⓶「倭国大乱」前夜の日本海沿岸の「鉄の路」

■「倭国大乱」前夜の日本海沿岸の「鉄の路」

▶︎日本列島は水世界

 山本武夫氏の「気候変動から邪馬台国を考える」(『邪馬台国の常識』より)と辻誠一郎氏倭人の生きた環境」(国立歴史民俗博物館編『倭人をとりまく世界』山川出版社、2000年)によれば、弥生時代は寒冷化が進んだ小氷河期であった。海の水は急速に沖に引き始めていた海退期で、現在ある全ての都市が水底から浮かび上がり始めた時期であった。卑弥呼の弥生時代はまだ川と海を結ぶ水世界」であった。

 地球の海水面は約19,000年前から気候変動などで上昇、下降を繰り返し、日本では一番温暖化が進んだ縄文時代から弥生時代に移る頃の我が国の海水面は、現在より数メートルは高く、前述のように沿岸主要都市は海の中で、沖積平野の形成も進んでいなかった。

 この時代、日本人とは、縄文人から少し進歩した弥生人であり、遺跡から見る限り、洪水や高波を受けやすい大きな川や外洋を避け、谷筋の水路から水田に水を引き、その周辺にはリ、カシ、クワなどの樹を植え、いろいろなものを食べて生活をしていた。平野は海の底で国土全体が水世界であり、山地を開墾する灌漑技術はまだ持っていなかった。

 古墳が少し高い土盛りになっているのは水世界の中で絶えず発生する洪水から避難するより海抜を10mほど上昇させてつくった古代の日本(作成:長野正孝、地図提供(株)国際地学協会)ためでもあった。

 多くの村の住民は穏やかな海や小さを川で、魚や月をとっており、舟は有用な手段であった。冬でも漁ができる潟や湾、湖があることで、そこで命を繋ぐことができた。

 河川などから送られる土砂の堆積も考え、現在の地形が当時より海抜10m強の高さまで海が来ていると考えて、当時の日本列島の地形を想像すると、関東平野、濃尾平野、大阪市街地は言うに及ばず現在の沿岸部の平野部分はすべて海の底で、舟でしか旅はできないことが理解できよう。

 陸化が進み始めた潟や湖でも、水際を追いかけ集落も移動した。すなわち、瀬戸内海から当時、時代によっては河内潟と呼ばれた河内湖から、比較的簡単に舟で琵琶湖や奈良まで移動(上図右)することができた。淀川水系から琵琶湖まで、大和川経由で当時は琵琶湖のように湖が広がっていた奈良盆地まで到達できた。やがて、河内湖も奈良盆地の潤も次第に干上がり、今の姿になったが、集落はその水際を追いかけて動き続けたのである。西日本の日本海側は潟湖(せきこ)が続き、潮流が速い瀬戸内海より、交通の便は良かった。舟によって移動できるところに自然にマチはつくられた。

▶︎ハンザ同盟に見る連携都市国家像

 貴重な財物としての鉄は、土器のように単なる「伝播」ではなく交易として運ばれた。そこはしっかり論を整理する必要がある。

 この節では私が当時の倭国に似ていると考えるハンザ同盟について取り上げてみたい。5世紀になって『宋書』「倭国伝」武の上表文では、東北から朝鮮半島までを国としているが、これは国でなく多国籍、多民族、多言語の集落群が、交易の利益のみで結ばれていたいわば都市連合である。そこには、現在でいう国家という概念は存在しない。中世のハンザ同盟と同じような世界である。

「ハンザ」は古高ドイツ語であり、現代ドイツ語では 「ハンゼ」(Hanse) と呼ばれる。古高ドイツ語「ハンザ」は「団体」を意味し、もともと都市の間を交易して回る商人の組合的団体のことを指した。「ハンザ同盟」に相当する訳語は日本語以外でも用いられることもあるが、原語に直訳すると二重表現となる。

 国ではなく、都市同盟、アライアンスである。13世紀から17世紀の北海、バルト海を中心とする連帯した商業都市連合である。交易を共通の利益とする中小都市の商人達の同盟である。その語源となったドイツ語の「ハンス」とは、「男達の世界」という意味であった。北ドイツやオランダ北部の、湿地を船で交易する人々にサービスを提供したという点、組織で戦ったという点など、倭国と多くの共通点がある。

