政治家・専門家調書

政治家・専門家の調書概要〈1〉 福島第一原発事故

2014年9月12日05時00分

 政府は11日、東京電力福島第一原発事故の政府事故調査・検証委員会の調査を受けた約770人のうち、第1弾として計19人の証言を公開した。菅直人元首相ら当時の政権中枢のメンバーらは、未曽有の過酷事故をどう振り返り、何を語ったのか。

調書は内閣官房のホームページ(http://www.cas.go.jp/jp/genpatsujiko/hearing_koukai/hearing_koukai.html)で公開

菅直人・元首相 「視察、現場と話すため」

菅元首相は2011年3月12日朝、第一原発をヘリで視察に訪れた意図や、東電本店に直接乗り込み、政府と東電の対策統合本部を立ち上げた経緯などを語った。撤退問題では、全面撤退との受け止めだったと強調している。

菅氏は視察を決めた理由について「福島原発の状況がなかなかコミュニケーションがスムーズにいかない中で、現場の責任者と会って話をした方がいいと判断した」と説明。官邸で当初説明役を務めた経済産業省原子力安全・保安院の寺坂信昭元院長を「ちゃんとした説明ができない」、東電の武黒一郎元フェローも「十分な情報を持っていなかった」と語っている。

本来ならば住民避難の司令塔となるオフサイトセンター福島県大熊町)が地震被害で機能不全になっており、菅氏は「(センターが)全部機能して動いていれば、必ずしも行くという判断をしていない」とも述べた。自ら赴いたことには、「放射性物質を使った実験ぐらいは学生実験でやったことがある。普通の文系政治家よりは理解できる」と理系の自負心をのぞかせている。

武黒氏が官邸の了解を得ていないとの理由で福島第一原発吉田昌郎元所長に海水注入を中止するよう求めた一件について「(海水注入で)塩が固まってくる。金属などに長期的に影響するという専門家の指摘はあった」としつつ、「緊急時だから、水がなくなれば海水しかない」と考えていたと断言した。

また、武黒氏の指示を無視して海水注入を続けた吉田氏については「立派だったと思う」と評価した。

「撤退」問題が浮上した直後、菅氏は東電に乗り込む。本店と第一原発をつなぐテレビ会議システムの存在を「初めて知った」といい、統合本部の設置は「非常に良かった。第一サイトと全部ツーカー」とした。

撤退問題では、東電側の意向は全面撤退と受け止めていたと繰り返し強調した。3月15日未明、官邸で海江田万里経産相枝野幸男官房長官から、東電が撤退の意向を打診してきているとの報告を受けたという。「経産大臣やほかのメンバーもそういう(全面撤退との)認識だった」といい、その場で「全部放棄することはできない」との意見で一致した。

東電の清水正孝元社長を官邸に呼んで面会した際、菅氏が清水氏に撤退を認めない旨を伝えると反論はなく、「やはり(全面撤退と)思っていたんだなと思う」と当時の感想を述べている。直後に本店に乗り込み「撤退したら東電はつぶれる」などと社員を前に発言したことを明かし「それ以来、撤退の話は全く聞かなくなった」と自賛した。

「後世の人たちに伝えたいことは何か」との事故調委員からの質問には「原発はちょっとやめておいた方がいい。世界にとっても」と明言。理由について「首都圏を含む3分の1に近いところはある期間住めなくなるリスクを考えた時、どんな安全対策をやっても、リスクを完全にカバーできる安全対策はあり得ない」と強調している。

<菅氏のコメント> 吉田調書と私の調書を重ね合わせれば、事実関係がはっきりする。撤退を最初に言い出したのは、清水社長であることが明らかだ。現場視察は住民避難を判断するため、現場と話す必要があった。所員の調書やテレビ会議の全面公開が必要だ。

