忌野 清志郎(いまわの きよしろう、本名:栗原 清志〈くりはら きよし〉、1951年4月2日 – 2009年5月2日)は、日本のロックミュージシャン。RCサクセションを筆頭に、忌野清志郎 & 2・3’S、忌野清志郎 Little Screaming Revue、ラフィータフィーなどのバンドを率い、ソウル・ブルースを下地にしたロックサウンドを展開。RCサクセションの「KING OF LIVE」からの流れで、KING OF ROCKの異称を取った。
少年時代からバンドデビューまで
東京都中野区生まれ、国分寺市育ち。みふじ幼稚園を経て国分寺市立第二小学校に通う。小学生時代は漫画に熱中し、自作の漫画を近所に住んでいた吉田竜夫に見てもらったこともあった。国分寺市立第三中学校時代にエレキブームに刺激を受け、ベンチャーズなどのカバーバンド「No Name」を結成、音楽活動を始める。
1966年初頭、フォークブームに刺激を受け、同級生でバンド仲間だった小林和生(のちの林小和生)、桶田賢一(のちの破廉ケンチ)と共に「The Clover」を結成するが、東京都立日野高等学校進学に伴い、活動は停滞する。尚、高校の同級生に三浦友和がいる。高校時代、忌野はサイケデリック・ミュージックの流れでビートルズやザ・バンドを聞き込んでいたが、ジョン・リー・フッカー好きの友人の影響で、ブルースに傾倒するようになる。その後、バンドの解散/再編(The Clover→「The Remainders of The Clover」→「The Remainders of The Clover Succession」、1968年に「R.C.サクセション」に定着)を繰り返す。
忌野という名前の由来は、当時見ていたTVアニメ『マイティ・ハーキュリー』の中で、鉄仮面に対する「あの忌まわしい鉄仮面」というナレーションから拝借している。
1970年、フォークグループRCサクセションとしてシングル「宝くじは買わない」でデビュー。1972年、シングル「僕の好きな先生」が小ヒットしたものの後が続かず、また事務所関係のトラブルが発生したこともあり、長期にわたってバンド活動は低迷する。その間、忌野は井上陽水との共作「帰れない二人」「待ちぼうけ」(ともに『氷の世界』収録)、かぐや姫への作詞提供「あの唄が想い出せない」(『はじめまして』収録) などの印税で糊口を凌いだ。
人物・音楽性
標準語(東京方言)のイントネーションにこだわった楽曲製作が特徴で、曲先の場合でも、イントネーションがおかしくなった場合はメロディを修正してでもイントネーションを正しくするという手法を取っていた。また、促音を強調し、日本語のメリハリを強調するという発声法を1970年代半ばから続けていた[6]。日本語をはっきり明瞭に歌うというスタイルはのちに甲本ヒロト(ザ・クロマニヨンズ)、どんと(BO GUMBOS)、中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン)、YO-KING、宮本浩次(エレファントカシマシ)などのフォロワーを生む。
サウンド的なルーツは主にビートルズ、日本語の1960年代のフォーク、オーティス・レディングを筆頭としたソウル・ブルース系のミュージシャンで、多くの楽曲で彼らのオマージュを行っている。ライブにおいてジェイムス・ブラウンのマントショーを再現することもしばしばあった。前述の促音を強調をするきっかけになったのがオーティスの「ガッタ、ガッタ」シャウトだったり、「愛しあってるかい?」のフレーズがオーティスのMCからの意訳だったりと、オーティスからの影響は非常に強く、忌野自身も最も影響を受けたミュージシャンの一人としてオーティスの名を挙げている。1991年にはスティーブ・クロッパープロデュースでアルバム『Memphis』を製作、翌1992年にはBooker T. & THE MG’s(元オーティスのバックバンド)とツアーを行った。2006年にはオーティスの足跡を辿るドキュメンタリー番組をきっかけにスティーブと再会し、スティーブのプロデュースでアルバム『夢助』を製作した。
