現場の混乱鮮明

現場の混乱鮮明 政府原発事故調、56人分調書公開

東京電力福島第一原発事故の政府事故調査・検証委員会が約770人の関係者から聞き取った調書の一部が、新たに公開された。事故現場の作業員や政府中枢にいた政治家や官僚ら公開された45人と1団体11人の調書からは、事故直後の混乱ぶりが改めて浮かび上がった。▼1面参照

■現場で作業した人は 戦意失いつつも冷却

 福島第一原発の現場では、冷却装置が動かなくなり原子炉を冷却しようと消防車で水を送りこんだ。南明興産(現・東電フュエル)の現場責任者の秋元和政氏は混乱の中で冷却にあたった状況を語っていた。

 調書によると、秋元氏は2011年3月12日未明に指示を受け注水したが、1号機は同日午後3時半すぎに爆発、14日午前11時に3号機が爆発した。

 同日午後、タンクローリーの運転手がおらず消防車に給油できなくなっていた。秋元氏はガソリンスタンドでのアルバイトの経験しかなかったが「東電側から『頼む』と言われ、『私たちの仕事ではない』と強く思いながらも一度だけというつもりで給油した」。再度頼まれ、現場で東電社員に方法を教えたという。

 同日夜に「退避することになったことが雰囲気で分かった」が、自身の退避はなかったという。「私も精いっぱい努めてきたが、3号機爆発で戦意を喪失した感があり、そのまま免震重要棟で寝てしまった」。15日朝に退避することになり、第二原発にいたところ東電社員から「4号機で火災が発生した。あなたたちの仕事なんで戻ってください」と言われた。だが、上司が「安全が確保できない」として、会社の迎えのバスで拠点のある新潟県柏崎市に向かったと話した。

 当時、原子力安全・保安院の職員として官邸地下で事故対応にあたった福島章氏は退避をめぐる15日未明の認識として、「必要最小限の人員を残して退避するというものであったと記憶している」と振り返っている。

 ■オフサイトセンター 乏しかった連絡手段

 事故時の現地対策本部になるオフサイトセンターはほとんど機能しなかった。だが、放射線量が高くなり、15日には60キロ離れた福島県庁に移った。

 当時の保安検査官事務所副所長(匿名)の調書によると、地震発生時、保安検査官ら職員計8人は、福島第一原発敷地内にいた。うち副所長ら3人はオフサイトセンターに戻った。

 しかし、一般の電話回線や携帯電話が使用できなかった。「支援を要請しようにも外部と連絡が取れないのではないかと思い、途方に暮れていた」という。

 センターにある3本の非常時向けの電話回線も事故後1、2日で不通になり、官邸や県庁をつなぐテレビ会議システムははじめから使えなかった。連絡手段は、4台あった衛星電話のうち3台と東電のテレビ会議システムだけだった。

 東京から現地に派遣された、当時の保安院原子力発電検査課の山本哲也課長の調書によると、1回のファクス送受信に1時間かかることもあった。

 発電所内にとどまった5人は翌12日にオフサイトセンターに戻った。放射線量が上がり身の危険を感じ「彼ら自身の判断であったと聞いている」という。しかし、当時の海江田経産相の意向で、再び検査官4人を現地に派遣したという。

 事故直後に現地で実施した放射線モニタリングのデータも、オフサイトセンターで公表するはずだったができなかった。オフサイトセンター放射線班長だった、文部科学省の田村厚雄氏の調書によると、報道機関はいなかった。「(オフサイトセンターが)プレス(広報)機能を失っていたので、データをERC(経済産業省緊急時対応センター)に送信し、ERCから公表してもらうしかなかった」という。だが、東京の原子力災害対策本部は当時、一部しか公表していなかった。

 ■事前の津波対策 専門家「検討足りず」

 専門家や規制当局者の調書には、事故への備えをめぐる反省の弁が並んだ。津波などの検討が「足りなかった」と振り返った。

 原発の津波想定の方法について土木学会が2002年にまとめた指針の議論に参加した今村文彦・東北大教授は「どう使うかの議論は十分でなかった」と述べた。安全の余裕を見込み、計算した高さの何倍で対策するかなどの検討は「その認識はあったと思うが、議論されていなかった」。

