⓺高句麗と倭国・大和の戦い

■ 高句麗と倭国・大和の戦い・・・負けるが勝ち

▶︎ 倭国が朝鮮半島で戦った理由・・・「鉄の路」の維持

 我々は朝鮮半島の歴史を見直さねばならない。私たちは教科書で、馬韓、弁韓、辰韓という原三国時代がつくられたと習ったが、実態はそれに被せるような高句麗の二重統治が垣間見える高句麗はツングース系の騎馬民族がつくった国家で、定住化によって遊牧から次第に離れたが、騎馬による戦力は絶大なものがあった。倭人(伽耶の人々を含めて)という海洋民族はこんなすごい高句麗と戦いながら、朝鮮半島の「鉄の路」の維持に腐心していたのである。この争いについて記述している「記紀」や広開士王碑の背景を、読み解く必要がある。

記紀(きき)とは、『古事記』と『日本書紀』との総称である。 『古事記』の「記」と『日本書紀』の「紀」を併せて「記紀」という。 両書とも、奈良時代に編纂された日本神話や古代の歴史を伝えている重要な歴史書である。

 広開士王碑では「倭は百済、新羅を属国とした」とあるが、同盟国家の小さな倭が属国にできるわけがない。倭が維持している百済、新羅の勢力内の航路についてクレームをつけ、攻撃を始めたと見てよい。倭は朝鮮半島の海上権益を巡り391年から480年、高句麗と戦うことになる。

 すでに、今まで論を積み重ねてきたように、倭人が朝鮮半島の沿岸輸送を支配していたことが見えてくる。これは中国の史書や『三国史記』の行間を読み解けばわかる。紀元前からの倭人の新羅への攻撃が、「百隻で襲った」「城を取り囲んだ」などたくさん戦ったことは書かれている。だが、一体、この倭の攻撃について、どうして、どこで、なぜ起きたか十分な分析が行われていない。

 ヨーロッパの紀元前から近世まで続いた、ギリシャとペルシャ、ローマとカルタゴ、そして、ヴェネツィアとトルコ帝国の千年以上にわたるガレー船の戦いも、交易の利権を巡るものであった。粟(あわ)しか育たない寒冷地の痩せた朝鮮半島の東海岸を、倭人が繰り返し襲撃するわけがない。しかも、この時期、新羅という国はない

 三百年後の「記紀」の国土観、国家観に囚われていればいつまでも謎のままである。倭人が騎馬民族と戦ったのは鉄の商権、交易路の確保と考えれば謎は解ける。

 当時の国境の状況を考えてみよう。倭国は朝鮮半島交易と伽耶の鉄生産の権益を持っていたが、高句麗から見れば、倭の権益は楽浪郡同様魅力的なものであった。

 高句麗が南下し始めたことで、倭と百済、新羅と合従連衡が始まり、当然のことながら日本列島の倭の連合国家から援軍が派遣された。

 

 田中史生氏の『越境の古代史』(ちくま新書、2009年)によれば、4世紀後半以降の倭が、朝鮮諸国からモノ・文化の贈与を受け、その見返りに軍事的支援を行ったとしている。

田中 史生(タナカ フミオ)1967年福岡県に生まれる。國學院大學大学院文学研究科日本史学専攻博士課程後期修了、博士(歴史学)。関東学院大学経済学部教授。専門は日本古代史。地域史や国際交流史研究を通し、列島社会の歴史的多元性・多様性・国際性の解明をすすめている。著書に『倭国と渡来人』(吉川弘文館)、『日本古代国家の民族支配と渡来人』(校倉書房)がある。

 鉄と人の流れ、そして交易の場としての前方後円墳にその歴史が見て取れる。田中氏は百済に送ったものとして傭兵に加え、軍船、武器、武具、馬、稲種などの穀物糸、綿、布などを挙げており、百済からは地金の鉄鋌(てってい)が送られたとしている。

(国立歴史民俗博物館研究報告 第110集より転載)

▶︎ 強かった高句麗・・・騎馬民族の強さの秘密

 高句麗の広開土は朝鮮史上最強の王である。その強さの秘密は、敵の牛馬と羊を奪い、住民を拉致しながら、敵の武器を奪いながら戦うことにある。この戦闘システムの完成形がヨーロッパや中東まで席巻、世界を震え上がらせたモンゴルの騎馬軍団である。この時代から、騎馬軍団が通った後は一木一草残らない戦争が始まったと考えられる。