枝野幸男・元官房長官 「東電社長、全面撤退求めた」

当時、官房長官だった枝野幸男衆院議員は、避難区域の設定といった事故対応のほか、首相官邸での記者会見を通じて、連日、原発の状況や放射線量などの説明にあたった。

枝野氏は、東電側が「一部撤退」と主張し、官邸側と証言が食い違う11年3月14日夜から翌未明にかけての原発作業員の撤退問題について、東電の清水元社長から撤退の了承を求める電話があったことを認めたうえで「間違いなく全面撤退の趣旨だったと、これは自信があります」と証言した。「ほかの必要のない人は逃げますという話は、別に官房長官に上げるような話ではないですから。勘違いとかはあり得ないですね」と述べた。

15日に、政府と東電の対策統合本部を設置した理由についても、枝野氏は「撤退問題が最後の決め手だと思います」と説明。「(菅直人元首相は)とにかく直接グリップしないと、どこまで行くのかがわからないということだったんだと思います」と述べ、「少なくとも実体としての東電に、当事者意識も能力もない」と強調した。

当時の記者会見で枝野氏が放射線の影響について「直ちに人体に影響を及ぼす数値ではない」と表現していたことについて「この間は急性被曝(ひばく)を気にしていました。急性被曝では全然問題になる数字ではないけれども、相当高いから累積被曝では問題になるということは自分でわかっていましたから」とその理由を説明した。

一方、官邸が炉心溶融メルトダウン)を把握しながら、隠していたのではないかとの指摘について、枝野氏は「(メルトダウンが)していない情報ばかりが入ってきているんです。メルトダウンしているという分析が上がってくれば、ちゅうちょなく説明しています」と強調。官邸の情報公開の姿勢について「データは全部出せということの認識はずっと一貫しています。それだけに、若干いろいろなところで言われていることについては、正直に言って不本意です」と述べた。

<枝野氏のコメント> 検証を国民的視点でやる上で、情報公開は大変喜ばしい。ただ、私の調書は私が求めた何倍もの黒塗りが政府によってされている。他の人も必要以上に黒塗りされている可能性がある。さらに情報公開が進むことを期待する。

細野豪志・元首相補佐官 「班目氏、もう手はないと言った」

首相補佐官として首相官邸で事故対応にあたり、政府と東電本店の統合本部に入った細野豪志衆院議員。最も危機感を募らせたのは11年3月14日の夜だ。吉田氏との電話で「常に『まだやれる』という返事だった人が、弱気になっていたから、本当にだめかもしれないと思った」。

翌15日未明、官邸では福島第一原発からの「撤退」が議論された。東電の清水元社長から電話を受けた海江田元経産相の理解は「完全に撤退すると解釈していた」と説明した。電話を受けた枝野元官房長官も同じ認識だったという。

「(東電元フェローの)武黒さんがしょんぼりして、もう何もできませんみたいな話をしたから、『あんた、責任者だろ。しょんぼりしていないで何か考えろ』と言った覚えがある」

さらに「あのとき班目(春樹・元原子力安全委員長)さんが、もう手はありませんから撤退やむなしと言った。一番の専門家だと思っていたから、本当に愕然(がくぜん)として」。しかし、菅氏を交えた会議で「瞬時に、撤退はあり得ないだろうという話になった」。

事故発生後、細野氏は菅氏に進言し、近藤駿介・元原子力委員長に依頼して最悪の事態を想定したシナリオを作成した。「これだけ最悪のシナリオを想定しても、現時点においては避難範囲が20キロで十分だということで、非常に胸をなでおろした」

しかし、シナリオは公表しなかった。その理由については「例えば2炉心分がすべて露出をした場合に10ミリシーベルトに達するのが70キロ。ただ、それに達するまでには、1カ月程度の時間がある」と説明した。

細野氏は菅氏の事故対応には「総理が政治家で、原災法上の指示権を持っているからこそ、できたことはある」と振り返る。ただ、発生直後に現場を視察することには反対だった。5月中旬に福島第一原発を訪れた際、吉田氏に視察がベントを遅らせたのではないかと確認したという。「総理が来ようが来まいがそのときはベントはとてもできなかったと聞いて、すごくほっとした」

