古の日本(倭)の歴史

■​古の日本(倭)の歴史

「古の日本(倭)の歴史」https://www.yasutarofujita.com/ (平成31年1月14日公表)を情報の組織化という形で個人的に編集したものです。その著者の藤田泰太郎氏はこの編集作業に一切関与していません。

(初版 平成31年1月14日公表 )     藤田泰太郎

▶︎序 論 

 『古の日本(倭)の歴史』とは、縄文時代晩期に入る3,000年前頃からの気候の寒冷化により南朝鮮(南韓、現在の大韓民国)倭人(縄文人)華北人江南人と朝鮮人(高句麗系)の南下に圧迫され列島へと帰来する、すなわち任那が滅亡し日本(列島)と朝鮮(半島)が地政学的かつ文化的に分断されるまでの歴史と捉えられる。この帰来がスサノオ(素戔嗚尊)やその後裔者(神武・崇神など)による度重なる東征を引き起こし、飛鳥時代に日本国が成立するまでの過程が倭の歴史で、その過程が記されたのが『古事記』と『日本書記』(『記紀』)である。

 『魏志倭人伝』には「3世紀の古の日本(倭)には、女王卑弥呼の都とする邪馬台国があり、卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が殉葬された」とある。とはいえ、『記紀』には、邪馬台国や卑弥呼に関する記述が一切見られない。また、銅鐸を祭祀に用いたと思われる大国主の国も全く無視されている。

 奈良県桜井市には、2世紀末から3世紀初めにかけて急速に発展した纒向(まきむくいせき)遺跡がある。その遺跡内に最初の巨大な前方後円墳である箸墓(=大市墓)が威容を見せる。この箸墓の被葬者は定かでないが、宮内庁では被葬者を第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命としている。近年の考古学や文献学の発展より、「邪馬台国はヤマト国で、邪馬台国の中核は畿内の大和にあり、その中心は纏向遺跡で、卑弥呼は3世紀半ばに亡くなり箸墓に葬られた」と考える畿内説が優勢である。従って、倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼であると推論される。この推論を起点に歴史を遡り、あるいは辿り、多くの様々な史料、文献、書物やインターネット(Net)情報並びに近年著しく発展した古代人のDNA解析を含む考古学・人類学の膨大な知見を整合性をもたせるように統合することによって、旧石器時代から飛鳥時代までの『古の日本(倭)』の歴史を構築した。

 『古の日本(倭)の歴史』は、5部構成、「第一部 (旧石器時代・縄文時代)、第2部(弥生時代早期・前期・中期)、第3部(弥生時代後期・邪馬台国(虚空見つ倭国) )、第4部(古墳時代前期・中期)、第5部(古墳時代後期・飛鳥時代)」となっている。このうち、弥生時代後期・邪馬台国・古墳時代前期(神武から応神東征まで)については、文献学的あるいは考古学的証拠が乏しいにもかかわらず、著者が推敲を重ねたうえの直観に基づく、多くの未解明の歴史的事象を高い蓋然性を以て説明し得る斬新な歴史観を大胆に提示している。各部は、その時代の東アジアの情勢と倭の状況を解説し、個々の事象を図表・イラスト・写真を多く取り入れて説明する。その中に赤枠で囲った、あるいは赤字の著者の私見を散在させている。これらの図表・イラストやその説明の殆どは著書・文献・Net情報から引用したものである。これらの引用資料(原典が不明なもの多し)は、著者の推敲を重ねた歴史観に合いかつ記述が信頼できると思われるものに限定した。この『古の日本(倭)の歴史』というNet解説論文で新たな知識が得られたり、あるいはインスピレーションを覚えられたら、このNet解説論文を引用して頂ければ幸いです。


■第一部 旧石器時代・縄文時代

▶︎1. 旧石器時代 (260万年前~1.6万年前)

 類人猿と区別される最初の人類が猿人であり約600万年前に誕生し、約130万年前まで生存していた。原人(ホモ・エレクトス)は、180万年前頃に誕生し、アフリカからアジア(北京原人、ジャワ原人など)に広がり約10万年前頃に滅びた。旧人(ネアンデルタール人やデニソワ人)の祖先は40万年前頃にアフリカで出現したのち、20万年前頃に出アフリカを果した。ネアンデルタール人は中東からヨーロッパへと広がり、デニソワ人はシベリアから東南アジアの広範な地域に広がった

