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パウル・クレー
■パウル・クレー
▶︎巨匠パウル・クレーとその生涯
パウル・クレー協会より参照
巨匠パウル・クレーとその生涯
パウル・クレー(
Paul Klee
, 1879年12月18日 – 1940年6月29日)
は、1879年12月18日、スイスの首都ベルン郊外にある
ミュンヘンブーフゼー
という小さな町に生まれました。
父親は
ドイツ国籍の音楽教師
で、当時、ベルンの教員養成学校で教えていました。
母親はフランス出身の声楽家
で、クレーには三つ年上の姉がいました。家族はクレーが1歳の誕生日を迎えるころベルン市内に移住し、高等学校を卒業するまで、クレーはこの美しい中世都市で過ごします。幼い頃から絵を描くことに熱心だったクレーは、
母方の祖母から最初の絵の手ほどきを受けた
といわれています。また、小学校入学と同時にクレーは
ヴァイオリンを習い
はじめ、めきめき腕を上げて、
11歳の時には
になるほどでした。
クレーは画家になったあとも、生涯、ヴァイオリンを弾き続けます。
1898年19歳
、高校卒業と同時にドイツのミュンヘンに出たクレーは、同地の美術学校への入学をめざして、画家クニールの塾に通い始めます。翌年、彼は美術学校への入学を果たしますが、
在学期間は短く、ベルンに戻り、半年間ものイタリア旅行に旅立ちます。
ミュンヘンにいたころ、ある家庭音楽会で共演した
ピアニストのリリー・シュトゥンプフと秘密の婚約
を交わし、
1906年27歳
になって、リリーとの結婚を機にクレーはふたたび
ミュンヘン
で暮らすようになりました。翌1907年には息子の
フェリックス
が誕生します。
リリーのピアノ教師としての収入
で家計をまかないながら、クレーは家事の大半を
引きうけ、画家としての道を歩みはじめますが、
1914年35歳、友人の画家二人と共に
北アフリカ・チュニジアへ旅行
、この時期を境に、クレーの絵画は大きな発展を遂げていきます。
しかし
1914年
は、第一次世界大戦が始まった年でもあり、大戦でクレーは
親しい友人たちを失います
。クレー自身もやがて従軍し、幸いにも前線へは送られなかったため、彼は兵舎で絵を描き続けます。大戦中、彼は
ドイツ各地で作品を発表
し、クレーの名は徐々に知られるようになりました。
第一次大戦後のドイツに設立された
総合造形学校バウハウス
は、クレーを指導者の一人として招き、
最も実り豊かなクレーのバウハウス時代
が始まります。当初
1919年40歳
・
ヴァイマール
に
開校したバウハウス
は、政治的な理由でやがて
デッサウへ
と移転しますが、バウハウスの教壇に立ってちょうど10年を経た
1930年51歳
、クレーは同校を退職する決心をし、続いて
デュッセルドルフ美術学校の教授
として迎えられます。
しかし
1933年には、アドルフ・ヒトラー
がドイツの政権を掌握、自身画家志望であった
ヒトラーは、ドイツの前衛画家たちに弾圧
を加えます。リリーの強い勧めもあって、ついに同年暮れ、
クレー夫妻はスイスへと亡命
。生まれ故郷ベルンに逃れたクレーは、厳しい晩年を送ることになります。ドイツ国内の銀行預金は凍結されたままで、経済的に困難が生じていた上に、やがて、
クレーに不可解な病気の症状が現れ、皮膚硬化症と診断された病
は、
1940年、60歳のクレーの命
を奪うことになりました。
しかしベルンでの不便な暮らしと、
病魔との戦いのなかにあって、クレーは最期の時まで創作に専念し、ドイツ時代には描かれなかった大作の多くや、おびただしい数のデッサンを遺しています
。(有名な天使シリーズもこの時期に描かれました)スイス国籍を取得できないまま、ドイツ人として亡くなったクレーは、ベルン市のショスハルデン墓地に葬られ、隣接するシェーングリュンの丘には、いま、6千点あまりの彼の作品を収蔵する「
パウル・クレー・センター
」が建てられています。
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