続・正倉院美術館


■正倉院美術館

米田雄介・杉本一樹

■瑠璃杯(るりのつき)/瑠璃壷

▶️現在の受座は明治期に新たに作られたもの

 瑠璃杯酸化コバルトで深い青色に着色したアルカリ石灰ガラス製の透明の器である。口縁部を中心に全体に大小の気泡がかなり多く見られ、外側には同じ素材のガラス製の環形飾りが上段8個、中段8個、下段6個の合計22個融着している。環形飾りは、棒状のガラスを溶かして輪にしたもので、いずれも下端に継ぎ目がある。継ぎ目の位置がすべてそろっていることや、カップの周囲に輪が均等についていることから、製作技術が優れていることが知られる。

 金銀(銀台鍍金)の台脚が付き、台脚の上端にはガラス器の底を受ける受座が取り付けられている。台脚の円い基盤の表面には、魚々子地(ななこじ・金属表面に鏨・タガネ・で粟粒状の点を密に陰刻した地の部分)に龍の文様が陰刻されており、中国風である。この台脚はもともと瑠璃杯に取り付けられていたものであるが、蓮弁風の文様を刻んだ受座は、明治の修理の際に新しく遣られて補われたものである。元来の安座は、修理後の明治38年5月に襤褸(らんる)状の古裂(こぎれ)を整理中に辛櫃(からびつ)の中から発見された。瑠璃杯が再び修理されて受座が元に戻されることはなかったが、忍冬文(にんどうもん)を唐草風に六個つなげて隣接箇所に珠を飾る繊細な文様が透かし彫された元来の受座の方が、やはり瑠璃杯には相応しいといえよう。

 ガラスのカップの外側を環形で飾るデザインのものは、たとえば韓国慶尚北道松林寺(けいしょうほくどうしょうりんじ)から薄緑色のものが出土し、中国陝西(せんせい)省西安市南郊外何家村(かかそん)から淡褐色のものが出土している。そのうち何家村のものは底が平たく台脚もなく、口縁部に二重の縁が付いていて作品の印象が異なるものであるが、松林寺のものは環形飾りが12個と少ないもののよく似ている。これは鉛ガラスを銅で黄緑色に着色したもので、ガラスの成分から見ると、中国で器形を模して作られたものではないかとも考えられる。

▶️ガラス製で金属の脚をもつ杯は他に例がない

 台脚の付いたカップは、イラン地方や中国から出土しているが、いずれも全体が金銀やガラス製で、瑠璃杯のようにガラス製のカップに金属製の台脚が付くものは例を見ない。おそらくイラン地方で作られたガラス容器に、しばらくしてから中国で製作された台脚と受座が取り付けられたのではないだろうか。ちなみに、元来の受座の付着物の調査から、カップと受座の接着に用いられた物質は漆であることが判明している。

 

 瑠璃杯については、唐の詩人王翰(おうかん)の代表的な七言絶句「涼州詞」の中で「葡萄の美酒夜光の杯」と詠われた夜光杯があるいはこのような杯であったのかもしれないといわれることがある。ただし、正倉院の瑠璃杯の由緒は明らかではなく、今となってはかつてこの杯に美酒が湛えられたのかどうかさえわからないのである。

▶️平安時代に東大寺に施入されたガラス器

 アルカリ石灰ガラスをコバルトで着色したガラス器といえば、正倉院には口縁の広がった瑠璃壷が伝わっている。瑠璃杯と比べて青色が澄んでいるのは、鉄やマンガンなどの不純物が少ないためと考えられている。瑠璃杯と同様にイラン地方で製作されたものとされているが、瑠璃杯が7世紀前後のものとみられるのに対して、瑠璃壷は11世紀東大寺へ施入されたと推定されている。瑠璃壷は、当時一般的であった唾壷(だこ・たんつぼ)である。

(尾形克彦)

■ガラス器・白瑠璃と緑瑠璃

▶️今も輝きを保つ貴重なガラス器

 正倉院に伝来するガラス製品は、装身具に用いられたものと飲食器に大別されるが、装身具に使用されたものが圧倒的に多い。ガラス製の飲食器で完全な形を残すものは、白瑠璃碗・白瑠璃瓶(へい)・白瑠璃高杯(たかつき)・緑瑠璃十二曲長杯(ながつき)・瑠璃杯(るりのつき)・瑠璃壷の6点である。ここでは白瑠璃と緑瑠璃の器4点を紹介する。