 敵の牛馬の獲得と住民の拉致、家財の収奪は何を意味するか?蒙古軍の戦い方を説明しよう。戦争には兵とともに大量の鉄や食糧が必要であった。何しろ、一度の戦端で数万の兵が対峙し、数十万の矢が必要になるのである。食糧は敵から奪った家畜で賄う。消耗する武器を補充するために、戦場で敵が放棄した武器や甲胃、農耕具を自軍の甲胃、鏃や剣などの武器に変えた。兵は、捕虜にした敵兵をそのまま自軍の兵編入し、前線に押し立てる。

 軍隊と工場、食糧倉庫が同時に動きながらの戦い方であった。彼らは数万、数十万の騎馬、歩兵、家族一体で動く。家畜、鍛冶場まで一緒に動いた。捕虜の中で技能を持つものは工人となり、兵力の増大に伴って武器生産力も高まる。農村集落は焼き払われ原野になつた。まるで軍隊蟻の行進である。従わない者は殺し、恭順する者は使う。敵のモノを奪いそれを自分の兵力にしながら増殖する軍は、兵站(へいたん・戦場で後方に位置して、前線の部隊のために、軍需品・食糧・馬などの供給・補充や、後方連絡線の確保などを任務とする機関)輸送を必要としない。

 高句麗軍の陣容は平壌の古墳の壁画埼玉県行田市の埼玉古墳群の副葬品からわかる。北朝鮮の平壌の近くに高句麗全盛時代の最大の古墳安岳三号墳の壁画がある。正確に年代がゎかる墳墓で、紀元三五七年に六九歳で死んだ高句麗の王侯貴族の夫婦の墓である。壁や天井には当時の高句麗の生活や軍隊の訓練、行進、スポーツなどを描いた壁画がある。

 そこにはおよそ30年後に広開士王が倭国と戦うであろう精鋭の高句麗軍の行軍の様子が描かれている。250余名からなる行列で、鮮明に見えるのは行列の中央隊列の部分。上段の先頭には歩兵は軽そうな木製の盾を持って行進している。これは青谷上寺地遺跡で出土した盾と似ている。次に騎士団が続き、中ほどに楽団や荷を担いだ従者、隊列の最後にも歩兵と騎馬軍団が続く。

 注目すべきはこの騎馬と騎士で、鉄の鎧を着て、馬体は鉄製の小札(鉄片で編んだもの)で完全に固め、馬の顔にも鉄製の馬面を着けて完全武装をしていた。馬甲面である。この鎧馬騎士団は高句麗が無敵を誇る鉄騎軍団であった。中央に王がいる。すでに高句麗は四世紀に牛車を使っていた

 当時の戦闘は弓矢で勝負が決着していたが、この重戦車のような鎧馬の登場によって弓兵はけちらされ、戦争のスタイルは変わった。馬の尻尾に鉄のイガイガが付いた蛇行状鉄がある。馬の背後から兵が近づこうとすると、馬が尻を一振りし、後から近づいた兵は大怪我するか死に至った。まるで第二次世界大戦のドイツの機甲師団のような軍隊であった。

 倭軍は五世紀初頭にこんな軍隊と戦って、簡単にひねりつぶされた大伴金村が耐えきれず百済へ任那割譲をおこなったのもこの頃である。

 562年、任那(伽耶)は高句麗が後ろで操る新羅軍によって滅亡する。倭は朝鮮半島における拠点を失った。587年、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした理由も、日本海側の豪族争いで、倭国系の物部一族を新羅系の蘇我一族が滅ぼしたと考えれば得心がゆく。

 高句麗は隋の大軍にも勝っている。高句麗と598年から614年まで四回、戦を行つた。暴風雨、内紛などがあり、そのうち全軍で戦ったのは一回だけであるが、これで隋は完敗し、国は傾き、ついには滅亡した。

 倭国の衰退は広開土との戦いより徐々に始まる。広開土碑によれば、「新羅と百済は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし、倭が391年に海を渡って高句麗に来たので倭を破った」とある。『日本書紀』にはそこは「百済が非礼(ひれい・礼儀(の尺度)に合わないこと)をした」としか書かれていない。

