杉原千畝

■捏造される杉原千畝像

歴史修正主義者による戦争犯罪のゼロサム・ゲーム

2000年9月 松 浦  寛 上智大学講師の資料よりリンク

 戦時中,ユダヤ人六千人分のビザを発給し命を救ったとされるリトアニア副領事杉原千畝。彼の行動の真意は何だったのか?

photo_3 ??????????????????????????????? leo-melamed-0113 Japan Saving Jews, Tatsuo Osako

 その背後には日本政府・軍部の方針があったからだとの説が,根拠もなく語られている。その言説には,日本の戦争犯罪を隠蔽しようという意図がまとわりついている。
第二次大戦中,ナチスの迫害から逃れるためリトアニアに脱出したユダヤ人難民に日本通過ビザを発行し,数千名の命を救った日本領事杉原千畝(ちうね)(一九〇〇-一九八六)に関する話題が盛んである。

 千畝の名前を広く知らしめたのは,言うまでもなく,一九九三年に刊行された杉原夫人の回想記の新版『六千人の命のビザ』(大正出版)である。同書を受け,篠輝久の『意外な解放者』,中日新聞社会部による長期取材ルポ『自由への逃走』などが九五年に上梓され,その後も,千畝自身の「手記」を含む渡辺勝正の『決断・命のビザ』(九六年),杉原誠四郎の『杉原千畝と外務省』(九九年)などが刊行され,千畝研究の端緒が開かれた。また,カウナスでビザの受給交渉に当たったゾラフ・バルハフティクの『日本に来たユダヤ難民』(滝川義人訳)や領事館の近所に在住していたソリー・ガノールの『日本人に救われたユダヤ人の手記』(大谷堅志郎訳)にも千畝に大きなページが割かれ,当事者しか知り得ない委細が語られている。これらの著訳書はいずれも特色あるもので,読者は,さまざまな視点から見た多角的な千畝像を知ることができるだろう。

 これらの研究書にくわえ,一九九八年,アメリカの歴史学者ヒレル・レビンによる浩瀚な研究書(In Search of Sugihara, The Free Press, 1996)の翻訳が刊行された。諏訪澄・篠輝久監修訳の『千畝』(清水書院)である。同書は意欲作ではあるが,あまりにも誤記が多く,単なる史実の誤認にとどまらない大きな問題をはらんでいるように思われるので,その問題点を以下に具体的に指摘し,昨今の千畝をめぐる議論とその背景について検討してみたい。

杉原千畝の評価に見られるご都合主義 『千畝』の翻訳は,外交史料館で整理され一般に公開されている,いわゆる「杉原リストの発見は多くの日本人を喜ばせた」という要領を得ない話で始まる。後にレビンが『中日新聞』(一九九八年九月一一日付)に語ったところによれば,「外務省外交史料館で夜遅くまで格闘した末の発見だった」そうである(ちなみに,外交史料館は午後五時閉館)。

 このような苦心談(?)を聞けば,多くの読者は,ライシャワーからチャルマーズ・ジョンソンに至る米国における日本学の蓄積を想定するだろう。筆者もまた,初めは枚挙されるインタビューに感心したものだが,日本の歴史と社会に関する奇妙な記述が散見されるので,原文を照合したところ,そのあまりに杜撰な内容に愕然とした。

 『千畝』の翻訳が良心的でない第一点は,完訳でないにもかかわらず,そのことがどこにも明示されていないことである。この翻訳には,原文からの削除,改竄,文や段落の並び替えなどの「監修」が各所に施されている。第二点は,学術書の体裁を装いながら,研究書には必須のビブリオグラフィが添付されておらず,レビンの問題多い諸説がいかなる文献にもとづいているのか分からない点である。
原著の巻末文献を閲覧してまず驚かされることは,日本語の研究書がないことである。原著まで購入しようという読者は少ないであろうから,翻訳のみを読んだだけで,原著者が日本語を解さないなどということは,まず想像できまい。
監修者の諏訪は,千畝の前妻クラウディアの発見にたいして「広範で徹底的事実調査に脱帽」するなどと称しているが,特にクラウディアにふれた第二章におけるインタビュー取材には,明確に疑わしいものがある。