 海上、陸上運送の商人達が交易を目的として自然発生的に集まった組合組織であったが、織物業や鉱業の業者と連携し、地域産業の振興を図り、中世ヨーロッパの都市を大きく発展させた集団であった。ハンザの町は、倭国の国家と同様、一つずつは小さい。北部ドイツやオランダを見ればわかるが、現在も小さな都市が数多くある。旅人が移動するための宿が発展してマチになったのだ。

 そのルートは、大きく三つ。簡単に紹介すると第一のルートは、東西に伸びたハンザ同盟の諸都市を結ぶ”背骨″のルートである。東はバルト海からリューベック、ハンブルクを通り、北海からアイゼル海に沿って、ライン川などのデルタ地帯を経て、フランドルのブリュージュに着き、さらにロンドン、〜アーブルなど西方の港とつなぐ北海沿岸ルートである。

 第二はリューベックからリユーネブルク、ハノーファー、ミンデンからケルンなどドイツ内陸都市を結ぶ内陸ルートである。第三はケルンからマインツ、バーゼル、コンスタン42ツなどを経てイタリアのヴェネツィア、ジュノヴァ、南フランスに抜けるライン川ルートである。

 第一のルート背骨だとしたら、第二、第三肋骨ルートに例えられる。ハンザの繁栄は、独占的な商業権益を保障する強力な海上と内陸水運網の上に成り立っていた。ルート上の主要都市は今日ではヨーロッパを代表する大都市になり、また、そのルートは「ロマンチック街道」や「ビア・ライゼ」(ビールの旅)などの呼び名のドイツの一大観光ルートにもなつている。

 このハンザ同盟は、地元の力のある封建領主や教会に庇護されたが、時には干渉され、権益を奪われたりもした。常に敵対する勢力を排除しながら維持された同でもあった。ハンザ同盟と同じく、倭国にも敵対勢力があった。478年の『宋書』に残る倭王武の上表文にあるように倭国も戦い続けたのである。その時代、最大の敵は高句麗であった。

 4世紀末から始まる高句麗、新羅とのせめぎ合いの中で、『三国史記』に「倭人が朝鮮のマチを攻撃した」という記述が登場する。これは新羅や高句麓といった明らかなる敵対勢力が倭の交易ルートを襲って同盟関係にあった周辺の倭人の町から軍隊が出撃した話である。倭国の方がハンザ同盟より歴史的には古く、この倭人の結束の姿は、当時の農本主義の中国にはよくわからなかったようである。

古代中国では、食糧を生み出す農業(本)とその生産手段としての土地を尊重するといった、のちの重農主義に類似した主張がおこなわれ、こうした主張は農本思想(もしくは農本主義)と呼ばれている。この主張に特に積極的であったのが法家、農家など(儒家も含む)の一派である。特にこれらの中国思想は中国と周辺諸国において政治思想の中核として発展し、経済・社会政策の一つの基盤となった。

 40年前の名著『邪馬台国の常識』で松本清張は、漢も魏も倭人の国家の概念がわかっていなかった、したがって、倭国ではなく倭人としたのではないかと説明している。

▶︎ 黒曜石と土笛が語る草創期の「鉄の路」

 紀元前3、400年の弥生中期前半頃において、日本海沿岸の交易はどのような範囲であつたか? これが倭国のエリアと考えれば、二つの指標がその範囲を示してくれる。黒曜石と土笛の陶(とうけん・オカリナ)である。

 鋭利な刃物に代わる黒曜石は鉄器が出現するまで、縄文人の使う石器のうちで最も貴重な石材であった。日本では約60カ所の産地があるが、良質なものの産地は信州八ケ岳周辺、伊豆諸島の神津島、隠岐の島などに限られており、縄文時代から日本全国だけでなく朝鮮半島、沿海州まで日本の黒曜石は運ばれた。現在では黒曜石の産地は石の化学組成でわかる。

