震災避難所に「紙の家」を無償提供

■震災避難所に「紙の家」を無償提供

 2004年10月日日に発生した新潟県中越地震によって避難所での生活を余儀なくされている被災者のために、慶応義塾大学、長岡造形大学などの建築系研究室が協力して避難所内に紙の家を建てる運動を進めている。11月8日には、避難所となっている長岡市内の長岡大手高校の体育館に1棟目を設置した。

 この「紙の家」は、建築家の坂茂慶大教授が発案、慶大の研究室を通じて、被災地に近い長岡造形大学ほかに協力を呼びかけて実現した。坂教授は阪神淡路大震災の時に、外国人被災者用の仮設住宅「紙のログハウス」や神戸・鷹取教会の集会場、「紙の教会」を設計するなど、紙を使った建築で知られている。

▶︎4畳半の小部屋を避難所内に設置

 長岡造形大環境デザイン学科の新海俊一研究室山下秀之研究室ほかが、避難所生活を送る被災者に対して実施した聞き取り調査では、長期にわたる大空間での生活にストレスを感じている人が多く、「プライバシーの守られる空間が欲しい」「夜間でも照明を使える勉強部屋が欲しい」「女性用の更衣室や洗たく物干し場が欲しい」「子供の遊び場が欲しい」といった要望が挙がったご」の結果を踏まえ、4畳半の小部屋を避難所内に組み立てる構成とした。

 床や壁には厚さ朝mの畳サイズの紙ハニカムボード小屋組みとまぐさには、45mm❌95mm、厚さ3mmの角紙管を使用。屋根には厚めのロール紙を張った。開口部には木綿の布を垂らし、必要に応じて外部からの視線を遮断できる。

 材料費は1棟当たり3万円程度。材料の購入、運搬など設置にかかる費用は義援金で賄い、避難所への設置は無償で行うという。

 11月21日には長岡高校と長岡明徳高校の避難所に新たに2棟を設置した。また、ながおか市民センター内「地球広場」にも展示し、避難生活者に向けて活用を呼びかけている。

 長岡造形大の新海俊一助教授は「今は避難所が過密なので物理的に難しいが、仮設住宅の建設が進んで避難所で生活を送る人が減り、スペースに余裕ができれば、ある程度まとまった数を建てることも現実的になるだろう」としている。 長岡大手高校の体育館に建てた1棟目は、被災者の子供のための遊び場所、通称「こどもの城」として使われている。設置から1カ月たった今では、外側の壁に折り紙を貼るなどして飾り付け、室内は子供らしい落書きにあふれている。「紙」ならではの効用だ。


■2008 四川大地震復興支援 成都市華林小学校管仮説校舎・仮設住宅

▶︎試作した仮設住宅を前に質問に答える坂氏、右隣の松原氏は講演で、日本の防災対策などについて紹介した

 2008年う月12日に発生した四川大地震。9万人近い死者・行方不明者を出す惨事に中国は震撼した。家屋や学校施設の倒壊で、住民は生活のよりどころを失った。

 地震発生後すぐに被災地を見て回り、救援活動に名乗りを上げた日本の設計者がいる。坂茂氏と松原弘典氏だ。坂氏は教授、松原氏は准教授として慶応義塾大学で教える身。地震後に坂事務所で設計を進め、研究室の学生と紙管を用いた仮設住宅の建設プロジェクトを立ち上げた。

▶︎西南交通大学と足並み合わせる

 坂氏は世界各国の被災地で仮設住宅を建設している。四川大地震では、北京で設計事務所を主宰する松原弘典氏が、現地との窓口役となつた。

 6月26日、坂氏と松原氏は被災地の成都市にある西南交通大学で、仮設プロジェクトに関連して講演会を開いた。終了後は、研究室の学生と西南交通大学の学生が構内に製作した実物大の仮設住宅を前に聴衆のの質問に答えた。