 朝鮮半島の倭人と伽耶は次第に、南に追いつめられる。この時代から『日本書紀』では、広開土王と戦ったのはヤマト軍になっている。本当は倭国軍であるが、『日本書紀』が『百済本記』から書き写されたとすればうなずける。

 『日本書紀』には潤色(うわべや表現を(面白く)つくろい飾ること)がある、というより虚構がある。「三国史記』にあるので、事実としているが、上田正昭氏は「渡来の古代史」で、日本書紀』における百済、新羅との関係は、百済の遺民が執筆したもの虚構が多いという。

 大和から朝鮮半島まで700㎞大軍を送れる兵站(へいたん・戦場で後方に位置して、前線の部隊のために、軍需品・食糧・馬などの供給・補充や、後方連絡線の確保などを任務とする機関)輸送能力が当時の大和にはない。もし、参戦していれば、驚、埼玉、熊本の遺跡のように高句麗のものすごい武具出るはずであるが、まったくない。そろそろ歴史家は『日本書紀』から卒業する必要がある

▶︎ 倭が負け続けたわけ・・・馬、狼煙(のろし)と海路の制約 

 釜山の地下鉄二号線に乗って大淵(テヨン)で降りると釜山博物館がある。その展示室で、朝鮮半島を実質支配していたのは中国(漢)ではなく、高句麗だったという証拠を見つけた。この展示が本物であればという前提であるが、紀元1世紀楽浪郡(らくろうぐん)時代の狼煙図と狼煙台のレイアウトである。

 高句麗と倭との戦いをイメージしたと思われるビデオがあり、倭人らしい海賊が海岸に近づき、上陸するや否や、たちまち蹴散らされる。倭人はこんなすごい高句麗と戦いながら、朝鮮半島の「鉄の路」の確保に腐心していたのである。

 戦争が始まって、413年に倭の讃王東晋安帝に朝貢、高句麗を何とかしてほしいといぅ陳情をおこなつた。その後、済、輿、武と478年まで9回朝貢が続くが、中国は弱体政権が続き、倭国軍は次第に南に追いやられる

 高句麗との戦いは勝てる戦いではない。理由は単純、兵力、装備が違う重装備の師団レベルの軍隊を相手に海兵隊が勝てるわけがない

 春になつて援軍が反撃、壊れた港湾の集落の修復、防護機能の強化、拉致された民を奪還し、失地回復をおこなっても、消耗戦になつた。『三国史記』では簡単に戦いとしかいっていないが、倭軍は海兵隊で兵員も少なく、場所も蔚山(ウルサン)や釜山きの港湾都市であった。小さないさかいが何年も続き、次第に撤退していったと考える。

 船を交易路で動かすためには、海岸線に沿っておよそ20㎞毎に三つの港が必ず要る。しかも、寒い冬は船を動かせない。663年白村江の戦いで日本は敗れ、西海岸の港湾網を完全に失う

▶︎ 古代高句麗ブームの到来

 4世紀、5世紀の倭国の武(478年)が活躍していた時代の国家の範囲は、九州から信州、群馬、埼玉まで及んでいる。この範囲を否定する学者はいない。そして、 4世紀末に日本の連合軍として全国から朝鮮半島に出兵し、完敗したのも事実である。

 やがて、和解し帰国したが、大勢の帰還兵が戦利品か朝鮮土産として高句麗や新羅の金銅装馬具・鉄製武具・装身具類・須恵警どを持って帰国したと考える。また、埼玉県行田市の稲荷山古墳、熊本県和水町の江田船山(えたふなやま)古墳の「ワカタケル大王」の銀象嵌の銘入りののように、功績があった豪族に下賜されたものもあったろう。古墳の副葬品の多くは高句麗との戦利品であった。江田船山古項で剣と表に出てきた金銅製冠帽は新羅か高句麗、兵庫県加古川市の行者塚(ぎょうじゃづか)古墳金銅製帯金具中国晋の時代のものである。

 しかし、大阪府の藤井寺市と羽曳野市にまたがる古市古墳群で出土する甲、刀、剣銑鉄群は、「倭の五王」の時代と考えてよいかどうか迷うところがある。

 九州から関東で出土する甲胃、刀剣類は土産の類のものであり、それぞれ少量である。が、古市古墳群や百舌鳥古墳群では大型墳墓の脇の陪塚(ばいづか)、培塚からあたかも兵器庫のように鉄鏃(てつぞく・鉄製の矢じり)、鉄鋌(てってい・鉄板)が大量に出土、まったく性質を異にしている。