 これら旧人は3万年前頃に滅びた現生人類である新人は20万年前頃、アフリカの旧人より誕生し、7万年前頃に出アフリカを果たし、イラン付近を起点にして南ルート(イランからインド、オーストラリアへ)、北ルート(イランからアルタイ山脈付近へ)、西ルート(イランから中東・カフカス山脈付近へ)の3ルートで拡散したとしている。すなわち南ルートをとった集団がオーストラロイド、北ルートがモンゴロイド、西ルートがコーカソイドということになる。北と西ルートの集団が中東でネアンデルタール人と交雑し、北ルートでアジアに向かった新人のうち東南アジアに向かい後にメラネシア人となった集団がデニソワ人と交雑したとみられている

 尚、北ルートの集団が東アジアに到達したのは約4万年前といわれている。旧人は3万年前に滅びたと思われるが、新人がネアンデルタール人と共存したのは中東やヨーロッパでは数万年間、アジアでデニソワ人と共存したのは1万年程度と思われている。尤も、新人との接触だけが旧人の絶滅につながったわけではなく氷河期に入り気候の寒冷化もこの絶滅の原因のひとつと思われる。モンゴロイドはシベリアに進出し、先にシベリアに進出していたコーカソイドを圧倒し、さらにアメリカ大陸に進出した。南米に到達したのは1万年前といわれている。ヴェルム氷期(3万円前~1.5万年前、最盛期は1.8万年前)は極めて寒冷な時代にあたり、この氷期を生き延びたのは新人である。

 日本列島には原人や旧人の子孫も少なからず生息していたと考えられる。列島への新人の移動であるが、7万年前に出アフリカを果たした新人の中で、アラビア半島の海岸沿いに移動しインドやマレー半島に達する集団のほとんどがオーストラリアさらにニュージランドに向かった。しかし、その一部はマレー半島より海岸沿いに東アジアに向かい、少数が日本列島に到達していたと思われる。しかし、北ルートの新人がヒマラヤ山脈沿いに本格的に東アジアに到達したのは4万年前で、その後順次列島に進出していった。

 石器時代は、絶滅動物の存在と打製石器を使っていた時代の旧石器時代現生動物の存在と磨製石器を使うようになった時代の新石器時代との二つに分けられる。旧石器時代は前期旧石器時代(260万年前~30万年前)、中期旧石器時代(30万年前~3万年前)と後期旧石器時代(3万年前~1.6万年前)に分かれる。

 日本列島には前期旧石器時代の原人・旧人の骨や遺跡は見つからず、中期旧石器時代の砂原遺跡(出雲市)が最古(約12万年前)でそれに続くのが金取遺跡(遠野市)(8-9万年前)であり、石器(ハンドアックスのような両面加工石等)や木炭粒が出土している。

 これらの遺跡は、旧人あるい原人の残存者の活動の跡と見なされる。新人と思われる山下町洞人(沖縄、約3万2000年前の子供の大腿骨と脛骨)の人骨出土が、国内では最古級であり、南ルートで列島に到達した可能性がある。3万年前の中期旧石器時代に入ると、新人の古華北人(Y染色体D2型)が朝鮮半島経由でナイフ形石器を伴って断続的に日本列島に侵入してくる。

 その最大の集団の侵入は約2万年前であった。後期旧石器時代の遺跡は列島に広く分布し、神取遺跡(北杜市)からは台形石器と局部磨製石斧(世界最古)が出土した。港川人(1万7000年前の人骨、沖縄)や浜北人(1万6千年前の人骨、静岡)が出土、何れも新人の人骨化石と考えられている。この後期旧石器時代には、良質の黒曜石を求めての丸木舟での交易も見られた。

▶︎2. 縄文時代(1.6万円前~2.8千年前)

 大平山元(おおだいやまもと)遺跡から1.6万年前の最古の縄文土器と思われる「無文土器」の出土をもって縄文時代の始期とする。縄文時代は1万年以上継続した持続可能な森と水の文明(狩猟、採取/栽培と漁撈)として世界に冠たるものと考える。

