第五部 古墳時代後期・飛鳥時代

■第五部 古墳時代後期・飛鳥時代

1.古墳時代後期(6世紀、継体天皇~崇峻天皇)

 継体天皇は応神天皇の5世孫であり、父は彦主人王である。近江国高嶋郷三尾野で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方を統治していた。506年に武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人らが協議して、越前にいた男大迹王にお迎えを出した。男大迹王は心中疑いを抱き、河内馬飼首荒籠に使いを出し、大連大臣らの本意を確かめてから即位の決心をした。翌年、河内国樟葉宮において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とした。継体は、即位19年後の526年、ようやく大倭(後の大和国)に都を定めることができた。(百済本記を基にして継体紀から年号が定まる。また、継体天皇は直接に以降の皇統に繋がることが確認されている。)

 継体天皇6年(512年)、大伴金村は、高句麗によって国土の北半分を奪われた百済からの要求を入れて任那4県を割譲し、百済と結んで高句麗、新羅に対抗しようとしたが、かえって任那の離反、新羅の侵攻を招いた。527年、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した。この計画を知った新羅は、筑紫の有力者であった磐井へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。磐井は挙兵し、火の国と豊の国を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍を阻んで交戦した。継体天皇は大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、麁鹿火が将軍に任命された。528年、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。その後531年、継体天皇は皇子(安閑天皇)に譲位し、その即位と同日に崩御した。『百済本記』では、天皇と皇子が同時に亡くなったとし、政変で継体以下が殺害された可能性(辛亥の変説)を示唆している。継体陵とされる今城塚古墳からの出土と思われる阿蘇ピンク石(当時石棺に使用)が発見されている。

 大伴金村は、安閑、宣化、欽明天皇の時代にも大連として権勢を保ち、屯倉の設置などに励んだ。しかし、欽明天皇の代に入ると天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目が台頭し、金村の権勢は衰え始める。さらに欽明天皇元年(540年)には新羅が任那地方を併合するという事件があり、物部尾輿などから外交政策の失敗(先の任那4県の割譲時に百済側から賄賂を受け取ったことなど)を糾弾され失脚して隠居する。これ以後、大伴氏は衰退した。

 雄略朝以来、倭は百済と同盟関係にあり、高句麗の南下と高句麗の影響を受けた新羅の侵攻に対抗してきた。512年、倭国は任那4県を百済に割譲した。また、513年、百済より五経博士が渡来、538年、百済の聖名王により仏教が公伝した。古墳石室も竪穴式石室に代わって、朝鮮風の横穴式石室が主流となった。554年、聖名王が新羅で戦死する。そしてついに、562年には任那が新羅によって滅亡させられる。かくして、古来(縄文時代前期)より維持してきた南韓の倭国の領土をすべて失うことになる。このことは、任那・伊都国連合の出自と思われる崇神・応神天皇を掲げる皇統にとり由々しき事態であり、ヤマト王権は、任那滅亡以来、度々任那の回復を図るがことごとく失敗した。

 6世紀半ばに大陸から伝わった仏教を受け入れるかどうかを巡り、反対(排仏)派の物部尾輿と、導入(崇仏)派で渡来系の子孫ともいわれる蘇我稲目が争った(崇仏論争)。552年、百済の使者から仏教の説明を受けた欽明天皇は「これほど素晴らしい教えを聞いたことはない」と喜び、群臣に「礼拝すべきか」と問うたところ、蘇我稲目は賛成し、物部尾輿は「外国の神を礼拝すれば国神の祟りを招く」と反発した。そこで天皇が稲目に仏像を預けて礼拝させたところ、疫病が流行したため、尾輿は「仏教を受け入れたせいだ」と主張。寺を燃やし、仏像は難波に流し捨てたという。第2段階は585年、稲目の息子にあたる馬子は寺院を建立し、仏像を祀っていたが、疫病が流行したため、尾輿の息子にあたる守屋が敏達天皇に仏教受容をとりやめるよう進言。馬子の建てた寺に火をつけ、仏像を流し捨てる。用明天皇即位後も両氏は仏教を巡って対立するが、やがて諸豪族を率いた馬子が守屋を討ち滅ぼし(衣摺の戦い)、寺院の建立も盛んに行われるようになった。これ以後、邪馬台国以来権力を振るった、さしもの物部氏も権勢に陰りがみられるようになり、蘇我氏の全盛が始まる。戦い後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。この間、581年には、中国は文帝により長い分裂の時代を終えて再び統一され、国号を隋とし中央集権体制をひいた。崇峻天皇は傀儡で政治の実権は馬子が持ち、これに不満な天皇は馬子と対立した。592年、馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝である。

2.飛鳥時代(6世紀末~8世紀初頭、推古天皇~元明天皇)