■西南交通大学で会見する坂氏と松原氏

 仮設住宅は中国政府の指示の下で供給するため、建設には手続きの面で課題が残っている。一方、このプロジェクトがきっかけで成都市教育局から依頼を受け、成都市華林小学校の仮設校舎建設が決まった。松原氏は「政府は被害がひどいところから優先的に対応しており、見た目の被害が少ない成都の学校は後回しになっているようだ」と話す。9月1日の完成を目指し、8月3目から両研究室と現地の学生が協力して小学校を建設する

仮設住宅の施工風景。日中の学生がタッグを組み、5日程度で完成した。日本から現地に飛んだ学生は4人。レタン塗装した紙管も日本から運んだ。壁はべニヤで作成。これまで坂氏が手掛けた仮設住宅と比べても、かなり堅固なつくりだ


■2011 東日本大震災 津波支援プロジェクト 避難所用間仕切りシステム・山形市・岩手県大槌町 

山形市総合スポーツセンターで仮設間仕切りを設置する様子(2011年4月3日カーテンを開ければ、開放的な空間にもできる。紙管で柱と梁をつくり、木綿の布で間仕切りをつくる。家族ごとのプライバシーを確保できる。坂茂氏が考案した。2004年の新潟県中越地震や05年の福岡県西方沖地震でも同様のシステムを使ったが、そのときよりもジョイントなどを簡素化した.梁部分はハンガー掛けとしても利用されている。下は間仕切りの組み立て方法

 東日本大震災の直後、40万人以上の人々が学校や体育館など公共施設に避難していた。2011年4月20日時点でも、全国の公共施設に避難する人は10万人を超える。

 長引く避難所での生活を少しでも快適にしようと、仮設間仕切りを供給しているのが、坂茂氏の運営するボランタリー・アーキテクツ・ネットワーク(VAN)だ。使用する部材は、紙製の筒と木綿の布、ガムテープなど。1辺が2mの紙管で柱と梁をつくり、梁に布を通してカーテンにする。1㎡当たり1500円程度で設置できる。

▶︎接合は穴に差し込むだけ

 坂氏は2004年新潟県中越地震や05年の福岡県西方沖地震の際にも、こうした簡易間仕切りシステムを設置する活動を行った。今回はより簡易なものにすべく、従来使っていた合板のジョイントやロープでの筋交いを不要にし、穴に差し込むだけのつくりにした。専門家でなくとも簡単に設置できる。

 東日本大震災では、3月24日に宇都宮市で活動を開始。4月20日までに新潟県長岡市や山形市、岩手県大槌町など8カ所以上の避難所に設置した。費用はVANなどに集まった募金で賄(まかな)う。

山形市総合スポーツセンターで間仕切りを設置した直後の様子。同センターには、福島県などから最大1086人が避難していた。4月20日現在、293人避難生活を続けている。2岩手県立大槌高校体育館の夏の様子。夏は蚊帳(かや)バージョンに。異常発生したハエの対策として効果を発揮。好評だという。

 大槌町など8カ所以上の避難所に設置した。費用はVANなどに集まった募金で賄う。

 4月3日、山形県総合スポーツセンターでこの間仕切りシステムの設置に協力した東北芸術工科大学准教授の和田菜穂子氏は次のように話す。「間仕切りによって、プライバシーが守られ、安心感を得られる。カーテンの長さを調節することで寒さ対策ができる点を評価する声も多かった」

 設置から数日後、和田民らが再訪すると、ある家族は複数のユニットを家のように使用していた。田の字形の仕切りの半分は布団を引きっぱなしの寝室に、残り半分で食事を取ったり、日常生活を送ったりする場にという具合だ。当初は設置を希望しなかった家族が、調整用に置いておいた部材で、自ら間仕切りをつくつた例もあった。


