運慶と快慶の相違

表紙78

■運慶

 運慶(?〜一二二三) の現存する作品数はそれほど多くないが、鎌倉彫刻をリードした巨匠であることには異論がないであろう。ここでは膨大な先学の研究成果を踏まえながら、運慶の写実の変遷を見、慶派の基礎を固めた足跡をたどろう。

 運慶は康慶(?〜?)の嫡男として生まれ、康慶のもとで仏師としての修業を積んだことが安元二年(一一七六)造立の円成寺大日如来像(下図7)35の台座銘文などからほぼ明らかである。当時二十五歳前後と考えられる運慶が康慶のもとで制作した現存する最も若い時期の作例がこの像であり、宝相華文(ほうそうけりもん)の光背光脚(こうはいこうきやく)やうず高い髻(たぶさ)に古典研究の成果を盛り込みながら、玉眼や精悍(せいかん)な相好は斬新な写実がなされ、全体の見事なバランスには新進気鋭の作家の才気煥発なところが示されている。けれどもやや細身の体躯や衣文の浅い彫りは基本的には穏健な平安後期定朝様の範疇を出ず、のちの迫力ある関東の運慶作例に到達する過程での運慶学習期の作例であるという位置づけも行われている。しかし像全体にはりつめた緊張感は、写実とは対局に位置する定朝様の造形意識からは生まれてこないものであり、運慶の視点の新しさにはやはり注意すべきであろう。このような円成寺像の清新な作風を成立させた要因としては、ほぼ同時期の瑞林寺(ずいりんじ)地蔵菩薩像(1)に見られるように、玉眼や衣文のさばきに写実を追求した父康慶の刺激を強く受けていたことは言うまでもない。

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 さらに、新しい仏教が胎動していた奈良の東方に位置する円成寺の造像においては、図像が従来の伝統にとらわれず、造像環境でも運慶の自由な裁量が許されたため、彼の写実の腕が存分に発揮されたことも指摘しうる。治承(じしょう)の乱以降の彼の作風とは確かに相違点も認められるが、古典研究の上に新たな写実の要素をふんだんに盛り込み見事に消化した作例であり、慶派仏師の転換点となった治承の乱以前の作品としては極めて意欲的な像であるといえよう。

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 治承四年(一一八〇)の平重衡(たいらのしげひら)による南都の焼き討ち、いわゆる治承の乱は様々な面で転換点となったが、運慶においてもそれは重大な意味をもった出来事であったと考えられる。東大寺大仏殿の焼柱材をに用いた寿永二年二一八三)の運慶願経(上図5)は、快慶や実慶、宗慶、源慶といった同門の仏師も結線しており、慶派が総力挙げて乱後の復興にかける意気込みを強く訴えかけてくる。

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 この後運慶は鎌倉武士関係の造仏、すなわち文治二年(一一八六)に造仏が始まった北条時政発願の願成就院、文治五年(一一八九)和田義盛発願(ほつがん)の浄楽寺の諸像の造立にたずさわる。成朝が源頼朝の勝長寿院造仏を手がけて以来、慶派は鎌倉武士との関係を持つようになっていたのである。これら諸仏像は、それまでのどのような彫刻とも、また円成寺大日像とも違った豪快な迫力に富んだ作風を示す願成就院制多迦童子像(8)や浄楽寺不動明王像(9)にみられるように、球面を連続させたはちきれるような骨太の体躯、意志の強さを感じさせる厳しい面相、太くうねる複雑な衣文線という特徴をもつこれらの像は、現実に目前に迫り来るような力を再現した造形に仏像の理想像を見いだした価値観に裏付けられたものといえよう。

 こうした像が生み出された要因は、すでに研究されているように治承の乱で焼失した南都の復興にかける意気込みに求めることもできるし、また新興の鎌倉武士の気概に触発されたことにもよるであろう。こうした運慶の願成就院、浄楽寺の諸像を特徴づける「大きな力」とでも表現すべき指向性は、興福寺南円堂の諸像にみられるような、古典彫刻の研究に基づいて堂々とした体躯や生々しいまでの写実表現を追求した康慶の影響のもとに、治承の乱後の復興事業や鎌倉武士との接触によって運慶の中で明確化し造形にはっきりと現れたと考えることができるのである。この傾向は運慶、康慶以外にも、文治から建久年間にかけての快慶の作例にも同様に指摘でき、南都復興に携わった慶派仏師の一般的な傾向であったと考えることもできる。