 帰国した戦士達は同時に高句麗文化も導入し、高句麗人も渡来したと考えられる。一世をふうび風靡したものの後に否定された江上波夫氏の「騎馬民族王朝説」は、実は当たらずしも遠からずであったのではないだろうか。

 海洋民族の倭人以外の祭祀も広がった。出雲は部族が国の一箇所に集まり10月に大祭をおこなう習慣を四隅突出墳丘墓の時代からおこなつていたと考えられるが、信州や関東にも広がった。これは豊作祈願の新嘗祭ではない。遊牧民放である高句麗の神は四神と天星である。朝鮮半島の高句麗、新羅の馬具、王冠、刀が九州、丹後さらに信州から出土しているのみならず、高句麗の文化も伝わっている。相撲もこのとき全国に広がった。

 埼玉古墳群に属する稲荷山古墳から、象嵌の太刀とともに高句麗特有蛇行状鉄管装着している鳥形の埴輪が聖している。銘入り刀の発見は、鉄剣が出た埼玉古墳群の近くの酒巻古墳群の等噴から、高旬麓文化の影響を受けた多くの人物埴輪が発掘された。その出土まきした人物埴輪のなかから「みずら」の墓をした男の埴輪、相撲をとる力士埴輪が発見された。高句麗から海を渡ってきた人々の生活・風俗文化がこの関東に定着していった。

 江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」がロマンとして登場するのは無理からぬところである。実際、出雲、群馬、栃木の毛国(毛野)には騎馬民族系の国家ができていた。「倭の五王」の五世末までの200を超える国家は、主として海の交易で繋がる連携国家であった。しかし、高句麗との戦争で若者の漕ぎ手を失った日本海、九州の国々は衰退する。

▶︎ 伽耶、百済救済のための瀬戸内海航路

 先に述べたように倭国の衰退は5世紀初頭の広開士王の大敗より始まる。朝鮮半島で鉄の交易を生業としてきた倭人と伽耶はその後、半島の東側の交易拠点を次々と失うことになり、代わりに高句麗、新羅が海運業を始め、半島全域から日本海交易を直接おこなうようになったからである。

 それを受け入れたのが、ヤマト朝廷に近い敦賀の大王応神天皇関東の毛国であったと考える。敦賀の隆盛は、当然、丹後の衰退につながった。高句麗戦争後、朝鮮半島の東半分は失われ、日本海沿岸は新羅と倭国が共同で港を経営することになり、蘇我氏の台頭がそこにある。

 倭国と百済は、高句麗の南下を食い止めるために、軍事作戦上、大和と九州を結ぶ瀬戸内海の航路をつくることが焦眉の急になった。まだ、西瀬戸内海は通れなかった。東側は卑弥呼の時代に吉備と播州御津、淡路島そして河内湖まで、幾つかの古墳を繋ぐ一つの経済圏ができていた。新羅の王子の来航から四百年後である。

 4世紀後半から航路を開く努力は続き、「倭の五王」 の一人、雄略天皇と比定されている武の時代に、伽耶と百済とヤマトの間で交易路が開かれ、すぐに船が入るようになったと考えられる。そして、鉄が本格的に流れ出したのは五世紀、不思議に物語は面白くなる。

 日本海側の航路新羅人の影響を受けることになった。新羅の船には水や食糧を提供したが、百済の船は安全に通ることができない。狼煙で次々と知らされ邪魔され漂流を余儀なくされる。したがって、百済は別の航路を開く必要性に迫られたのである。『日本書紀』の雄略天皇の吉備征伐が5世紀半ばに始まったとされているが、実際はもっと早く4世紀世半ばに吉備は倭国の交易船が通れる状態になっていた。3世紀に遊牧民族によってつくられた東瀬戸内海の航路は、大型船が通る倭国・ヤマトの航路になった。

▶︎ 水鳥の紋章の謎

 取材のために釜山にある三つの博物館、国立金海博物館、釜山博物館、福泉博物館を訪れて、埴輪に似た水鳥土器と水鳥紋章の甲冑を見た。国立金海博物館の学芸員のジョン・ガン・オーさんは、水鳥は伽耶王国のある部族の紋章であるという。水鳥の紋章というが、一枚の鉄でできた甲胃に模様が打ち出されていた。その当時、伽耶は沼地でもなく水鳥が多い訳ではない。冬になると水鳥は日本に渡る、そのあたりがすごく気になった。