■2011  「災害支援も失敗に学べ」世界各国の被災地支援を通して体得したもの

▶︎東日本大震災だけでなく、2011年2月に起こつたニュージーランド南部地震の被災地支援にも精力的に取り組んでいますね。大忙しなのではないですか。

 クライストチャーチの教会から連絡があったのは4月ごろでした。東北の被災地のことで忙しい時期だったのですが、向こうも結構ひどい状況だというのです。市街地にはレッドゾーンと呼ぶ立ち入り禁止区域があって、傷んだ建物が余震で崩れ続けている。大聖堂も、2月の地震の直後は修理して使おうと考えていたようですが、数カ月後に起こつた余震で大きく壊れてしまい、あきらめざるを得なくなったとのことでした。

 教会からのメールは、もし教会の建て直しに関わってもらうとしたらフィーと工事費はどのぐらい掛かるのかという問い合わせでした。僕は、災害支援はボランティアでやっています。工事費は、いくらなければ建てられないというものではなく、ある予算の中で設計するのですと伝えたところ、ぜひ来てほしいということになりました。

▶︎東日本大震災棲の日本では、ニュージーランドの被災地のことが報じられる機会が減りましたね。

 地震によるダメージの大きさは、犠牲者の数や被災建物の数だけで測ることはできません。経済的な被害規模では、東日本大震災が日本のGNPの6%であるのに対して、ニュージーランド南部地震は同国GNPの8%にも上るそうです。日本人が身近で起こつた東日本大震災のことを大変だと思っている以上に、ニュージーランドという国にとって大変な事態が起こつたわけですりしかも彼らは、28人の日本人をはじめとする多くの外国人が自国で亡くなってしまったことを、たいへん申し訳ないと思っているんですね。

 教会の再建は、地震の1年後である2012年2月までに実現することになつています。その時の儀式には日本からも大勢の遺族の方々が参列されるとのことです。

倒壊した大聖堂=クライストチャーチの大聖堂の敷地は、立ち入り禁止区域内にある。別の敷地で教会の再建を目指す二写真・坂茂建築設計

坂氏が設計する教会の模型内部=倒壊した大聖堂にあったローズウインドーをイメージして地元アーティストがデザインする大窓を設ける計画だ38㎝径の紙管を10cmの間隔を空けて並べる。開から日光が差し込む

▶︎教会の建物について詳細を教えてください

 仮設建築物という扱いではありますが、教会側は10年程度は使いたいようです。今のレッドゾーンに入れるようになったら、そちらに移すかもしれない。だから動かせるようにしておいてほしいと言われています。

 ですので、基礎はプレキャストコンクリートの板を地面に敷いて、その上に貨物コンテナを置くだけです。その上に紙管を立てます。高さは一番高い所で24mです。紙管のすき聞から内部に光が入るようになります。かつての大聖堂には有名なローズウインドー(円形のステンドグラス)がありましたから、それに似たものを取り付けようと考えています。

▶︎ニュージーランドで紙の建築をつくることは、問題いなく認められるのですか。

 仮設建築物であれば、紙管でもいいと言われています。ただ、ニュージーランドでは初めてのことなので、強度実験を求められています。

 偶然ながら、世界最大の紙管メーカーの工場がクライストチャーチにあります。ですから現地で材料を調達することができます。紙管は世界中どこでも簡乱丁に手に入る材料ですし、建材ではないので災害があっても値上がりすることがありません。

 今、フランスでもドイツでも紙の建築をつくつているのですが、実は、今の日本ではつくれないのです。かつては建築基準法の38条認定(特殊な材料や工法の認定)を取得して、つくっていました。しかし、この認定制度がなくなつてしまった。新制度の下で材料の認定を新たに取得するにはメーカーの協力が必要なのですが、彼らには商売になりにくいもののようで、難しい状況です

▶︎それで日本の被災地支援では、避難所の間仕切り材として紙管を使っているのですね。東日本大震災では、多くの避難所に間仕切りを提供しましたね。

 3月11日、僕はパリにいました。すぐに、避難所のプライバシーを守る間仕切りを供給する準備を始めました。どうせ日本のことだから、プライバシーが全くない悲惨な避難所が出来ることは想像がつきましたから。

 間仕切りの必要性に気付いたのは阪神淡路大震災(1993年)の時です。実際につくつたのは新潟県中越地震(2004年)の時が初めてでした。避難所に紙の家をつくつたのです。けれども、これはあまり適切ではなかったので、数軒しか実現しませんでした。