 例えば,満州時代の話を聞きに千畝の実妹にレビン自らインタビューしたという場所が,原文(岐阜市)と翻訳(一宮市)では異なる。原著者と訳者の篠の間には,他にも理解の不一致があり,家族が「悪名高い反ユダヤ主義の指導者」セミョーノフの軍隊に属していたされるクラウディアが,「ユダヤ人医師ドーフ」と再婚したとレビンは主張するのに対して,訳者の篠は,『意外な解放者』のなかで,「クラウディア・セメノビナ・ドルフ」を「信仰深いロシアのクリスチャン」としている。後者は,レビンのクラウディア情報取得を明示する注記にある日付(一九九五年五月)の三カ月後に刊行されたものである。原著者と訳者の理解は両立し得ない。

 しかし,『千畝』の翻訳で,もっとも人を唖然たらしめるのは,巻末に付された諏訪の「監修者あとがき」であろう。

 諏訪はまず,杉原夫人の回想記の主張の信憑性に疑念を呈し,レビンの指摘する結婚年の記載の「一年のズレ」について敷衍する。「ヴィザ発行の動機を徹底的に解明するため」にレビンが「不確実さを嫌」うとするが,結婚年の誤記とビザ発給の動機が密接に関係するなどと考えるのは,おそらく諏訪以外にはいないであろう。また,千畝の「行為を無条件的に,何の留保も付けずに礼賛するのは,国家とか組織への反抗こそが,〈自由な人間性〉の証しであるかのように思い込む昨今の風潮に関係があるのでは」と疑問を呈し,「日本の外交当局は,ナチの〈狂気〉に,よく距離を置いていた」などとするのは,レビン自身の議論とは整合しないが,諏訪の「監修」がいかなる方向付けを帯びているか考える上で興味深いだろう(この「反権威主義」批判は,同じ千畝の行為に関して,後に別の人物からも発せられるので,ここで覚えておいて頂きたい)。

yasui-3 yasui-2 yasui-1 Transit_visa suguhara_tiune_027 suguhara_tiune_020 sugihara02 Japan Saving Jews

 「一年のズレ」を問題にするなら,例えば,一九一九年当時まだ開校されていない「日露協会学校(後のハルピン学院)」(創設は翌年)に「千畝は第一回生として入学する」などという訳の分からない記述をしっかりと「監修」してもらいたいものだが,なかには笑い話では済まされない「一年のズレ」もあるので,以下に紹介しておこう。

 レビンは,一九四〇年六月一五日のソ連によるラトビア占領に伴い,後に千畝の諜報活動を助けるポーランド地下組織のリビコフスキー大佐が,ストックホルム事務所にもぐり込み,そこに「小野寺信将軍」(原文一三三頁)がいたとしている。この主張は,「一九四一年初頭から,戦後に亡くなった小野寺信将軍」がヨーロッパにおける諜報網を指揮し,「リビコフスキーとともに,上の方から,千畝の救出活動を端緒をつけた」(原文二〇〇頁)という推定を引き出すための布石だが,小野寺のストックホルム着任は一九四一年一月二七日であり,前年はまだ日本にいる。また,言うまでもなく,千畝による「救済活動」は,前年夏に始まっている。あとがきで小野寺夫人の『バルト海のほとりにて』に言及している諏訪は,レビンの誤りに明らかに気づいている。
そこで監修者(あるいは訳者)は,前者を「小野寺信陸軍大佐」(二一五頁)に書き換え,後者を「小野寺信少将は,一九四〇(昭和一五)年当時は大佐で」(三二二頁)などと「意訳」(!?)することによってレビンの致命的なミスを糊塗するのである。一九四〇年当時,小野寺の肩書きが陸軍大佐であったというのは正しいが,この時まだ小野寺がストックホルムにいなかったことが,訳文では巧妙に秘匿されている。

Japan Saving Jews Japan Saving Jews Japan Saving Jews Japan Saving Jews Japan Saving Jews img_4 image16 HansVisa1 e0009669_21152539 doc05 C Polen, Ghetto Warschau, Ghettopolizei

 三月八日号の『サピオ』誌のユダヤ特集号によるレビンへのインタビューの紹介にあるように,レビンの仕事が紹介される場合には,ビザ発給に関して「杉原千畝を後押しした日本の要人たち」の後援が,必ずと言ってよいほど強調されることは留意すべきだろう。

