邪馬台国

■邪馬台国


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 倭国の女王卑弥呼が都とした邪馬台国。三世紀の日本列島を記したとされる中国の史書『魂志倭人伝』に登場する邪馬台国は、どこにあるのでしょうか。弥生時代は、稲作が始まり、稲籾の蓄えができるようになったことから、多くの蓄えをもつ人ともたない人がうまれた時代です。そして、蓄えをはじめとする力をもつ人は、権力のシンボルとしての青銅器をもち、そのなかから地域の王がうまれました。北部九州に位置する末慮国・伊都国・奴国では、早くから地域の王が出現し、弥生時代の終わりには、伊都国の平原遺跡のような多くの鏡・玉・剣をもつ弥生王墓がつくられます。つづく古墳時代前期には、近畿地方三輪山麓周辺に前方後円墳がつくられはじめ、巨大な箸墓古墳や、多くの鏡を副葬する黒塚古墳などが姿をあらわします。



 九州と近畿を舞台に、最新の発掘成果にもとづいて、弥生時代中期以降の青銅武器、鏡などの考古資料をもとに、弥生王墓の出現から前方後円墳の成立にいたる、邪馬台国をとりまく。『魂志倭人伝』は、倭国が乱れるなか、各地の主に共立されて、女王卑弥呼が誕生したと伝えます。弥生時代の王たち、そして古墳時代の扉を開いた弥呼が生きた激動の時代

■邪馬台国への道

 「邪馬台国」。三国志魏書東夷伝倭人の条、通称『魏志』倭人伝に「女王が都するところ」として初出するこの言葉は、たいへん魅力的な言葉であるとともに、手ごわい言葉である。その所在地をはじめとする様ざまな問題について、多くの人びとが関心をもちながら、いまだに決定的なことがわからない西谷正氏の近著『魏志倭人伝の考古学・・邪馬台国への道』では、現在の考古学的な成果をもとに、具体的に『魏志』倭人伝にみえる国ぐにを各地に比定された。この著述に啓発され、改めて九州と近畿の発掘調査成果をみると、弥生時代前期末から後期青銅器・鉄器は圧倒的に九州から出土している。近畿はもとより、日本列島を見渡しても、九州に匹敵する地域はない。

 前期末〜中期初頭、九州で出土する青銅の武器は、細形で切っ先や刃が鋭いことから、実際に武器として用いられていたのであろう。中国大陸、朝鮮半島からもたらされた青銅の武器は、それまでの石の武器とは比べようもない強力な武器であり、これを手にした人はその力を一層大きなものとし、剣はともに墓へ副葬された。その後間もなく中期半ば頃から、剣、戈(か・ほこ)、矛(ほこ・両刃の剣に長い柄をつけた大昔の武器)の武器の多くは倭国で生産され、幅が広く長大になり、刃の鋭さも失せていく。この変化は、実用の武器から、祭りの道具としての武器への変化とみられる。現在は錆びて黒色や緑色になった剣、戈、矛も、弥生時代中期前半、2200〜2100年前頃は金色に光り輝き、海や山川、森林、水田に囲まれた自然の中で生きる弥生人にとって、まぶしく自然に対峙する畏怖すべきものとして、ムラの祭りで用いられたのであろう

その後弥生時代中期後半(BC50~0)には、青銅の武器の他に中国大陸、朝鮮半島からもたらされた漢代の鏡が、力をもつ人に好まれ、大量の鏡が北部九州に流入し、またそれを模して生産される。数多くの甕棺の中で鏡、玉、剣が副葬された甕棺の存在は、その頃にはムラが統合し、小さなクニの王がうまれたことを示す。

 王の周辺では青銅器やガラス玉などの生産、そして交易が行われた。多数の鏡が集中する弥生時代後期桜馬場(さくらのばば)遺跡や弥生時代後期末の平原(ひらばる)遺跡は生産や交易を掌握した傑出した王の存在を示唆する。しかし、出土遺物をみる限り、九州では平原遺跡を頂点として、その後日本列島の中での優位性を近畿にゆずる。

 近畿では、弥生時代後期、青銅器や鉄器の出土数は遠く九州に及ばない。鏡を割った破片である破鏡や国産の小型鏡や玉類をもつにとどまる。弥生時代中期後半の加美遺跡Yl号墓は26×15mと墳丘は大きいものの副葬品は円環状銅釧(どうくしろ)、ガラス玉にとどまる点からも明らかである。

 しかし、古墳時代前期、庄内式と呼ばれる二世紀後葉から三世紀に入ると、奈良県三輪山麓に、まきむく纏向型前方後円墳と呼ばれる長さ100m前後の古墳が点在し、そして三世紀中頃から後半頃、長さ278mの巨大な前方後円墳である箸墓古墳が姿をあらわす。そして周辺には黒塚古墳、桜井茶臼山古墳など画文帯神獣鏡三角縁神獣鏡など鏡を大量に副葬する古墳がこの地に集中する。3世紀前半のある短期間のうちに、新たな中枢の地が近畿、三輪山麓へと移るのである。その周辺には纏向遺跡が広がり、関東から九州にかけての広い地域の交流が出土土器から読み取れる。その頃九州では、三輪山麓で出土する鏡と同じ三角縁神獣鏡が出土するものの、古墳の大きさや鏡の数は、もはや近畿の比ではない。

