第四部 古墳時代前期・中期

■第四部 古墳時代前期・中期

1.古墳時代前期(3世紀中旬~5世紀初頭、邪馬台国終結期+三輪王朝)

 古墳時代の始期は巨大な前方後円墳が造られ始めた時期とされる。従って、3世紀後半始めの最古級で巨大な前方後円墳である箸墓古墳の造営をもって古墳時代が始まったとする。箸墓古墳には邪馬台国の卑弥呼(孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命)が葬られている。前方部が途中から撥型(ばちがた)に大きく開く墳形であり、吉備様式の特殊器台が後円部に並んでいる。箸墓古墳に続く時期に造られた西殿塚古墳も箸墓の様式を踏襲しており、卑弥呼の後継者の台与の墳墓と考えられている。これら2基の邪馬台国終結期の前方後円墳に続くのが、崇神天皇に始まる三輪王朝の歴代天皇の巨大な前方後円墳である。これらの古墳は、奈良市にある宝来山古墳(垂仁天皇陵)を除いて、天理市・桜井市の大和・柳本古墳群にある。三輪王朝の後にヤマト王権に権力交替があったと思われ、成務天皇陵や神功皇后陵並びに垂仁天皇妃(日葉酢媛)陵などは、奈良市の佐紀盾列古墳群にある。なかでも、日葉酢媛陵の墳形には丹後の古墳の影響が強く出ている。その後、所謂応神東征といわれる、応神天皇を掲げた神功皇后軍(神功皇后・武内宿禰・建振熊)の東征により仲哀天皇の皇子(香坂王・忍熊王)が誅殺される。この内乱により古墳時代前期が終わり、河内王朝が始まる。

 神武東征譚の主たる部分は崇神東征譚と思われ、特に吉野から宇陀に侵攻し大和へ侵入するところが要となる。崇神軍は南韓(半島南部)と北九州を束ねる任那・伊都国連合からの東征軍であり、中臣氏、大伴氏や久米氏を同伴していた。崇神軍は大国主の子孫であるナガスネヒコ軍と激突する。ところが、物部氏を率いるウマシマジ(ニギハヤヒ(孝霊天皇)の子)がナガスネヒコを裏切り謀殺する。このため、ナガスネヒコ軍は一気に崩れ、崇神は大和侵入に成功する。崇神軍は 和邇氏を取り込み、大和の大国主勢力を一掃し、さらに葛城に向かい、賀茂氏を山城に追い落し、高倉下(ニギハヤヒの子の天香久山)を尾張に行かせた。また、出雲勢力を挟撃するため、ウマシマジを石見に派遣し物部神社を創建し、また天香久山を越後に行かせ弥彦神社を建てた。鎮魂祭は、皇居のほか、物部氏ゆかりの石上神宮、物部神社、弥彦神社で執り行われるが、この鎮魂祭は崇神東征で敗北した大国主を中心とする出雲勢力の鎮魂を図ったものであろう。この出雲の国譲り(葦原中国平定)で、最も功績のあった神は、中臣氏の祭神の建御雷と物部氏の祭神の経津主神とされ、それぞれ鹿島神社と香取神社の軍神となっている。建御雷は、飛鳥時代に権勢を振るった藤原氏(中臣氏の後継氏族)の出雲の国譲りでの活躍を示す目的で創作されたものであろう。

 崇神東征により、邪馬台国の政権は伊都国・任那連合に奪取され、ヤマト王権が誕生する。とはいえ、近江北部・美濃を中核とした狗奴国勢力(大国主勢力)が残存していた。葛城勢の武埴安彦王と妻の吾田媛が謀反を起こした。吉備津彦が吾田媛を破り、大彦命と彦国葺命は武埴安彦を破った。この開化朝の争いの結果、崇神天皇と大彦は安定した政権基盤を築けた。崇神天皇は、北陸道、東海道、西道(山陽道)と丹波(山陰道)のそれぞれに大彦、武渟川別 (大彦の子)、吉備津彦および丹波道主王命(日子坐王の子、『古事記』では彦坐王)を派遣し諸国を平定した。また、出雲神宝を管理していた出雲振根の不在中に弟の飯入根が神宝を奉献する。出雲振根は怒って飯入根を殺す。ヤマト王権は吉備津彦と武渟河別を派遣して出雲振根を誅殺する(出雲神宝事件)。垂仁朝の五大夫は、彦国葺命 (和邇氏)、武渟川別 (阿倍氏)、大鹿嶋 (中臣氏)、十千根 (物部氏) および武日 (大伴氏)であり垂仁天皇を支えた。

