現実と夢想の探究と超克

■具象から記号へ  

大高保二郎

 ジョ アン・ミロ(1893-1983年) は,自由と未来への可能性を秘めた不可思議な芸術家である。ミロといえば,その作品に付きまとう,一見天衣無縫で幼子のような夢想的世界のためであろう か,生き方も制作においても暴力的,破壊的な個性を放つ,ピカソやダリなどのスペイン人の巨匠たちと比較すれば穏やかな存在に映る。

 しかし,彼の人生と画 業の軌跡を丹念にたどれば,そうした印象は表面的な誤解であることに気づくはずである。ミロの芸術はけっして平凡でも,プリミティヴなものでもない。いつ の時代をとってもそれは深刻な葛藤と激しい闘争,たゆまぬ探究の結晶なのである。たとえば,若いころの実験的な名作『農園』は貧困と飢えの時代の所産であ りス ペイン内戦中の一連の作品はピカソに劣らぬほどの危機意識に根ざした叫びにほかならず,また「星座」シリーズに代表されるミロの記号的な絵画はアメ リカの現代美術への影響という点では,ピカソやダリ以上のものがあったのである。

 しかしながら,ミロ芸術は難解をもって知られるシュルレアリスムの理論や 美学的な原理から生まれたのではない。イメージも,自意識も,感性もすべて,この偉大な芸術家のルーツは彼の郷土カタルーニヤにあった。(中略)

■農村の生活に親しむ

1893年4月20日,スペイン北東部カタルーニヤ地方の中心都市バルセロナで,ジョアン・ミロは生まれた。父ミケル・ミロ・イ・アゼリアスは,バルセロナの西150キロメートルに位置するコルヌデリャの出身で,金銀細工師だった。母ドロレス・フェラは,バルセロナの南,地中海に浮かぶマリョルカ島のパルマ・デ・マリョルカの家具職人の娘だった。

  少年時代のミロは,両親と共に喧騒に満ちたバルセロナの旧市街で生活していたが,その一方,父方の祖父母が住むコルヌデリャ(バルセロナの南約150キ ロ)や,母方の祖父母が住むマリョルカ島へもたびたび行き,のどかな農村での生活も楽しんでいた。そうした経験から,彼は生涯カタルーニヤ地方やマリョル カ島の農村に対し,強い愛情をいだきつづけることになる。そして,子どものころに魅了された昆虫や鳥,樹木,蛇などが,彼の作品の重要なモチーフとなるの である。

 素朴な農民たちを身近に見て育ったことは,ミロの精神形成にきわめて大きな影響をあたえることになった。彼をよく知る人びとは,ミロは非常におだやかで,控え目で,内向的な少年だったと語っている。ミロ少年は野山を歩きまわり,たくさんのデッサンをしたが,すでに15歳の時点で,彼が絵を描くときに見せる真剣な態度と集中した様子は,友人たちを驚かせるほどだつた。当時の彼のスケッチブックには,大聖堂や城,風車,橋,樹木,農家など,農村のさまざまな風景が描かれている。(中略)

■パリ,ピカソ,ダダ

 当時,革新的な芸術運動はパリを中心に展開していた。ミロは1920年3月にはじめてパリへ行き,スペイン出身の画家パブロ・ピカソのもとを訪れた。ミロはピカソの母をよく知っていたので,ふたりはすぐに友人となった。

 「出 会った日以来,私たちはしょっちゅう行き来するようになった。しかし,私はできるだけ遠慮した。彼〔ピカソ〕をわずらわせたくなかったからだ。パリでの生 活はとてもつらかったが,彼がくれたアドバイスはよく覚えている。たとえば,いらだちを隠せない私に彼はいった。『地下鉄を待っていると同じだと思えばい い。列をつくらなければならないんだ。そして,自分の番が来るのを待つのさ』。なるほど,もっなことだと思った」

 このときのパリ滞在では,ミロは絵を描かなかった。しかし何点かの絵はパリへもっていっており,そのなかの『自画像』(1919年)はのちにダルマウからピカソへ贈られた。はじめて会つたときからピカソはミロの創造性に着目し,以後,なにかにつけてミロに個人的な関心を示すようになる。