 朝鮮半島では縄文時代草創期の1.2万年前から早期の終結時の7千年前まで遺跡が殆どなくなる。このことは、南下した古華北人が半島に留まらずに、ほぼ陸橋化し対馬海峡を通過し、一気に列島にまで侵入していったためと思われる

▶︎縄文時代草創期(1.6万年前~1.0万年前)

 大平山元Ⅰ遺跡より世界最古級の縄文土器「無紋土器」や世界最古の石鏃が出土。また、局部磨製石斧、尖頭器などを特徴とする神子柴文化が起る。

神子柴系石器群(みこしばけいせっきぐん)は、後期旧石器時代に列島に現れた大型の磨製石斧と石槍を特徴とする石器群をいう。これらの石器群を最初に発見した長野県の神子柴遺跡に由来し、または神子柴文化とも呼称されている。

 1.3万年前、古バイカル人(D2) クサビ型細石刃を携え、樺太経由で東日本に南下。東日本縄文人の基層となる。また、その頃、古華北人(D2)が半円錐形石核を携え、西日本に進出。西日本縄文人の基層となる。

 以下、草創期の出土物を列挙する。佐世保市の泉福寺洞窟から、約1.3万年前の豆粒文土器と約1.2万年前の隆線文土器。神取遺跡(山梨)から隆起線文土器。鳥浜貝塚(福井)出土の漆の枝は世界最古の約 1.2万年前のものである。浦入遺跡(舞鶴市)から網漁に用いられた最古の打欠石錘粥見井尻遺跡(松阪市)や相谷熊原遺跡(東近江市)から最古級の土偶(通称縄文のビーナス)出土

▶︎縄文時代早期(1万年前~7千年前)

 縄文文化が定着する時代で伊豆諸島を一つの起点とするかなり広範囲な黒曜石などの海洋交易や漁撈の跡が認められる。早期の出土品を列挙する。

浦入遺跡(舞鶴市)から桜皮巻き弓。・垣ノ島遺跡(函館市)から幼子の足形や手形をつけて焼いた足形付土版や世界最古級の漆工芸品。雷下遺跡(市川市)から日本最古の丸木舟、・夏島貝塚(横須賀市、最古級の貝塚)から撚糸文系土器や貝殻条痕文系土器が出土、沖合への漁撈活動を示す。・栃原岩陰遺跡(北相木村)から人骨、ニホンオオカミの骨、精巧な骨製の釣針や縫い針。・横尾貝塚(大分市)から姫島産黒曜石の大型石核や剥片、石材など、流通の拠点。・上野原遺跡(霧島市、最古級の大規模な定住集落跡)から、貝文土器出土(貝文文化)。

 早期の終結時(7.3千年前)に鬼界カルデラ噴火があり、南九州・四国はアカホヤ火山灰に覆われ、貝文文化は消滅など、そこの縄文社会は壊滅した。生き延びた人々は北への向い、そのうちのかなりの数の縄文人が当時殆ど無人であった南朝鮮(南韓)に移住する。

▶︎縄文時代前期(7千年前~5.5千年前)

 アカホヤ火山灰の打撃を受けた南九州の縄文人は生き残りをかけて西北九州さらに南韓に移住したと思われる。その頃から、西北九州と南韓にかけての漁撈文化が栄えた。各地で沿岸漁業や交易が盛んになった。また、当時の南韓に、縄文時代草創期の列島各地の隆起線文土器に酷似した朝鮮隆線文土器が現れ、その後櫛目文土器が現れた。

 遼寧省の興隆窪文化と呼ばれる遺跡のうちの一つ査海遺跡(7,000年前)の墓地から、耳に玉ケツを着けた遺体が発見された。玉匕(ぎょくひ)や玉斧などの玉製品が出土した。これらの興隆窪文化由来の玉は、桑野遺跡、鳥浜貝塚、清水上遺跡、浦入遺跡など日本海側の遺跡を中心に、全国に分布している。