 遊牧民がなぜ水鳥であろう。しかも同様な遺物がたくさんある。新羅人の住む朝鮮半島の東半分は牧草地で水鳥は関係ない。そして、思い出した!日本海の妻木晩田出雲の博物館、ヤマトの大王の古墳の写真で、水鳥の埴輪を見た記憶がある。鉄があるところに、この水鳥の土偶がある。

 さらに、たしか、日本海のどこかの遺跡にも水鳥の土偶が出ていた。大阪府の古市か百舌鳥古墳群か。鳥取の妻木晩田遺跡、さらに他にも日本海沿岸に水鳥の埴輪が多い

 そして大阪府羽曳野(はびきの)市の、なんと応神天皇陵の誉田御廟山(こんだごびゅうやま)古墳である。何羽もの水鳥が出土、現在は東京国立博物館に収蔵されている。この古墳全長約 420mという墳丘長は大仙陵古墳に次ぐ日本第二位の古墳で、宮内庁の管理になっている。また、馬見(うまみ)古墳群の巣山古墳の周溝内にもあった。

 

 ただ、この水鳥は、記紀に伝わるヤマトタケルの白鳥説話では死者の霊を慰めるものとして白鳥になっているという。また、誉田御廟山古墳から国宝の金銅製鞍金具鮮卑系の馬具が出土している。藤井寺市の津堂城山(つどうしろやま)古墳全長208mには水鳥埴輪があり、三羽の大きな埴輪で、中央の高さ109㎝、羽をたたんで水に浮かんでいる。また、東日本最大の群馬県太田市の太田天神山古墳(全長30m)でもくびれ部に水鳥型の埴輪があったという。『三国志』『魏書』「東夷伝」弁辰条には「大鳥羽をもって死を送る。その意は死者を飛揚せしめんと欲す」とあり、鳥が死者を天上へ送る役割をもっていたという。この話はヤマトタケルが死んで白鳥になる物語とそっくりである。

 多くの鎧には水鳥の紋章があり、日本海側、さらに百舌古墳群にも水鳥の埴輪土偶が数多く出土している。水鳥こそが日本海、瀬戸内海の水を進む倭国水軍の紋章である!騎馬民族の辰韓や高句麗にはない。伽聖国、倭国そして応神天皇の紋章でもある。水鳥は、五世紀初頭、大和と伽耶、日本海の諸国が一致してことに臨んだ証拠である。

▶︎ 大和に鉄と馬が運ばれたわけ

 歴史をバラバラでみていると全体がわからない。4世紀末から5世紀の初め、倭国は高句麗の騎馬軍団に大敗を喫したことは繰り返し述べた。重戦車のような馬に圧倒され、高句麗の調教師を呼んで関東に馬の文化を広めたと考える。戦後、長野県、群馬県に毛国の豪族によって馬が輸入され、多くのがつくられた。

 倭国連合は古墳時代中期の5世紀、高句麗と壮絶な死闘を繰り広げる。次第に伽耶、百済の一般市民、工人が日本に疎開する。その疎開先は時の倭国政権の庇護受け、戦争対策に船や兵員を送った。その見返りに鉄鋌(てってい)が大量に送られたとは考えられないか?

 また、馬の生産については二つの流れがあったように思われる。伽耶と百済の難民がいた大阪平野では西の済州島付近から百済の馬飼が入って四条畷付近で牧がつくられ、騎馬軍団の育成に勤しんだ。馬は瀬戸内海から運ばれた形跡はないが、四条畷日本海から運ばれたと考えられる。もう一つ、毛国とその勢力範囲にあった信州、群馬にも牧がつくられ、馬が増えた。彼らは、元は遊牧民で、この稼業にはすぐに慣れた。

 大和というのは五世紀初頭の段階で、倭国連合の一つの国家であったに過ぎない。倭の王から毛国大和の河内の豪族に軍事基地化の要請があったとみるべきであろう。

 戦争のために送られた馬であるが、結局、輸送用や農耕用に使われることになり、大陸の勇猛な馬の戦闘用具は、王族のステータスを示す馬を飾る芸術的金具に変化した。飾り馬の風習とともに国産馬具作りが進み河内平野の経済を潤した。実に平和な国である。6世紀には実用的な環状板付轡(くつわ)が量産されるようになる。