新潟県中越地震の避難所で坂氏がつくった間仕切i)二授乳室や更衣室、子供の遊び場として使われた

▶︎どう不適切だったのですか。

 家族の人数はそれぞれ違いますよね。避難所ではそのような家族がごちゃごちゃに雑魚寝(ざこね)している状況です。それを並べ替えて整理することなんてできない。ですから間仕切りは、簡単につくれるだけでなく、大きさもフレキシブルに対応できなければなりません。

 それに、この時は家の形にしましたが、ここまで閉鎖的にする必要もない、ということも分かりました。昼間は一緒にテレビを見たり、コミュニケーションをとったりしたいわけです。

 そのうち、福岡県西方沖地震(2005年)が起こりました。この時ほハニカム板をガムテープで留めて、床にもハニカム板を敷いただけの簡単なものをつくりました。

▶︎評判はいかがでしたか。

 結果的に、これでは十分なプライバシーが保てませんでした。高さ1mぐらいのこうした間仕切りは、避難している方々も自分たちでつくったりしています。ないよりはいい、という程度。このようなニーズは、避難所へ行って使い勝手を聞いたり見たりして初めて分かるものです。

 2回の経験を生かしてつくつたのが、紙管の柱と梁とを組み立てて、そこにカーテンを張るというものです。これだと開け閉めできます。紙管は長さを簡単に調節できますから、家族の大きさに自由に合わせられる。こうしたものを東日本大震災の前に考えてあったのです。

 震災直後、すぐにつくろうと思い、慶応義塾大学で教えていた時の研究室OBを集めました。

 紙管のサイズは1種類にした方が安上がりですが、あえて2種類にしました。そうすれば、太い管の方に穴を開けて、細い管を差し込むだけでいい。剛接合になるので、筋交いも要らない。

 体育館の間仕切りが3時間で出来ました。組み立てが簡単なので、避難している人たちも一緒につくりだすんです。隣の人と「境はこの辺かな」などと、コミュニケーションをとりながら。

▶︎成功ですね。

 これはうまくいきました。さらに夏は、蚊帳(かや)バージョンをつくりました。ハエが異常発生していて、弁当を広げるとわーつと寄って来る。これがないと食べられないんです「カーテンは要らないと言っていた人たちも、「この蚊帳なら欲しい」と。大人気でした。

▶︎間仕切りの材料代など、費用はどのように頼っているのですか。

 全部、義援金です。このような目に見える使い道に対してお金を出そうと考える人が、増えてきたように感じます。僕は世界中のクライアントにお願いのメールを送ったり、普段は出ないテレビやラジオなどにも出演したりして集めます。

 自治体にお金を出してもらうことは避難者が自分でつくれる間仕切りに考えません。許可をとらなければだめだとか、議会を通さなければならないとか言っていると、間に合いませんから。

▶︎多くの建築専門家が被災地支援に意欲を示し、アイディアを練った建築家もかなりいたはずですが、残念ながら成果に結び付いたケースはさはど多くなかったという

 ですから、僕らはまず現地で1ユニットでもつくったら、デモンストレーションをするようにします。警戒が厳しい避難所では中に入れさせてもらうことさえできず外の駐車場でやることだってあります。

▶︎海外の被災地も数多く経験されていますが、そこから日本が学ぶべきことはありますか。

 2009年にイタリア中部のラクイラで起こつた地震の後、活動していて驚きました。こんな手があるんだと。日本なら被災者のために、まず避難所を用意するところですが、ラクイラは違う。あっという間に、世帯の数だけテントを張ったのです。

 西洋人にとってのプライバシーは、日本人とは比べものにならないぐらい重要なんですね。たとえ暑くても、彼らはテントで世帯ごとに暮らします。日本の避難所のような所に何カ月もいるというのは、西洋人にはあり得ない。