 前期は気候が温暖化し始め、西日本には照葉樹林文化が東日本にはナラ林文化が流入してきた。・鳥浜貝塚からは、スギ材の丸木舟、・浦入遺跡からは最古級の外洋航海用丸木舟、赤色漆塗り櫛、小型弓や櫂などが出土した。さらに、・朝寝鼻貝塚(岡山市)からは日本最古の稲のプラントオパールが見つかった。・三内丸山遺跡(青森市)からは、大規模集落跡、住居群、倉庫群、シンボル的な3層の掘立柱建物、板状土偶などが出土し、栗栽培、エゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培跡が見出された。

 また、・千居遺跡(富士宮市)からは、富士信仰のためのストーンサークル、・阿久遺跡(諏訪郡原村からもストーンサークルが見つかる。その他、・里浜貝塚(東松島市)は最大規模の貝塚で、そこの出土品から生業カレンダーが組まれた。

 さらに、・栗山川流域遺跡群(千葉県多古町)からはムクノキの外洋丸木舟が、・真脇遺跡(石川県能登町、世界最古のイルカ漁の捕鯨基地)から、船の櫂、磐笛が出土している。

▶︎縄文時代中期(5.5千年~4.5千年前)

 縄文早期の1万年前氷河期が終り世界の気候は温暖化し7千年前の縄文前期始めから気温が上がり、前期の終了時から中期の始めに最も気温が高くなる、いわゆる縄文海侵が最高に達した。この現在より気温の高くなった時期をプシンサーマル期と呼ぶ。縄文時代後期に入ると気候が冷涼化し始め、縄文時代晩期(弥生時代草創期)になると現在より気候が低い寒冷化期を迎えた。従って、プシンサーマル期の縄文時代中期始めが縄文文化の最盛期と捉えられる。

 気候が温暖化して青森市の三内丸山遺跡が最盛期を迎える。この遺跡の堀立柱建物の建築には殷尺に関連しているといわれる縄文尺が用いられていた。・馬高遺跡(長岡市)や・野首遺跡(十日町市)で縄文土器の円熟期を代表する火焔型や王冠型土器が出土する。また土偶も最盛期を向かい装飾性の高くなる。出土品は多岐にわたり、耳飾、石棒、ヒスイ製玉類、配石遺構などが見つかる。・一の沢遺跡(笛吹市)からは太鼓に用いられた有孔鍔付土器人面装飾付土器埋甕、笛吹ヒスイの装身具、土偶の「いっちゃん」などが出土。

 また、国宝「縄文のビーナス」が長野県棚畑遺跡から、国宝「縄文の女神」が山形県西ノ前遺跡から出土。茅野市の尖石遺跡からは列石、黒曜石の交易、焼畑)農耕の跡などが見られる。さらに、中期から渇鉄鉱などからの始原的な製鉄が始まったと思われる。

 尚、縄文時代前期に続き岡山県の姫笹原遺跡からイネのプラントオパールが見つかっている。これらのイネのプラントオパールの形状から品種は熱帯ジャポニカと考えられ、焼畑を代表とする粗放な稲作であろう。

▶︎(5) 縄文時代後期(4.5千年~3.5千年前)

 ヒプシサーマル(hypsithermal)が終わり気候の冷涼化が始まる。この冷涼化によりかなりの東日本縄文人の西日本への移住が始まる。後期末(3.6千年前)には殷王朝が成立している。

完新世の気候最温暖期(かんしんせいのきこうさいおんだんき)は、およそ7,000年前から5,000年前の間の完新世で最も温暖であった時期を指す。他にヒプシサーマル(hypsithermal)、気候最適期、最暖期、気候最良期、最温暖期、最適気候、クライマティック・オプティマム(climatic optimum)[1]とも呼ばれている。温暖な状態が続いた後は2,000年前位までにかけて徐々に気温が低下していった。

三重県の丹生池ノ谷遺跡、天白遺跡や森添遺跡から辰砂による朱彩土器や朱が付いた磨石・石皿など出土。・二子山石器製作遺跡熊本)は石切り場・石器工房で、扁平打製石斧出土。・智頭枕田遺跡(鳥取)から突帯文土器、・大矢遺跡(天草市)からはオサンリ型結合釣針、土偶、岩偶が出土。

