原発事故調書-5

(東日本大震災4年:5)原発事故調書は語る
〈5〉調書

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 東京電力福島第一原発事故から間もなく4年が経過する。原発事故による避難者は、今なお12万人余りに上る。あの時、政府や東電はなぜ事故の拡大を防ぐことができず、混乱が広がったのか。政府の事故調査・検証委員会(政府事故調)による「調書」に記された関係者の証言を手がかりに、当時の経緯を振り返った。

■【1号機圧力上昇】 官邸、遅れるベントに不信感

 2011年3月11日、東京電力福島第一原発は震災発生から50分余りたつと、運転中の1~3号機のすべてが電源を失った。原発は冷却機能の低下で内部の温度と圧力が高まり、同日夜には炉心溶融が起きた。午後10時ごろ、建屋で毎時300ミリシーベルトもの放射線が観測された。

 所長だった吉田昌郎氏(故人)は12日午前0時すぎ、1号機の圧力を下げるため、放射性物質を含んだ蒸気を放出する「ベント」の準備を現場に指示した。

 だが、電源がなく、弁を開ける作業は困難を極めた。現場の社員らは被曝(ひばく)の危険にもさらされた。難航する作業は「東電がベントをためらっているのではないか」との疑いを首相官邸に持たせてしまった。東電の本店や官邸が現場の状況を把握しきれないなか、1号機は午後3時36分、水素爆発を起こした。

 作業が困難を極めていた第一原発の現場に「ベントの実施命令」が届いた。午前6時50分、経済産業相をしていた海江田万里氏からだった。吉田氏は、感情をあらわにした。

「命令が出ればすぐに開くと思っているわけですから、そんなもんじゃない」

 一方、12年2月に聴取を受けた海江田氏の調書によると、「ベントを実施する」と海江田氏らが記者会見してから、2時間以上、吉田氏からは連絡がなかった。「大量の放射性物質を(外に)出すわけだから、大変な事故だと知れ渡ってしまうことに懸念があるのではないか」。そんな疑念を持っていたという。

 水素爆発が起きる約30分前、海江田氏は、原子炉を冷やす海水注入が実行されない状況にもしびれを切らした。「現場の情勢が入ってこない」

 塩分を含む海水を原子炉に入れると、劣化して再稼働が絶望的になる。海江田氏はベントが遅いのと同じように、東電に「一種の不信感」を持った。そんなとき、最初の爆発が起きた。

 吉田氏は海水の注入について「世界中でしたことは1回もないが、冷やすのに無限大にあるのは海水しかない。燃料が損傷してる段階で、この炉はもう駄目だと。再使用なんて一切考えていない」と割り切っていたという。

 爆発後も、現場は海水注入を試み、午後7時すぎ成功する。東電の事故対応担当だった社員が匿名で語った調書によると、「海水注入に関するマニュアルや手順書はない。海水注入を対応策として検討、整備したこともない」

 ところが、海水注入に官邸から「待った」がかかった。官邸に詰めていた東電の武黒一郎フェローが、吉田氏に電話を入れた。「官邸は海水注水を了承していない」

 官邸では菅直人首相(当時)が、「海水を入れると再臨界しないのか」と疑問を持っていた。原子力安全委員会委員長だった班目春樹氏は言い返さなかったという。「班目委員長は『水素爆発はない』と言っていたので、負い目みたいなものがあったと思う」。補佐官だった細野豪志氏は調書でそう述べている。

 だが、吉田氏は「この時点で注水を停止するなんて毛頭考えていない」。本店とのテレビ会議で、部下に注水を止めるよう指示する芝居を打つ。実際は「絶対に中止しては駄目だ」と命じていた。

午後8時すぎ、本店経由で注水の指示が出た。

 「水を入れるのと圧力を下げる。この2点だけをやるんだ。それ以外(の話)は『雑音』だ」。現場と官邸側の距離は、さらに遠くなっていった。

■【2号機危機】 撤退を疑い、東電と亀裂

 1号機の水素爆発に続き、14日には3号機も爆発した。その日の深夜から翌未明にかけ、次は2号機が危機的な状況を迎えた。

 政府事故調の最終報告書によると、東電社長だった清水正孝氏は14日夜、状況報告と現場の対応を閣僚らに電話で説明した。東電のテレビ会議の録音記録でも、同日午後8時すぎ、「現時点で、まだ最終退避を決定しているわけではない」という清水社長の発言が残っている。

 東電が第一原発から「撤退」するのではないかという疑念は、当事者によって受け止め方が異なる。ただ、当時は東電からの情報が少ないことに、官邸のいらだちはピークに達していた。指揮系統が混乱した状況が調書から浮かぶ。

 「間違いなく全面撤退の趣旨だった。これは自信がある」。12年3月に事故調の聴取を受けた官房長官(当時)の枝野幸男氏はそう述べている。一部だけの「退避」なら、官房長官の自分にわざわざ電話する必要はないというのが、そう判断する理由だ。

 閣僚や官僚の報告を聞いた菅直人首相の受け止めも「全面撤退」だった。清水氏を官邸に呼び、撤退は認めないと主張した。菅氏は、清水氏が反論をしない様子を見て「やはり(全面撤退を)思っていたんだな」と、確信した。

 首相補佐官だった寺田学氏の調書によると、菅氏は官邸にいた班目春樹・原子力安全委員長らに「まだやることはあるよな」と語りかけていた。

 一方、経済産業相だった海江田万里氏は「僕が覚えているのは『退避』という言葉」。逃げるのではなく、約10キロ離れた第二原発に一時避難するため退くという意味にもとらえられる。退避の対象は「全員」という認識だったという。経済産業省の原子力安全・保安院で審議官をしていた根井寿規氏も「一時的に退避するという情報が、連絡用のメモで回ってきた」と述べている。