 杉原が「諜報員(スパイ)として活動していたことが判明した」というレビンの言明にも一驚を禁じ得ない。ロシア語で書かれた報告書で,満州駐留部隊を南太平洋に転出したがっている参謀本部が外務省に働きかけ,「ドイツ軍進攻の速やかで正確な特定を要請した」(吉上昭三・松本明訳の後出論文に引用)と自ら述べているように,千畝がリトアニアに派遣された主要な目的が,緊張高まる独ソ間の情報収集にあったことは,あまりにも明白であるからである。

 千畝の諜報活動については,むろんポーランド側でも詳細に調査されており,ワルシャワ大学日本語学科のエヴァ・パワシュ=ルトフスカと戦中抵抗運動に加わったアンジェイ・タウデシュ・ロメルの共同研究の一端が,「第二次世界大戦と秘密情報活動――ポーランドと日本の協力関係」(『ポロニカ』,一九九五年六月号)と題する論文に紹介されている。

B AS20140509003095_comm a0215163_14181919 6907084481_3c93645118_z 5728258907_4631aac687 Raoul Wallenberg 2403343427_677a9a0d47 1239968972_c2b7f2798a 1172396825_1af7b94372_z 198000556_640 185912976_f41d2037f2_z 5205

 レビンの著書の主眼は,ユダヤ人難民救出のイニシアティヴを千畝個人から「日本の要人たち」にシフトしようという点にある。しかし,先のインタビューの最後でレビン自身が「ユダヤ人救出のための特命を受けていたという証拠も見あたらない」とするように,こうした立論は根拠が薄い。
『千畝』のなかでレビンは,MGM映画会社東京支配人の義弟でポーランド系ユダヤ人カッツのケースをあげ,本省が訓令を与えた例とするが,大映画会社(社主は排日キャンペーンを繰り広げていた新聞王ハーストと昵懇)の支配人の係累の例をユダヤ人一般の保護例に付会するのは,乱暴な話である。ゲッべルスによって映画という宣伝媒体の役割が喧伝されていた時期,対米関係の改善を模索していた日本政府にとって,カッツの出自がどのような意味を持っていたかを等閑視するとすれば,あまりにも無邪気に過ぎよう。

 またレビンは,インタビューで,情報収集の見返りに「山脇大将からポーランド軍人を満州経由で逃がすために六〇〇通のヴィザを命じたとされる杉原の救出活動」が「杉原の一連の行動の端緒となったと考えられる」としているが,著書『千畝』で,「その証拠は未発見」としているように,これは単なる憶測にすぎない。「情報の見返りというだけなら,ユダヤ難民への発給は『余分なこと』だった」(『自由への逃走』)という中日新聞社の社会部記者の疑問は,もっともな疑問である。

510 166f2ea99093b658903623753d563da3 28 03 0

 レビンは,千畝に対する「日本の要人たち」の後援を立証するためには相当無理な議論もいとわない。レビンは,山脇大将ばかりか樋口季一郎少将までも,千畝の「長い満州勤務時代を通して旧知の間柄だったかもしれない」など言い張るのである。樋口が大佐時代に第三師団の参謀長としてハルビンに来たのが,一九三五年八月一三日。この時点で満州国外交部を辞任した杉原は帰国しており,その後もすれ違いで,両者は戦後も含め一面識もない。原文では蓋然性の示唆であったものが,翻訳では「かもしれない」が省かれており,途方もない話に変貌している。

 リトアニアのユダヤ人救出に関して「日本の要人たち」の後援を強調する議論が,自由主義史観なるもの奉じる「新しい歴史教科書をつくる会」の賛同者たちから昨今強く主張されていることに,ここであらためて注意を喚起したい。
昨年十一月一四日,NTV系の人気番組『知っているつもり?』で杉原千畝とオスカー・シンドラーがとり上げられ,好評を博した。この放送が予告されると,自由主義史観の共感者がテレビ局宛に「FAX攻勢」を呼びかけたことが,『教科書が教えない歴史』のホームページで伝えられている。

 ファックス記事によれば,「当時の資料を読むと,日本政府自身が,外務大臣とともに杉原にユダヤ人保護を命じており,これに基づいて,あの感動的なビザの発行に結びついた」とのことだが,この主張はまったくの誤りである。

