被災地を駆ける

■被災地を駆ける

坂 茂

 阪神淡路大震災で大火災が発生し、今(1995年10月)では建っている建物の方が少ない神戸市長田区鷹取。この鷹取の災害救援活動の拠点であるカトリック鷹取教会に、9月17日、紙管を柱にした集会所が出来上がった。

 建築家・坂茂氏(坂茂建築設計代表)がこれまでに開発してきた「紙の建築」の技を使い、300人以上のボランティて教会の信徒、神父と力を合わせてつくり上げたものだ。

 教会の聖堂があった場所に建つこの建物、あくまで集会所として建てられた仮設建築でありながら、端正な内部空間には神秘的な雰囲気さえ漂う。一体どのようにしてつくられたのか。

▶︎建築家としてできることは何か

 「弁護士や医者が社会に貢献しているように、建築家も社会に貢献できることがないかとずっと考えていた」と設計者である坂茂氏は語る。震災で神戸が壊滅的な打撃を受けたと聞き、またカトリック鷹取教会が復興の拠点の一つになっていると聞いて、いてもたってもいられなくなり、すぐに神戸へ出かけたという。

 坂氏は、以前から紙管を利用した建築づくりに取り組んでいる。昨年からは、悲惨な状況が伝えられたルワンダの難民のために、紙管を使ったテントを国連難民高等弁務官事務所に提案、具体化に向け奔走してきた。

 「被災地では衣が足り食が足りると、やはり住の充実が重要になってくる。ルワンダの難民用テントの経験を生かして神戸の役に立てないかと考えた」と坂氏。そこからこの紙の集会所のアイデアが生まれた。

▶︎最初は相手にされず

 カトリック鷹取教会主任の神田裕神父とは、震災の混乱の中で出会った。「初めは紙管を使って仮設集会所をつくりたいと提案しても相手にもしてくれなかった」と坂氏。だが、それには理由がある。「まち全体が復興もしていない、教会の信者さんもテント生活をしているというのに、教会だけが立派な建物を建てることなどとてもできない」と神田神父は当時の思いを述懐する。

 「毎月2度くらい教会に通い、ミサに参加した後に私の考えを神田神父に話した。教会ではなく、この鷹取周辺に住む人々のためのコミュニティの中心になる建物を建てたいんだと。2カ月後くらいにようやく私の思いを理解してくれた。震災の後には色々な申し入れがあるもの。だから信用されるのに時間がかかるのは当たり前」と、坂氏は語る。

▶︎紙とテントでつくる神秘的な空間

 仮設集会所を建てる企画にゴーサインが出たのは4月に入ってからのことだった。

 「ぜひボランーティアの手だけで建てたい。重機も使いたくはなかった」と坂氏。そのためには学生を集めやすい夏休みに施工しなければならない。

 新しいデザインや構造を考えて設計する時間がなく、既にやったことのある構造を元にデザインしたという。建物の主要構造体となる紙管は直径33 ㎝の太いもの。それを59本楕円形に並べた。初めは長方形のプランの短辺が正面になるようにデザインしたが、皆が一つのところを向くようにしたいということで、長辺が正面になるようにした。

 紙管を奥は密に、手前は人が通れるくらい疎に並べることで、外部空間との一体的な使用もできるよう考恵した。床材としては、建設現場で余ったインターロッキングブロックを無料で提供してもらった。

▶︎多くのボランティアが応援

 紙管を、ポリカーボネート樹脂の波板をはめた鋼製粋が取り囲む。「この集会所はミサを行う空間としても使われる。紙管に囲まれた空間のさらに外側に別の空間をつくることで、外部空間との緩衝的な空間をつくった」。

