■リチャード・ロジャース・RICHARDROGRS
持続可能性のある建築建築は我々が常に接している芸術形態である。建築が我々の生活の質を高めたり低めたりするのは、我々のあらゆる日常的な経験・・・たとえそうした経験がありきたりであるにせよ、独創的であるにせよ・・・が生じる環境を形づくっているのが建築だからだ。建築が物議を醸すようになるのも、世間からもっとも広範囲に、もっとも激しく批判される芸術形態であるのも、驚くにはあたらない。
建築が我々の生活を包み込んでいるという特別な状態にあるため、必然的に建築には市民からの特別な警戒がなされ、社会には建築の質の意味を熟知した上で建築に指示を与えることが求められる。
(中略)社会や環境の持続可能性への責献が建築に求められているため、建築家には自ら決めた任務以上の責任が課されている。
(中略)建物は都市にインスピレーションを与えるべきである。そして社会を賛美し、自然を大切にする都市をつくりあげるべきである。現在、我々が持続可能性のある建物を必要としていることは、我々に再び大志を抱かせ、芸術的な新しい秩序を生み出す機会をもたらし、建築という職業の復活にはずみをつけうることにもなる。
▶︎▶︎情報化され、コンピュータで管理されているタイムズ・スクエアと大英美術館を足して2で割つた建物で、人間と活動/展示の双方向の参画に重点を置いている◀︎◀︎
ジョルジュ・ポンビドーセンターが、エッフェル塔とルーヴル美術館の訪問者を合わせた数よりも多くの訪問者を魅了するのは、ポンビドー・センターでは実にさまぎまな活動が行われているからに違いない、とロジャースは語る。ファサードを横切るエレベーターに楽しく乗っていくことから、特別に設置された場所で静かに研究することまでいろいろな活動が可能なのだ。(写真上:ルナール通りから見た、ボンビドー・センターの西側立面。)
■ジョルジュ・ボンピドー・センター
GEORGES POMPIDOUCENTER
1967年から1976年まで建築事務所を共同経営していたリチャード・ロジャースとレンゾ・ピアノは、1971年にボンピドー・センターのコンペで最優秀となった。1962年からロジャースは、最初の妻であるスーと、ノーマン&ウエンディ・フォスター(ノーマン・フォスター夫妻)の4人で、「チーム4」の一員として設計の仕事を始めていた。
我々はあらゆる人々に好まれる建物を建てることにとても関心をもっていた。そのために1つの枠組みをつくり、最終的な形が定まらない建物をつくる方法を見出そうとした。最終的な形が定まらないというのは、建物の一部を今でも取り換えられるいう意味で、古典的なあるいはミース・フアン・デル・ローエふうの建物のように、何も足したり引いたりできない建物ではなく、竣工した日に形が定まったり、完壁になったりしない建物だ。融通の利く建物にすることがとても重要だった。その意味でボンピドー・センターは非常によく機能した。枠組みはリズムであり、その内部はソリッドでも半透明でも透明でも、処理能力の高い状態になっていれば構わない。部品もフォルムも各部門もすべて取り換えられる。この建物はこうした変更に耐えられるほど頑丈である。
人々とつながりの薄いモニュメントではなく、人々が使う場所。コンペに提出した書類には、ボンピドー・センターがパリやその周辺に関する情報を発信する中心として実際に機能する場所にすべきであると記した。(中略)情報化され、コンピュータで管理されているタイムズ・スクエアと大英美術館を足して2で割った建物で、人間と活動/展示の双方向の参画に重点を置いている。
我々はボンピドー・センターの設計において(中略)万人に受け入れられる施設をつくろうとした。すなわち、子ども、観光客、地元の人々、学生、社会人、利用者、通りすがりの人々などである。よそよそしい美術館ではなく、活気のある交流がなされる公の場をつくりたいと考えた。