしれない。「秩序」がまず厳然とあって、それとの拮抗によってこそ、嵐の猛威は際立つ。「点より」のシリーズ以降、画家としての李禹煥展が、一度も、額なしのカンヴァスという形式を手放したことがなかったことは、ここであらためて思い出しておく価値があるだろう。あのなにものか宗教的な行法のように、あくまでも身体的な反復のうちに、モノクロームの岩彩が擦れ、消えていく、「点より」や「線より」の禁欲的な陶酔感は、いうまでもなくドナルド・ジャッドや初期のフランク・ステラなどのアメリカのミニマリストたちの作品にみられる厳格な出現性とはまったく異質であり、むしろ、最良の演奏家たちの身体を通して、空間に響くときの、ステイーヴ・ライヒやフィリップ・グラスらのミニマル・ミュージックの作曲家たちの作品を連想させずにはおかない。

 そこには、微妙な呼気と吸気のやりとりがあり、微細な差異の集積があり、そしてなによりも柔軟な「秩序」があった。この「秩序」は、まったくあたりまえのことだが、音楽にはじまりと終わりが時間で区切られるように、区画のうちに閉じられるカンヴァスの平面によって保証されていたのである。

 李禹煥の画家としての野心は、この平面であるカンヴァスを領掠(りょうりゃく・他人の所領を奪いとって領有すること)することにあったし、また、その領土の果てにまで達しようとする意志の持続によって、その輝きを保証される性質のものでありつづけてきた。

 たとえば、今回の出品作である「風と共に」の一点(Cat・No.1,fig・3)。画面は、くまなくストロークとタッチで埋め尽くされ、表現の多寡を基準にしてはかるならば、「風と共に」のなかでもっとも稠密(ちょうみつ・ちゅうみつ/隙間なくうめつくしていこと)な作品に数えられるだろう。制作は、かなりの勢いですすめられていったことは、荒々しい筆跡や、絵具の滴りによって推測することができる。文字どおり縦横に走るストロークは、画家がカンヴァスを水平に寝かして描いていることと無関係ではない。しかし、滴りは、描きあげたあとで、絵具の乾く時間をあたえずに、カンヴァスを垂直に立てたときに、流動性を残していた絵具に重力が作用して、はじめて画面上で画家の直接的な意図を離れて、画家の眼前で生じたのである

 今回、展覧会の会場入口の間近に飾られるはずの、この作品は、動きをはらんだストロークが、ほとんどオール・オーヴァーな画面を現出させる密度に達し、ついには、「滴り」という偶然性も受け入れたことを教えている。画家は欝勃(うつぼつ・内にこもっていた意気が高まって外にあふれ出ようとするさま)と生成するモノトーンのうごめきのなかで、絵画の肉感性の波動を総身に浴びていたのにちがいない。

 しかし、それは、同時にまた「秩序」を知らず知らずに手放してしまうかもしれない誘惑のときでもあったはずだ。描くことの痛苦と歓喜の交錯は、性的な陶酔に似ためまいへと画家の視線を溺れさせかねないからだ。

 しかし、李禹煥は、このとき、文人画への安易な親和を拒むために、画面に周到な制限を課していたように思われる画家の体質と化している毛筆は、けっして手放すことなく、それ以外のものについては、媒材に膠をつかうこともなく、あくまで、通常の西洋画の技法にしたがっているのである(「浸透性を斥けた画面づくり」とは、たにあらたの指摘である。「対象を超えて『在る』」、画集『李禹煥』所収、1993年、都市出版)。それでもなお、描くことの耽溺(たんでき・夢中になって、それ以外の事を顧みないこと)へと、この時期、李禹煥が傾いたことは疑いえない事実だろう。東洋趣味と不注意にも見紛われかねない、危険性とまったく無縁であったとは言い切れない、危ういバランスのなかで、あえて矛盾を抱えながら、「風より」と「風と共に」のシリーズは展開していったはずである。それは、しかし、同時にまた、カンヴァスという平面にそなわっているはずの表現の容器としての強度の確認の作業であったことも見逃してはならないだろう。とくにシリーズ「風より」の混沌は、画家がどうしてもくぐり抜けなければならなかったカタストロフィー(突然の大変動。大きな破滅)であったように思える。そこでは、凝集と散乱が入れ替わり、立ち変わりして、かつてあれほど明快な身体的なシステムたしたがっていたストロークの相互関係が完全にご破算になっていたことを思い出しておきたい。シリーズ「風と共に」は、それと比べたとき、主導的な形態がゆっくりとあらためて浮上してくる過程としてとらえることができるかもしれない。