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 かたく締まった太造りの体躯や厳しく明確な表情を基本とするダイナミックな写実様式はこの後しばらく運慶の造形の基本となる。建久九年(一一九八)の金剛峯寺不動堂八大童子像(10)や正治三年(一二〇一)の瀧山寺聖観音・梵天・帝釈天像(11)がこの範疇に属する像である。しかし文治年間の造像である願成就院、浄楽寺の諸像では迫力に富むけれども幾分の荒削りな感は否めなかったのに対し、ここではあらゆる造形にゆとりが感じられ、はるかに洗練された感覚でまとめあげられている。きりりとした目鼻立ちはたくましい体躯とマッチし、着衣は重さと軽さとが絶妙なバランスで表現され見事な質感を示す。この風格さえ漂わせるほどの完成度の高さは、興福寺や東大寺の再興造像で数多くの仏像を手がけ、古典研究の成果が蓄積されたことによって、さまざまな注文にも十分に対応できる余裕を生み出したことに起因すると言えよう。また、湛慶をはじめとする子息たちや弟子たちが成長し、運慶工房の手が充実してきたことも大きな要因であろう。

 建久年間を中心とする熟練の時期を飾る大作が、建仁三年(一二〇三)の東大寺南大門金剛力士 (仁王)像である。治承の乱後の東大寺復興では、勧進上人俊乗房重源のもとで、中国・宋の工人陳和卿が登用され、また康慶や運慶・快慶といった慶派仏師のみならず、京都に本拠をおいていた院派の仏師も動員された。鎌倉幕府の援肋も得て、この日本仏教の一大モニュメントとも言える東大寺の再興は進められていったのである。慶派は中門の二天像や、大仏の脇侍、大仏殿四天王像などを受け持ったが、それらがすべて滅びてしまった中、唯一当時の姿を今に伝えるのがこの南大門仁王像である。

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 近年の解体修理によって、阿形像は運慶と快慶が、吽形像は湛慶と定覚が大仏師として造立にかかわったことが明らかになるなど、新資料が数多く見いだされた。従来は『東大寺別当次第』に記す、運慶、備中法橋、安阿弥陀仏(あんなにだぶつ)、越後法橋という四人の仏師のうち、両像の作風の比較から、上下左右方向の広がりが強調され衣文がにぎやかな阿形像を絵画的で装飾的な像を得意とする快慶が制作し、大づかみな造形のなかにすごみが感じられる吽形像を迫力ある像を得意とした運慶が担当した、という解釈がなされていた。そして備中法橋(湛慶か)は運慶を、越後法橋(走覚か)は快慶を補佐し、全体は運慶が続率したのであろうという考え方が一般的であったのである。けれども今回の修理の結果、実際の担当仏師としては、どちらかと言えば絵画的な阿形像を運慶と快慶が制作したということが判明し、これまでの見方を再検討する必要に迫られることになったわけである。この間題は、巨像の工房制作において像完成までのプロジェクトの総監督と、その下で実際に材に竪をふるう仏師との担当範囲の区分をどう考えるか、という問題に深く関わることである。しかもこの仁王像の場合、二カ月余りという短期間で制作するという状況も加わるため、実際誰が制作したのかを判断するのは大変難しい。様式的には、巨像であるため他の作例とは単純に比較できないが、目鼻立ちを中央に集めがちにして体の各部の肉付けを明確にしつつ動きのある一瞬をとらえた造形に運慶の力動感ある写実性これまでより一層よく反映されているし、風を受けて両足にまとわりつく裳の巧みな表現も同様である。また畔形像の上境やへソの位置がほぼ完成した後に修正されており、巨像の視覚的な効果を最終的にチェックする責任者の存在が想定できるが、そこに当時既に亡くなっていたと考えられる康慶の跡を継いで慶派工房の棟梁となった運慶の存在を認めることもできよう。また東大寺大仏殿四天王像の復興の際のように雛形をもとに分業制作したならば、雛形に基づいた完成像には担当仏師の個性が反映されないこともあり得るので、従来の考え方が全く否定される必要はないと思われる。ほかに作品の知られない定覚に関する問題も含めて、今後さらに研究が進むことが期待される。