 推古天皇を中心とした三頭政治(聖徳太子(厩戸皇子)は皇太子となり、蘇我馬子と共に天皇を補佐)が始まり、天皇を中心とした中央集権体制を目指した。593年、太子は四天王寺を建立する。594年、仏教興隆の詔を発した。595年、高句麗の僧慧慈が渡来した。馬子は日本最初の本格的な伽藍配置をもつ飛鳥寺を建立する。598年、隋が高句麗に侵攻。600年、新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。601年、太子は斑鳩宮を造営した。602年、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、来目皇子の死去のため、遠征は中止となった。603年、冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であった。604年、十七条憲法を制定した。607年、小野妹子と鞍作福利を使者とし随に国書を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。607年、太子は法隆寺を建立する。612年、隋の煬帝、高句麗に遠征するも敗退。618年、李淵が隋の煬帝を殺害し、唐を建国。620年、太子は馬子と議して『国記』、『天皇記』などを選んだ。622年、斑鳩宮で倒れ、そのまま逝去。皇極の御代になると、蘇我氏の専横が目立つようになる。蘇我蝦夷は入鹿を勝手に大臣にする。642年、百済が新羅の諸城を攻める。643年、新羅が唐に援軍を請う。同年、入鹿は蘇我氏と対立してきた聖徳太子の子、山背大兄王を斑鳩に襲撃した。王は、自分の挙兵によって戦が起き、人々が死ぬのは忍びないとして、自害。この事件により蘇我氏の権勢はますます高まり、蝦夷の横暴と若い入鹿の強硬な政治姿勢に次第に朝廷の中で孤立を深めていった。

 645年、中大兄皇子・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を宮中で暗殺する(乙巳の変)。蘇我蝦夷は自殺し、蘇我本家が滅亡。翌646年、皇子は難波の宮で改新の詔を宣する(大化の改新)。 薄葬令、品部廃止の詔が出される。646年、冠位19階を制定する。653年、遣唐使を送る。中大兄皇子、幸徳らを難波宮に残し、飛鳥に移る。658年、唐が高句麗へ派兵。660年、唐・新羅が百済を滅ぼす。661年、中大兄皇子が称制す。663年、百済復興を目指し、新羅軍を撃破すべく2万7千の軍を派遣するも、唐軍に白村江の戦で大敗する(百済の役)。664年、冠位26階を制定.兵士・民部・家部の制「甲氏の宣」を施行。唐の使者郭務悰が来日。対馬、壱岐、筑紫に防人を配置し、筑紫に水城を築き、唐・新羅の来襲に備える。667年、中大兄皇子、大津の宮に遷都。唐・新羅が高句麗へ侵攻。668年、天智が即位。高句麗が滅亡する。670年、全国的に戸籍を作る(庚午年籍)。671年、近江令を施行.太政官制開始。天智天皇没する。

 672年、古代日本最大の内乱である壬申の乱が起る。天智天皇の太子・大友皇子に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が朝廷軍に勝利し大友皇子が自殺という、類稀な内乱であった。翌673年、天武は飛鳥浄御原宮で即位し、唐に対抗できる国家体制の確立を図る。681年、飛鳥浄御原令の編纂を開始し、草壁皇子を皇太子とする。681年、『帝紀』『旧辞』などの筆録・編集開始(『日本書記』)の詔。「禁式92条」の制定。日本および天皇の称号を用いる。藤原不比等、天武・草壁を補佐。684年、天武が後の藤原京を巡行、八色の姓の制定。685年、四十八階冠位制を施行。 686年、天武が没する。689年、草壁皇子が没する。690年、持統が即位する。飛鳥浄御原管制を施行。戸令により、庚寅年籍を作る。694年、藤原京へ遷都。696年、高市皇子が没する。697年、持統が譲位し、文武が即位。701年、大宝律令を施行。703年、持統が没する。707年、藤原不比等の官僚として活躍を認め200戸の封土を与える。文武が没し、元明が即位。710年、平城京に遷都。712年、太朝臣安萬侶が『古事記』を献上。713年、諸国に『風土記』の編纂を命じる。714年、首皇子が立太子になる。715年、元明が譲位して、元正が即位。718年、養老律令が完成。720年、舎人親王らが『日本書記』を奏上。藤原不比等没する。721年、元明が没する。724年、元正が譲位し、聖武が即位する。