 杉原領事の発給条件を無視したビザ大量発行に対して,松岡外相は,「最近貴館査証ノ本邦経由米加行『リスアニア』人中携帯金僅少ノ為又ハ行先國ノ入國手続未済ノ為本邦上陸ヲ許可スルヲ得ス之カ処置方ニ困リ居ル事例アルニ附」(昭和一五年八月一六日)と,杉原の伝えたユダヤ人難民たちの窮状に理解を示しておらず,さらに翌年も「行先國確定スル迄通過査証ヲ与ヘザル様致度シ」(二月二五日)と訓令し,しばしば「『カウナス』本邦領事ノ査証」云々と明記して,千畝は名指しで非難されているほどである。

 『戦争論』において,小林よしのりが言及する「産経の報道」(一九九八年三月三〇日)の記者は,そもそも,ビザ発給が領事権限に属することを理解していない。通過査証に関しては本来必要がないのに,発給の条件確認のために千畝が本省へ請訓電報を送ったのは,「何分大人数のこと故,単なるトランジットとはいいながら,公安上の見地から」(『決断・命のビザ』巻末所収の「手記」)なされたものである。
ファックス記事にはまた,放映後の後日談として,「つくる会」の賛同者で,外交評論家の岡崎久彦への言及がある。
岡崎は,番組放映後の『産経新聞』(一九九九年一一月二三日付)紙上で,千畝特集の目的を「戦後日本の反権威主義を基調とする勧善懲悪のお涙頂戴ドラマを作る」(聞き覚えのある論調だ!)ことと酷評しながらも,「今までは一般に知られていない真実」が報じられている点を一部評価する。

 岡崎の言う「真実」とは,先の「対ユダヤ人政策要綱」(一九三八年十二月六日の「五相会議」決定)のことで,『サピオ』誌の特集では,藤原宣夫が,最後のレポートで紹介している。藤原は,同「決定」の不都合な個所を書き落とすことを忘れていない。それは,「猶太(ユダヤ)人ヲ積極的ニ日,満,支ニ招致スルカ如キハ之ヲ避ク,但シ資本家,技術者ノ如キ特二利用価値アルモノハ此ノ限リニ非ス」というものである。

 「盟邦の意向にかかわらず,人種平等の旗を掲げて降ろさなかった日本という国を誇りに思う」と岡崎は主張しているが,残念ながら,史実はまるで異なる。

 日独伊三国同盟締結(一九四〇年九月二七日)直後,「人種平等の旗」は早々に降ろされ,予定されていた第四回極東ユダヤ人会議には中止が指令された。日米開戦の翌春になると,『猶太対策要綱』は公式に廃止された。関東軍や支那総軍など第一線の参謀長宛てに打電された「時局ニ伴フ猶太人ノ取扱ニ関スル件」によれば,廃止の理由は,「大東亜戦争勃発」によりユダヤ人利用による「外資導入」と「対米関係打開ノ必要」がなった為と,盟邦ドイツが,一月一日海外在住ユダヤ人の「獨逸國籍ヲ剥奪」したためだという。

 「八紘一宇」という肇国の理想が,人種間の差別と不平等を指示することは,帝国議会においても閣僚答弁で表明され,厚生省文書によってもあらためて確認される。
第八四回帝国議会(一九四四年一月二六日)において,四王天延孝議員(退役陸軍中将,戦前の代表的反ユダヤ論者)が政府のユダヤ人観について質したのに対し,安藤三郎内相は,「政府が人種差別の撤廃を叫ぶと云うことは,(…)所謂日本肇国の理想そのものに差別の存するところを認め」ると断言している。また,厚生省研究部人口民族部は,『大和民族を中核とする世界政策の検討』(其の一)において,「大和民族がより下級な文化段階の諸民族と混血する」ことは,「品性の低下」や「伝統の破壊」をもたらし,「退化現象を生ずる」と臆面もなく述べたものである。小林よしのり等の喧伝する「八紘一宇」の内実とはかくのごときものであった。

 戦中ユダヤ人対策をめぐる議論の背景  レビンは,千畝のビザの無条件発給の「現実的な『動機』」が見えてこないと言う。だが,杉原は最晩年に書いた「手記」のなかで,「旅行書類の不備とか公安上の支障云々を口実に,ビーザを拒否してもかまわないとでもいうのか? それが果たして国益に叶うことだというのか?」とはっきりと述べている。千畝の行為は,宮沢正典とグッドマンの言うように,「かれ個人の道徳的勇気と,人間としてあたりまえの思いやりを体現」(『ユダヤ陰謀説』)したものだが,杉原は,それが日本の国際的信用を守る道だと信じたのである。
「杉原千畝を後押しした日本の要人たち」になどというリードとは反対に,レビンの『サピオ』誌インタビューは,「杉原が特定のユダヤ人やユダヤ人協会のような団体から賄賂を受け取ったとか,ユダヤ人救済のための特命を受けていたという証拠も見あたらない」と結論付けている。
賄賂云々の噂は,もちろん事実無根だが,無念の後半生を送った千畝に,追い打ちをかけるように卑劣な中傷が流されていたのである。今日,それでもまだ足りないかとばかりに,「日本政府のユダヤ人保護政策に従ったまで」などと誹謗が投げつけられている。