RCサクセションの停滞時期に、行き詰まって複雑なコード進行の曲ばかり作ってしまう悪循環に陥っているという反省から、たとえシンプルなコード進行の曲であってもロックのダイナミズムを持つローリング・ストーンズの楽曲研究を重ねた。のちに『RHAPSODY』で結実。RCサクセションのロックバンド化と並行しての作業だったことから、当時のライブパフォーマンスなどにも強い影響を及ぼした。
歌詞の転機は少なくとも「雨あがりの夜空に」を書いた時(当時の事務所に下ネタをズバズバ言う人が多く、彼らの影響を受けた)。
「サマータイムブルース」を書いた時(忌野の父親[当時すでに故人]の誕生日にチェルノブイリ原子力発電所事故が起こったことから反原発の歌詞を書いた)。
『COVERS』製作の時(母親の遺品整理の際に第二次世界大戦中の恨みつらみが書かれた日記を発見し、それを読み強い衝撃を受け、反戦・反体制の歌詞を書くようになる)。ただし、いかにドギツイ歌詞の場合も高田渡のように諧謔精神を忘れなかった。
ミュージシャン間の交流
THE ALFEE – 3人がブレイクする前からの知人である。特に坂崎幸之助は忌野のモノマネを得意としており、トリビュートコンサートに出演した際、彼のモノマネを披露している。ただし、桑田佳祐からテレビでアルフィーとのセッションを依頼された際、忌野は「ヤダよ! 俺はアルフィーなんぞとやるのは。俺にも友達がいる。あんな奴らとテレビで仲良くしているところを見られたら、なんて言い訳すりゃいいんだ? アルフィーにとっちゃ俺と共演することにはメリットあんだろうけど、俺にはなんの得にもならないよ」とセッションを断った経緯があり、忌野自身はアルフィーを認めていなかった節があるが[9]、その後坂崎とはラジオ・テレビなどで何度も共演していることから、考えを改めた可能性もある。奇しくも忌野の死去した2009年5月2日には坂崎の実父も亡くなっている。
泉谷しげる – RC・古井戸・泉谷の3組は、デビュー前から、同じライブハウスの常連。RCの曲「あきれて物もいえない」の「どっかのヤマ師」は、彼のことを歌っている(泉谷は当時まったく売れなかった忌野を励ますためわざと軽蔑していたらしい)。忌野の死に真っ先にコメントを寄せたのも彼であり、「あいつの死を受け入れることはない」と沈痛な思いをのぞかせた。忌野への尊敬の念から、ときおり忌野を「忌野さん」と呼びながら語ることがある。
春日”ハチ”博文 – カルメン・マキ&OZのメンバーとして知られている。70年代半ばを過ぎたころから、RCにギターとしてたびたび参加。エレキ化していくRCの発展に一役買った。RC末期にもドラムとして参加している。口癖は「つうかさぁ〜」と「思うにィ〜」。
GO-BANG’S – 1983年に結成され地元である札幌市を拠点として活動していたが、親の転勤によりメンバーの森若香織が東京に行くことにより、バンドは自然消滅状態に。バンドの記念として自分たちの曲をテープに録ってライブハウスに残したものを、たまたまプライベートで札幌に居合わせた忌野が、このライブハウスを訪れテープを聞き、放った一言「いいじゃん!!」がきっかけでデビューとなる。先に東京に住んでいた森若以外のメンバーを、忌野が呼び寄せる形で、東京での活動が始まる。まだアマチュアバンドだったGO-BANG’Sのデモテープ制作や演奏方法に、RCサクセションのメンバーも色々親身になってアドバイスし、後に「これがプロデビューに大きなきっかけになった」と森若は語っている。
ザ・クロマニヨンズ – 甲本ヒロトと真島昌利はTHE BLUE HEARTS、THE HIGH-LOWS、ザ・クロマニヨンズを通して忌野のステージにゲスト参加するなど、交流を持っている。ハイロウズ時代には、忌野清志郎30周年記念RESPECT!のステージで「テクノクイーン」を演奏した。また、甲本は忌野の「REMEMBER YOU」でダブルボーカルをとっている。渋さ知らズ – 忌野と親交のあるミュージシャンが多くかかわっており、2004年1月10日のライブ(DVD『ALLD OF SHIBUSA』に収録)では、忌野もほら貝とボーカルで参加。