 東大寺仁王像でもう一つ注意すべき問題は、その図像に関してである。中国・北宋より請来された雍煕二年(九八五)の清涼寺釈迦如来像の納入品中の版本霊山浄土図中の金剛力士像の形姿が東大寺仁王像ときわめて近いことが指摘されている。清涼寺釈迦像をもたらしたちょう然は東大寺別当であったこともあり、東大寺復興でも宋工陳和卿を採用するなど中国の美術に人一倍関心を寄せていた重源が、清涼寺釈迦像納入品に基づいて東大寺仁王像を造像した可能性が考えられるのである。快慶は重源の指導のもとに宋仏画を手本にして浄土寺阿弥陀三尊像を造像しており、運慶も東大寺大勧進重源の構想に従い、南大門仁王像を清涼寺釈迦納入版画の図像で制作した可能性も考えられる。

 この頃運慶は建久六年(一一九五)康慶の譲りで法眼に叙位され、また建仁二年(一二〇二)近衛基通発願白檀普賢菩薩像を制作するなど、貴族とのつながりも一層強くなり、また文覚(もんがく)らとの交流によって京都の東寺や神護寺の彫刻の修理や新造にも携わっている。院派の院尊や円派の明円、さらには康慶といった各流派の棟梁が相次いでこの時期に亡くなるが、こうした仏師の世代交代が進む中で、本拠を南都から京都に移したのもこの頃と考えられる。建仁三年の東大寺総供養で僧綱の最高位である法印に叙された運慶率いる一門は、さまざまな層からの支持を獲得し、院派や円派に互して名実ともに彫刻界に確乎たる地位を築き上げ君臨していくのである。

無著世親像(興福寺)

 現存する運慶最後の作品が興福寺北円堂弥勤仏・無著・世親菩薩像である。治承四年の南都焼亡後、藤原氏の氏寺である興福寺では速やかに復興が企てられ、主要伽藍から再興されていったが、北円堂はかなり遅れ、近衛家実の日記『猪隈関白記』によると、仏像は承元二年二二〇八)十二月十七日に造り始められ、納入品に記す建暦二年(一二一二)に完成したとみられる。このほか脇侍法苑林・大妙相菩薩、四天王像も造立されたが、脇侍菩薩は現存せず、四天王像は興福寺ほかに分蔵されるものがそれに該当するとの説もあるが明確な結論は得られていない。

 この北円堂の造仏では各像の担当小仏師の名前が弥勅使の台座銘より判明しており、運慶率いる工房がこの一群を制作したことが知られる。弥勤像は源慶・静慶、法苑林は運覚、四天王像は湛慶、康運、康弁、康勝、無著像は運助、世親像は運賀というように、中尊は運慶願経にも名を見せる有力弟子が、その他の像は運慶の息子たちが担当し、『猪隈関白記』によると惣大仏師(そうだいぶっし)は運慶であった。中尊などの重要な像を経験豊かな兄弟子たちが制作し、それ以外は若い弟子たちに任せられるという分担形態である。

 北円堂諸像の作風は以前とは大きな違いを見せる弥勤仏像では、従来の運慶の充実した太造りの体躯とは違い、やや腰高でスマートな印象が強い。着衣も整理され襞が深く自在にうねるという感じはなく、写実よりも整斉を感じさせる。そして何よりも深遠な世界を秘めたようなやや暗く厳しい表情が目を引きつける。もはや体躯や着衣は写実を離れ理想化される傾向にあり、一方では厳格な相好が仏世界の深遠さを象徴的に表していると言える。無著・世親像では、まさに実在の人物を写したかのような高僧の迫真的な表情と、揺るぎない精神を反映した堂々たる体躯に圧倒される。

無著世親像(興福寺)