▶️類似品が多数発掘されている白瑠璃碗

 白瑠璃碗は、淡い褐色味のある透明なカットグラスの器である。アルカリ石灰ガラス製で、細かい気泡が多数みられる。外側には底部を含め合計80個の円形切子を廻らす。円形切子が相接しているため、ちょうビ亀甲繋(つな)ぎのような文様となる。各面が凹レンズのような働きをするため、向こう側の切子の文様が映りあって、網目状に透視される安閑(あんかん)天皇陵(大阪府羽曳野・はびきの・市)出土と伝、えられるガラス碗は、本器とよく類似していることで有名である。

また、同様のガラス碗が、ササン朝ぺルシア(現在のイラン・イラクあたり)の遺跡から多数発見されており、現在でもイラン北部のギラーン州周辺からは、同類のガラス器が発掘されているという。

 白瑠璃瓶は、わずかに淡緑色を帯びた透明のアルカリ石灰ガラス製の水瓶(みずがめ)である。細かい気泡が非常に多く、とくに底部近くに大きな気泡がある。また、所々に細かい不純物も見受けられる。宙吹きの汲法による製作で、底裏に吹きロの跡が残っている。丸く膨らんだ胴部と、それに連なる細い頭部をもち、口縁部に注ぎ口を作る。その注ぎ口の背側から胴部にかけて把手を付ける。このような把手付き水瓶は、胡瓶(こへい・中国、唐代に流行した西域伝来の酒瓶)とよばれており、同形の陶器や金属器が存在する。正倉院に現存する漆胡瓶(しっこへい)も素材は違うものの、類似のものとしてよく知られている。また、同形のガラス製の水瓶がイランで発見されていることから、本器も、かの地で製作され、わが国に渡来したものと推察される。

 白瑠璃高杯は、やや黄みを帯びたアルカリ石灰ガラス製の器で、全体に大きな気泡が多くそられる。杯の中央はやや盛り上がっており、高台が付いている。また、杯の外底に吹き竿の痕鉢がみられることから、杯と高台を別々に作り、その後に接合したことがわかる。この器が納められていた漆塗りの小櫃(こひつ)には木牌(もくはい・木の札)が付いており、その内容から、天平勝宝4年(752)4月9日の東大寺大仏開眼合(かいげえ)の際に奉献されたものの一つとわかる。

▶️成分や成形方法からも製作地が探れる

 緑瑠璃十二曲長杯は、濃い緑色を呈する楕円形のガラス器である。器壁が厚く、内包する気泡が一定方向に並んでいないことから、型吹きによる成形と考えられる。長側面の両側に半月形の襞(ひだ)が三段ずつ付き、それによって口縁部に12の屈曲ができることから12曲長杯とよばれる。

 外面には文様を刻んでおり、底部中央から両短側面にチューリップ風の草花を対称的に配し、南長側面には兎様の動物を表す。正倉院に現存する唯一の鉛ガラス製の容器で、緑の発色は銅の混入による。意匠こそペルシア風であるが、鉛分の多いガラスは中国産に多いこと、型による成形と考えられることなどから、唐で製作された可能性も指摘されている。(山片唯華子)

▶️伎楽面酔胡王奈良時代に盛んだった伎薬用の面

 酔胡(すいこ)王面伎楽(ぎがく)で着用される面である。伎楽は呉楽ともよばれ、音楽を伴う演劇的要素のある舞踏で、『日本書紀』によると、中国の南方呉の国伎楽を学んできた百済の味摩之(みまし)が、推古20年(612)にわが国に伝えたとされる。

 奈良時代には大きな寺院での法会などの儀式には、さまざまな楽舞とともに伎楽が演じられることが多かったが、平安時代以降、雅楽が盛んになり衰退していった。

 法隆寺西大寺に残る奈良時代の資財帳によると、伎楽面は14種23面で一具となるのがふつうである。ただ、各登場人物がどのような所作をしたかは、鎌倉時代に下って『教訓抄』の簡単な記載によって知られるくらいで、奈良時代の伎楽が実際にどのようであったかはほとんどわかっていない。

 天平勝宝4年(752)4月9日に行われた、東大寺大仏の完成を記念する開眼合(かいげえ)でも四つのグループによって伎楽が演じられた。東大寺の遺品を多く伝える正倉院には、この開眼合で使用されたものをはじめとする伎楽面が171面残っており、また、これらの面を着用した演者や、笛や鼓などを奏する楽人たちの装束も多く残っている。