ジョニー・サンダース – 伝説的なパンクバンド、ニューヨーク・ドールズの元ギタリスト。RCのアルバム『COVERS』にゲスト参加している。ジョニー・サンダースの最後となったライブをたまたま見に行っていた忌野は、ステージに上げられてアンコールを1曲共演した。ジョニー・サンダースは、その数週間後に死去。
ソウル・フラワー・ユニオン – メンバーの中川敬、伊丹英子、奥野真哉、高木克がRCサクセション、タイマーズのファンであったことを公言しており、現在追悼の意を込め「ぼくの好きな先生」をライブレパートリーにしている。一時ライブで「国王ワノン一世の唄」「金もうけのために生まれたんじゃないぜ」などをカバーしたこともある。ソウル・フラワー・アコースティック・パルチザンのリクオは2・3’Sのライブメンバーでもあった。
竹中直人 – 俳優。忌野、仲井戸の大ファンで映画のみならず、ステージでも度々共演を果たしている。ブレーク前からの友人でもあり、付き合いは長く深く、竹中がホスト役を務めるラジオ番組にも、忌野や仲井戸は度々ゲスト出演し、忌野は病気療養中にも出演していた。古井戸ファンの竹中は、藤原ヒロシと結成した古井戸のコピーバンド「高井戸」でも活動を行っていた。忌野の本葬では、弔辞を読み上げた。De-ga-show – 片山広明と林栄一を中心としたフリー・ジャズ・バンド。忌野は、同バンドの2作目『続デ・ガ・ショー』のライナーノーツを執筆し、「俺も参加させろ」「片山、なんで俺をさそわないんだよ」と書いたところ、本当に共演アルバム『Hospital』を発表する運びとなった。
トータス松本 – ウルフルズのボーカリスト。デビュー直後から、忌野の影響を公言。楽曲を度々カバー、ライブでも共演するなど、親交は深い。
間寛平 – プライベートでも交友があり、2001年のミニアルバム「ジャングル野郎」では忌野から曲を提供された。レギュラー出演している「探偵!ナイトスクープ」では、忌野を連れて探偵レポートをしたこともある。2006年2月25日大阪城ホールで行われた忌野主催のロックンロール・イベント「新 ナニワ・サリバン・ショー」では、シークレットゲストとして登場した。間は、アースマラソン中に電話で忌野の訃報を知り、あまりのショックに大声で泣いた。
氷室京介 – BOØWY結成前に参加していたバンドに嫌気が差し、辞めて帰郷することを決意したが、帰る前に日比谷野外音楽堂で行われたRCのライヴを観て、「もう一度バンドをやろう」と思い直した。そして布袋寅泰を誘い、結成したのがBOØWYである。
ヒルビリー・バップス – 楽曲「バカンス」を忌野から提供された。なお、同バンドのVo.宮城宗典の自殺後に行われた追悼コンサートでは、「いなくなったヤツよりも残された人のために」という名言を吐いて忌野自身がこの曲を歌い上げた。
ブッカー・T&ザ・MG’s – 忌野が尊敬する、オーティス・レディングのバックバンドとして活躍。また、単独でもインストゥルメンタル作品を発表している、世界的に評価されているバンド。忌野のソロアルバム『MEMPHIS』のバックを担当し、ツアーも行った。その後も忌野は、ギタリストのスティーヴ・クロッパーと親交を深めて行き、彼をプロデューサーとして迎えた『夢助』などを発表している。
ブルーデイ・ホーンズ – 梅津和時、片山広明によるホーンセクション。両人は、多彩なソロ活動を行いながらも、RC及びソロ転向後の忌野と活動を共にする。
三浦友和 – 俳優。中学時代からの友人で、東京都立日野高等学校でも同級生。デビュー前のRCに参加しパーカッションを担当、その後も三浦はRCサクセションのライブに飛び入り出演したり、発売禁止となったアルバム『COVERS』にも参加していた。毎年1~2回は忌野が酒を持って三浦の自宅を訪ね、夜通し酒を酌み交わして、旧交を温めていた。