 村上恭通氏によれば、「鉄の路」は縄文時代の黒曜石、サヌカイト、翡翠(ひすい)などの道をなぞる形でできていったという。

 隠岐の島の黒曜石が朝鮮半島に運ばれてきたというのが今まで定説であったが、どうも違つているようだ。島根県古代文化センターの稲田陽介氏の研究によれば、朝鮮半島南部の黒曜石は伊万里の腰岳から、オホーツク海周辺には北海道から運ばれていた。隠岐の島の石は日本海岸を東に進み、北陸まで達していたが、朝鮮半島には運ばれている痕跡はないという。

 しかし、隠岐の島には縄文時代の朝鮮半島の土器もある。これらから何が推論できるのか?隠岐の島と東海岸の浦項(ポハン)蔚山(ウルサン)まで約300㎞ほど、北西の竹島まで約200㎞ほど、真北のナホトカまで約700㎞であるが、朝鮮半島から偶然の漂着はあっても、縄文人の丸木舟では、黒曜石は交易できなかった。日本海の数百㎞の距離は渡れない(渡っていなかった)、出雲半島と隠岐の島の距離が限界であったことを示している。

 隠岐の島からの出航は、西ノ島の海神社から出た。この神社では、隔年の七月の大祭の時期に船渡御祭が行われている。

 それでは紀元1世紀から2世紀の出雲や丹後に漂着した「倭国大乱」の難民は、どのように日本海を渡ったのか? まだ答えは出ていない。隠岐の島の鉄の流れを研究されている角田徳華氏によれば、この時期隠岐の島にも鉄が朝鮮半島から到達しているという。

 隠岐の島に200基もの円墳、角墳が混じった墳墓があるのは「倭国大乱」の時代に多くの漂着難民がここに到達したと考える。後述する四隅突出型墳丘墓ができる前である。

 大海をどのように渡ったか、おそらく筏(いかだ)か舟を繋いで渡った鬱陵島(ウルルンド)竹島と島を繋いで、反時計回りのリマン海流に乗って出雲半島にたどり着いた。

 最初の民族移動の時代を経て、その後、長い時代を通して多様な鉄の交易があったとみるべきであろう。おそらく北陸や丹後、出雲など広い範囲に船が到着した

 一方、土笛塤(とうけん)という、鉄とともに古代中国から日本海に伝わってきた楽器がある。10㎝未満の卵形をした土製の素焼きの笛で、1部に吹き口があり、前面の四個と背面の二個の計六個の孔を指でふさいで音を奏でる。日本列島では北部九州から山口県響灘(ひびきなだ)周辺、島根県宍道湖周辺及び丹後半島の三つに分布の中心があり、1966年に山口県下関市綾羅木郷(あやらぎごう)遺跡から初めて発掘された。以降、これまでに約100個以上発見されている。下関では音楽会も開かれた。

 長年土笛研究を続けられた江川幸子氏は、この土笛について次のように語っている。時期は弥生時代前期後半、全出土数の三分の二は出雲からの出土である。出土する場所は丹後や出雲では旧河道(きゅうかどう・低地の一般面の中で周囲の土地よりも低くなった帯状のくぼ地。非常に浸水しやすく、排水も悪い。軟弱な地盤である。)や海岸で出土する。音はひどく、音楽ではなく祭祀用である。

 京都府埋蔵文化財調査研究センターの肥後弘幸氏は、京丹後市内の竹野遺跡、途中ケ丘遺跡、扇谷遺跡から合計5個が出土していて、列島における出土の東限が丹後半島であるとしている(『丹後王国の世界』丹後古代の里資料館、2013年より)。遺跡の出土時期から、弥生中期の「鉄の路」にあると考えられる船旅をしながら持ち歩いたのであろう。

 これらから言えることは、倭人の交易路かどうかわからないが、縄文時代より朝鮮半島南部から隠岐の島・出雲の航路があった。そして、丹後半島(京都府京丹後市・日本海側)より東へは航海していなかった。丹後半島が弥生中期中葉、紀元1世紀頃、手漕ぎの舟によって始まった「鉄の路」の北限を示しているといえる。

 そして本格的な鉄の時代、弥生中期後半になると、日本海から土笛・は消える。私は別の民族が丹後半島の黒曜石、ガラス玉の路を「鉄の路」に変えたと考える。それは倭人である。