 いままでの運慶の諸作例、とくに願成就院以降では彫刻自体の物理的な存在感が群を抜いていたのだが、北円堂の弥勤仏、無著・世親像ともに、彫刻自体の存在ではなく、それを通じて眼前に示される広大な精神世界にむしろ表現のウェイトがおかれている。そこには、興福寺復興造像に共通する命題とも言える古典彫刻の復興という意識が強く働いている。天平彫刻の理想化された写実や高い精神性が北円堂の作例に強く(そうぎし)反映されていると考えてよかろう。形式的にも弥勃像の胸前の衣の折り返しや僧舐支の緑をのぞかせるところなどは、古像に則った可能性が高い。由緒正しい古典彫刻の宝庫であり伝統を重視する興福寺の造像においては、運慶は古典彫刻の理想像、精神性を自己の様式の中に取り込んで新たな作風として打ち出したのであろう。48 44 42

 さらに、弥勤仏像の波打つ髪際線、低平な肉誓、アクセントの強い目鼻立ち、僧祓支の緑を胸前にのぞかせるところや、無著・世親像の袈裟の鐶(かん)には、当時盛んに摂取された中国・末代美術の影響を考える必要もあろうか。 こうした北円堂弥勤像の様式が後の時代に及ばした影響はことのほか大きかったと言ってよく、たとえば湛慶あるいはその周辺の制作とみられる如来像には北円堂弥勤像の作風に忠実であるものが多くみられる。極端な荒々しさを排除した運慶晩年の様式が様々な層に受け入れられやすかったことがその要因であろうが、北円堂諸像の写実は以降の運慶一門の基準となったと位置づけることもできよう。 このほか運慶あるいはその工房の作と考えられるものに六波羅蜜寺地蔵菩薩像と光得寺大日如来像(13)がある。

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 前者は古風な一木造の構造に試作的な要素が見られ、相好が円成寺大日像と似ることから、運慶の比較的若い時期の制作になる可能性が強い作品であり、後者は上げ底式の構造や納入品安置の仕方などに他の運慶作例との関連が指摘できる。 運慶の様式の変遷を中心にたどってきたが、彼が年齢を重ね技術を磨くことによって作風の幅を広げ次々と名作を生み出してきたことは従来論じられてきたとおりである。けれども、自らの天分のみを頼って造像に励むという運慶像を思い描くことは少し一面的であろう。鎌倉武士関係の造仏に見られる荒々しいまでの力強さや、東大寺仁王像における外来要素の摂取、興福寺北円堂諸像での復古的作風といった点には、願主の要求する仏像の姿をいち早く察知して実際の造形に反映したという、時代に即応する芸術家の姿が浮き彫りにされる。運慶が単に腕の達者な仏師にとどまらず、幅広い注文に応じることができるように時流に敏感であったことが一門の隆盛につながったことは間違いないであろう。            

■快慶 

 歴代の仏師の中で、快慶ほど残された彫刻や記録が数多く知られる人はいない。しかし、その生没年は不明である。快慶の活躍期間は、記録の上では寿永二年(一一八三)運慶願経に結線してから貞応二年(一一二三)醍醐寺閣魔堂諸像の造像までが知られている。奇しくも、運慶没年と同年までの活動が知られているわけである。

 その活躍期間は、建久三年(一一九二)頃から安阿弥陀仏と号した無位の時代、建仁三年(一二〇三)十一月に法橋となり、承元一年(一二〇八)から同四年の間に法眼位にのぼるまでの法橋時代、承元二〜四年以降の法眼時代と、三期に分けることができる。以下、この区分によって、快慶の事績をたどっておこう。

■無位時代

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 快慶の作例中で、もっとも早いのは、文治五年(一一八九)のボストン美術館弥勅書薩像である。肉身のふくよかな張りは、同年に制作された運慶の浄楽寺阿弥陀如来の脇侍像と同じ方向を目指している。ただし浄楽寺像との間には、まとまりは良いが、動きがおとなしく運慶の様なダイナミックさに欠けるという違いがある。

 この三年後の建久三年(一一九二)、以後の快慶作品に共通する独特な目や整理の行き届いた衣文線が見られる醍醐寺弥勅書薩像が造られる。本像は金泥地に各種の切金文様を表した仕上げをするが、これは末代美術の影響であるとみられ、その極めて早い例としても留意される。快慶は以後もこの技法を好んで使用する。また本像はその銘文より、後白河法皇の追善のために醍醐寺座主勝賢(藤原通憲の子)が快慶に遣らせたものであることが分っているが、快慶が「巧匠阿弥陀仏」と名乗った最初の作例としても注目される。この称号は、よく知られているように重源から与えられたものである。この後の快慶の行動は、重源とともになされていくのであるから、ここで重源と快慶の関係を述べておこう。