 瀬戸内海ではさらに鉄鋌も運ばれた。愛媛県今治市の大木遺跡や岡山市の造山古墳遺跡からそれが潰える。だが、私の勉強不足かもしれないが、日本海の島根、鳥取、丹後、さらに九州の宮崎県の遺跡からは鉄鋌は出土していない。

 なぜ、5世紀半ばに瀬戸内海だけに大量の鉄鋌が運び入れられたか。当時日本海側は新羅、高句麗の影響力がある航路になっていた。百済・任那が選んだのは傭兵を集めることができた瀬戸内海である。すでに百済では戦争で疲弊し、工人が疎開していなくなり、製品ができる状況になかったので半製品の鉄鋌が運ばれたとも考えられる。

 そして、鉄鋌が交換財として使われた。地方では鍛冶技術が向上して鉄素材だけがあれば、鍛造鉄製品できるようになった。鉄鋌と交換されたのは地方の人、しかも兵隊であった。百済と任那(倭国)鉄鋌を大阪湾に運び、ヤマト国は地方から人を集めた。

 その交換が、鉄の公設市場である前方後円墳で行われた。豪族の墳墓に鉄鋌が敷き詰められているのは、あの世でも大勢の兵士を雇って、武器をつくつて守れるようにという願いが込められているのである。

 さらに、難民として避難してきた工人に職を与えるためにも、伽耶、新羅鉄鋌を送った。大勢の工人がヤマトに帰化し、捲土重来(けんどちょうらい・一度敗れたり失敗したりした者が、再び勢いを盛り返して巻き返すことのたとえ)を期した。彼らはこの鉄のインゴット(鉄などの金属を精製して一塊としたもの)で甲冑の量産を始めた。その代りに、ヤマトから朝鮮半島に兵隊が送られ、戦争を持続させた。ただ、送られてくる鉄鋌には粗悪のモノもあったという。


 奈良県橿原市の新沢千塚(にいざわせんづか)126号墳ではササン朝ペルシャ系のガラス器、青銅製火慰斗(ひのし・アイロン)、東アジア全域の金銅製の装身具があり、高貴な伽耶人が埋葬されたものとされている。奈良県斑鳩町の法隆寺西側350にある藤ノ木古墳では、金銅製馬具、鉄地金銅張馬具、鉄鏃、王の冠大帝など装身具とともに二体の成人が埋葬されているが、伽耶の高貴な貴族と考えられる。5世紀後半には伽耶から大量の文物とともに伽椰人が日本全国に到着し始める。

高句麗の騎馬隊にて痛い敗北を喫した大和政権では騎馬隊による攻撃というものを考案せざるを得なくなったようで、古墳の中に馬具が埋葬されるようになっていきます(そのため、一時は騎馬民族が日本を征服したという説もあったぐらいです)。また、この朝鮮半島の混乱を避けるため、多くの人々が朝鮮半島から日本にやってくるようになります。こうした朝鮮半島などから日本にやってきた人々のことを渡来人と言って、朝鮮や中国の文化や技術、政治システムなどを伝えました。大和政権は彼らを韓鍛治部(からかぬちべ)、陶作部(すえつくりべ)、錦織部(にしごりべ)、鞍作部(くらつくりべ)といった技術部門別に分けて、各地に居住させました。この中から土器部門では、弥生文化の名残であった土器である土師器(はじき)が、5世紀頃になると須恵器(すえき)に取って代わられるようになります。土師器は弥生土器に似ているものの、華麗な文様が影を薄めたのが特徴。須恵器は朝鮮半島の技術を取り入れ、1000度以上の高温で焼いた、青灰色の硬質の土器です。

 河内(東大阪地区)の相原には朝鮮半島からたくさんの工人が亡命し、働く場が増えた。それまでは大和の南郷、布留(るふ)という二つの大きな鍛冶集落があったが、河内を代表する鍛冶集落として柏原市大県遺跡群が5〜6世紀に発展する。渡来人の工場で、伽耶から持ち込まれた鉄鋌が材料に使われた。このような鉄工所が東大阪の町工場のルーツになつたのではなかろうか。

 大阪府堺市百舌鳥古墳群に鉄挺、武具などありとあらゆる鉄が朝鮮半島から財産として運ばれた。さらに、668年唐・新羅連合軍によって高句麗が滅ぼされ、大勢の高句麗人も来た。彼らは東日本の同胞のところに居を構えた。

