仏教と神々と共存
■仏教と日本在来の神々、なぜ共存 寛容な風土の中、仏教も変容
■仏教の伝来
<問> 日本列島に仏教が伝わると、在来の神々への信仰もいろいろな影響を受けることになった。在来の神々への信仰と仏教の間には違いがあったにもかかわらず、両者の共存が可能となった理由について、60字以内で述べなさい。
(2015年度、東京大学、改題)
在来の神々への信仰と、伝来した仏教との融合ログイン前の続き(神仏習合)は早くも奈良時代から見られ、神宮寺の建立や神前読経が行われました。そして、現代においても、七五三など人生の節目には神社にお参りし、葬儀は仏式で行うというように、生と死の領域で両者はすみ分けられています。こうした「共存」が可能となった背景には、日本独特の宗教的風土がありました。
■神の一つとして
中国・朝鮮半島を経由して日本列島に仏教がもたらされたのは、古墳時代後期の6世紀半ばのことです。当時のヤマト政権と密接な関係にあった百済の聖明王から仏像・経論が献上されると、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏による争いをへて、仏教は外国から渡来した神「蕃神(あだしくにのかみ)」として受容されます。
豊かな自然に恵まれた日本の風土では古来、自然物や自然現象に神(霊魂)の存在を認めるアニミズムが発達しました。例えば、福岡県の宗像大社・沖津宮は玄界灘の沖ノ島を、奈良県の大神(おおみわ)神社は三輪山を御神体として祀(まつ)っており、いずれもその周辺から古墳時代の祭祀(さいし)遺跡・祭祀遺物が発見されています。
このようにして多数の神が存在する日本の宗教的風土は、仏を神の一つとして受け入れる寛容さを持ち合わせていました。
神の原像を共同体の外部から訪れて恵みをもたらす「まれびと」に見いだしたのは国文学者の折口信夫ですが、仏教の仏はまさに「まれびと」としての神だったのです。
■古墳の役割継ぐ
一方で、仏教もまた日本の風土に適するように形を変えていく柔軟さがありました。
在来の神々は、病気平癒や一族の安泰といった現世利益的な願いをつかさどる存在でした。仏教は、そうした役割を受け入れていったのです。
6世紀末から7世紀初めにかけての飛鳥時代には、豪族らが古墳に代わって寺院(氏寺)を建立しました。例えば、蘇我氏の氏寺である奈良県明日香村の飛鳥寺(法興寺)の塔の下には、勾玉(まがたま)や武具といった古墳の副葬品と同様の品々が埋納されていたことが確認されています。
これは、祖先を祀り、一族の権勢を誇示するという古墳の役割を寺院が引き継いだことを示すものです。
また、大阪市の四天王寺は、厩戸(うまやと)皇子(聖徳太子)が物部氏との戦いでの勝利を四天王に祈り、勝利を得たので創建したと伝えられています。このように仏教は当初、現世利益をかなえる呪術として受け入れられました。そして8世紀の奈良時代には、戦乱や疫病から朝廷を守る鎮護国家の役割を担うようになります。
煩悩を滅して悟りを得るという仏教本来のあり方からすれば、それは〈変質〉と言えるでしょう。しかし、人々の望みに応える〈しなやかさ〉があったからこそ、仏教は日本の風土に根づき、在来の神々とも「共存」できたのです。(相澤理・学びエイド講師)
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