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■興福寺
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、
法相宗の大本山の寺院である。
南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・
藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院
で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として
世界遺産に登録
されている。
■歴史・創建
藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国山階(現京都府京都市山科区)に創建した
山階寺(やましなでら)が当寺の起源
である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
和銅3年(710年)の平城遷都に際し、
鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。
この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。
中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始
されたものと見られる。
その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。
■南都北嶺
興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、
特に摂関家藤原北家との関係が深かった
ために手厚く
保護
された。平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して
事実上の同国の国主
となった。その勢力の強大さは、
比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」
と称された。寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には
百か院以上を数えた
が、中でも天禄元年(970年)定昭の創立した一乗院と寛治元年(1087年)
隆禅の創立した大乗院
は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。
鎌倉・室町時代の武士の時代になっても大和武士 と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、幕府は守護を置くことができなかった。よって
大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。
安土桃山時代に至って織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1000余石とされた。
■平重衡の兵火による焼失
興福寺は、創建以来たびたび火災に見まわれた
が、その都度再建を繰り返してきた。中でも治承4年(1180年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平重衡の南都焼討による被害は甚大で、東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。 この時、興福寺再興に奔走したのは焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶であった。
現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のものである。
なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の
鎌倉復興期に制作されたものが多い。
興福寺を拠点とした
運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。
江戸時代の享保2年(1717年)の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などは再建されなかった。
■廃仏毀釈による破壊
江戸時代は21000石の朱印を与えられ保護された興福寺だが、慶応4年(1868年)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺は大きな打撃をこうむった。興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は還俗し、それぞれ
水谷川家、松園家と名乗った(奈良華族)
。子院はすべて廃止、寺領は1871年(明治4年)の上知令で没収され、
僧は春日社の神職
となった。境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、
奈良公園の一部
となってしまった。
一乗院跡は現在の奈良地方裁判所、大乗院跡は奈良ホテル
となっている。一時は廃寺同然となり、
五重塔、三重塔さえ売りに出る始末
だった。五重塔は250円(値段には諸説ある)で買い手がつき、買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうとしたが、延焼を心配する近隣住民の反対で火を付けるのは取りやめになったという。ただし、五重塔が焼かれなかった理由はそれだけでなく、
塔を残しておいた方が観光客の誘致に有利だという意見もあった
という。
行き過ぎた廃仏政策が反省されだした
1881年(明治14年)、ようやく興福寺の再興が許可された
。
1897年(明治30年)、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布
されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備されて現代に至っている。 しかし、寺に塀が無く公園の中に寺院がある状態、所謂「