 両者は,発想の低劣さという点では似たり寄ったりだが,議論の背景は相当異なるように思われる。

「ユダヤ人保護が当時の日本政府の政策」(今年二月二十二日のレビン講演会の案内書より)などという歴史の実際に関する無知を助長しているのが,レビンの『千畝』の邦訳である。日本語を解さぬ外国人の研究者には,ある程度寛容でなければならないだろうが,この度し難い翻訳『千畝』では,特に,「悪名高い七三一部隊」,「日韓併合」や外務省が収集した反ユダヤ文書の委細など,旧日本軍や政府の人種差別や民族偏見を明示している個所は訳文から入念に削除され,原文五〇頁下部の対応訳が抜け落ち,「第二次世界大戦大戦で日本帝国が崩壊してから半世紀たった現在,植民地主義の傷跡は,なお日本人の感情を刺激し,論争や弁明を引き起こしている」という文が闖入するなどの例もある。

 唐突に挿入される当の文こそ,千畝に関する議論をめぐる監修者(訳者)らの関心の所在を雄弁に物語るものだろう。

 この文の原文の対応個所には,後藤新平の植民地経綸,七三一部隊の生体実験と細菌戦,ハルビン学院と対ソ政策などが論じられており,先の文は,論旨の「要約」でも「意訳」でもない。件の文は,むしろ,「植民地主義の傷跡」に「刺激された」『千畝』の翻訳者周辺がとらわれている「論争や弁明」のありかを暗示するものではないだろうか。

 『千畝』の原著者ヒレル・レビンが日本語を解さないことはすでに述べた。日本語の読み書きができないものが何故研究を遂行し得たのかは,誰しも不思議に思うだろう。「共同調査」者だと自ら名乗り出ている人物がいるのだ。そして,その共同調査者こそ,他ならぬ『サピオ』誌ユダヤ特集の企画者,藤原宣夫である。
「つくる会」と似通った歴史見直しの主張を掲げ,しばしば会員の重複している団体に「日本会議」がある。

 藤原は,「杉原千畝は反政府の英雄にあらず」と題されたインタビューを「日本会議」機関誌『日本の息吹』(一九九九年九月号)上で受けている。副題も,「反日から親日へ――ユダヤ人を動かす歴史の真実」という分かりやすいものだ。

 藤原の牽強付会には理由がある。前掲誌で藤原は,「最近アメリカなどを中心に,中国人グループと極く一部のユダヤ人グループが結託して,反日宣伝をやっていますから,これに反対して,クサビを打ち込みたかったのです」と言っているのである。藤原によれば,米英の領事館で門前払いを食ったユダヤ人の少年に,杉原が「この地球上でわが大日本帝国だけが,君たちユダヤ人を温かく迎えてあげるんだよ」と言ったという。そして,「彼の仲間三百人分のビザをだしてやる」のだそうである。藤原は,「その行為が『日本政府に反抗して』と誤って伝えられてしまったことがいけなかったのです」と言う。

 「三百人分のビザ」を取り仕切った少年と言えば,ポーランドにあるミールの神学校生,モイシェ・ズプニックしかいないが,レビンの著書に,千畝がズプニックに,ビザ発給に対して語ったという言葉がこう紹介されている。「あの人たちを憐れに思うから,やっているのだ。彼ら国を出たいという。だから私はヴィザを出す。それだけのことだ」。

 藤原の語る「大日本帝国」云々などという勿体ぶった話とは大分違うようだ。そもそも,ビザ発行の経緯が語られたのは千畝晩年のことであり,カウナス時代に家族以外にそれを知る者などいるはずがない。どうやら,「ことさらに誤って」いるのは藤原の方のようだ。