 屋根として張られた白いテント膜から明かりが差し込み、昼間は随分明るい。夜はテントから光が漏れる。

 施工は7月末から9月上旬にかけ、300人以上のボランティアを集めて行われた。あくまで仮設ということで、建築確認などの手続きはとっていない

 「まず、気を使ったのが安全対策」と坂氏。もともと事務所の所員が1人常駐して監理を行う体制にしていたが、人が足りず、同時並行で進めた紙のログハウスT22ページ)の監理も含めてう人が常駐した。

 ボランティアのとんどが建設作業など初めての大学生や高校生ばかりだったため、ヘルメットの着用や、特に足場に上がっての高所作業では気を使ったという。

1.基礎の配筋の様子:この見開きの写真‥坂茂建築設計、平井広行二

2.紙管の搬入が遅れたため、鋼製枠を立てながらの作業となった

3.コングノートの基礎にケミカルアンカーを打って、木製ジョイント材を固定する

4.紙管は直径33mのものをう9本用意した。紙管1本の重さはううkgと軽く、重横を全く使わずに人手で立てることが叶能だ

5.いよいよテント張り。まず中央のポールを設置する・。中央のポールにテントをかけ、周開から徐々にテントを引っ張る

6.垂木の聞から野地板を引き上げる17野地板を垂木に固定する作業:安全のためヘルメット着用などは徹底した18床は建設会社が現場で余ったインターロッキングブコクを提供してくれた

9完成した建物を見下ろす

 「事故があればそれだけでこのプロジェクトは挫折する。それどころか教会に迷惑をかけてしまう」とあって、無事立ち上がったときにはほっとしたという。

 完成したのは9月10日。この日、建設に携わったボランティアたちによってささやかなパーティが開かれ、この建物は「ペーパー・ドーム・たかとり」と名命された。こけら落としは9月17日、震災から8カ月後のことだった。

▶︎工費1000万円も善意から

 建物は完成したが、問題は費用だ。建設費用ほ全部で約1000万円、このすべてを義援金で賄いたいと坂氏は東奔西走した。ボランティアの募集も兼ねた講演会を2度開き、多くのボランティア団体に援助金の申請を出した。中には韓国からの援助もあったという。だが、それでも1000万円にはまだ足りていない。「事務所の所員の常駐費などはみな持ち出し。でもこれで皆が喜んでくれるのなら、満足」と坂氏は語る。


■1996「一般の人のために働くのは自分を磨くトレーニングだ」

▶︎ボーダレス時代の建築家の生き方を模索する

▶︎坂さんは神戸で建てた紙の建築が評価され、1996年1月、関西建築家大賞を受けました。受賞のコメントで「医者や弁護士が自然に社会的貢献ができているのに、建築家は何かできないのか。

▶︎自分なりに建築家としての使命感のあり方を模索している方向が、間違いでなかったと励まされた」と話されていた。坂さんにとって建築家の社会的貢献とはどんなものですか

 社会的貢献という風に大げさに考えてはいないのですが、アメリカの学校から日本に帰ってきてみると、日本の建築家の社会的地位はなんと低いのだろうと痛感しました。

 なぜ低いのか。最初は「日本では建築家の歴史が浅く、建物を建築家が建てているという認識が一般の人にないからだ」と思っていました。

 でもよく考えるとそうじやないのですね。単純に、医者や弁護士に比べて建築家は一般の人のために何の役にも立っていないからだとわかったのです。

 我々建築家は一般的に作品づくりに走りがちで、モニュメントをつくりたいと、思っていますね。それは悪いことではない。建築の歴史上もそうしたモニュメントが街の素晴らしい遺産になつていますし。ただ、僕はそれだけではないと思うんです。

 医者や弁護士には、例えばオウム事件の坂本さんのように社会派弁護士の入っていますね。赤ひげ的な医者もたくさんいる。建築家もどうしたら一般の人たちの役に立てるのか。

 建築家に設計を依頼してくる人というのは、どっちかというと豊かな人が多い。そうでない残り大半の人たちは、建築家と付き合ったこともない、建築家に何ができるかもわからない人たちがほとんどです。