■(重源と快慶)

 重源は、醍醐寺出身で入来三度といわれ、東大寺再建の大勧進として大きな業績をのこしたことは既に述べた。快慶が係わった重源関係の造像でも、まず慶派仏師の一人として参加した東大寺の巨像制作があげられ、単独のものとしては東大寺の僧形八幡神像(14)阿弥陀如来像俊乗堂(しゅんじょうどう)35・各所に設けられた東大寺の別所の造像がある。

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 ここでは、播磨別所である浄土寺と高野新別所に触れ、それぞれそこから派生する問題についてみておこう。

 浄土寺は、重源がもうけた浄土堂とその丈六の阿弥陀三尊像を今に伝える唯一の例である。この阿弥陀三尊像は、伊賀の新大仏寺像とともに宋仏画を手本として造られたと『南無阿弥陀仏作菩集』に伝えている。確かに浄土寺像は、三尊の構成、着衣の形式、細かな点では髪際が中央で切れ込むこと、長い爪といった外形において、具体的に一致する宋仏画が存在している。しかし、顔の表情や体躯の捉え方は、宋画とはかけ離れ、快慶の持っていた作風でまとめあげている。この点は、快慶のみならず、宋風の摂取態度として、宋仏画から形を借りて、各作家がそれぞれ独自の表現を行なう傾向があったことの指摘がある

 話しは宋風の問題に及んだが、ともあれ浄土寺像の様な新しい様式の阿弥陀三尊像であったかはともかくとして、多くの別所には丈六という巨像の阿弥陀如来像が作られたことが『南無阿弥陀仏作善集』によって知られる。重源の別所においては、阿弥陀信仰がその基調としてあったのである。では、この阿弥陀信仰の内容は如何なものであっただろうか。

 この問題も既に、重源は覚鎖(一〇九五〜一一四三) の思想である大日如来と阿弥陀如来が不即不離であるという考え方(大日即阿弥陀)に基づいて、別所を経営していったことが明らかにされている。その原理に立って、各別所には五輪塔と阿弥陀如来が必ず並列的に配された。また重源が付けた阿弥号も、

人の胸中に宿る阿字(大日)が変じて阿弥陀になるという、やはり大日即弥陀の原理によるものであると考えられている。

 以上の様に、重源の阿弥陀信仰が密教的理解の上に立つものであったことは、快慶も同様な考えを持っていたと見ることができよう。快慶が、その阿弥陀号に梵字を使用していることは、これを象徴するであろう。なお、快慶は重源とは別に、法然の浄土教教団との係わりもあったことが近年注目されている。今後より明らかにされていく分野であろう。重源に関しては、東大寺三論宗の浄土教を展開させた永観(一一〇三二〜一一一一)の影響を指摘する意見がある。首肯すべき考えであるが、これも残念ながらここでは詳しく触れることができない。

 高野山の新別所は、造営時期は明らかでなく、元暦頃には終わっていたとみる考えもある。この別所は、専修往生院とも号されるように、源信の二十五三味講の往生院の系統を引くものであり、臨終行儀を行なうための道場であった。この新別所における快慶作品は、『南無阿弥陀仏作善集』の記事より、現在金剛峯寺にのこる四天王像26と、京都・金剛院の執金剛神像(27)深沙大将像28があったと考えられる。また東大寺の俊乗堂の阿弥陀如来像35も、高野山道場へ安置されることを願われた像であった。65

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 この別所と共に、快慶は高野山に遍照光院の阿弥陀如来像金剛峯寺の孔雀明王像(柑)光台院の阿弥陀三尊像(39)などを残している。重源との関連では、遍照光院像が、明遍(空阿弥陀仏)の草創した蓮華三味院の本尊であったとされることを取上げておきたい。蓮華三昧院は重源の新別所の本寺とみなされるもので、快慶もこの関係から蓮華三味院の本尊を造像することとなったのであろう。