「杉原さん個人に対する感謝から日本国に対する信頼」を力説する藤原は,「日本の誇りとしてこの歴史の真実を,これからも世界に広めていきたい」などと言う。そして同誌には,この藤原らが,西ロサンゼルスのホロコースト博物館に「在カウナス(リトアニア)領事代理時代の杉原氏の執務中の肖像写真」(『産経新聞』九八年五月七日)などと称して贈呈した肖像画が掲載されているが,この写真は,実は『決断・命のビザ』(八一頁)にもある満州時代の写真で,左上にあった満州国を含む中国地図を難民の写真で隠した偽造写真なのである。満州のものをカウナスのものなどとして「歴史の真実」を歪曲し,どうして「日本の誇り」など守れようか。
歴史修正主義と千畝  ここで,小林よしのりが,千畝のエピソードをどのような文脈で引用しているかいま一度想起してみよう。

 まず『戦争論』では,同盟国ドイツと違い,日本が「八紘一宇の主張を貫いていた!」と述べる小林が,「日本は二万人のユダヤ人を救ったのだが,ユダヤ人は原爆を作って日本人の大虐殺に手を貸した」という言明に関連して「樋口季一郎少将と安江仙江〔ママ〕大佐」に言及する個所に千畝が出てくる(マンハッタン計画において,何故ユダヤ系の科学者に限って民族的出自が問題にされるのかという設問を愚鈍なデマゴーグに期待するのは,無い物ねだりと言うべきであろう。また,樋口は清廉で有能な軍人だが,ソ満国境に来たユダヤ難民は,数名から多くて二百人の小集団で,満州里駅で働いていた上野破魔治や事件当時満鉄にいた庄島辰登などが理解する廃業時までの入満ユダヤ人総数が三千ないし四千名であり,「二万人のユダヤ人」がソ満国境に殺到したことなどありはしない。「二万人のユダヤ人」という虚説に関しては,稿を改めて詳説するつもりである)。『新ゴーマニズム宣言』の第八四章でも,杉原領事と樋口少将の逸話が併記され,「猶太(ユダヤ)人対策要綱」にふれ,「『人種平等』は日本の国是」という主張がなされるが,その章の総題は,「『南京事件』と『ホロコースト』は全く違う」である。

 第八四章のオトポール事件の挿し絵は,第一一三章にも転載され,日本企業への賠償請求にふれ,「悲しいことに,一部のユダヤ人団体がこの世界連盟と連携しているらしい。日本は戦時中『ユダヤ人対策要綱』を出し,ユダヤ人を排斥しないと決め彼らを守ったのに…」としているが,同じ事を「日本会議」機関誌で藤原が述べている。そして,『サピオ』誌ユダヤ特集号のリードは,「南京虐殺,捕虜虐待,アジア諸国蹂躙」で始まる。小林よしのりと藤原宣夫らの議論の道筋は,申し合わせたようにピタリと符合する。

 「つくる会」や「日本会議」周辺の論者から杉原千畝に関するエピソードが議論される場合,そこに一定の準拠枠があることには,あまり注意が向けてこられなかったように思われるので,ここで整理しておこう。
千畝のエピソードが提出される場合は,決まってオトポール駅の樋口美談が随伴する。

 五相会議で決定されたユダヤ人対策案にしばしば言及されるが,旧軍で最も熱心にユダヤ人保護を推進した安江仙弘(のりひろ)大佐に対する言及は,わずかである。
戦中のユダヤ人対策が,南京事件など日本の戦争犯罪が議論されるコンテクストのなかで脱文脈的に言及される。

 戦中日本の人種政策に関する語りは,南京事件に関する判断など歴史認識をめぐる言説空間で展開されるのである。

 ナチス・ドイツと同盟関係にあったことは明白な史実なので,これを否定することは難しい。そこで,ナチスの人種政策との相違点をできるだけ強調し,日本社会が過去に犯した対外上の過ちを相対化し希釈するという方便が,窮余の策として要請されるというわけである。

 こうした修正主義の目論見のなかで,最も目障りなのは,千畝のビザ発給に関して個人的契機が強調されることである。杉原美談と樋口美談が併論されるのは,杉原と樋口の関係を,「私」と「公」のゼロサム状態で修正主義者たちがとらえているからである。『知っているつもり?』への「つくる会」メンバーのファックス記事で,「軍人を評価するのは,今の時代難しいことですが,杉原よりも偉大だったのはむしろ関東軍の樋口季一郎少将」で,杉原は「日本政府のユダヤ人保護政策に従ったまで」とあるのは,このゼロサム・ゲームのルールをよく表しているだろう。