 06年に改定された国の耐震指針は、津波は地震に伴う現象としてわずかに触れただけだった。改定を担当した仲嶺信英・元原子力安全委員会課長は、検討メンバーに津波の専門家を「入れようという意識はなかった」と述べた。

 旧原子力安全・保安院や旧原子力安全基盤機構で審査に関わった高島賢二氏は、津波対策を事業者任せにすべきではないと主張した際、同僚に「心配しすぎだと言われた」と証言。また、津波対策の甘さを事業者に指摘した際、想定の高さより「20センチ余裕があるのになぜ怒るのか」といった反応をされたとした。

 長時間の全電源喪失は考慮する必要がないとした安全設計指針の1990年の改定に関わった村主進・元原子力安全委員会部会長は、この規定を見直す議論は「なかった」とし、「あんな津波が起こるとは思っていなかった」と答えた。

 ■食品放射能検査、慌ただしく実施

 原発事故では、飛散した放射性物質で農水産物が汚染され、各県で出荷停止が相次いだ。国の担当者の調書からは、食の安全への懸念が広がり、放射能検査の態勢が慌ただしく取られる経緯が浮かぶ。

 政府は2011年3月17日、農産物の暫定規制値を発表。農林水産省の吉岡修参事官(当時)の調書によると、翌18日から自治体の検査の支援を始めた。ガソリン不足などで検査できない自治体もあり、「農政事務所が代わりにサンプリングをしたり、試料を検査機関に届けたりもした」と述べた。

 同月21日に政府は規制値を超えた茨城、栃木、群馬各県産のホウレンソウとかき菜を出荷停止とし、同時に福島県産も対象とした。厚生労働省の道野英司・輸入食品安全対策室長(当時)の調書によると、福島県産で規制値を超えたデータはなかったが、周辺の県より原発に近い福島を横並びで制限の対象にしたという。

 また、同年4月に出荷制限を県単位ではなく地域単位に切り替えた。道野氏は「県全域を対象とするのは厳しすぎるのではないかという意見があった」と述べ、自治体の声に配慮した経緯を明かした。

 ■東電「撤退」に反対、経緯は 寺田学・元首相補佐官語る

 事故当時に首相補佐官だった前衆議院議員の寺田学氏は11年3月14日夜から翌未明にかけて、当時の菅直人首相をはじめ官邸側が、東電が「全面撤退」するのではないかとして、反対した経緯を語っている。

 寺田氏は、「長官(当時の枝野幸男官房長官)が、いつ撤退はあり得るのかというニュアンスをしたときに、(菅直人)総理がかなり強い口調です。『もうそんなのはあり得ないのだ』という話をして、保安院と安全委員会の一人ひとりに対してまだやることはあるよなという話を議論していました」と述べた。

 菅氏が東電本店(統合本部)に乗り込んだ際には「(菅氏は)撤退という話があるけれども、ないと。撤退したらどうなるかというのは皆さんが一番わかるでしょうと。そんなことをしたらまず日本だってだめになるし、東電だってなくなるんですよと、覚悟を決めてくれと。60以上の人間は、最後は自分がその場にいて作業するぐらいの覚悟をもってやりましょうというのを、同じことを3回ぐらいループしながらしゃべっていました」と語った。

 ◆キーワード

 <政府事故調> 東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会。福島第一原発事故などを受けて、事故を検証し、再発防止の政策提言をするために2011年5月に閣議決定で設置された。メンバーは委員長の畑村洋太郎・東京大学名誉教授ら研究者や弁護士、町長ら10人の委員。技術顧問2人も入った。故吉田昌郎・福島第一原発所長ら東電社員や政府関係者、学者など772人から聴取し、11年12月に中間報告書、12年7月に最終報告書を公表した。ほかに国会事故調や民間事故調などもそれぞれ報告書を公表している。