建築の部-6

■西明寺

 西明寺(さいみょうじ)は滋賀県犬上郡甲良町にある天台宗の仏教寺院。山号を龍応山(りゅうおうざん)と称する。本尊は薬師如来、開基は三修上人である。金剛輪寺、百済寺とともに「湖東三山」の1つに数えられる。西国薬師四十九霊場第三十二番札所。

■本堂(国宝) 

img_013 20 160795 120305170614016207559 121523707360316303481 121523710969716100983 121523724244816430400 121523727998316101165 SONY DSC SONY DSC OLYMPUS DIGITAL CAMERA e0039703_19232658 f8f96196dd3c49244179cf5c46cdfba6ea3ed980.92.2.9.2 img_5 kotosanzan07 sainyoujip-3

 入母屋造、檜皮葺き。鎌倉時代前期の和様建築。中世天台仏堂の代表作として国宝に指定されている。内陣中央の厨子には本尊薬師如来立像(重要文化財、秘仏)を安置し、左右に日光・月光(がっこう)菩薩像、十二神将像、二天王像(重要文化財)などを安置する。

■三重塔(国宝)img_1

saimyojis-hondo01 img7ea2ffeazikfzj g011_naibu E8A5BFE6988EE5AFBAE38080E4B889E9878DE5A194EFBC88E59BBDE5AE9DEFBC89 ab51b46ac940535cda1b83330c102f0f_l 121522227548016423625 120305156162516208270 160794 7780 7776 809 0461a792 81d6a074 073 020 OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 本堂の右(南)に建つ。檜皮葺きの和様の三重塔である。様式的に鎌倉時代後期の建築とされる。総高は20.1メートル。逓減率が小さいことと、二重目・三重目の塔身の立ちが低いことが本塔の特色である。

■西本願寺

 西本願寺(にしほんがんじ)は、京都市下京区にある仏教寺院。浄土真宗本願寺派の本山である。山号は龍谷山(りゅうこくざん)。西本願寺は通称であり、正式名称は「龍谷山 本願寺」、宗教法人としての名称は「本願寺」である。京都市民からは「お西さん」の愛称でも親しまれている。真宗大谷派の本山である「東本願寺」(正式名称「真宗本廟」・下京区)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。文永7年(1272)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建されたがその後比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591)豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転した(詳細は後述「歴史」の項参照)。境内は国の史跡に指定され、「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されている。「本願寺」のローマ字表記は「honganji」でなく「hongwanji」となり、公式ホームページのURLもこれに準じている。本願寺住職が浄土真宗本願寺派の門主となる。

■書院(対面所及び白書院)

c0119555_17333593西本願寺・書院 Shiroshoin_Nishi_Honganji img_25 img_11 img_1 honngannjisyoinn2 DSC_0490-da5c7 c0119555_17333593 25023002151 345ab358 20-3 20-2 20-1 3b187e0d122f39cc5fcbc0c5ef7c2697 01a38548cd9643407daf728175c36f02 0b994cd9465564b3f2f1aee49d1981b1

 書院(対面所及び白書院)御影堂の南西に位置する。近世書院造を代表する建築の一つである。入母屋造妻入り、本瓦葺きで、平面規模は桁行(本建物の場合は奥行)38.5メートル、梁行(間口)29.5メートル。南側の対面所と北側の白書院から成るが、両者は元来別々の建物であった。本建物を豊臣秀吉の伏見城の遺構とするのは俗説で、実際は後述のとおり江戸時代に西本願寺自身により建てられた建物である。

■北能舞台CIMG0475

dsc06548 CIMG0477 CIMG0475 121326065648916430979  137841579950313217436 133733675623513122050 SH3E0042 04915e31300278e5857284e951126d11