 2世紀後半の倭国大乱後、多くの主に倭国女王卑弥呼が共立されたと『後漢書』倭伝は伝える。女王卑弥呼の姿を、九州と近畿の考古学資料から現在どこまで追えるのか。文字の広がりがない倭国では考古資料の担う役割は大きい。

▶︎文字との出会い

 『魂志』倭人伝には、景初 3年(239)に「銅鏡百枚」などを「録受(ろくじゅ)」する、すなわち目録とあわせて受け取ることや、正始元年(240)魏皇帝の「詔(みことのり・上から下に告げしらせる)がもたらされ、また「上表」することあることから、3世紀中頃、卑弥呼など倭王周辺では、文字が習得され、使われていたようだ。

 文字は、一つの権力が、一定の地域を治める場合、必要不可欠なものである。権力の意志を、治める地域の末端まで正確に伝え、思想、制度を一定のものとするためには、伝聞ではなく書かれた文書が大きな役割を果たす文字の有り様は、国として、どこまで整っているのかを知る重要な視点となる。(文書記録の原則)

 飛鳥時代以降、律令制度が整い、文字を正確に理解し、書き、解釈し、伝える官僚組織が定着することから、日本列島では文字が広く用いられたようだ。それ以前の古墳時代には、熊本県江田船山古墳、埼玉県稲荷山古墳、千葉県稲荷台一号墳などで銘文のある刀剣がみられ、地方の首長層では文字の広がりがあったであろう。

 弥生時代には、「漢委奴国王」と記された金印をはじめ、銘文のある鏡などに文字は存在したが、多くの弥生人はそれを文字と認識するにはいたらなかった。そうした弥生時代に存在したとみられる文字資料の中で、興味深い二例をとりあげる。

 ひとつは、奈良県東大寺山古墳から出土した後漢の年号「中平(ちゅうへい)」(184〜189年?)銘をもたつ大刀である。東大寺山古墳は、玉類、石製品、武器、武具などが出土しており、四世紀中頃の古墳と考えられている。「中平」銘大刀は、金象嵌銘文が背にある100㎝余りの大刀で、やや内湾し、花形あるいは鳥形で飾られた環頭(かんとう)がつく。

 こうした金象嵌の紀年銘を入れた鉄刀は、現在、日本に類例はなく、中国においても元嘉3年(153)、光和7年(184)、永初六年(112)の鉄刀、建初(けんしょ)2年(77)の鉄剣が知られるのみで、たいへん稀少なものである。漢・魏の朝廷から外臣の王に対して刀剣が与えられることはままあり、倭王卑弥呼に対しても、景初3年(239)に贈られた品目に五尺刀二口がみられる。

 『後漢書』倭伝によると、卑弥呼は、後漢の桓帝(かんてい)、霊帝(れいてい)の間(147〜188年)にあった倭国大乱後、共立され、女王になった。この大刀は新女王にとって、後漢の朝廷の威を示す大切な品物だったのかもしれない。

 もうひとつは、福岡県三雲遺跡で出土した弥生時代後期末の、刻書のある土器である。

 平川南氏は、刻苦を甕の口に沿って文字を横に刻したと判断し、五世紀後葉の宮崎県持田二五号墳京都府幡枝一号噴出土鏡の「火竟」の「竟」字と比較が検討され、画数の足りない「省画(しょうが)」という考え方のもと、刻書は一文字で、鏡の周囲をめぐる銘文中の「竟」の字を不確かなままに刻んだものと考えられた。

 これに対し久米雅雄氏は、刻書を横書き、二文字とし、右から左へ読む場合、二文字目は「」であり、一文字目は「」と考えられた。中国の古代文字の歴史をたどるとき、『説文解字』などにみられるように、「」字は左右逆に 「」 と表記される実例が多いためである。刻書土器と同時期の中国文字資料を縦覧された結果、刻書は「味」「口」と読み、「味」の「口」は軍門で明誓(めいせい)し、和議を行う和平の意、「口」は神への祈りの文でのりとある祝詞を入れる器の形、すなわち「味」「口」は、「軍門の前での購和盟約のための祝祷を収める器」の義と理解された。

 卑弥呼が女王となり、景初3年(239)に魏国へ遣使し、金印「親魏倭王」印を授与される頃、伊都国(いとこく)王都三雲で「味」「口」の刻苦土器が出土することは、女王国、倭国の政治、軍事、外交上の権力の中心である伊都国祭祀の一面を物語る。

 近畿と九州で出土する二例から、二世紀後半から三世紀前半の伊都国とヤマトの姿を垣間見ることができる。