 ここで快慶と明通の関係に注目すると、八乗蓮華寺の阿弥陀如来像の納入品の中に明遍自筆の『阿弥陀経』があるし、東大寺僧形八幡神像の結縁者(れちえんしゃ)でもあり、さらに文殊院文殊菩薩像にも自筆の『仏頂尊勝陀羅尼(ぶっちょうそんしょうだらに)』を納めている。この明遍は、先に紹介した醍醐寺弥勅菩薩像の願主であった勝賢と同じく藤原通憲の子であり、また八乗蓮華寺像と文殊院像の願主である慧敏(えびん)は通憲の孫なのである。以上の様に、快慶は通憲の一族と深い繋がりをもっていた事も知られる

■快慶と高僧

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 以上重源と快慶の関係から、快慶と高僧の関係は勝賢、明通、慧敏(えびん)といった人達ともあったことに及んだ。引きつづいて他の高僧との関係をたどっておくと、貞慶(じょうけい)や明恵(みょうえ)の名があがる。貞慶は、総持寺の薬師像を快慶に作らせ、自分が年来の本尊としていたという白檀釈迦像も快慶の作であった。明恵との関係では、建永元年(一二〇六〉に高山寺本堂の判郊っポ釈迦を作り、建保六年(一二一八)に明恵の勧進による清涼寺釈迦如来像の修理をなし、嘉禎二年(一二三六)建立の高山寺十三重塔の弥勤像も快慶による明恵の念持仏であったという。『高山寺縁起』によれば、この弥勤菩薩念持仏は明恵上人が最後の病悩の時、奇瑞(きずい)があったという。また、念持仏(ねんじぶつ)ということであれば、重源も安阿弥陀仏(快慶)より送られた阿弥陀三尊像の厨子を随身していたことが『南無阿弥陀仏作善集』に見えている。

 このように、快慶はいわば何人もの宗教家のための造像を手掛けている。この理由を推測するに、それは高僧たちの持っていた仏像のイメージは快慶作品に近かったからだといえるのではあるまいか。この意味で、運慶はこれらの高僧とはあまり接触が無かったようであるのは興味深い。

 そして、高僧の念持仏を作るということは、特に明恵の場合の様に、奇瑞などが現れるとなおさらであったろうが、快慶作品に付加価値を与えることになったであろう。このようにして、快慶作品が評価を得ていくと、それがより多くの需要をうみだし、安阿弥様(あんなみよう)が世に受け入れられる一要因となったのではなかろうか。

■法橋時代

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 この時代は、わずかな期間である。これまで、この間の活動は東大寺公慶堂の地蔵菩薩像(望の足柄に「巧匠法橋快慶」という刻銘があることしか知られていなかったが、平成五年に大阪・大円寺から同様な銘のある阿弥陀如来像が発見された。快慶の法眼時代への作風の展開をたどるうえで貴重な作例をえたことになった。法橋時代に快慶にとっての大きな出来事は、建永元年(一二〇六〉の重源の死であろう。

 重源の死は、快慶に精神的に大きな打撃を与えたことは想像にあまりあるが、彼の以後の造像環境にも変化を来したと思われる。例えば、快慶は承元二年(一二〇八)四月に石清水八幡宮に、旧神護寺本の模本と思われる僧形八幡神画像を寄進しているが、石清水八幡宮と旧神護寺僧形八幡神画像をともに賜らんとして対立状態にあったと考えられる重源が生存していれば、快慶の寄進もなかったかもしれない。因みに、快慶施入本は紛失し、転写本(室町)が昭和二十二年まで伝わっていたが、その裏銘に快慶と共に石清水側の祐清が名を連ねている所を見ると、祐清が快慶に働きかけて実現した寄進であったともとれる。また、石清水八幡宮関係では、成兵法印が「一尺八寸阿弥陀三尊、扉地蔵不動」(石清水(いわしみず)八幡宮記録『仏菩薩目録』〉をもっていた。これなども、院派仏師と関係が深いことが知られる同宮に快慶作品があることは、成美が快慶の評判を聞き、重源没後に依頼したと考えるのが妥当ではなかろうか。