■録音1分35秒 李禹煥の解説 ( 分)

 ここで「風と共に」(cat・nO・1)に、もう一度、目を転じるならば、錯綜するストロークが、その濃淡の豊かなニュアンスの差、形態の多様性、そして、それらの形態の一部にみられる、滴りとして流出する、思いがけない崩れによって、たとえば「深山幽谷」めいたイメージを現出させそうになる視覚体験を観るものにあたえるにちがいない。しかし、画面中央の上部のやや左よりと左下の隅の近くに置かれたふたつの、おおぶりなストロークによって、そのイリュージョンの生成は、やわらかく抑止されることになる。幅広い刷毛によって、画家の身体に即して考えるならば、上から下へではなく、奥から手前へと引かれたストロークが、画面があくまでもさまざまな形態の関係によってこそ成立していることを想起させるのだと、それをいいかえることもできよう。

 ここには、微かにだが、たしかに、かつての身体的なシステムとはまったく異質の、形態の階層序列(ヒエラルキー)が生まれようとしているのである。それは、身体ではなく、画面の空間にあくまでも規制される性質のものであり、その規制との確執のうちに、画家は、自分の領土を確保する、つまり、カンヴァスをさらに領捺していくのだ。

 この過程のさなかにあったときの画家が、峯村のいう「コスモス的な秩序」をそのまま信じられるほどに、楽天的であったかは疑わしい。むしろ、多くの語られぬ困難を背負っていたというべきだろう。「風より」と「風と共に」の両シリーズは、こうした行きつ戻りつする画家の巡(しゅんじゅん・決心がつかず、ためらうこと)の記録にほかならず、それゆえにこそ、多産であり、また、感動ふかいのにちがいない

 今回の展覧会のために、李禹煥が、旧作であるシリーズ「風と共に」からかなりの数の作品を捨てずにおき、そのなかから最初に飾られるべきものとして、いままで論じてきた作品を選んだことには見過ごすことのできない意味があるように思われる。作家がどのように自分の作品のなかから自分の制作史をつくりだすかも、李禹煥のような自意識の鋭敏な作家の場合には、当然のことながら、またひとつの厳然たる作品行為にほかならないからだ。

 欝蒼(うっそう・こんもり)と繁茂(はんも)する、この「風と共に」から、真新しい「照応」の連作へと、美術館の空間に作品を配していくときの、李禹煥の手さばきは、老練な庭師を思いおこさせる。みるみるうちに形態の小枝は、そこには幹もあったのではないかとみている素人のほうは思わず心配になるほどに、いさぎよく勢定されて、あの「風と共に」(Cat.No.1)にあった、太いストロークだけが残されて、より骨法の厳しい、簡素な矩形のストロークへと引き絞られる。

 接近するならば、「照応」のストロークには、わずかな捻(ひね)りがあって、その一部分には、絵具の凝然(ぎょうぜん・じっとうごかないさま)たる溜りができあがっていることに気づく。だが、ストロークは、その立ち上がりから、一気に、なんの迷いも、未練もなく、瞬時にかすれ消えて、あたりには目止めされたカンヴァスだけが広がる。(新作になればなるほど、この擦過(さっか・かすること)するマチエールが、筆の腰がつよいもになっているために、筆跡は、湿潤なものよりも、やや乾いたザラついたものになっていることも注意をひく)。そして、ふたたび、その空白のカンヴァスに、なんの連絡なしに(より正確にいうならば、「点より」や「線より」の身体的な連動性なしに)、別のストロークが唐突に開始される。