 ・大湯環状列石(秋田)のうちストーンサークルは・万座と野中遺跡にあり、万座の方が日本で最大の日時計状組石である。・忍路環状列石(小樽市)(ストーンサークル)に隣接する忍路土場遺跡の巨大木柱は、環状列石とも関連する祭祀的な道具であろう。・蜆塚遺跡(浜松市)には円環状平地式の住居跡があり、首飾りや貝製腕輪を身につけた人骨、勾玉や土器、鉄鏃が出土。

 また、・真脇遺跡(能登町)には環状木柱列(ウッドサークル)あり、巨大な彫刻柱、土偶、埋葬人骨、日本最古の仮面が出土。・チカモリ遺跡(金沢市)では掘立柱の環状木柱列が発掘された。

 尚、上代日本語となる古日本語(日本基語)は、南韓と西日本一帯で縄文時代後期に成立したと思われ、少なくとも、水田稲作農耕技術の到来以前に既に成立していたと思われる。

琉球列島の琉球語(琉球方言、あるいは琉球語派・琉球諸語)と、日本語(本土方言、あるいは日本語派)との系統関係は明らかである。国際的には、両者を別言語とみなし、合わせて日本語族を形成するという立場が一般的であるが、日本語の起源論では、琉球語と日本語の系統関係は証明済みとし、「日本語の起源」という言葉で「日本語+琉球語」全体(日本語族)の起源を論ずることが一般的である。

▶︎(6) 縄文時代晩期(3.3千年前~2.8千年前)

 縄文時代晩期は、水田稲作の開始を始めとする弥生時代早期(3.0千年前~2.8千年前)と終期を同じくするが、始期が300年早い。晩期になると気候が一層寒冷化する。この寒冷化は世界的規模で起こり、ゲルマンやアーリア民族が南下し、圧迫された民族の逃避や文明の崩壊が見られた。中国や朝鮮でも畑作牧畜民(中原の漢民族)の南下が始まり、晩期の始めに殷が滅び周が起こり、晩期の終期には周が滅び中国は春秋時代に入った。

  日本では東日本縄文人(アイヌ人が主体)の西日本への移住が起った。この移住により東日本と西日本の縄文人の一体化が進んだ。中国での漢民族の南下は江南人を圧迫し周辺地域に逃避させ、一部は朝鮮半島南部や西北九州や西部日本海沿岸に達した。この避難民が南韓や日本に水田稲作をもたらした

 晩期に入ると気候の寒冷化により東日本縄文人が西日本に移住したため東日本縄文文化は衰退に向かった。しかし、この衰退にもかかわらず繁栄を続けていたのが、東北北部から北海道西南部を中心とする、アイヌを主体とする縄文文化の極めて高度に成熟した亀ヶ岡文化が出現した。晩期の主な遺跡・出土品は次の通りである。

 ・菜畑遺跡(唐津市)から水田用の温帯ジャポニカ種の直播きの最古の水稲耕作跡、山の寺式土器出土。・板付遺跡(福岡市)からは最初期の環濠集落と水稲耕作跡と夜臼式土器出土。・南溝手遺跡(総社市)からはイネのプラントオパール、最古級の籾痕のある土器、石鍬や石包丁が出土。・原山支石墓群(島原市、原山ドルメン)は、国内の支石墓遺跡としては最古最大級のものである。

 ・大石遺跡(豊後大野市)から大規模な建物址、黒色磨研土器、打製石斧(耕具)や横刃型石器(収穫具)出土。・伊川津貝塚(いかわづ・田原市)からは、スガイ・アサリなどの主鹹貝塚、抗争の痕跡を遺す人骨、抜歯した人骨、甕棺、土偶、耳飾、石刀、石棒、石冠勾玉、骨角器など出土。

 ・亀ヶ岡文化の亀ヶ岡遺跡(つがる市、集落遺跡)で著名な遮光器土偶が出土。

 ・山王囲遺跡(さんのうがこい)(栗原市)からは、土製耳飾りやペンダント、編布(本州初の発見)、籃胎漆器・櫛・腕輪・耳飾り・紐状製品、ヌマガイの貝殻に漆を塗った貝器が出土