 開化朝の彦座王は、妻の息長水依比売(台与)を卑弥呼の後継にし、狗奴国との抗争を鎮めた。また、彦座王は、丹波道主王命(台与との子)とその娘の日葉酢媛命(垂仁の皇后)および狭穂毘古と狭穂毘売(彦座王の子、狭穂毘売は垂仁の妃)らの丹波・近江勢力を纏め、崇神系の大彦の勢力と対抗したと思われる。その当時、丹後に巨大な前方後円墳が造られたが、これは彦座王の権勢を反映したものと思う。垂仁朝に狭穂毘古が反乱を起こしたが敗北し、妹の狭穂毘売は兄に殉じた。この反乱の結果、彦座王勢力は衰退していった。景行朝に日本武尊は西征し、熊襲建を謀殺する。さらに東征し、駿河、相模と上総を制し、反転して尾張から伊吹山に向かい神の化身と戦うが深手を負い大和への帰途亡くなる。これは、伊吹山は狗奴国の神奈備で狗奴国の残存勢力のために敗死したと考える。狗奴国は成務朝で滅び、ここにヤマト王権による倭国平定が完遂した。

 崇神東征とは邪馬台国からの大国主勢力の根絶であった。崇神の御代に疫病が流行り政情が不穏になり、天皇は御殿で天照大神(卑弥呼をも表象)と倭大国魂(大国主の荒魂)の二神を祀ったが政情は回復しなかった。そこで、大田田根子を祭主として大物主神(大国主の和魂)を祀り、市磯長尾市を祭主として倭大国魂神を祀ることで、疫病がはじめて収まり、国内は鎮まった。また、神託により垂仁天皇の皇女倭姫命が天照大神を祀る伊勢神宮内宮を創建している。さらに、垂仁天皇と狭穂毘売の間の誉津別皇子が物言わないのは、出雲大神の祟りと思われた。天皇は皇子を出雲に遣わし、大神を拝させると皇子は話せるようになった。尚、大国主は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」としていたが、これに従って出雲大社が造られた。

 ヤマト王権による倭国平定が終わる4世紀後半になると倭国軍の南韓への展開が活発化する。中国は五胡十六国の大分裂時代で、この時期、高句麗や百済も華北や江南へ進出する。倭国軍が百済と高句麗に進出する中、369年、百済王世子奇生は倭王に友好のため七支刀を送る。384年には、新羅からの朝貢がなかったので、葛城襲津彦が新羅討伐に派遣された。391年は、倭国は百済・新羅を臣民化し、409年高句麗に攻め込むが広開土大王(好太王)に大敗する。これらの倭国軍の南韓への侵攻が、神功皇后の「三韓征伐」に当たるのではないか。応神天皇を掲げた神功皇后軍により仲哀天皇の皇子(香坂王・忍熊王)が謀殺される。この内乱により河内王朝が誕生する。

2.古墳時代中期(4世紀末から5世紀、応神天皇~

   武烈天皇)

 応神天皇の東征により、河内王朝が樹立された。応神東征とは、河内の物部氏や中臣氏と結託した大山祇神やスサノオの流れを汲む息長氏出自の応神天皇の宇佐神宮からの東征である。成務朝の倭国の平定および応神東征により、倭国は隆盛期を迎え、倭国軍が強力な武力を背景に南韓に進出するとともに、壮大な前方後円墳の建造を含む大土木事業が活発化する。また半島や中国との交流も日本海経路ではなく主として瀬戸内海経路をとるようになる。最大級の前方後円墳は、河内の古市・百舌鳥古墳群の誉田御廟山(応神陵)、大仙(仁徳陵)や上石津ミンザイ(履中陵)で、その当時地方の有力豪族(吉備、日向や毛野)も巨大な前方後円墳を築造した。その後、倭国の勢力下にある南韓の栄山江流域に前方後円墳群が造られた。また、古墳の石室が竪穴式から横穴式に変遷する。古墳時代後期(6世紀)になると古墳の規模は縮小へと向かった。

 応神天皇の母の神功皇后の「三韓征伐」のように、河内王朝になる頃から倭国軍の朝鮮半島進出が盛んになった。それに伴って半島からの渡来人が目立ってきた。応神朝には、百済より和邇吉師(王仁)が渡来し、『論語』と『千字文』をもたらす。また、葛城襲津彦や倭軍の精鋭の助けにより新羅の妨害を排し、弓月君(秦氏の先祖)の民が百済より渡来した。この頃、海部(あまべ)、山部などの土木技術者も渡来した。これら渡来人の助けで大堤や巨大古墳を築くなどの大型の土木工事が行われた。仁徳朝には、大阪湾沿岸部の河内平野一帯で、池・水道・堤などの大規模な治水工事が行われた。また、難波の堀江の開削を行って、現在の高麗橋付近に難波津が開かれ、当時の物流の一大拠点となった。

 この時期につくられた倭製の土師器、青銅器あるいは滑石の祭器が、伽耶と称される南韓の慶尚南道や全羅南道の墳墓や集落遺跡から発見されている。一方、倭においても、伽耶製の陶質土器や、鉄艇と呼ぶ半島製の鉄製の短冊形の鉄素材の出土量が急増している。さらに、河内王朝では、従来の古墳に埋められた埴輪などの素焼きの土師器に加えて、ろくろを使い成形し高温で焼く須恵器が造られ始めた。