 土笛・は、倭人の前の弥生人の、「黒曜石の路」の船乗りの汽笛ではなかったと考える。出土した場所はすべて港で、松江市のタテチョウ遺跡など出雲が中心である。船団が港に着いたときに、この時代、敵味方を峻別できる方法は音しかなかった。音程の幅がない土笛は音楽でもなければ、祭祀ではない、航海の道具であったと考えるのが妥当である。

▶︎ 卜骨遺構でわかる卑弥呼の世界

 朝鮮半島の風俗習慣を記した『親書』「東夷伝」には、動物の骨を焼いて、吉凶を占う方法(ぼっこつ「卜骨」)が載っている。物事を始める、旅をする際、骨を焼き、焼けた形を観て吉凶、旅の是非、方角などを占う祈躊方法が卜骨であり、海洋民族の倭人ならではの習慣である。予め穴を空けるが、穴の空け方は三種類ほどある。平安時代前期、五行陰陽道が普及する時代まで続いた重要な祈躊である。

中国社会科学院考古研究所・・・牛の肩胛骨が用いられた卜骨で、先祖に対して動物を犠牲にするかどうかということを占ったものと思われる。ただし、この卜骨に刻まれた甲骨文は、通常の甲骨文と比べ極めて特殊な字体、体例をもち、正確に判読することは難しい。そのため、この卜骨は、通常のような殷(商)王朝の公的な占いで用いられたものではないとの見方もある。用いられた時期としては、第26代康丁から第28代文丁期頃のものとされるが、第22代武丁期のものとする説もある。出所:「世界四大文明・中国文明展」

 倭人が出航するとき、航海安全を祈願するために、ほとんどの港で必ず、その儀式が行われたと考える。卜骨は儀式終了後に貝塚に捨てられるので、朝鮮半島南部、九州北部までの島喚部から、日本海沿岸の古代遺跡で探すことができ、そこが倭国かどうかを調べることができる。

 まず、朝鮮半島の出発点であるが、同じく、『親書』「東夷伝」には朝鮮半島の東南部における鉄生産と交易に関する記述が見られ、金海・東(トンネ),はその比定地とされ、伽耶の金海府院洞貝塚、東楽民洞貝塚付近が「鉄の路」の起点と考えられる。

 勒島(ヌクト)、対馬の厳原(いづはら)、壱岐の原の辻(はるのつじ)、沖ノ島、岡垣、唐津・松浦潟、福岡・香椎潟の九州から、下関・穴門、萩、益田、浜田、江津、獣軒、出雲・米子、淀江(妻木晩田・むきばんだ)、青谷(青谷上寺地・あおやかみじち)、鳥取・湖山池、浜坂、香住、豊岡、久美浜、舞鶴湾、敦賀、邑知潟(おうちがた)といった北陸地方あたりまで鉄器とともに卜骨祈祷が広がっていると考える。この付近まで卑弥呼時代の倭国(邪馬台国のある範囲)であったと考えられる。

 ただ、出雲と丹後や土井が浜遺跡、奈良浜遺跡などにはなぜかト骨の遺構はない。日本海沿岸の浜や潟湖では、古い港のト骨遺跡は砂丘の下に埋まってしまっているかもしれない。

 そして、島根県と鳥取県だけの海岸線であるが上記の港と鉄の遺構を重ねるとびったりと一致する。

 丹後(京都府北部地域)については、今のところ卜骨は出ていないが、肥後弘幸氏は、丹後では海岸付近の遺構を調査していないので卜骨が出る可能性はあるという。陸上部の発掘調査は行われているものの、海岸部での調査はまったく行われていないので卜骨が行われていなかったとは断定できないといゝつ。

 平安時代に陰陽師の祈癌に代わるまで、卜骨はもっとも重要な祭祀であった。なぜもっとも重要であったか? 対馬海峡を往復して無事に帰還するのは至難の業であった。卑弥呼の仕事でもっとも重要な祈祷は「海上安全」であった

 さらに、平安時代の遣唐使はよく沈み、神頼みの旅であった。8世紀に編さんされた『延書式』によると住吉大社と陰陽師の祈祷師は、大使、副大使に次いで地位が高かった。ことほど左様に航海安全祈願の祈祷師は大変偉かったのである。後の平安時代になって陰陽師になってもそれは変わらず、権勢を誇った平清盛ですら陰陽師の指示には従わざるを得なかったことが記録に残されている。海上安全の重要性が分からない魏の役人が、祈祷師の卑弥呼を女王と間違えても無理からぬところである。

