■2007コラムより
■2007年の運慶
2007年、あらたに二件の仏像が運慶作と考えられるようになり、この年は「運慶の当り年」といわれる。2件の運慶作品とは、奈良・興福寺西金堂の釈迦如来像と神奈川・称名寺光明院の大威徳明王像である。両者ともに既に存在はしられていたが、新出の文書により運慶作と裏付けられた。これまで西金堂像を運慶作とみなす意見はわずかで、称名寺像は運慶作としての可能性を検討されたことはなかった。この二つの作品、とくに西金堂釈迦如来像の登場により、これまでに上梓された膨大な数の運慶論、その根幹をなしてきた運慶の作風、つまりかたちを巡る議論や研究の多くは、想をあらためる必要にせまられている。
西金堂の釈迦如来像は、文治二年(一一八六)に制作された仏像で、享保二年(一七一七)に火災に遭って破損し、仏頭、右手、左手、化仏三躯、飛天八躯が救いだされた。仏頭は興福寺国宝館で展示されているので、ご覧になられた方も多いはずである。この釈迦如来像は、その出来映えの見事さから、運慶作と推測されていたこともあったが、同じく文治二年につくり始められた願成就院の阿弥陀如来像が運慶作であることがわかると、同年に制作された両者の作風の隔たりの大きさから、別の仏師の作品と考えられるようになっていた。二〇〇七年以前に、西金堂像を運慶とみていた数少ない研究者の一人である伊東史朗氏は、運慶の作品には、願成就院と円成寺像に代表される「荒々しさと端正さという二種の対称的な作風が見られ」それぞれの作品において「強弱を異にし、また混在しながら」存在しているという。あらたに見なおしをせまられた運慶の作風を考えるとき、傾聴すべき意見であろう。
■コラム2
■ほとけの内と外
信仰の対象である仏像がなぜ美しいのか。運慶の作品をみて考えてみたい。
仏像の内には、さまざまな納入品が納められることがある。光得寺の大日如来像もその一例であるが、仏舎利や五輪塔などとともに、蓮の台座に乗った水晶の珠、仏の魂ともいうべき心月輪(しんがちりん)が納められることが注目される。運慶の作品には、はかにも同様の例があり、真如苑の大日如来像や興福寺北円空の弥勤仏などがあげられる。これは誰が意図したものなのか、僧か施主か、運慶白身の発案になるものか、いろいろなケースが考えられる。ただ、心月輪を納めることに運慶が強い関心を抱いていたとは推測できる。湛慶は、父運慶の供養のために自らつくった阿弥陀如来像に心月輪を納めている。きわめて私的な造仏であるので、ここに他人の意思が入りこむことは考えにくく、湛慶が父運慶と自らの仏像観を反映させたとみるのが自然であろう。ほとけの霊性を貴ぶ仏師の姿をみることができる。
では、貴ぶべきほとけの姿はどうあるべきか。その一端を知るために、はとけの外、仏像の表面の仕上げから推理してみたい。
運慶は仏像の目と肌の表現にことのほか意を尽くしたようである。十二世紀の半ばころからみられるようになる新しい技法、玉眼と金泥塗りを運慶がどのように考え、使用したのか。
玉眼は、眼球の代わりに水晶をもちいる技法で、人の目の濡れた輝きが表現できる。金泥塗りは、仏像の表面仕上げに金箔を貼らずに金泥を塗る技法で、肉身にもちいれば人肌のようなしっとりとした感が得られる。いずれも、仏像に現実感をあたえることには極めて有効だが、一方では人に近づきすぎて尊厳を失いかねない。
玉眼の使用の有無については、はやくに西川杏太郎氏の論文があり、高位の仏像である如来や菩薩の尊厳をまもるために、運慶は玉眼の使用をひかえることがあったと推測された。運慶の作品のうち、玉眼を使用しないもの、例えば興福寺北円空の弥勤仏に強い威厳を感じ、玉眼を使用している高野山の八大童子像には親しみやすさを覚える。真如苑の大日和来像のような例外はあるものの、運慶が仏の目の表現に強い関心を持ち、技法を使いわけたことは間違いない。
金泥塗りについては、やはり仏像の尊厳や霊性を十分に考慮したうえで、運慶は使用したと考えられる。本展覧会に出品される光得寺の大日和来像では、台座を支える獅子や厨子の三十七尊像は金泥塗りの柔らかな金色であらわされる。一方で、中央に安置される大日和来像は金箔の強い光を放っている。ほの暗い厨子のなかにあってみれば、その輝きの異質は一層きわだち、超越的な大日如来の姿をあらわすにふさわしい。
仏師の本領は、ノミを持って削りだす仏像の形に発揮されることはいうまでもない。くわえて、ここにみた運慶の仏像には、ほとけを貴び、細部に至るまで揺るがせにせず心をこめた様子がうかがる。そこにに独自の美が宿るのであろう。