 ここでも画面から受ける印象は、とても音楽的なものだ。もちろん、かつてのミニマルな拍節もなく、テンポも、もはや、まったく判然と分かつこともできない。突発的な出現、そして、瞬時の減衰・・・沈黙を切り裂く鼓の音を連想するひとは少なくないだろう。そして、その裂帛(れっぱく・帛(きぬ)を引き裂く音のように、声が鋭く激しいこと)の響きが、かえってそのあとの沈黙を際立たせるとするなら、李禹煥のストロークもまた、周囲の空白の実体性をみるものに教える。カンヴァスの生のままの物質性といっても間違いではないが、ここでは、ストロークの求心性よって、描かれるまえのカンヴァスとは次元の異なるものになっていることに注意したい。ストロークそのものに充填されたエネルギーが、カンヴァスを異化させ、さらにストローク相互の関係性によって、空白のカンヴァスが、独自の意味を帯びた別個の場へと変じている。そもそも絵画であれば、自明の論理ともみえようが、絵画の死活は、つきつめればそこにこそ関わると翻って徹底する地平でこの「照応」は生まれている。しかも、それが閉鎖系ではなく、断固、開放系の場を主張することによって、画面には、形而上的な明るみさえもほの射してきたかのようだ。かつての苦業のような厳密さを離れ、奈落へ下降するかともみえた冗舌(じょうぜつ・おしゃべり)の乱雲もきれいに払って、画家李禹煥は、いま、偏在が遍在におのずと転じる明るみのなかにいる。

■ ⅠⅠ

 今回の展覧会を機に、立体作品は、すべて日本語で「関係項」ではなく、簡潔に「項」と呼ばれるようになった。立体の場合でも、李禹煥は、余計なものを取り払って、素材を鉄と石に限定することによって、無限定な世という際限のないカンヴァスに、鉄と石の禁欲的なストロークを打ち込もうとしているかのまうだ。

 もちろん、鉄と石という素材は、李禹煥の彫刻家としての出自にふかく関わっている。たとえば、最初期の「関係」と題されていた作品(下図左)。この新宿西口の空き地に設置された四角く隅を熔断された鉄板と自然石による非公開作は、石に「支え」と「重し」という対応関係にある李禹煥のシンタクス(統辞法・単語など意味をもつ単位を組み合わせて文を作る文法的規則の総体)をあたえれば、そのままのちの作品へと変貌するだろう。しかし、それ以上に驚くべきことは、境界があいまいなままに散在するという、作品の状態が、まったくそのまま最新作(下図右)にまで脈々と途切れることなく連なっていることだ。

 李禹煥は、彫刻家としての出発の時点で、もっとも恒常的なイディオムをすでに発見していたというべきだろう。その後の李禹煥の仕事ぶりの洗練を指摘するよりも、この同質性の持続をこそ、ここでは強調すべきだと思われる。李禹煥は、いま、過去を現在化するかのように、鉄と石にあらためて取り組んでいると思われるからである。

 今回の展示で、李禹煥が立体の最初の作品として選んだのは、作家が「もの派」のただなかにあった1971年の作品である(上図左)長方形の3センチの厚みの鉄板の片隅に、少しだけ青みを帯びた北海道産の自然石が、美術館本館のいかにも坂倉準三らしい軽やかさをみせる解放感あふれるテラスのいちばん奥に置かれた。

 地下のマグマのエネルギーを抱きながら何百年いや何千年としゝう時間をかけて生成した石は、大地にめりこむような重みによって強烈な自己主張を遂げようとする。しかし、人間が溶鉱炉の熱によってつくりだした鉄板は、それを涼しい顔ではねのける・・・というように、この異質なものの出会いに、擬人的なドラマも読み取ることもできなくはない。事実、「もの派」の時代の李高燥は、この出会いの一回性、つまり出来事としての表現に、李爵換自身のことばを借りるならば「世界自身のあるがままの鮮やかさ」を感じ取り、近代の主体概念のゆきづまりを打破しようと模索していたのである。

 ガラス、綿、針金、鉄板、石、電球、ゴム、ロース木など、当時の李高燥は、さまざまな素材の組合せを試みている(上図右fig.6、fig.7)。

 しかし、こうした表現が「もの派」と呼ばれた作家たちにどのような衝撃をあたえ、また、おたがいにどのような影響をあたえあいながら展開したかを歴史的に検証する作業の意味とはまったく別個の問題として、その異種の出会いが強烈であればあるほど、それはより一回性をつよく帯びるようになり、反復が不可能になるという矛盾律の現実に、その後の「もの派」の作家たちが、あくまでも創作の問題として、例外なく直面したことをここで忘れてはならないだろう。

 それならば、なぜ、李禹煥が、今回1971年の作品からはじめるのか、という問いが浮かんでくるにちがいない。

 しかし、その答えは作品そのものがだしてくれているように思える。李禹煥は、この石と鉄板に、いままさに発見的に対面しているのであり、作家の意識のなかでは、作品は、けっして旧作の再制作ではないようにみえるのだ。おそらく古びているのは、ものそのものではなく、観ている人間の意識のほうではあるいまいか、という思いにこの作品は誘う。