 卜骨の遺構で、紀元前後までは九州から山陰、丹後までが国家の範囲であったことがわかる。「倭国大乱」の喧騒が収まった古墳時代前期の3世紀には、倭国の交易範囲も東に延び敦賀から能登半島付近まで延びていた。敦賀や石川県中能登町の雨の宮古墳群からそれを窺うことができる。

▶︎ なぜ離島や僻地から鉄のナイフが出土すのか

 一方、神奈川県三浦半島、東京都伊豆諸島の利島(としま)など、常識を超えたはるか東の沿岸の漁撈集落の横穴から鉄器の出土がある。なぜ、そんなへんぴなところに鉄のナイフなどが出土するのか?

 森浩一氏は「弥生文化というと、米をつくる文化という印象が強いが、米以外の漁撈民的な人々が非常に遠いところまで鉄器を運んだ」と述べている。私は、運んだのではなく偶然の漂着で、この漂着こそが文明の伝播と考える。鉄を運んでいて遭難したわけではない。西日本で鉄の刃物など道具を持って日常の漁をしていた倭人が、嵐で漂流し、はるか遠方まで漂着したものと考える。

 横須賀市自然・人文博物館の稲村繁氏は、「関東の鉄の伝来はよくわからない」という。信州を経由、埼玉に来た鉄と漁労民族の漂流の鉄が、三浦半島付近で交差するが、海岸部の遺跡の鉄と関東北部は時代がかなり違う。土器も違う動きをする。海の漁師は塩とわずかの肉、魚の干物を持って動き、彼らが運んだ食糧・水や接待品を運ぶ土器はかなり遠くまで早く移動していたという。

 この現象から導かれる考古学や歴史学の結論は、「太平洋の離島まで鉄器が漂着した」と表現すべきで、「瀬戸内海は通れなかった」という表現も「交易が行われなかった」と記すべきであった。瀬戸内海では漂着、漂流によって文化・技術は多様な形で移動したが、鉄は違っていた。だが、たまには漂着もある

 奈良の唐古・鍵跡で発見された板状鉄斧もこの種の事象である。奈良県田原本町唐古遺跡から戦前に鉄錆びが付着していた鹿の角の柄が発見されたことかち、奈良に鉄器が弥生時代に普及したと認定されたが、鉄器が一つだけが偶然到達した可能性が高い。その事実は事実であるが、それを以て鉄器が普及したと論じることはできない。

 台風の後、珍しいを見かけることがある。これは沖縄あるいは遥か東南アジアから風で運ばれた迷蝶であって、数日から数週間後には姿を消してしまう。

 「瀬戸内海は船で通れなかった」という私の主張に対しては、様々なご意見をいただいた。「そこ(瀬戸内海)に人が住んでいるから船が通れるだろう、カヌーで通れるから『神武東遷』もありえる」という意見があったが、軍隊の移動や交易は、古代でも現在でも、三港を繋ぎ、尺とり虫のように基地をつくり進まざるを得ない

 縄文時代の人の船の移動は、自分の集落の周りだけであった。期間も十数日ほどで、同じ船で同じ人の移動だ。比較にはならない。

 一方、遠賀川(おんががわ)土器の製造技術や稲作も、隣村から隣村と集落を繋ぎながら数十年あるいは百年以上掛かって移動する「伝播」である、交易とは次元が違う。

 何よりも軍隊が移動できる水路、交易路として完成している水路は、そこに遺構があるが、瀬戸内海にはそれがないのである。

▶︎ 環濠遺構はなぜつくられたのか

 弥生時代には環濠がある遺跡とそうでない遺跡がある。多くの歴史学者は疑問に感じ、様々な説が言われている。教科書には鉄器、青銅器の時代になって、剣や矛、銑鉄(やじり)がつくられ部族間の戦いが頻繁になって環濠が必要になったとされている。でも、それほど、戦争の跡は見られない。