■法眼時代

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 法眼時代の最初に知られている仕事は、『門葉記(もんようき)』巻二に記される、承元四年(一一二〇)の青蓮院の俄盛光堂後戸の釈迦如来像の造像である。これは、慈円の年来の願いであったという。他の青蓮院関係の造仏では、建暦元年(一二一一)の法眼銘のある岡山・東寿院阿弥陀如来像は青蓮院の門跡、天台座主ともなる真性が開眼しており、また建保四年 (一二一六)に青蓮院の熾盛光曼荼羅の諸尊を造立している。このように、この時代になって、東大寺、真言関係以外に天台関係の仕事をするようになるのであるが、これは先に石清水八幡宮への快慶の寄進について推測したのと同じ事情があったのではなかろうか。つまり、重源没後頚の出来事なのである。24773483_624

 また、宮廷貴族関係の造仏も行なうようになっている。建保三年(一二一五)五月後鳥羽上皇の高陽院における道修に、一尺五寸の弥勅書薩像を作っている。また、次に述べるように、承久三年(一二二一)に高野山光台院阿弥陀三尊像を後鳥羽上皇の皇子道助法親王のために造立し、快慶最後の実績となっている貞応二年(一二二三)醍醐寺閣魔堂造像は、首一陽門院発願であった。

 以上の様な宮廷関係の造像は、それまでの彼の仏像の評判が呼込んだ仕事でもあっただろう。そして、当時の快慶への評価は、承久元年(一二一九)二月の長谷寺焼亡に伴う本尊復興を快慶が受け持つが、その際の記録には、「当世殆無並肩之人云々、其身浄行也、尤足清撰欺」(『建保度長谷寺再建記録』)とあることが最もよく物語っている。

■阿弥陀如来立像の展開

 快慶の事績を追ってきた最後に、彼が晩年に至るまで作り続けた阿弥陀如来立像についてみておこう(浄土寺の巨像は除く)。それは、来迎印をむすび左足を踏みだす同じ姿の像であるので、作風の変遷を捉え易く、阿弥陀信仰者であった快慶の中心テーマであったと思われるからでもある。

 ここには、単純なものから複雑なものへという方向性が認められ、これは衣だけでなく衣文線にも認められる。衣文線の数は、年を追うに従って増えてゆく傾向なのである。この方向は、快慶が輪郭や線の美しさの強調によって形式的に整った作品を求めたからであるという解釈がなされる。この見方でいくと、西方院像が、上半身の穏やかなまるみ、それと袖先の鋭角的な処理との対照、これらを媒介とする腹部と脚部の衣文線のまるみと鋭さ、など最も効果的な表現がみられ、本像を快慶の阿弥陀如来像の頂点にすえるという考えもうまれる。

 また、見方をかえて、彫刻的量感という点からは、初期の作品(西方寺像、遣迎院像、八乗蓮華寺像など)は運慶に通じるような量感あるものであったが、次第に量感を減じ(先の線的な美しさの追及による)、東大寺像に至って均整のとれたものとなり、また衣の装飾もまとまりよく、快慶作品の完成した姿をここにみようとする意見がある。

 何れの見方もその立場に立てばそれぞれに説得力のあるものであるが、どこかにピークをとらえると、その後ちは制作意欲が減退し、形式化するという図式となってしまう。しかし、晩期の光台院像は、その表情、服制の形式、衣文線の装飾性、そして金属製の光背につつまれた厳かな雰囲気、さらには両脇侍が腰をかがめて往生者を迎えとろうとする体勢をとる三尊形式と、ここで現れる新しい要素は多い。また最も似ており、造像年代の近い光林寺と光台院の阿弥陀如来像を比較してみても、例えば衣文線においてもどこか変化を加えており、全く同じには作らない。ここで先述の見方とは違い、快慶が求めた阿弥陀如来の姿はどのようであったかという視点に立って、上記作例を見渡せば、光台院像に指摘したように、最後までその姿が定着していないことに気づく。これは、快慶がもっていた阿弥陀如来のイメージは、彼がさまざまな方法で機会があるたびに表現を試みても、完全には満足することが出来ないものであったと考えられるのではなかろうか。快慶は、阿弥陀如来の姿を最後まで求め続けたことになる。その意味であえて言えば、快慶の晩年の作のうち特に光台院像は、光の仏である阿弥陀如来の本質が最も効果的に表現されていると感じられる点で、彼の心をある程度満たしたもののように思える。

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