▶︎ 謎の国・伽耶がつくった西大阪の工業団

 伽耶は謎の国である。『三国史記』 によると、〈洛東江流域の地域、東側に辰韓、西側に弁韓の間、現在の釜山国際空港がある金海から西岸に居を得て、加耶、加羅、加良、駕洛、任那など様々な名称で呼ばれた、六カ国の都市国家があったという。

 ここでは、豊富に生産される鉄で交易が早くからおこなわれていた。実は、ここが倭人の朝鮮半島の拠点であった。都市国家という記述も卑弥呼、「倭の五王」の時代の国の姿に符合する。またここには日本府があった。任那に関する史書の記述とも符合する。

 伽耶の人は、蚕を育てて服地をつくり、五穀(稲・麦・粟・大豆・小豆(『古事記』)を栽培した。王は宮城の中に瓦葺きの家をつくって生活していた。今の金海市鳳風台遺跡と高霊地山洞古墳群が王宮址と推定される。住民は主として竪穴住居(草などで屋根を葺いた建物)に住んでいたが、二階建ての楼閣もつくつた。この楼閣は望楼(ぼうろう・遠くを見渡すためのやぐら)であった。

 伽耶人は、主に畑作によって食糧を得ていたが、狩猟や貝類の採集も欠かせない食料獲得手段であったという。これは日本の弥生時代の原風景でもある。

 4世紀後半から5世紀初め、倭国が高句麗と戦っていたとき、三国の新羅が洛東江の東の慶北一帯を支配する大きな王国を完成させていたが、倭国の衰退とともに伽耶も衰える。

 倭国大敗の150年後、562年にこの伽耶が滅亡し、その後百年、盟友の百済も同じ騎馬民族の新羅に660年滅ぼされる。そして、百済復興を助けるべく、出兵した日本も663年の白村江で唐・新羅の連合軍に敗れた。海洋民族は鷺民族にはどうしても勝てない。しかし、その高句麗も六六人年に唐・新羅連合軍に滅ぼされてしまった。

 朝鮮半島の倭国が滅びるまでの200年、倭人と伽耶人は、すこしずつ九州、瀬戸内海を経由して帰化した。河内への渡来人の痕跡は九州北部から瀬戸内海沿岸に今も残っている。

 663年の白村江の戦いの前には、さらに大量の鉄がやってきた。そうした遺物が堺の百舌鳥古墳群から出土している。この地は港に近い。鉄鋌、武具などありとあらゆる鉄が財産として運ばれた。次に、唐によって高句麗が663年滅ぼされ大勢の高句麗人も来た。彼らは東日本の同胞のところに居を構えた。武蔵国の高麗郡や高麗神社、北陸の小松(高麗津)はその痕跡である

 伽耶国の紋章は水鳥である。応神天皇の古墳から水鳥の埴輪が出る。その後、新羅人も近畿にやってくる。新羅系の優良馬具が古墳に登場する。奈良県藤ノ木古墳の金銅製馬具もそのひとつである。

 伽耶は、朝鮮半島の歴史にほんの一時、瞬間的にできた海洋国であり工業国であった。だが、ここの工人の多くは大阪平野に移住し、強大なヤマトの国をつくることになる。一方、モノづくりの民を追い出した朝鮮半島は、産業が空洞化し、搾取する貴族と働いても報われない奴婢の国として残った。

 負けるが勝ちという言葉もある。突然、5世紀頃に全国同時に、鉄を大量に副葬品にする古墳が増えている。古墳という市場で鉄の取引が数多く行われ、寄進があったものの一部がそこの豪族の副葬品になつたのであろう。倭国は高句麗の広開士王に敗北したが、結果としては日本海を挟んで離れていた鉄の製錬所を集約したことで、却って工業力を高めることができた

 鉄の歴史から見れば、上田正昭氏、石野博信氏などが「なぜ突然4紀末、五世紀に大和大王家の河内進出があったか?」と語った疑問の答えがここで出たような気がする。朝鮮半島の繁栄の拠点であった伽耶のものが、大阪湾に移転したのだ。朝鮮動乱の時期の「動乱景気」と同じ、大和の豪族たちが鉄を目当てに山から下りてくるのは当然であった。