  稲作とともに階級や貧富の差ができ、収穫を巡る争いが始まった、鉄器・青銅器時代になって人間が戦い出してから……とも教科書にはある。だが、九州には石器時代から環濠遺跡があるのである。どうも違うようである。

 旅という概念が日本の古代史から完全にすっぽりと抜けている。注目すべきは、旅でよそ者が通るために起きる軋轢(あつれき)である。地中海沿岸で11世紀に十字軍が起きた原因に、エルサレム聖地への巡礼の増加がある。巡礼者らが最初に起こした略奪行為が報復を生み、大きな宗教戦争に発展していった。かの地では旅人が通るマチには城壁ができたように、日本では環濠ができたと考える。

 日本最古の稲作遺跡といわれる福岡の板付遺跡、菜畑(なばたけ)遺跡、吉野ケ里遺跡も、さらに海を渡った朝鮮半島の東海岸南部、現在の蔚山(ウルサン)の近くにある検丹里(コムタンリ)遺跡も、集落の周りに木柵を二重三重に打ち込んだ環濠が発見されている。どれも鉄器が渡来する前の紀元前4世紀から3世紀につくられた遺跡だが、明らかに交易が柵を生んだのである。

 倭人が石器時代から西日本で交流・交易を始めたとき、集落や居住区付近を人間の集団が通るようになり、治安が悪くなったからと考えられる。ただし弥生時代には環濠がある遺跡とそうでない遺跡がある纏向や唐古には当初環濠はなかったという。

 面白いことに弥生人、農耕民族の遺跡には環濠があるが、遊牧民の遺跡には環濠はない定住しないし、水がないからである。では、朝鮮半島南部はどうか。釜山の福泉博物館の学芸員の朴さんに、沿岸部の遺構について環濠の有無を尋ねたところ、「朝鮮半島の沿岸部の遺跡は高度経済成長時代に遺跡調査が行われないまま乱開発が行われたので年代も、遺構も十分わからない」という。どうも、釜山の沿岸部の遺跡は掘り返されてしまい、環濠があるかないかわからないようである。

 しかし、高彦秀氏によれば、三国時代の4世紀から7世紀金海周辺では木柵、周溝付建物跡が低湿地に形成されたという。遊牧民の遺跡には環濠はない。やはり、定住しないし、舟がないからである。

 京都府京丹後市の遺跡や青谷上寺地遺跡(上図)には、矢で射ぬかれ、刀傷を受けたと考えられる遺体が数多く発見されている。突然集落が襲われたか、戦争状態になつたと考えられる。とくに青谷上寺地遺跡には成人男性だけではなく女性、子供まで殺されており、1190例の骨に傷跡がある。

 この弥生後期(2世紀後半)の発掘例を以て「倭国大乱」を語る人が多い。たしかに、通過する渡来人に運悪く襲われたのであろう

 九州、山陰にある沿岸部の集落だけでなく、鉄との交換財として冬場せっせと作ったガラス管、勾玉、研磨した玉の貯蔵庫、食糧倉庫も防護する必要があった。鉄の交換財として奴隷となって商品化される住民も守る必要があった。

 また、「なぜそんなところに」と思われた環濠もある。例えば、島根県松江市の田和山遺跡では丘陵を三重の環濠が囲んでいるが、環濠の内側には二棟の建物跡しか見つかっていない。実は、その隔離した場所に旅人を泊めたと考えると得心がゆく。尊重すべき客人を、安全に泊める工夫であったと考える。旅人は柵のある一カ所に泊めた方が安全であるからだ。

 遊牧民の墳墓や積石塚については後で詳述するが、宿泊できる場所の目印として、暗黙の了解があった。当然、荒馬の旅である。ではなぜ、出雲の一撃は旅人には環濠付の宿泊所を提供したのであろう。それは、拉致と収奪を防ぐためである

 韓国から鉄文化とともに、騎馬民族の拉致・収奪の文化も日本に伝播していた。環濠は集落の貴重な財産である鉄器、穀物だけでなく、拉致被害を防ぐ工夫があったのである。時代は移り人が鉄と交換される時代になった。巨大古墳や墳墓は、多民族の交易を進めるため進化した。

NHK特别篇】アイアンロード_知られざる古代文明の道