 あれほど鮮烈であったガラスの亀裂を、現在の李禹煥が「うっとうしい」ものとして拒絶するのも、そのあまりにもあらわな一回性が、鮮烈であればあるほどかえって簡単に「手法」として意識に回収されてしまい、事物にそなわっているべき本来的な様相を見ることの邪魔になるからにちがいない。過去のうちに更新されるべき現在をきちんとみつけだすこと・・・その確認のために、この1971年の作品が選ばれたにちがいない。

 ここには、その後の李禹煥の彫刻作品へと展開すべき胚種(はいしゅ・種子植物の種子になる部分)が宿っている。異質なものとの出会いによる反発力よりも、その密かな親和力へと作家の意識は傾いていったように思える。その後の展開を遂げた李禹煥が、あらためてこの起点に立ち返るとき、起点は、もはや同じ起点ではありえまい。思い切ってくだいていってしまうのならば、鉄と石は、ここではむしろあいまいに寄り添いはじめているようにみえる。ミニマルな表現手段でありながら、けっして厳粛な鍼黙(家では話せるのに学校などの特定の場面だけ話せなくなってしまう症状)さをただよわすのではなく、ひろやかで、緩やかであり、けっして無口をよそおったりはしない。石と鉄は、衝突すべき極性において出会っているのではなく、「非相称的な相補性」というイヴァン・イリイチがジェンダーの特性として指摘した性質を帯びながら、あいまいな接点で遭遇しているのだ。

 このあいまい接点を領域へと拡大しながら、現在の李禹煥の彫刻は、展開を遂げつつあるといえるかもしれない。石と鉄は、置かれているという受動的な状態性よりも、場を構成する能動性という性格をつよめている。新宿の空き地に放置された鉄板と石は、境界をあいまいにしたまま、否定的なラジカルさをあたりに暴力的に発揮していたが、新作の「項」(上図左)のほうは、晴れやかな開かれた広場を、思わせずにはおかないだろう。また、大谷石の切り石を両側に規則的に配した「項」(上図右)も、あらゆる方向から出入りできる通路のような存在を連想させる。一方、鉄板の屏風も(下図左右)も、遮蔽して隠すのではなく、むしろ反対に、接合部分の空隙や前後に不規則に配される石によって、自在な通行へと、廃墟の壁のように誘っているようにみえる。

 しかし、李禹煥の彫刻が、そのまま「広場」や「通路」や「廃墟」を縮小したものではないことに注意しなければならない。物質相互のあいまいな関係への作家の感度は、当然のこととはいえ、その構造にも及んでいるからである。彫刻にモニュメンタリティーを期待するひとは、どんなときでも、李禹煥の作品に接するとき、どこかはぐらかされたような思いを抱くのにちがいない。ここでは、中心軸やそれが保証するはずの相称性が、きわめて意図的に排除されているからである。

 李禹煥自身、しばしば、自分を「場所的なミニマリスト」と説明しているが、李禹煥の場合、たんに厳密な幾何学的形態をつかわないという点ばかりでなく、その「場所」さえも、中心性というものを欠いている点で、通常のミニマリストと異なっている。カール・アンドレが「自由の女神」を例にあげて、自分が関心があるのは、その彫刻でもなく、構造でもなく、場所だと語ったとき、その「場所」には、色濃く中心の思想が影を投げ掛けていたことを思い出しておきたい。その「場所」は、かりに「自由の女神」がなくなったとしても、それがかつて存在した場所として、ある中心性を手放してはいないのであり、「不在」という脅迫観念から、作家も、見るものも、ついに逃れることができないのである。

 李禹煥の彫刻が、真に誘惑的なのは、それが「不在」の「不在」をささやきかけるからだ。「中心」をのがれることによって、そこにいくつもの「中心」があることを教えてくれるからだ。しかし、そのような「不在」はもはや「不在」ではなく、ひとは、むしろ、そこから反転して平凡とみえる物体に充溢(じゅういつ・満ち溢れる)する存在の様相を発見し、そこに、そこだけに存在する、つまり複数の「中心」を見いだすことになるだろう。しかし、それは本来持続しがたい、矛盾に満ちた状態にほかならない。そのような不安定な終わりのない往還に身を置きつづけろことによって、彫刻家李禹煥は、偏在から遍在へと、明るみの窓を開けようとしている。