 ただ、清水氏がどのように首相や閣僚らに情報を伝えたのか、その調書は公開されていない。12年6月、国会がつくった事故調査委員会の公開聞き取りで清水氏は、官邸に呼ばれたときのことを「撤退は考えておりませんと申し上げた」と説明している。

 いずれにしろ、菅氏は清水氏と面会した直後、東電本店に乗り込んだ。ここで菅氏は東電幹部や社員を前に「日本の国が成立しなくなる。皆さんは当事者で、逃げても逃げ切れない。撤退したら東電は必ずつぶれる」などとしゃべったことを調書に残している。寺田氏の調書には、菅氏が同じようなことを「3回くらいループしながらしゃべっていた」とある。

 官邸と本店の撤退騒動について事故調から尋ねられた吉田昌郎氏は「くだらない議論だ。逃げろなんてちっとも言っていない」と完全に否定している。現場では、2号機の圧力が高まり、原子炉を冷却しようにも水が入れられない事態が続いていた。

「イメージは東日本壊滅ですよ」

 東京での騒動をよそに、事故現場で抱いていた恐怖を、吉田氏は残している。

 (関根慎一、編集委員・大月規義)

■政府事故調の調書とは 772人聴取、224人分公開

 政府の事故調査・検証委員会(畑村洋太郎委員長)は2011年5月に発足し、12年7月に最終報告書をまとめた。政治家や官僚、東電関係者、福島県などの自治体関係者ら772人を対象に聞き取りを行った。その聴取結果書(調書)は内閣官房が引き継ぎ、保管している。

 調書について委員会は原則非公開としていた。だが、昨年9月、安倍政権は13年に亡くなった福島第一原発の吉田昌郎所長の遺族の了解を得た上で、吉田氏らの調書公開に踏み切った。本人らの了解が得られた調書に限り公開を進め、今年3月9日までに当時の菅直人首相、枝野幸男官房長官、海江田万里経産相、佐藤雄平福島県知事、近藤駿介原子力委員長ら224人分を公開した。

 ただ、勝俣恒久会長ら東電幹部や原子力安全委員会委員、経産省、文科省など関係省庁幹部の調書の多くは了解が得られず、現段階では公開されていない。

 一方、国会の事故調査委員会(黒川清委員長)の調書や関連資料は国立国会図書館が保管する。12年7月、衆参両院の議院運営委員長らは公開に向けた関連法を整備する方針を確認したが、その後議論は進んでいない。段ボール77箱分の資料が同図書館に眠ったままだ。(関根慎一)

■原発の危険性に向き合う社会を 元政府事故調委員長・畑村洋太郎さん

 –原発を動かすなら「事故は起こる」とはっきり言うよう主張されています。

 以前から「事故はない」と言うのはおかしいと薄々思っていました。そしたら、やっぱり起こった。

 社会全体が、原発の問題を自分の問題として考えようとしてこなかったのです。事故がないから大丈夫、審査しているから安全だ、とみんな自分の見たいところだけを見ていた。そういう文化をつくっておきながら、事故が起きたら誰かを悪者にして、終わりにするのは間違っている。

 どんなに準備しても、想定から外れたことを原因とする事故はこれからも起こります。「起こりません」と言い切るよう求めるのも間違いだと思います。

 ――事故調報告書では、関係者の危機感の希薄さも指摘されました。

 事故対策の仕組みはあっても、目的の共有が全くできていませんでした。規制やマニュアルをつくったら、おしまい。決めたことが実行されなければ意味がない。

 炉心を冷やす非常用復水器が動かせたと思い込んだこともそうです。雷のような轟音(ごうおん)が響くはずなのに、現場はその知識すら持っていなかった。作動させる訓練をしている国では常識だったのに、東電はやらず国も文句をつけなかった。技術に向き合う当たり前のことをしていません。なんで「安全です」と言えたのか不思議でしょうがない。

 原発は外国から持ってきた技術で、日本は生みの苦しみを経ていないJCO臨界事故(1999年)を調べた米専門家は「日本の技術者に自分の考えをいくら聞いても言わない。本質的なことを見る人がいない」と事故を心配していた。その通りになった。

 ――委員長当時、事故の再現実験が必要と言いながら実現しませんでした。

 当時、世の中は反応しなかったし、予算も取れていない。「先生、それなら自分でやってください」と事務局に言われ、途中で断念の宣言をしたんです。

 実験は今からでも必要です。何が起きたのかをきちんと確かめなければ。新たな視点に気付き、対策に役立つことがあるはずです

 事故調は、事故の被害の実態に迫り切れなかった。放射線の被害も積み残しになりました。その後の検証も不十分です。

 ――事故調の提言は生かされているでしょうか。

 全然生かされていない。今は規制のハードルが上がったほかは、事故前と同じ状況に思えます。避難計画も実施可能かはわからない。実際に30キロ圏の住民全員を計画通り動かしてみるくらいのことをやったうえで、原発を動かすと言うべきです。

 原子力を続けるのなら、危ないものは危ないと正面から向き合う社会をつくる必要があるはずです。(聞き手・長野剛)

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 はたむら・ようたろう 東京大名誉教授。機械工学などが専門で失敗経験を生かす「失敗学」を提唱した。政府事故調の委員長を経て、2012年10月に発足した国の消費者安全調査委員会(消費者事故調)の委員長を務めている。