3.飛鳥・白鳳文化の開化と日本の国家体制の確立 と都城の建設

 倭国は百済と同盟関係を組み、高句麗の南下とその影響を受けた新羅の侵攻に当たり、512年には百済に任那4県を割譲した。また、538年、百済の聖名王により仏教が公伝した。しかし、554年、聖名王が新羅で戦死する。ついに、562年には任那が新羅によって滅亡させられる。658年、唐が高句麗へ派兵。660年、唐・新羅が百済を滅ぼす。さらに、667年、唐・新羅が高句麗へ侵攻。668年、高句麗が滅亡する。この任那、百済さらに高句麗の滅亡により、五月雨的に、南韓の倭人の帰来、仏僧・知識人・工人が倭国に避難、渡来した。かくて、推古朝を頂点として大和を中心に仏教文化の飛鳥文化が開花した。飛鳥文化の時期は、一般に仏教渡来から大化の改新までをいう。朝鮮半島の百済や高句麗を通じて伝えられた中国大陸の南北朝の文化の影響を受けた、国際性豊かな文化でもある。多くの大寺院が建立され、仏教文化の最初の興隆期であった。それに続く、白鳳文化とは、645年(大化元年)の大化の改新から710年(和銅3年)の平城京遷都までの飛鳥時代に華咲いたおおらかな文化であり、法隆寺の建築・仏像などによって代表されるものである。なお、白鳳とは『日本書紀』に現れない元号(逸元号などという)の一つである(しかし『続日本紀』には白鳳が記されている)。天武天皇の頃には使用されたと考えられており、白鳳文化もこの時期に最盛期を迎えた。

 ヤマト王権は大化の改新以降、強大な唐に対抗できる国家体制を確立しようとした。この時代は、刑罰規定の律、行政規定の令という日本における古代国家の基本法を、飛鳥浄御原令、さらに大宝律令で初めて国家体制を敷いた重要な時期と重なっている。681年、天武は『日本書記』の編纂開始の詔を出し、日本および天皇の称号を用いた。日本は任那の同義語であり、ヤマト王権は天皇家の故地である任那の滅亡にともなう新しい時代に対応して、国家的自立と自負を表明するため、‘任那’の栄光の記憶を復活し、しかも‘日の御子’の治める国にふさわしく‘日本’という国号を立てたのではあるまいか。天武朝では新しい国家の首都である藤原京が造営が始まったが、この宮が日本で最初の都市といえる。それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例から3代の天皇(持統・文武・元明)に続けて使用された宮となったことが大きな特徴としてあげられる。政治機構の拡充とともに壮麗な都城の建設は、国の内外に律令国家の成立を宣するために必要だったと考えられる。藤原京は宮を中心に据え条坊を備えた最初の宮都建設となった。藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中の707年に審議が始まり、708年には元明天皇により遷都の詔が出された。唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造され、710年に遷都された。さらに、712年、『古事記』、太朝臣安萬侶によって献上さる。720年、舎人親王らにより日本の正史である『日本書記』が奏上される。

■ あとがき

 筆者は、近江商人の里(五個荘)で生まれ、優麗な三上山を対岸に眺められる湖族の浦(堅田)で育ち、生来の歴史好きで謎に満ちた近江の古代史に興味を抱いていた。明治時代に三上山の麓の大岩山古墳から国内最大級の銅鐸が多数見つかり、また20世紀末には、守山市で弥生時代後期の伊勢遺跡という我が国最大級の大規模遺跡がみつかった。伊勢遺跡は、大国主の玉牆の内国の都ではないか?卑弥呼は伊勢遺跡より邪馬台国の纏向遺跡に遷った。さらに、2016年、彦根市で大規模集落跡の稲部いなべ遺跡が見つかった。この遺跡は、纏向遺跡を都とする邪馬台国に対抗した狗奴国の都ではないか? これらの古墳や遺跡は、近江が『古の日本(倭)の歴史』の主な舞台だったことを示唆する。

 筆者は、ゲノム科学の素養があったので、最近急速に発展した旧石器人、新石器人さらには古代人のゲノム解析に大いに興味をもち、その成果を漁ったところ、人類学・考古学はもはやゲノム解析がなければなり立たなくなっていることを知るに至った。このことがきっかけで、生来の興味の対象であった『古の日本(倭)の歴史』に還暦の頃から入り込んでいった。古希を過ぎるころには我田引水ながらも旧石器時代から飛鳥時代に至る筆者なりの倭の歴史を構築できるようになった。

 『古の日本(倭)の歴史』を拝読して頂ければわかるように、文献学、考古学さらには古人類のゲノム解析を含む広範な知見を鑑み、かつ先人の日本古代史研究に敬意を払いつつも、筆者独自の歴史観を提示している。弥生時代の倭国の主人公は大国主であるが、南韓出自の倭人を核とする任那・伊都国連合の東征(崇神東征)により邪馬台国内の大国主勢力を一掃し大和にヤマト王権(三輪王朝)が建てられた。この倭の歴史の構築で、『記紀』では殆ど無視されている近江の古代史を浮かび上がらせた。日本の古代史の先人方にとってとても受け入れられない筆者の特異な見解が多々あると思う。老齢のゲノム科学者が推敲を重ねて纏めた古代史にも新規な見解や洞察があり、今後の日本の古代史の展開への指標・道標になろうかと考えている。

平成31年新春

藤田泰太郎