 大書院(対面所及び白書院)の南北にある能舞台のうち北側のもの。正面入母屋造、背面切妻造、檜皮葺き。修理時に「天正九年」(1581年)の墨書が発見されたが、これは懸魚の裏に貼られていた紙(現在は亡失)に書かれていたもので、ただちに建立年代を示すものとは考えられていない。本願寺の坊官を勤めた下間家が徳川家康から拝領したとの伝えもあり、正確な年代は不明ながら、江戸時代初期にはあったことが確認できるところから現存する能舞台としては最古のものといわれている。

■黒書院及び伝廊 2棟R0035001dsc06546  ce50416171fd39ce47c8cdb1830b5c3e 37_01

 黒書院は書院の北東に位置し、伝廊とともに国宝に指定されている。桁行21.5メートル、梁行13.9メートル。寺の記録から明暦3年(1657年)の建立とわかる。屋根は寄棟造、こけら葺きで、主屋部分と庇部分に分けて2段に葺く。前述の白書院が表向きの接客空間で、金地障壁画や彩色透彫の彫刻などで意匠を凝らしているのに対し、黒書院は門主の生活の場としての内向きの空間である。屋根は前者の瓦葺きに対してこけら葺きとし、内部の意匠は水墨の障壁画、土壁、面皮柱、棹縁天井などを用いた数寄屋風の造りとする。

■飛雲閣7d323f34ed5a9ba0fb59f45a1b865e2c1

003 7d323f34ed5a9ba0fb59f45a1b865e2c1 66259160 asyouji_04 b0141127_1939113 DSC_0118-c5cb4 DSC_2713 Dsc_9055_m DSC03514 DSCN8629 H0000051917 Hiunkaku_Nishi_Honganji img_0 img_6 IMG_2005 kokoro-01-2 

 金閣(鹿苑寺)、銀閣(慈照寺)と並んで「京の三閣」と呼ばれる。境内南東隅の滴翠園(てきすいえん)内、滄浪池(そうろうち)と名付けられた池に面して建つ、3階建の庭間建築である。江戸時代の絵図には「御亭(チン)」として現れる。3階建であるが、各階は平面の大きさを変え、屋根などの意匠も左右相称を避け、変化に富んだ外観をもつ。寺に遺る江戸初期の文書『紫雲殿由縁記』(寛永15年成立、延亨4年増修)には豊臣秀吉の遺構だと記されていることから聚楽第の遺構との説も広く流布したが確証はなく、様式的にもやや新しく建築史からは否定的意見が多い。

■唐門DSC_0143SONY DSC ky-nshongan09 img_5 img_4 DSC_0143 cdd3078d9 404 53aadf2e110e17bd5741afa30a0b2cee4b16d40e.24.1.12.2      

 境内の南側、北小路通に南面して建つ。境内東側の御影堂門、阿弥陀堂門がそれぞれの堂への入口であるのに対し、唐門は書院(対面所)への正門である。前後に計4本の控え柱をもつ四脚門形式で、屋根は檜皮葺き、正背面は唐破風造、側面は入母屋造の「向い唐門」である。総漆塗り、各部各所を中国の許由と張良の故事を題材とした極彩色彫刻と鍍金金具で装飾しており、日暮し眺めても飽きないとされることから「日暮門」の俗称がある。

■広隆寺081125_keikyuin_koryuji_zenkeiDSC_0356

2BE440AB-1ECB-7E80-1EC1-971D8A6E9F7C 31-1 57f35fdc2882ac5dd11cd46767910100_0 081125_keikyuin_koryuji_zenkeiDSC_0356 11113537_PH 20130201_1254375 127419566121616426885 b498affc D157372A-D631-9687-D1D0-4E9E90EE3029 gazo-kouryuuji_houkanmirokubosatu2 hakkakudo01 hatasi115 img_5 OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 広隆寺 (こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦にある寺。宗派は真言宗系単立。山号を蜂岡山と称する。蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)[1]、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。帰化人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院である。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。毎年10月12日に行われる牛祭は、京都三大奇祭として知られるが、近年は不定期開催となっている。

■金閣寺