 元々建築家というのは19世紀までは、例えば貴族とかお金持ちとか特権階級のために働いていた。しかし20世紀に入ると、産業革命が起き、都市に多くの人が住み、あるいは戦争で家を失う人も出てきた。そして、建築家は集合住宅の設計や工業化住宅の開発などを始めたのです。

 コルビュジェやミースといった巨匠でも、近代建築のスタイルの確立という業績以外に、一般大衆のためのローコスト住宅の提案を盛んにしている。モニュメントづくりと同時にそういう住宅の仕事を始めたのが、近代建築のひとつの側面でしょう。

 我々もただ作品づくりだけでなく、一般大衆の役に立つ仕事も両立させていくべきだと思うのです。

▶︎神戸で紙の建築を建てたのも、同じ気持ちからだったのですか。

 そうですね。神戸の前に、アフリカのルワンダでも難民キャンプの仕事を始めていました。

 94年の夏にルワンダの難民キャンプ肺炎が蔓延し始めたというニュースを聞き、紙管を使った居住性能の良い難民用シェルターの建設を、ジュネーブの国連難民高等弁務官事務所に提案しました。最初はコストの問題などで拒否されたけれども、別な観点で興味を持たれました。

 つまり、難民たちはシェルターをつくるため、木を切ってフレームを組み、そこに国連から支給されたシートを張るんです。ルワンダ近辺だけで200万人以上の難民が押し寄せて木を切り始めた。この森林伐採が深刻な環境問題になり、国連も因っていたので、木の代替材科に紙管がいいのではないかと考えられたのです。

 僕は何度も自費で往復し、ヨーロッパで協力工場を探すなどしました。95年3月にやっと、紙管による緊急用シェルターの開発が正式プロジェクトに採用され、僕は高等弁務官事務所のコンサルタントになったのです。

 そこへ、今度は神戸で大地震が起きた。僕は「神戸でもなんとか力になれないか」と思いました。たまたまテレビで長田区の鷹取教会にべトナムの元ボートピープルの人たちが信者で集まっているというニュースを聞き、行ってみたのです。神父さんに紙の教会を提案して最初は拒否されたけれど、少しずつ親しくなつて実現できたんですね。

▶︎普段から「こんな方向で」というイメージはあったのですか。

 一般大衆との接点は住宅問題だと思っていた問題意識は持っていても、どうしていいかわかりませんでした。ただ、ルワンダや神戸のように具体的に何かできそうな場があって、行ってみると、実際に自分が必要とされたり、いろんな問題点が発見できるんですね。

 我々と一般大衆の接点の一番は、住宅問題だと漠然と思っていました。大衆のための住宅を、数だけでなく質の問題を解決しながらつくるのは、建築家しかできない仕事でしょう。

 ルワンダでも神戸でも、水や衣料、食料が落ち着いてくると、最後に残るのは住宅問題です。そこに対して援助する機関は世界的に少ないのです。医療活動をするボランティアのNGO(非政府組織)はあっても、建築関係のNGOはないですね。行政の手の及ばない部分を建築家がやっていくのが大切だと思っていました。

▶︎建築家ならではの見方で問題点がつかめ、それがチャンスにつながるのですね。

 ええ。神戸では、第二弾の活動として、仮設住宅脱出用ローコストアパートの開発を始めました。行政がいくら公的住宅をつくつても、圧倒的に足りないのは文化住宅、昔の木賃アパートです。それが建たないと、仮設住宅に住んでいる多くの人は戻ってくることができない。

 そこで今度は「家具の家」といって、家具を構造体とするプレハブ工法を開発して、ローコストの文化住宅をつくろうと思っています。

 かつてアパート経営していた人家さんに会い、「設計料もいらないし、公的な助成金を出してもらって、安く建てよう」と。その代わり家賃も安く設定し

▶︎「そこまでしなくても、通常の設計業務でクライアントヘの奉仕を通して、社会に貢献していればいい」という考え方もありますが。

 日常的な業務で良いものを提供するのはもちろん必要なことです。ただ、先ほど言ったように、建築家に設計を頼むのは、どちらかというと恵まれている人でしょう。

 そちらはそちらで、より良いものを安く提供するよう頑張るべきだと思います。だけど、それをやっているからといって、社会貢献しているかというと、やはり特権階級に貢献しているとしか言いようがない