 第1次世界大戦の余波で依然として政治的に不安定だったパリでは,ダダと呼ばれる芸術運動が生まれていた。これは,既成の文化や美学から自由になり,伝統的な芸術的価値観を嘲笑する,画家や詩人たちによる前衛芸術運動だった。ミロはパリに感動した。(中略)

■シュルレアリスムのカーニヴァル

 1924年から25年にかけて,ミロは純粋にシュルレアリスムからインスピレーションを受けた作品,『アルルカンのカーニヴァル』を制作した。「1925年の私は,ほとんど完全に幻覚をもとに絵を描いていた。(略)幻覚は,たいてい空腹によって起きた。私はなんとかしてそれらの形を紙やカンバスにとりこもうと,長時間アトリエのむきだしの壁をじっと見つめたまま座りつづけた」

アルルカンのカーニヴァル』では,おそらくミロのアトリエと思われる,テーブルと窓のある部屋のなかに,円柱や円錐や球体でできた奇妙で不可解な生き物がひしめいている。

  同じころ,「ブロメ通りグループ」のメンバーは,詩人アンドレ・ブルトンが創始したシュルレアリスム運動に参加するようになった。「口述,記述,その他の あらゆる方法で,思考の実際のプロセスを表現することをめざす,心の純粋なオーもマティスム。理性がおよぼすあらゆる制御と,美的・道徳的なすべての固定 観念を排した,思考の書きとり」と,ブルトンはシュルレアリスムを定義している。(中略)

■戦争を描く

 ミロの作品はしだいに残酷さを増し彼自身もよりいっそう反抗的になっていった。1936年7月13日,王党派の指導者カルポ・ソテロが暗殺されると,スペインは共和国派と民族独立派に分裂した。

 民族独立派のフランコ将軍は軍部の一部を掌握し,マドリード,バレンシア,バルセロナで農民や一般大衆が支持していた共和国政府に猛攻撃を仕かけた。共和国派の支持者たちは武器をとって反乱軍と戦い,内戦はフランコが勝利を収める1939ト年2月までつづくことになる。共和国派だったミロはモンロッチに引きこもり,彼にとっての武器である絵画によって,反乱軍に抵抗した。

 彼は安価な合板であるメゾナイトの表面に引っかき傷をつけたり,穴を開けたりして,砂利を混ぜたセメントを塗った絵画を27点 制作した。これらの作品には,ファシズムの台頭に対する彼の激しい反発が表現されている。ここには「野生の絵画」シリーズの怪物は登場しないが,白黒の混 沌とした背景は灰と煙の立ちこめる戦場をあらわし,前景にはゆるやかな曲線でかろうじて見わけられる男女が描かれている。

 この戦争によって,ミロは無意識を自分なりに転写する方法を編みだした。「私の絵は,(略)表面化された攻撃力である」と,彼はのべている。(中略)

■彫刻家ミロ

 1949年に,ミロははじめて約10点の粘土像かブロンズ像をつくった。その後,1966年から71年 にかけて,彼はいくつもの彫刻を制作し,みずからの内面世界を三次元で表現した。

 そのおもなテーマは,やはり女性だった。地面に置かれた鐘のような長いス カートをはいた女性の彫像は,エーゲ海に浮かぶクレタ島の小立像やスペイン・アンダルシア地方の聖母マリア像など,地中海地方の昔の文化を思わせる。また 性器や乳房など,性的な表現も積極的に採用されている。

彫 刻の制作方法は,絵画とはまったく対照的である。絵画では,ミロはさまざまな記号や形を使って自分の内的世界を表現している。しかし彫刻では,まずはじめ に素材があり,それぞれ独自の量感をもっ素材を組みあわせることで内的世界をつくりあげようとした。つまり彫刻では,作品全体のバランスや詩情はたいして 重視されず,素材そのもののおもしろさが,制作の動機となっているのである。

ミロは普通の彫刻もつくったがいろいろな素材を合体させた作品も制作している。彼は散歩の途中でさまざまなものを拾い,大切にとっておいて,それらにふたたび命を吹きこんだ。その結果,さびた鉄や捨てられた生活用品などが,ブロンズ像のなかに鋳造されていった。

のちに彼は,樹脂やセメントを使って巨大な彫刻をつくるようになる。彩色されたそれらの巨大彫刻は,一般大衆の目に触れる場所へ置かれた。バルセロナ市役所ために制作された『女と鳥』(1982年)はその代表作で,ミロの最後の彫刻作品である。