 大阪府の陶邑窯跡群で生産された須恵器が前方後円墳分布域の北端と南端にまで運ばれている。また、牧畜が一般化し、平郡氏が王権の馬の管理に携わった。尚、允恭天皇は、氏姓の乱れは国家の混乱を招く原因になりかねないと考え、氏・姓の氏姓制度を整えた。この允恭の施策によって、貴族・百姓の身分的序列化が成し遂げられた。

 倭の五王とは、『宋書』倭国伝などに記された、中国南朝に遣使した倭王「讃、珍、済、興、武」(「梁書」では讃=賛、珍=彌)を指す。この5人が歴代天皇の誰にあたるかは、『古事記・日本書記』から推定すると、済=允恭天皇、興=安康天皇、武=雄略天皇と考えられる。しかし、残る讃、珍については、讃=応神天皇または仁徳天皇あるいは履中天皇、珍=仁徳天皇または反正天皇など諸説がある。以下、倭の五王の外交年表。413年、讃 東晋・安帝に貢物を献ずる(『晋書』安帝紀、『太平御覧』)。421年、讃 宋に朝献し、武帝から除綬の詔をうける。おそらく安東将軍倭国王 (『宋書』夷蛮伝)。425年、讃  司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる (『宋書』夷蛮伝)。430年宋に使いを遣わし、貢物を献ずる (『宋書』文帝紀)。438年、倭王讃 没し、弟珍 立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める (『宋書』夷蛮伝)。4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする (『宋書』文帝紀)。443年 済  宋・文帝に朝献して、安東将軍倭国王とされる (『宋書』夷蛮伝)。451年、済 宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される (『宋書』倭国伝)。7月、安東大将軍に進号する。(『宋書』文帝紀)。462年、宋・孝武帝、済の世子の興を安東将軍倭国王とする (『宋書』孝武帝紀、倭国伝)。477年、興没し、弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する (『宋書』夷蛮伝)。478年、武 上表して、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする (『宋書』順帝紀)(「武」と明記したもので初めて)。479年、南斉の高帝の王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号 (『南斉書』倭国伝)。502年、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する (『梁書』武帝紀)。

 讃(履中天皇か)、珍(反正天皇か)や武(雄略天皇)は、自らを「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、宋の皇帝に正式に任命を求めている。皇帝は、百済だけは倭国の支配下であると認めず、他の南韓は倭国の領域であることを認めている。このことは、南韓は縄文時代中期から倭人(西日本縄文人)が住み、倭の勢力下にあったが、百済だけは後年、漢や魏の強い影響下にあったことを、倭王のみならず南朝宋の皇帝もまた認識していたからだと考える。

 5世紀後半の河内王朝の政変は雄略天皇(倭王武)の登場と関係すると思われる。雄略天皇は、平群氏、大伴氏や物部氏の力を背景に、軍事力で専制王権を確立した。天皇の次の狙いは、連合的に結び付いていた地域国家群をヤマト王権に臣従させることであった。葛城、吉備などの諸豪族を制圧したことが『記紀』から伺える。西都原古墳群(宮崎県)では、5世紀前半になって女狭穂塚古墳や男狭穂塚古墳のような盟主墳が出現するが、これら盟主墳は5世紀後半以降途絶える。河内の王家と密接な関係のあった淀川水系有力首長系譜(大阪三島の安威川、長岡や南山城の久世系譜)が、5世紀前半に盟主墳を築き全盛期を迎えるが5世紀後半にはこれらの系譜は断絶する。この政変により、新たな系譜が巨大な前方後円墳を築き始める。熊本県菊池川流域の江田船山古墳の系譜、埼玉県の稲荷山古墳の系譜、群馬県の保渡田古墳群の系譜などである。とりわけ、江田船山古墳と稲荷山古墳からは獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)の文字を刻んだ鉄剣が出土している。なかでも、稲荷山古墳からの鉄剣には、古墳の被葬者オワケの7代前はオオヒコノミコトと記されており、大彦命は崇神朝の四道将軍の一人である。雄略天皇の武威が関東・九州におよんでいたと推定される。その後の武烈天皇は、大伴金村に命じて恋敵の平群鮪を殺害し、その父真鳥の館に火を放って焼き殺してしまう。ここに平群氏は討滅される。

 対外的には、462年、倭軍が新羅に攻め込んだが、将軍の紀小弓が戦死してしまい敗走した。475年、高句麗が百済を攻め滅ぼしたが、翌年、雄略大王は任那から久麻那利の地を百済に与えて復興させた。この他、呉国(宋)から手工業者・漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招き、また、分散していた秦民(秦氏の民)の統率を強化して養蚕業を奨励した。479年、百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子未多王に筑紫の兵500をつけて帰国させ、東城王として即位させた。兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。このように、雄略朝では、倭国は百済と協力し、新羅に当たりまた高句麗の圧迫に対抗した。