 そうでないもっと多くの人たちは、建築家に頼む機会もなく、建築家が何をできるかもわからない。力においてマイノリティー、数においてマジョリティの人です。そこの仕事をどうするか。やはり、こちらから提案していく必要があると思う。

 地震で家を失って「どうしよう」と困った時に、彼らが建築家の存在を知らなければ、プレハブのモデル住宅のようなところに行くしかない。でも、もし建築家が「一緒にやりましょう」とアプローチして何かすれば、「そんな風にできるのか」と、みんな耳を貸してくれますよ。

 やっぱり我々が怠慢というか、一般の人とコミュニケーションしていないんですよ。建築家に頼み得る特権階級の人としか仕事していない。

▶︎一般の人たちに提案しても稼ぎにつながるとは限りませんね。そこはどう覚悟しておきますか。

 稼ぎにはなりません。国連のコンサルタントにしろ神戸にしろ、自分の使っている時間から言えば、ペイしないどころかマイナスです。

 だから、分けて考えるべきだと思うんです。ビジネスとしてやる設計業務と、一般の人のための仕事。片方は少しプラスだけれど、片方はマイナスをつくる。でも、建築家としての蓄積とかトレーニングのために両方とも必要だと思います。

 頼まれた設計業務だけやっていると、実務経験はつくけれど、それは建築家の資質のほんの一部です。それ以外に磨くべき資質もたくさんある。その意味で一般社会のために仕事をして持ち出しになるのは、自分に対する投資だと考えています。

▶︎どんな資質をトレーニングするのが-番犬切だと考えますか。

 自分のやっている仕事にどれだけ客観性や必然性を持たせることができるかです。

 デザインがうまいとか下手というのは、あまり力がないと思いますね。歴史も文化も、趣味も違う人たちに対して「この方がデザイン的にいい」なんて話は、説得力を持たないでしょう。どこに行っても人を説得するためには、自分の仕事に必然性と客観性がないとだめです。

 僕が紙の建築を始めた10年前は、環境問題を口にする人は誰もいなかった。僕は単純に、弱い材料を弱いなりに、経済的に使おうという興味でやってきただけで、はやりすたりで取り組んだわけではありません。でも今、全世界が環境問題に直面するようになり、僕のやっていることが説得力を持ち始めているんですね。

 我々は日常的に外国の仕事をしていかなければならない世代だと思います。上の世代の建築家は、まず日本で有名になって、外国で展覧会をやる。そして外国から少しずつ仕事がきた。展覧会では日本的なものを強調して見せたりする。

 しかし僕らの世代以降は、もうそれを売り物にする世代ではない外国でも日本でも対等に仕事して、自分を売り込んでいかなければならないと思います。力を持ち始めているんですね。

 2年前、ルワンダで紙のシェルターを提案する前から、何か働きかけていたわけでもない。ただ、人間や技術の交流は、どんどん国境がなくなっていくだろうと感じていました。僕の力が身の回りで生かせなくても、別な場所で生かせればいい。それがたまたまルワンダだっただけです。どこでもだれに対しても説得力を持ちたい

▶︎これからの活動はどんな方向で展開していこうと思いますか。

 一つは、災害救助のための建築家やエンジニアの組織をつくれないかなと考えています。 イギリスにはRED “R〟(Registerd Engineer for Relief)もといって災害救助のための登録技術者の団体があります。災害時に、そこがふさわしい技術者を派遣する。彼は会社から有給休暇を与えられる。僕はまだ力不足ですが、そんな団体をつくれればいいなと思っています。