▶︎王の冠には夾纈(きょうけち)や錦の布を模した文様

 酔胡王とは酔っぱらった胡人(こじん)すなわちぺルシア人の王様のことで、酔胡従とよばれる6人あるいは8人の従者を引き連れて登場する。アーリア人を思わせる高い鼻と彫りの深い目鼻立ちで、身分にふさわしく丈高い豪華な冠を戴き、鼻下と頬から顎にかけてヒゲをたくわえている。伎楽面は正倉院のものも含めて200数10面が知られているが、この酔胡王面はなかでもその出来映えと保存の良さでつとに有名である。

 材は桐を用いて彫り出しているが、冠の上方部は別材を接いでいる。それは冠頂部に木の心(しん)が現れるためと思われ、他の酔胡王面にも同じような例がある。白下地の上に顔には鉛丹を塗り、さらに赤の染料で濃淡をつけて、酒気を帯びた肌を表している。目は白目にを塗り、彫り込みの深い瞼(まぶた)の輪郭に沿って墨を塗る。唇は朱彩、歯は銀に歯列を墨線で表している。眉は墨で描くが、ヒゲ馬の毛を漆で貼り付けている。

 冠は夾纈(きょうけち)や錦の裂を模したと思われ、赤系、緑系、青系の暈繝(うんげん・同じ色を濃から淡へ、淡から濃へと層をなすように繰り返す彩色法)彩色で唐花文(からはなもん)と花葉文(かようもん)を描いており、茎に金箔を押しているところもある。酔胡王の面は冠にいろいろと工夫を凝らしており、見所のひとつである。

▶️大仏開眼会で使用された面か否か

 外側は目、鼻、頬などにかなり凹凸をつけて彫り込んでいるのに対し、内側は平面的に薄手に刳(く)っている。そのため刳(く)り抜(ぬ)けたり、強度が不足し、内側から麻布を貼って補強している箇所がある。また左目下方は、表面を彫りすぎたため乾漆を盛って修整している。

 本品はかつては大仏開眼合で使用されたものと同類とされることもあったが、頬骨が高く顎(あご)が張った面貌や耳の形などは、宝亀9年(778)の大田倭麻呂(おおたやまとまる)の作と考えられている第33号の酔胡従(すいこじゅう)面に近いことが指摘されている。瞋目(しんもく・怒った目)の表情を誇張して表しているが、開眼合使用の面に比べるとやや形式化した感は否めない。また、実際に使用されたと考えられる面は、面を頭部に固定するための紐を通す孔を両耳辺りに開けたり、演者の視界を確保するために目の孔を刳(く)り広げているものが多いがい この面ではそうした使用の形跡はみられない。(三宅久雄)

■伎楽面(ぎがくめん)・呉女(ごじょ)

▶️伎楽のヒロイン呉女、印象的な二つの髻(もとどり・たぶさ)

 呉女(ごじょ)は伎楽に出てくる唯一の女役である。

 鎌倉時代の音楽書である『教訓抄』の記述によれば、崑崙(こんろん・黒人のこと)が呉女懸想(けそう・異性に思いをかけること)してよこしまな振る舞いをするところを、力士がこれを懲らしめるというのが伎楽における筋立てであり、呉女はいわばヒロインである。

 この面は桐材を用いて彫られたもので、頭頂に木芯が通っている。また目と鼻孔には孔が空けてある。左右のの後部は別材で接ぎ合わせたつくり。髪は黒漆塗りで、その生えぎわは墨を使って丁寧に毛の筋が描かれている。美しい眼や口輪郭にもが加えられている。化粧は頼や唇に紅をさすくらいで、乙女の清楚な様子にふさわしい。また髪型は中国の5、6世紀頃の形に近く、北魏の線刻画や壁画などにしばしば見られる双髻(そうけい)。とくにこれは未婚の女性のあいだで結われた髪型である。

基永師・・・奈良時代の伎楽面作者。東大寺と正倉院に現存する伎楽面および面袋の墨書銘から,天平勝宝4(752)年4月9日に催された,東大寺の大仏開眼会使用の伎楽面を制作した人物と知られる。多種にわたる伎楽面を造ったとみなされるが,銘記からその作品とわかるものは,東大寺に酔胡従2面,正倉院に治道1面,酔胡従2面,呉女1面の計6面である。ほかに正倉院には面袋7点が遺されている。同時代に活躍した相(将)李魚成が写実的な作風を誇るのに対し,象徴的かつ心理的描写に優れた特色をみせる。<参考文献>石田茂作『正倉院伎楽面の研究』,正倉院事務所編『正倉院の伎楽面』