 安江大佐にふれられるのがまれであるのは,まかり間違って,当時の日本の人種政策について調べてみようなどという勉強熱心な読者や聴衆を発掘してしまうと,ユダヤ人保護に尽力した安江が,日独伊三国同盟締結の直後に予備役に編入されたことや,五相会議決定の廃案理由(「ユダヤ人利用による外資導入と対米関係打開の必要がなくなった為」)が露見してしまうおそれがあるからである。

 『サピオ』誌によるインタビュー記事の,千畝が「ユダヤ人救済のための特命を受けていたという証拠は見あたらない」という言明と,リードの「杉原千畝を後押しした日本の要人たち」という文言が整合するかどうかを,日本語を解しないレビンが検証できないことは,歴史を都合の良いように歪曲する修正主義者たちにとって好都合なのである。

 しかし,右の言明で旧著の主張から一歩踏み出したレビンは,いかに日本語を解さぬとはいえ,いつまでも自身の言説を囲繞するリヴィジョニスト的底意に無自覚でいるとは考えにくい。

 なにしろ,「日本会議」といえば,最高幹部の小堀桂一郎(「つくる会」の著名会員)が,『マルコポーロ』誌事件で有名になったIHR(Institute for Historical Review)を「アメリカ国民の真面目で,公正で,良心的な側面」(『正論』一九九四年八月号)を表す研究所などとする,穏やかならざる団体である。「ガス室はなかった」とか「『アンネの日記』は作り話だ」などという下劣なデマゴギーを垂れ流す反ユダヤ主義団体を,小堀は,「歴史を事実に基づいて検証し直せ,との要請に発する地道な資料蒐集活動を続けている」と褒めそやす。

 その蒐集資料と列挙されるのは,『操られたルーズベルト』(C.B.ドール著,馬野周二訳)や『日米・開戦の悲劇』(H.フィッシュ著,岡崎久彦監訳)などいった類で,いずれもルーズベルトが,真珠湾攻撃を事前に知っていたと主張するものである。

 歴史修正主義とホロコースト否定論の最も手厳しい批判者デボラ・リップシュタットは,『ホロコーストの真実』(原著は『千畝』同様フリー・プレス刊)のなかで,IHRが何故真珠湾問題にこだわるのかについて,「この戦争がその核心においてほかの紛争と同じであることを示せるならば,特殊な悪の告白とか特別の戦争犯罪裁判は無効であると主張できる」からだと明敏に洞察している。「戦争の残虐行為というのはお互いさまで,どっちが悪いということもない」(『大東亜戦争の総括』所収)と講演で述べる岡崎久彦が,フィッシュの監訳者であるのは決して偶然ではないだろう。

 日本語を解さぬヒレル・レビンが,自らの研究を取り巻いているポレミックな脈絡(レビン講演会の主催者が,他ならぬ「日本会議」の国際広報委員会なのだ!)にどれほど自覚的なのかは分からない。ただ,『千畝』の原著の文献一覧には,宮沢とグッドマンの英語文献(フリー・プレス刊)があがっているので,「戦時中の情勢からいえば,杉原は日本政府を裏切ったことになり,不服従を理由に罰されたのである。だからいまになって日本政府がかれの行動をほめ,あたかもかれが役人の典型であったかのごとくいうのは,日本の反ユダヤ主義の歴史から目をそらそうとする,見えすいた行動である」という文は,英語の原文で読んでいるはずだ。
「避難民のなかには,男だけでなく,女も老人も子供もいた。皆,疲労困憊していたようだった」(一九六七年の回想記)と,千畝は,カウナスの日本領事館をとりまく難民たちの顔を想起している。カウナスに生まれ,同地に残した親族がナチスの犠牲になった哲学者エマニュエル・レヴィナスは,自我意識にたてこもらない他者体験を,「他者の顔」と表現した。そして,「顔を前にして応答する」ことは「顔に対して責任を負う」ことであるとして,リスポンシビリティ(応答可能性=責任)の両義性に注意を喚起する。

 「憐れに思うからやっているのだ。ただそれだけのことだ」と千畝が答えた,難民たちの「疲労困憊」の顔は,世界中の至るところで,いまもなおわれわれに呼びかけている。