日本仏教史
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如来形立像
如来形立像 唐招提寺〈奈良市〉
■破損してなお力強い造形美
頭部、両手、両足首を失った姿が痛ましい。元の尊名も分からないが、装飾品をつけていないので如来だったと考えられ、「如来形立像」と名付けられた。「唐招提寺のトルソー」とも呼ばれ、この方が有名だ。大きく破損しているが、優れた彫像がもつ造形美と力強さがあり、仏像ファンを魅了してきた。
昔は講堂にあり、今は鉄筋コンクリートの新宝蔵に安置されている。像高154センチ、脚の長い、腰高のスマートな体形だが、大腿(だいたい)部は盛り上がって、がっしりしている。胴体部は、豊満な胸、衣を通して表される膨らんだ腹、引き締まった腰が抑揚に富む。衣のひだ(衣文(えもん))が整然とした波形の曲線を描く。翻波(ほんぱ)式衣文と呼ばれる様式で、腹部、そで、大腿部に浅く、鋭く、洗練された彫り口で刻まれ、リズム感をつくっている。
全体の均整がとれ、理想的な肉体を表現しようとしているところは奈良時代的だが、衣文の表し方や大腿部の強調など平安時代前期の特徴ももつ。制作年代を絞るのが難しく、学者の意見は8世紀後半~9世紀と幅が広い。
トルソーはイタリア語で首や手足を欠いた胴体だけの彫像を指す。そうした状態で発掘された古代ギリシャ・ローマ時代の石造彫刻がミケランジェロらによって美術的価値を見いだされた。さらに「近代彫刻の父」ロダンがトルソーに自律した独自の形態を見いだし、作品として制作した。彫刻に対する新しい考え方が西欧から日本に入り、破損仏にも光が当てられて「唐招提寺のトルソー」の異名が生まれたのだろう。
カヤの一木造り。一木造りは京都・神護寺の薬師如来像に代表される、ダイナミックで量感のある個性的な平安初期様式の仏像を生む。同様式の先駆をなしたのが唐招提寺の奈良時代後半の木彫群で、そこには唐の石彫りの影響があると指摘されている。
こうして見ると、如来形立像は単に首や手が欠けているからではなく、石造彫刻の影響を受けた木彫としてヨーロッパのトルソーと共通するものがある。異名は、確かにこの像にふさわしい。(フリーライター・沖真治)
頭部と両手先及び両足の失われたこの如来像は、多くの破損仏と共に唐招提寺の講堂に安置されている。
唐招提寺は、宝字年間(757~764)、に唐僧鑑真により創められた寺であるが、今日まで主要な堂が火災を免れている為、天平末期より貞観時代にかけての古仏が破損したまま、たくさんに残っている。この像もその一つ。
肩の張った姿や肉付きのよい股、その上に平行線を描いている衣文、これらは、唐招提寺の木彫の特色で、普通唐招提寺様と呼ばれている。
「日本の彫刻 上古~鎌倉」 美術出版社 1966年より
頭部が失われているが、なお、生き生きとした造型性を持つ木彫である。唐僧鑑真の建てた唐招提寺には、この種の新様式を持つ木彫が多い。これらは、鑑真と共に来朝した工人が作ったものと考えられる。
「日本の彫刻」 久野健編 吉川弘文館 1968年より
頭部や手足が欠けたギリシャ・ローマの彫刻をトルソーと呼ぶ。そこには、その当初の形について、限りない想像力をうながす、「可能性の美」ともいうべき鑑賞の楽しみがある。そしてヨーロッパも近代に入ると、トルソーに固有の、人体そのものとしては、不完全な形にも関わらず、いやそれゆえにむしろ、彫刻として独立した芸術性の存在が主張される。
ロダンやマイヨールのトルソーは、造形自信の魅力によって、そこに彫刻としては、まさに完結した、美しさがある事を私達に教えてくれる。
この如来立像が唐招提寺のトルソーとして注目されるに至る背景には、このようなヨーロッパ近代の彫刻に対する新しい見方が関わっている。本像の立ち姿は瀟洒で美しい。
たとえそれが偶然性をともなう、単なる破損の結果であったとしても、である。腰の両脇から股間、そして膝下へと一気に筆を走らせたような勢いに満ちた衣文線はもとより、その腰高なプロポーション、更には胸や腹、太腿、腰などの各部の張りを程好く強調した量感の把握等々、いずれの要素も本像のトルソーとしての在り方に、矛盾なく充足している。
この現実の前には、像本来の顔かたちや、両手によって示されたであろう印相への疑問などは、全く些末なこととも思われる。否、本像の造形美を率直に甘受した上でなお、というのなら、それもまた像の鑑賞をより深める上で有効といえよう。
本像のような、大衣を偏袒右肩にまとい右肩を偏衫(へんざん)でおおう着衣は、如来一般あるいは、地蔵菩薩に共通するものである。また両臂を屈して手を前方に出す形は、左手に薬壷を持ち右手で施無畏印を表わす薬師如来、ないしは両手に宝珠と錫杖を持つ地蔵菩薩に当たる可能性が強い。朱で彩る大衣も、当時の薬師や地蔵によく見受けられる。
更にその構造に及ぶと、頭部から足枘まで、ほぼ榧材の一木で彫り出し、後頭部と背中の上下の、計三ヶ所から深く内刳りを施し、内部で互いに貫通させて、それぞれ蓋板を当てる。また左腕に懸かる衣の外側など部分的に薄く塑土を盛って仕上げの整形を行う。
この塑土を仕上げに用いる例には、九世紀後半から十世紀初めの製作と見られる大阪・観心寺や東京・個人蔵の地蔵菩薩像が挙げられ、着衣や衣文の構成も本像のそれに近い。さきの内刳りが深い事と合せて、本像の年代を考える一つの有力な手掛かりとなろう。
「特別展 大和古寺の仏たち」 1993年 東京国立博物館より
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