■ Ⅲ

 李禹煥はまた、誘惑的なまでに見事なことばのひとでもある。たとえば、制作について、こんなふうに書いたことがあった。

 「絵画や彫刻のみが作品なのではない。見たいものはみな作品である。壁の落書も絵画であり大地の広がりも絵画であり想像した絵づらも絵画である。

 都市の建物も彫刻であり山の岩も彫刻であり思いついた観念も彫刻である。けれどもこれらは野放しで把えどころがない。愛するときはあでやかな一つの拘束を強いるものだろう。もっと深い交渉と遥かな解放のために、世界をしばし窮屈な場所に引き止めたい。秘密を語り合いたいときにはキャンバスの上で、みんなで触れ合いときには広場のなかで…‥」(『李禹煥』、1986年、美術出版社)。

 「あでやかな一つの拘束」によって、李禹煥の作品は、「窮屈な場所に引き止め」られている・・・と語る李禹煥のことばが、見ている側をいつのまにか「拘束」する。評論「事物から存在へ」によって1969年に評論家としてもデビューした李禹煥の「もの派」の理論的支柱としての言説もまた、いまだに「あでやかな一つの拘束」でありつづけている。成人後に身につけた日本語という外国語で、李禹煥がどれほどまでに驚異的な密度と量の執筆活動を展開したかは、文献目録をざっとみただけでも見当がつくはずだ。

 李禹煥は、「もの」ばかりでなく読むひとの「意識」までも、なぜこれほどまでに「拘束」しようとするのか。

 それは、おそらく李禹煥がみずからの被拘束性にひどく鋭敏であるからにちがいない。そうした感受性の魅力は、自作を擁護せざるをえない理論的な著作よりも、自己戯画化のニュアンスを少し帯びているエッセーも収めている『時の震え』(1988年、小沢書店)を読むとき、より明確に感じられるだろう。そこで語られている韓国での幼年時代の思い出は、ときに悲痛なまでに強烈であり、また、祖国での統一運動にたいする、簡単にはいいつくせない入り組んだ心情もそこには読み取ることができる。

 しかし、そのなかの一篇「アクロポリスと石ころ」は、アクロポリスで拾った小石を話題にしながら、語り手がどのように世界と関わっているかを、印象深く読者に語りかけてくれる。自分がすっかりアクロポリスの石だと思い込んでいた小石が、じつは知らぬ間にこどもたちにとっくの昔に捨てられ、隣の駐車場の石ころとすれ変わっていたことを知られされたときの痙攣的(けいれんてき・ひきつるようになるさま)な怒り、そして同時にこみあがってくる気が抜けたような笑い。作者は、駐車場に立って、その石ころもまたすばらしいと思いかえす−。

 ささやな石ころの同一性ではなく、そう思い込んでいた自分が、一瞬、他人になってしまったような、自分の同一性の喪失の空白が、不思議に明るい笑いを読者にひきおこす。自分もまた他者であるという認識が、アルチュール・ランボー自己否定ではなく、新たな自己発見の契機となるのだ。

アルチュール・ランボー、またはランボオ(Arthur Rimbaud、1854年10月20日 – 1891年11月10日)は19世紀のフランスを代表する詩人。早熟な天才、神童と称された彼は、15歳のときから詩を書き始め、20歳で詩を放棄するまでのわずか数年の間に、「酔いどれ船(フランス語版)」などの高踏派・象徴派の韻文詩から散文詩集『地獄の季節』、散文詩・自由詩による『イリュミナシオン』(一部を除いて没後出版)まで詩の伝統を大きく変えた。彼の詩論・詩人論として知られる「見者の手紙(フランス語版)」において、「詩人は、あらゆる感覚の、長期にわたる、広大無辺でしかも理に即した錯乱により、見者となる」と語り、ブルジョワ道徳をはじめとするすべての因習、既成概念、既存の秩序を捨て去り、精神・道徳、身体の限界を超え、未知を体系的に探求しようとした反逆・革命の詩人であり、ダダイスム、シュルレアリスムへの道を切り開いた詩人である。

 自分を含めて、たえまなく他者を発見していく、笑いさえ投げ込まれる、空間の明るみ・・・「照応」も、「項」も、その緩やかな拘束のうちに、他者の住まう国の、この明るみをわたしたちに指示している。

(神奈川県立近代美術館学芸員)