 今日の国際情勢風雲告げる時代、日本の歴史家はこの隣の国と我が国の海と陸の歴史を改めて検証し直すべきであろう。長い目で見れば、戦争に強いだけではない、汗をかき労働にいそしむことができる国づくりができるか、できないかの違いに、将来の国の進むべき道のヒントが隠されている。

▶︎ 鉄鋼王・継体天皇がつくったヤマト王国の骨格

 倭国の歴史は鉄を巡り高句麗と漢、魏、唐との戦いに翻弄された歴史であった。5世紀初めの高句麗との戦い(白村江)では倭国軍は日本海沿岸を中心に全国から徴用され、多くの兵員を失った。埼玉県、群馬県、長野県、鳥取県、宮崎県など中期の古墳の副葬品に、帰還兵が持ち帰った武具である鉄刀、鉄鉾、馬具が眠っているのが、その事実を証明している。

 一方、丹後や鳥取から多数の船の漕ぎ手が出征、失われてしまい倭国の力は衰退していったと考えられる。倭国は各都市を船で繋ぐことが基本の国家であり、漕ぎ手や船がなくなればその同盟は自然に崩壊する。その後、別の航路が高句麗、新羅との提携で始まった。

磐井の乱(いわいのらん)は、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井(『日本書紀』は筑紫国造だったとする)がはばみ、翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争

 だが5世紀から6世紀に漕ぎ手がいなくなったのは、高句麗との戦いだけが理由ではない。別の大きな要因に、527年の磐井の乱と、たたら製鉄の誕生がある。の乱は、九州倭国とヤマト王権を巡る国を二分する戦いで、九州倭国水軍の主力も痛手を受けた。あまり気づかれていない重要な事実がある。

 磐井の乱で継体天皇は、ヤマト朝廷として初めて水軍を瀬戸内海に通した。これは、ヤマト国が大阪湾から瀬戸内海を通って朝鮮半島まで遠征した最初の記録と思われる。

 6万の兵といわれるが、山陽道を通った形跡がなく、日本海岸を歩いて通った記録もないので瀬戸内海を渡ったのであろう。しかし、どう考えても6万という軍勢はおかしい。戦国時代に黒田官兵衛や小西行長といったプロがいて初めてロジスティックス(兵箱捨送)が可能になる。規模としては関ケ原の戦いと同じ軍勢であり、当時の輸送能力では不可能な数字と断言できる。

 1887年の西南戦争の際に、明治政府が九州に7万の兵を送るだけでも苦労したのである。このように、話は誇張されているかもしれないが、とにかく瀬戸内海に軍勢を送った最初らしい。

 また、中国山地に眠る豊富な砂鉄を鉄にする大鍛冶の技術、たたら製鉄技術が実用化され、さらに国内に鉄が一巡したことで、朝鮮半島に力技で行く必要がなくなつたのである。船を漕ぎながら戦う「倭人」には需要がなくなつた。

 白村江の戦いにおけるヤマト軍の主力は、大和、信濃、静岡、東北からのようであった。彼らは海の戦いでは素人集団で、兵の数こそ数倍勝ってはいたが、準備をして待っていた唐、新羅の連合軍に簡単に敗れた。朝鮮半島まで大和から700㎞、海で戦う経験がない陸兵が、漕ぎ疲れて戦えば、敗北するのは当然であった。また、狼煙(のろし)によってヤマト軍の動向は完全に把握されていた。隋軍が高句麗に破れた「薩水の戦い」と同じである。そして、唐・新羅連合軍はその668年に高句麗も滅亡させた。

 5世紀から倭国は負け続けた。歴史は事実を書いていない。なぜ負け続けたか? 騎馬と海軍は騎馬の方が強い集散できる速度と装備が違う。ヤマトと百済の連合軍は戦いがあるごとに、海に落ち延びた。ただ、百済が滅亡せずに長く残ったのはその地形による。

 九州倭国の生き残りの倭人は、後日、博多の商人、九州長崎の松浦党、瀬戸内海の芸予諸島の村上水軍、塩飽(しわく)諸島で官船警護や航海援助にあたった塩飽の水主(かこ・こぎて)になった。一部は八幡大菩薩の旗を立てて東シナ海を暴れる倭寇となった。磐井の乱で誕生した日本海軍は勝利を得ないまま滅んだ。そして、これは、これは倭国から大和への日本国の主役の交替の儀式でもあった。