 そしてその後、仮設住宅をつくるのかなと思って見ていたら、つくらないんですよ。恒久的なアパートメントを半年ぐらいで、あっという間につくり上げてしまった。

 その代わり、市街地は瓦礫の撤去も進まず、何の手もつけられていない復旧のプロセスが日本とはずいぶん違うのだと感じました。

 同時に、これは勉強になると思ったのです。確かに仮設住宅は安価に建設できますが、それをまたすぐ壊してゴミにしてしまうという問題がある。お金をちょつと上乗せして、避難している人たちに少し待ってもらい、恒久的な建物をつくれるのなら、そうした選択肢もあるのではないかと。

 また、ゴミ問題の関連でいうなら、こんなこともあります。阪神淡路大震災の後、仮設住宅をゴミにするのがもったいないからと、トルコに運んでいきました。それがどう使われているのかを僕は見に行ったのです。

 そうしたら、日本の仮設住宅は現地のものよりも仕様が良すぎて、不公平が生じてしまうという理由で、一般市民には与えられていなかったごく一部の特権階級が使っているわけです。

 きちんと現地調査せず、場当たり的に動くから、こんなところで日本の税金を費やしてしまうことになる。海外の現場から学ぶことはたくさんありますよ。

▶︎今後、どのような被災地支援をしていきますか。

 いつまでもプライバシーのない日本の避難所の間仕切りをつくり続けるようなことは、したくない。でも災害支援活動はライフワークとしてやっていきます。必ず災害はどこかで起こるのですから。


■2011 女川町仮設住宅 宮城県女川町

野球場の敷地に460人が入居する189戸の住棟を並べた。右奥に青いスコアボードが見える。使用後に原状復帰させるため、地中に埋設された透水管を破損しないよう輸送時の固定用ジョイントを溶接した鉄板の上にコンテナを置いた。外壁まわりは石膏ボードを二重張りするなどして3階建てで求められる準耐火構造に対応させた

 2011年11月6日、宮城県女川町のう階建て応急仮設住宅で入居が始まった。2階建てを含む住棟9棟は、コンテナを積層させたものだ。坂≠戊氏率いるボランタリー・アーキテクツ・ネットワーク(VAN)が提案した。

 

 「居住性の低い現在の仮設住宅は、日本人の忍耐力とおとなしさに頼ったシステムだ。十分な面積を確保するのは無理でも、もっと住み心地の良い建物はできる。居住性を高め、高密度化して生み出す空間をコミュニティ形成の場所に活用するなど、被災者の生活環境を改善すべきというメッセージを込めた」と坂茂氏は話す。

 敷地は、女川町総合運動公園の一画にある面積1万23202㎡の野球場だ。建物は、長さ州フィートの海上輸送用コンテナを市松に積み上げている。複層にしたことで、平屋であれば納まりきらない189戸を確保した。その結果、「仮設住宅の建設を予定していたうつの学校のグラウンドを潰さずに洩伯んだ」(女川町復興対策室都市計画係の小林貞二係長)。コンテナ製なので、使用後の移設や転用が容易という利点もある。

▶︎多くの寄付と協力を得る

 仮設住宅の基準に沿って設計した住戸は、6坪のワンルーム、9坪の1LDK、12坪のうLDKのうタイプ。これらを住棟内で混在させるよう配置している。

 住棟は9棟のうち6棟を3階建てにし、すべて2階建ての場合に比べてゆったりと配置した。「居住者同士が視線を気にせずに過ごせる。住戸の前に各戸1台の駐車場も設けることができた」と小林係長。さらに敷地中央には、マーケットやアトリエ、集会所という交流施設を建設した。

 市松に配したコンテナの間は、鉄骨フレームのみのコンテナに掃き出し窓を設置している。掃き出し窓を通してより多くの採光と通風を得るほか、そのまま外に出られるようにして外部とのつながりを高めた。

 室内の使い勝手にも目配りした。ハンガーレールや収納棚を各室に標準装備した。「通常の仮設住宅にはきちんとした収納がなく、居住者はバラバラな収納用具とあふれ出たモノのすき間に住んでいる。ここではあらかじめ収納棚を設置して、入居すればすぐ快適に暮らせるようにした」(坂氏)。

