宝誌

 宝誌(ほうし、 418年(義熙14年) – 514年(天監13年))は、中国の南朝において活躍した神異・風狂の僧である。

20140211175649de6

生涯

誌法師墓誌銘

 宋代の465年頃に、都の建康郊外の鍾山に出没し、また都にも現れるようになったが、当時5、60歳くらいの年配に見え、特に神異的な行跡は見られなかった。

 南斉の成立頃より神異の行いが見られ始めた。長髪・裸足の姿で徘徊し、手にした錫杖には鏡や鋏などをぶら下げるようになった。また酒肴を口にしたり、あるいは数日間何も食べないこともあるといったあり様であった。さらに予言を行い、人の心中を言い当てた。一時に数所に現れるという分身のさまも目撃された。

 梁の天監13年(514年)、都の華林園内の仏堂で没した。亡くなる前には、金剛像を屋外に出させて「菩薩は当に去るべし」と述べたという。武帝は宝誌のために鍾山に開善寺を建立し、その菩提所として手厚く供養した。以上が、武帝が陸スイに命じて撰させた「誌法師墓誌銘」(『芸文類聚』巻77)の内容である。

signes photo_7 photo_4 p_saioji_001

梁京師釈保誌伝

 また、梁の慧皎の『高僧伝』巻10には、「梁京師釈保誌伝」として立伝されている。なお、「宝」と「保」とは音通のため、互用される事がある。それによると、俗姓が朱氏で、金城の人であり、若い時に建康道林寺の僧倹に師事したという。

 宋の泰始元年(465年)頃から、居所が定まらず、飲食に時なく、頭髪は数寸に伸ばし、街巷を裸足で彷徨する、という、常人と異なった行動が見られるようになった。その手にする錫杖には、鏡・鋏、又は一匹の帛(はく・絹)が掛けられていた。

 南斉の建元年間(479年 – 482年)頃より、神異(神の示す霊威。人間業でない不思議なこと)の能力を示すようになった。何日も飲食しなくても、飢えた様がなかった。人に対して予言の言動があり、又は賦した詩が、後に予言記であったことが判明する、などの事があり、都の人士は、みな彼を信奉した。

 南斉の武帝は、そのような保誌を危険視し、建康の獄舎に収監した。それでも、保誌は、獄中と市中に同時に現れる、という分身の術を見せたり、文恵太子や竟陵王が施した食事のことを、獄卒(牢獄(ろうごく)で、囚人を取り締まる下級役人。獄丁(ごくてい)に予言したりした。

 その他にも、分身した行跡や、人心を読んで先んじた行動をした、生魚を満腹に食した筈なのに、保誌が去った後には、ピチピチした魚が元の通り泳いでいた、などの異事を示した。胡諧之らの人物に対しては、「明屈」の返書によって、その死を予言した。斉の武帝に対しては、父で先帝の高帝が地獄で錐刀の極苦を受けている様を見せ、以後、武帝は錐刀の刑罰を止めさせたという。

  梁の武帝は、そのような保誌を尊崇し、「誌公の行跡は俗に塗れるも、神異のさまは奥深い。(中略)今より、行道来往は、随意出入し、復た禁ずるを得ること なかれ」という詔を発し、その宮中への出入も容認し、天監5年(506年)には、祈雨の効がなかったので、保誌の奨めによって法雲が『勝鬘経』を講ずる と、大雪が降ったという。

 武帝の問いに対し、「十二識」や「安楽禁」と答えることで、十二因縁の教義や、終生修行を途絶えさせないことを教えた。また、陳御虜という人物のために保誌の真形を現したところ、その光相が菩薩像のようであった、としており、後世の宝誌像の原型となる説話が、既に同時代の『高僧伝』中で語られていたことが分かる。

 「菩薩、将に去かんとす」と自らの死を予言して、保誌が入寂すると、武帝は、鍾山の独龍阜に開善精舎を建立し、陸スイに銘辞を撰させて塚内に蔵し、王筠に碑文を撰させて寺門に建てた。

日本への影響

 日本においては、『宇治拾遺物語』巻9に「宝誌和尚影の事」として、その十一面観音の化身としての説話が伝承され、また、「野馬台詩」と呼ばれる日本の未来記の撰者としても、古来知られる存在となった。

  昔、中国に宝志和尚という聖者あり。大変尊敬された聖者であったため、帝が「かの聖者の像を、影(肖像)として残そう」と述べられ、3人の絵師を遣わし た。1人の絵師なら、写し誤ることもあるから、という意味で、3人が個々に描くように、帝は命じられた。3人は宝志の所に参じ、帝の命を伝えた。すると、 宝志は「暫し待て」と言い、僧服を着して戻った。3絵師が、描画の用意を整え、3人そろって筆を入れようとしたところ、宝志が「暫し待て。我が真影がある。それを見て描写せよ」と言った。3絵師が見ている間に、聖者の顔を見ると、親指の爪を用いて、額の皮を裂き切り、その皮を左右に引きひろげ、金色に輝く菩薩の面相を現した。 1絵師には十一面観音に見え、1絵師には聖観音と見えた。各自が見えたところを写し取り、帝に献上した。帝は大層驚き、別の使者を派遣して様子を伺った。 すると、宝志は突如姿をくらました。それより、人々は、宝志は常人ではなかったのだ、と言い合うようになった、と伝えられている。 —『宇治拾遺物語』巻9

 また、神仏習合に基づく両部神道の書物である『天照皇太神儀軌』は、別称を『宝誌和尚口伝』といい、その作者が宝誌に仮託されている(佐藤著書)。

 京都市下京区高辻通り大宮西入ルの西往寺には、平安時代の作とされる宝誌和尚像(木像、鉈彫り)が伝来している(重要文化財、京都国立博物館に寄託)。この像は、宝誌の顔面が縦に裂けて、その内側から十一面観音の相を現そうとする瞬間を具象化した、特異な彫像である。この像の写真が、ロラン・バルトの『表徴の帝国』(宗左近訳, ちくま学芸文庫, 1996年 ISBN 4480083073)のカバー写真に採用され、その存在が広く知られるようになった。

  また、大徳寺蔵の五百羅漢図像のうち、明治期にアメリカに流出し、現在はボストン美術館に像される画幅中にも、同様の図像が描かれ、宝誌を羅漢の1人とし て表した遺例の1つであると考えられている。更に、同様の遺像は、中国の四川省地域の石窟中にも多数遺存していることが、明らかとなり、西往寺の像のみが遺例ではないことが判明している(北論文)。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です