日本歴史的人物伝
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丹下健三
■スケール壮大、彫刻的な造形 近未来見据えたデータ主義
香川県庁舎を背にした丹下健三=1958年、神谷宏治氏撮影
写真・図版戦後建築のチャンピオン。この建築家の構想力が震災後の今、呼び起こされている。
■
ヒーローからヒール(悪役)へ――。丹下健三のイメージは、そう形容できる。
被爆した街に広島平和記念資料館を完成させたのが、1955年。原爆ドームから慰霊碑を通ってひかれた軸線上に乗る資料館は、モダニズムに日本の伝統美を加味した抜群のプロポーションが光る。
香川県庁舎(58年)などを経て、64年の東京五輪では、つり屋根がダイナミックな国立代々木競技場を送り出す。そして70年、大阪万博で会場の全体計画を手がけ、お祭り広場の壮大な大屋根を実現させた。復興から高度成長を遂げる日本に輪郭を与えた戦後建築のチャンピオンなのだ。
だが70年代以降のイメージは芳しくない。消費社会が進み、国家像が揺らぐなか、作品は権威的、神殿的と評され、現東京都庁舎(91年)を設計した当時の鈴木俊一知事との距離も取りざたされた。
そんな丹下建築に幼時から接したのが、万博跡地の近くで育った現代美術家のヤノベケンジさん(49)だ。会場に忍び込み、大屋根の「壮大なスケールを肌身で感じた」。
「いま僕は、人形(ひとがた)のモニュメンタルな彫刻を作っている。岡本太郎の太陽の塔の影響だと思っていたが、丹下さんの存在も大きい」。記念碑的な造形を生み出す彫刻家的資質を感じるからだ。
「代々木の体育館は、巨人が東京の土をつかんで造形したような印象がある。広島でも被爆後数年で力強い都市設計を残し、原爆ドームも位置づけた。
東日本大震災から4年の今、あんなグランドデザインを描けているだろうか
」
バブル崩壊や二つの震災を経て、建築界では環境や地域の文脈に留意した慎ましい計画が志向されがちだ。若手論客でもある建築家の
藤村龍至
さん(38)はしかし、丹下を高く評価する少数派と自認する。
着目するのは、抜群の造形力と構想力
だけではない。
「
データを空間に置き換える論理
があり、どこに投資すべきかを検討した。これは少子高齢化時代の今、考えるべきことだ」。
東京大の丹下研究室で、経済データや統計などを分析した結果だった。
一方、建築はスタッフの多数の案に丹下が指示をして形になったとされる。「弟子たちとワークショップをやっていたようなものだが、一般の人が参加する、合意形成の論理はなかった」。だから自身は、施主や市民の声を吸い上げつつ、そこに軸線を引くような建築家像を描いている。
「丹下さんとスティーブ・ジョブズは似ている」と指摘するのは、
建築家の
内藤廣
さん(64)だ。
「今の技術で何ができるかではなく、まず近未来のイメージを描き、そのために技術の方を動かした」
内藤さんは、被災地の現実に「多くの建築家の思想が相手にされていない」と感じ、政治と渡り合い、大きな構想力を備えた丹下を「もう一度見直す必要がある」と説く。
■
データと分析に裏打ちされた近未来の空間イメージと、草の根型の合意形成能力
。
私たちは、
21世紀型丹下健三と出会うことができるだろうか
。(編集委員・大西若人)
<足あと> 1913年大阪府生まれ。旧制広島高を経て、東京帝国大建築学科で学ぶ。42年、「大東亜建設忠霊神域計画」が設計競技で1等に。戦後、東京大助教授、教授を歴任。61年に東京湾に人工都市を造る「東京計画1960」を発表。主な作品に旧東京都庁舎(57年)、山梨文化会館(66年)。文化勲章、プリツカー建築賞などを受けた。2005年に死去。
<もっと学ぶ> 作品写真などが多いのは『丹下健三 伝統と創造―瀬戸内から世界へ』(美術出版社)で、自伝なら『丹下健三 一本の鉛筆から』(日本図書センター)。集団的な創造力については豊川斎赫『群像としての丹下研究室』(オーム社)が詳しい。
<かく語りき> 「『
美しきもののみ機能的である
』といいうるのである」(『人間と建築』<彰国社>から)
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