 マーケットは坂本龍一氏、アトリエは千住博氏の寄贈を得て建設。住戸内の収納棚はルイ・ヴィトン・ジャパンの寄付とmore Treesの木でボランティアが製作・設置した。こうした付加価値要素は仮設住宅の予算に含まれないので、外部協力者の力を結集して実現した格好だ。

▶︎見切り発車″の網渡りも

 着工までの経緯はこうだ。

 2011年4月19日に宮城県は、県内事業者や輸入材料を扱う住宅会社のリストを基に地元市町村が仮設住宅の事業者を選べる制度を始めた。リストに載せる事業者の公募を知った坂氏は早速、今回の施工を担当することになるTSP太陽と組んで4月28日に応募し、選定された。この段階で発注が約束されるわけではないが、仮設住宅を実現するには必要な手続きだ

 5月28日には安住宣孝町長(当時)へのプレゼンテーションを敢行ただし、「それ以前から坂さんは何度も提案のために町を訪れていた」と小林係長は振り返る。

 その後、VANは町と事前相談を重ねながら計画案を練り、6月30日に町長の内諾を得た。7月20日過ぎの町議会議決、3階建てに対する県の了解を経て、8月初旬の着工へとこぎ着けた。

 複層の建物は平屋に比べて外廊下や階段の工費が加わるが、1戸当たりの外構費は減る。建物と外構で1戸当たり700万円弱という建設費は、「建物300万円+外構150万円+断熱関連の追加費」という一般の仮設住宅と同等だ。

 計画の過程では「議決を待っていてはコンテナの発注が間に合わない。非公式でいいからOKを出してほしいと町長に依頼して見切り発車した。町長が腹をくくつてくれたおかげで作業を進められた」(坂氏)という綱渡りも。3階建て仮設住宅が実現した背景には、坂氏ならではのフットワークと地元首長の決断が欠かせなかった。


■2013 紙のカテドラル ニュージランド・クライストチャーチ

 2011年2月22日にニュージーランドで発生したマグニチュード郎のカンタベリー地震は、街のシンボル的な存在だったクライストチャーチ大聖堂に深刻な被害をもたらした。このことを受けて、新たな仮設のカテドラルを設計することになつた。

▶︎元の教会を幾何学的に分析

 ちょうど東日本大震災の対応で忙しい時期に連絡があり、現場を見に行った。現地で調達可能な紙管とコンテナを用いて、三角形の断面をもつ空間を形成することを考えた。平面と立面の形は、元の教会に対して幾何学的な分析をして、そこから出てきたジオメトリーを使った平面が台形で、後ろ側が徐々に狭くなつていくため、同じ長さの山林管を並べていくと天井高が段々上がり、祭壇の上が一番高くなる。壁(屋根)面はHP(奴曲放物線面)シェルのような曲面となる。

 入り口側の三角形のガラス面には、元の教会にあったローズウィンドウからの色とパターンをもとに再構成した:写真・資料=坂茂建築設計]民家のような建設風景‥紙管には防水が施してある紙管の中に集成材を入れて補強したら色とパターンをとって、ガラスにプリントしている。

▶︎紙管を集成材で補強

 クライストチャーチとオークランドに紙管メーカーの工場があったが、小さい工場だったため、十分な長さや構造材として必要な厚みがつくれないことがわかった。そのため今回は、地元の材料でつくることを重視して、その工場でつくれる紙管を使い、中に集成材を入れて補強することにした。

 クライアントからは座席数だけを指定された。最初は300人と言われたが、後から200人増えてしまったので、もともとあった大きなキャノピーに引き戸を入れて、ここに200人追加で座れるように調整した教会としての機能のほかに、イベントなどの使用も視野に入れている。

 敷地がなかなか決まらず、二転三転した。そのため着工が遅れたが、12年7月に着工。13年9月に完成披露式典が行われた。 (坂茂・談)