海江田万里・元経産相 「事業者任せでいいのかと反省」

当時、経済産業相だった海江田万里民主党代表は事故直後、首相官邸に詰めて、菅氏らと対応にあたっていたが、東京電力本店などとのやりとりには混乱が生じていた。

政府は、11年3月12日早朝、原子炉の圧力を下げるため、放射線量の高い蒸気を原子炉の外に出すベントをすることを発表した。しかし、2時間以上たっても東電から何の報告もなかった。当時の状況について、「とにかく、何でベントができないのだろうかとずっと思って、とにかく現場に電話してみなければいけないというので、電話で何回かつなげたら、最後に吉田所長と連絡がついた」と振り返っている。

結局、ベントが成功したかはわからず、1号機は同日午後には水素爆発する。「ああいう緊急事態で、すべて実施主体を事業者に任せておいていいのかというのは、反省として僕はあると思う」と述べている。

14日夜から15日未明にかけ、東電が全員撤退を申し出たかどうかをめぐる清水元社長とのやりとりも詳細に語っている。当時、清水社長から受けた電話の内容について、「僕が覚えているのは『撤退』という言葉ではない。『退避』という言葉。第一発電所から第二発電所へ退避させたい」と語った。

海江田氏は、東電が退避を考えていることを、すぐに菅氏と枝野氏に伝えた。その時の退避の認識について「僕は全員だと思った」という。吉田氏が現場から離れるつもりはなかったことについては、官邸に「伝わっていないですね」としている。実際、この後、東電への不信感から、菅氏らと東電本店に乗り込んだ。

また、当時の退避の状況については、「あのとき何かいろいろな混乱があったらしいですね。あのとき間違って全員出ようとしたとかという話もまたあるのですね。それはちょっと、現場の話でないとわかりませんけれどもね。バスが来て、みんなそこで乗り込もうとしたとか、それはいろいろあるらしいですね」と推測している。

<海江田氏のコメント> 私たちが経験したのは我が国、世界にとって未曽有の原子力災害だった。私たちがどう対応したのかを明らかにすることを通じて、二度とこうした悲惨な原子力の事故が起きないよう、そのための糧としてもらいたい。

福山哲郎・元官房副長官 「炉が不安定、屋内退避を選択」

原発事故で住民避難策の中心を担った福山哲郎元官房副長官の調書からは、首相官邸が事故の初動対応時に、当初から広域避難を検討しながら、原発近くの住民の避難を最優先し、原発の状況悪化のたびに避難指示区域を広げていった経緯が読み取れる。

政府は11年3月11日午後9時23分、原発から半径3キロ圏内に避難を指示。その後、1号機格納容器の圧力が上がり爆発の危険性が示されたため、12日午前5時44分に対象を10キロ圏に拡大。午後3時36分には1号機建屋で水素爆発が起き、政府は午後6時25分に避難対象を20キロ圏に拡大した。

この際の意思決定を、福山氏は「一遍に20キロにすると、一気に避難の人数、人口が増えます」「遠い人たちが逃げるとそこで渋滞する」「リスクがある近場の人が逃げ遅れる可能性がある」と説明した。

15日午前6時過ぎには4号機の建屋で爆発が発生。政府は午前11時、20~30キロ圏の6万2千人に対し、避難ではなく屋内退避を指示した。福山氏は「逃がすのに何日ぐらいかかるかという議論をしたら(中略)4~5日かかると」「炉の不安定な状況の中でいつ爆発するかわからないのだったら屋内退避にしようという判断をした」と語った。

一方、政府は事故から1カ月経った4月19日、県内の学校施設の利用基準を年間の被曝線量20ミリシーベルト以下と定めた。

調書では、福山氏はその際の政府内での議論について、「10(ミリシーベルト)にしろという議論がありました。大人よりも子どもの方が小さい、(中略)半分くらいにすべきではないかと」と明かしている。

この前の4月11日、政府は原発から20キロ圏外に避難指示区域を設定する際の基準を年20ミリシーベルトと定めていた。このため福山氏は、「10にしたらほかに絶対波及します。ほかの市町村がうちは10を超えているのにいいのかと絶対に言い出します」「やはり社会不安をあおらないということも並行して重要だった」などと、整合性や社会的影響を考慮した点も述べている。

<福山氏のコメント> 事故がいかに過酷であったか、実態がよく伝わるだろう。今後の原発政策に大きな教訓となる。当時の住民避難や事故対処のオペレーションについての反省が、原発再稼働の準備が進む中で生かされているかどうか、改めて検証が必要だ。