森川欣信 – オフィスオーガスタ社長。キティレコードのディレクターだったときにRCの『RHAPSODY』を手がけた。アコースティックトリオだった頃からのRCの大ファンであり、忌野とは公私に亘って親しい。連野城太郎のペンネームで『GOTTA! 忌野清志郎』を執筆した。
矢野顕子 – 度々共演している忌野の友人。以前は、ニューヨークと日本でファクスでのやり取りをしていた。近年は、矢野の「ひとつだけ」をよくデュエットしている(スタジオ・アルバムでは、矢野の『はじめてのやのあきこ』(2006年)に収録)。矢野の楽曲「湖のふもとでねこと暮らしている(DOWN BY THE LAKE, LIVING WITH MY CAT)」(『LOVE LIFE』収録)はRCのナンバー「山のふもとで犬と暮らしている」のアンサーソングと言われている。また、矢野は忌野のことを歌った「きよしちゃん」という楽曲もステージで披露している(忌野の死後、『音楽堂』(2010年)に収録)。月刊カドカワで連載されていた「月刊アッコちゃん」では、早朝に「起きろー!!」と大書きされたファクスが送りつけられていたエピソードを紹介している(角川文庫刊・「月刊アッコちゃん・峠のわが家編」に掲載されている)。また、「最近、連続紙使用(相手方の記録紙がなくなるまで)を編み出したとか」というエピソードを紹介している。
山口冨士夫 – 日本の伝説的なロックバンド、村八分のギタリスト。度々ステージで共演したり、RCのアルバム『COVERS』にもゲスト参加している。吉田拓郎 – 1971年、吉田が定期コンサートを開催していたときによく前座を務めていたのがRCサクセションだった。忌野は当時、吉田が嫌いで出番が終わると顔も見ないで帰っていたという。しかし、吉田は忌野を「音楽の世界ではスペシャルな男、リハーサルとかに彼が入ってくるだけで雰囲気が変わる」と高く評価していた。吉見佑子がアルバム『シングル・マン』の再発に業界を奔走した時も、拓郎は「オレはRCが好きだ」と自身のラジオ番組でRCの曲をプッシュしていた。後に忌野は吉田に「こころのボーナス」(アルバム『ハワイアン ラプソディ』収録)を提供した。
主な事件
1982年6月14日、生放送番組「夜のヒットスタジオ」(第709回)にRCサクセションとして出演した際、曲の最中暴れまわったり、司会者とのトーク時より噛み続けていたガムをテレビカメラに向かって吐きかけるなどの悪ふざけをし、さらにそのことで視聴者へ謝罪する司会者の後ろで舌を出したり顔をしかめるなどしたことから、テレビ局に抗議の電話が殺到。その数は500件近くに上ると言われている。
1988年、東芝EMI から発売予定だったRCのアルバム『COVERS』が、原発問題を取り扱った歌詞などがネックとなり、急遽発売中止に。後にレコード会社を変えて、ようやく発売される(詳細は『COVERS』の頁を参照のこと)。
1999年、パンク・ロック風にアレンジした「君が代」を収録したアルバム『冬の十字架』がポリドールから発売される予定だったが、同年8月に国会で成立した国旗・国歌法を巡る議論に巻き込まれることを危惧した同社が発売を拒否。結局、販売をUKプロジェクトにしインディーズのSWIM RECORDSレーベルから発売される。
2000年、SWIM RECORDSレーベルから発売予定だったラフィータフィー名義の『夏の十字架』は、インディーズ商人の実態を揶揄した「ライブ・ハウス」という曲中で暗に批判されたライブハウス・下北沢QUEのオーナーが激怒、同店と系列関係にあるUKプロジェクトの逆鱗に触れインディーズからも販売中止という前代未聞の事態となる。奇しくも、同曲が批判するインディーズ業界の問題点が実証された形となる。同アルバムは、最終的にSWIM RECORDSから発売・販売される。
2002年6月1日、FM802開局13年記念イベント「JAPANESOUL」に三宅伸治と共に、それぞれ長間敏(おさまびん)、神田春(かんだはる)と名乗ったデュオ「アルカイダーズ」として出演。米国9.11テロに関連した曲を演奏したが、放送ではカットされた。