信仰の動線」が欠落していると称される状態は、この時の名残である。
■東金堂
東金堂(国宝)は神亀3年(726年)、聖武天皇が伯母にあたる元正天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊を安置する堂として創建した。
治承4年(1180年)の兵火による焼失後、文治3年(1187年)、
興福寺の僧兵は飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)講堂本尊の薬師三尊像を強奪してきて、東金堂本尊に据えた
。東金堂はその後応永18年(1411年)に五重塔とともに焼け、
現在の建物は応永22年(1415年)の再建の室町時代の建築である。
様式は、
唐招提寺金堂を参考にした天平様式。
平面規模は、創建時の堂に準じている。堂内には以下の諸仏を安置する。
■五重塔
五重塔(国宝)は天平2年(730年)、光明皇后の発願で創建された
。現存の塔は応永33年(
1426年)頃の再建
である。高さ50.1メートルで、木造塔としては東寺五重塔に次ぎ、
日本で2番目に高い。
■北円堂
北円堂(国宝)は養老5年(721年)、藤原不比等の一周忌に際し、元明上皇、元正天皇の両女帝が長屋王に命じて創建させたもの。
現在の建物は承元2年(1208年)
頃の再建
で、
興福寺に現存している建物の中では最も古い建物
になる。法隆寺夢殿と同様、平面が八角形の「八角円堂」である。現在、回廊の復元計画中。
■三重塔
三重塔(国宝)は、康治2年(1143年)、崇徳天皇の中宮・皇嘉門院により創建された。
治承4年(1180年)の大火による焼失記録はないが、現在の塔は建築様式から大火後まもなく
再建された鎌倉建築と考えられる。
■薬師寺
薬師寺
(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに
法相宗の大本山
である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇、道昭、義淵である。1998年(平成10年)に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより
世界遺産
に登録されている。現・管主は山田法胤である(2009年8月着任)。
■歴史
薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺、
北緯34度29分33.88秒東経135度48分0.95秒
)の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。
■東塔
国宝。
現在寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)にさかのぼる唯一のもの。総高34.1メートル(相輪含む)。日本に現存する江戸時代以前に作られた仏塔としては、東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さを誇る。屋根の出が6か所にあり、一見六重の塔に見えるが、下から1・3・5番目の屋根は裳階(もこし)であり、構造的には三重の塔である。仏塔建築としては他に類例のない意匠を示す。塔の先端部の相輪にある青銅製の水煙(すいえん)には飛天像が透かし彫りされており、奈良時代の高い工芸技術を現代に伝えている。
■東院堂(国宝)
境内東側、回廊の外に建つ。元明天皇のために皇女の吉備内親王が養老年間(717-724年)に建立した東禅院が前身で、現在の建物は鎌倉時代・弘安8年(1285年)の建築。堂内の厨子に本尊・聖観音立像を安置する。
■室生寺
室生寺
(むろうじ)は、奈良県宇陀市にある
真言宗室生寺派大本山の寺院
。山号を宀一山(べんいちさん)と号する。開基(創立者)は賢憬(賢璟)、本尊は釈迦如来である。奈良盆地の東方、三重県境に近い室生の地にある山岳寺院である。宇陀川の支流室生川の北岸にある室生山の山麓から中腹に堂塔が散在する。
■歴史
天武天皇9年(680年)、役小角(役行者)の草創、空海の中興という伝承もあるが、記録で確認できる限りでは、奈良時代最末期の草創と思われる。室生寺の東方約1キロのところには竜神を祀る室生竜穴(りゅうけつ)神社があるが、室生寺の草創にも竜神が関係している。
■金堂
屋根は寄棟造、柿葺き。桁行(正面)5間、梁間(側面)5間(「間」は長さの単位ではなく柱間の数を意味する)で、桁行5間、梁間4間の正堂(しょうどう、内陣)の手前に、梁間1間の礼堂(らいどう)を孫庇として付した形になる。孫庇部分は片流れ屋根となり、両端を縋破風(すがるはふ)として収めている。堂は段差のある地盤に建っており、建物前方の礼堂部分は斜面に張り出して、床下の長い束(つか)で支えている。このような建て方を「
懸造(かけづくり
)」と言い、山岳寺院によく見られる。正堂部分は平安時代前期(9世紀後半)の建立であるが、鎌倉時代末期に大修理を受け、多くの部材が取り替えられている。礼堂部分は寛文12年(1672年)に全面的に建て替えられている。
■本堂
入母屋造、檜皮葺き。桁行5間、梁間5間。室生寺の密教化が進んでいた鎌倉時代後期、
延慶元年(1308年)の建立
。梁間5間のうち、手前2間を外陣、奥の3間を内陣とする。この堂は
灌頂堂(かんじょうどう)とも称
され、灌頂という密教儀式を行うための堂である。内陣中央の厨子には如意輪観音坐像(重文)を安置し、その手前左右の壁には両界曼荼羅(金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅)を向かい合わせに掛け、灌頂堂としての形式を保持している。正面は5間とも和様の蔀戸(しとみど)とするが、両側面の前方2間は桟唐戸とする。桟唐戸の使用や、頭貫の木鼻などに大仏様(だいぶつよう)の要素がみられる
■五重塔
800年頃の建立で、木部を朱塗りとする。屋外にある木造五重塔としては、法隆寺塔に次ぎわが国で2番目に古く、国宝・重要文化財指定の木造五重塔で屋外にあるものとしては日本最小である。高さは16メートル強、初重は1辺の長さ2.5メートルの小型の塔で、高さは興福寺五重塔の3分の1ほどである。
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