長島昭久・衆院議員 「米国側、非常に困っていた」

長島昭久・衆院議員は、主に米国側との調整を担当した。情報不足や4号機の燃料プールについて、米側が強い危機感を持っていたことを証言している。

12年2月2日の聴取によると、11年3月18日に日本に派遣された米原子力規制委員会(NRC)の人たちが東京電力に来た。「どこへ行けば正確な情報が入るのか、どこで意思決定されているのかがなかなかつかめない。非常に困っているということだった」

その後、米国のルース元大使らを交えて会談したが、米側が最も関心を持っていたのは4号機の燃料プールの状況だった。「使用済み核燃料のストックされているプールが地震によってもう崩壊している。その影響で水素爆発が連鎖的に起こっているというような見立てだった」

後で振り返ると、燃料プールはしっかりしていたし、米側は過度な疑いを持っていたという。

「断片的な情報しか出てこないのは、もしかしたら隠していると思ったかもしれない。日本側には当時そんな隠す意図はなかったと思う。SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)以外は」と証言している。

池田元久・元経産副大臣 首相の視察「まずいのでは」

現地対策本部長として福島に出向いた池田元久・元経済産業副大臣は、菅直人元首相が11年3月12日、福島第一原発を視察したことについて、「これは困ったな。全体の未曽有の災害対策としてはまずいのでは」と証言した。

津波被害で行方不明者の数も分からない状態。「人命救助は72時間が鉄則。72時間はしっかりと人命救助に努力すべきだと」「通信手段もあるし、東京にいた方が事故対応がしやすいのでは」と振り返った。

福島に来てバスに乗りこんだ菅氏は、東電の武藤栄元副社長と並んで座り、「いきなりそこで怒鳴りつけた」。免震棟に移ってからも、作業員らが大勢いる前で「何でおれがここに来たと思っているのだ」と怒鳴ったという。菅氏の態度を「大変遺憾だ」とし、「審議官とか武藤とか副知事には申し訳なかったと謝った。それくらい大変な激昂(げきこう)でした」。「本当にあきれた」と批判した。

鈴木寛・元文科副大臣 「SPEEDI出せと言った」

放射性物質の拡散状況を予測する「SPEEDI」(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)のデータがすぐに公表されなかった問題について、所管していた文部科学省の責任者が証言している。

鈴木寛・元文部科学副大臣は12年2月23日と3月7日の聴取で、判断は全体状況を知る原子力安全委員会が行うべきだったとの認識を示し、安全委の対応能力の欠如を批判している。

「SPEEDIを早く出せということは、我々は安全委に何度も言った。とにかくまず記者会見をやれと、毎日のように言い続けてきた」

しかし会見が開かれないため、委員や事務局職員らについて「法律で定めている任に堪えないという認識を抱いた」。安全委については「権限を行使し得る人的体制になっていない」と指摘している。

高木義明・元文科相

高木義明・元文科相は12年1月31日の聴取で、「公表について、災害対策本部の方の、まさに政府としての判断だと思っていた」と証言。「データを出すのは別に私たちはとめることでもない。かえって不安を助長するから、あるものは出すという基本に私たちはあった」と述べている。

■聴取書(調書)が公開された19人(肩書は事故当時)

東京電力福島第一原発

吉田昌郎所長

【官邸】

菅直人首相

枝野幸男官房長官

福山哲郎官房副長官

細野豪志首相補佐官

経済産業省

海江田万里経産相

池田元久経産副大臣

森山善範・原子力安全・保安院原子力災害対策監(聴取時)

【政府・与党(民主党)】

北沢俊美防衛相

中野寛成国家公安委員長

高木義明文部科学相

鈴木寛文部科学副大臣

長島昭久衆院議員

原子力委員会

近藤駿介委員長

【研究者・その他】

首藤伸夫東北大名誉教授

鈴木篤之・元原子力安全委員長

松浦祥次郎・元原子力安全委員長

藤城俊夫・高度情報科学技術研究機構参与(聴取時)

松本宜孝・内閣府主査

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