 右耳裏には「基永師(きえいし)」の墨書銘がある。基永師は、天平勝宝4年(752)4月9日の東大寺大仏開眼合にさいして、伎楽面作家として活躍した人物。この面には年紀はないが、おそらくこれと近い時期において製作・使用されたと推察される。

▶️呉女にゆかりの衣装も残る 

 呉女に関連した衣服類を二点紹介する。ただし、呉女の面や衣服二点には、いずれも明らかな年紀がないために、これらが同時に使用されたものか否かについては不明である。

 まず1点は、「呉女領巾(ひれ)」と墨書銘のある夾纈羅(きょうけちら)の残片である。領巾はショールの類で、肩からふんわりとかけて使用するもの。この裂(きれ)全体に網の目のようにはりめぐらされた筋は、昭和元年(1926)に行われた染織品の修理の跡であり、正倉院ではこのようなすじを鎹(かすがい)とよんでいる。かつての染織品修理で行われた方法で、裂をまず展開して水伸ばしした後、和紙を細長く切ったものに糊をつけて、裂の裏面から貼りつないだもの。宝庫中には、同様の方法で修理を終えた染織品が何点か見られるが、近年では糊の跡などが筋状に残りやすいことなどから、この修理の仕方はあまり行われていない。

 もう1点は「東大寺 前 呉女六年」と墨書銘のある、赤地唐花文錦(あかじからはなもんにしき)の背子(はいし・半袖もしくは袖なしの上衣)である。背子の名は、『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』に「形は半臂(はんぴ)のごとし、腰襴(ようらん・腰ラインに追加された部分)のなき袷衣(あわせぎ)なり。楊氏漢語妙にいう、背子は婦人の表衣、錦を以てこれを為す」とあることによる。

 表地と襟は赤地唐花文緯錦(ぬきにしき)。身頃の裾廻りは紫地唐草円文(むらさきじからくさえんもん)の緯錦をバイアスに使って縁取りとしている。裏地は浅緑絁(あしぎぬ)を使って給仕立て(あわせしたて)とし、裾飾りの(らん)はなく、身丈(みたけ)は短い。襟は突き合わせの対襟で、右襟の裏には細ひもが付いていることから、これで胸元を結びあわせたと考えられる。

▶️明治政府と正倉院の染織品裂

 ところで、この背子の向かって右側、ちょうど左胸部分のが欠失しているが、その欠失した断片は、現在は東京国立博物館に収蔵されている。

 明治9年(1876)12月16日、当時内務卿であった大久保利通は、正倉院宝物の中から織りや文様時に優れたものを、内務省博物館ならびに各府県の博物館へ配布することを太政大臣に上申した。これが裁可されるとすぐに、宝物の染織品中から適したものを選びだして配布したという。その配布数や配布場所については不明な点もあるが、多くが東京国立博物館、京都国立博物館に保管されている。

 前述した東京国立博物館に伝わる赤地唐花文錦断片も、この配布裂の中の1片である。正倉院宝物呉女背子胸部の欠矢部分と、博物館の残片錦の文様・寸法がほぼ一致することもこの事実を裏づける証拠である。(田中陽子)

■伎楽面・師子

▶️今日の耕子舞に通じる伎楽の師子

 伎楽で用いられる獅子頭である。師子は伎楽の一団の先頭に師子児(ししこ)とよばれる童子二人に連れられて登場する。鎌倉時代に書かれた『教訓抄』によると、「喚頭三反、高井三反、口下三反」とあって、今日の獅子舞に通じる激しい所作をなしたことが想像できる。

 師子が奈良時代にどのように演じられていたのかはっきりとはわからないが、寺院の資財帳に記された伎楽の用具をみると、師子1頭について、二人分の衣装がセットになっていたようである。また平安時代に描かれた『信西古楽図(しんぜいこがくず)』をみると、頭と前足、胴体と後ろ足をそれぞれ担当する二人によって舞われたことがわかり、おそらく奈良時代にもほぼ同じであったと想像される。

 正倉院にはこうした師子面が全部で九口現存している。いずれも木製で、二口が(ほお)である他はすべて桐材を用いて造られている。それぞれほぼ同じような造リ方で、ここではなかでも保存の良いものを取り上げる。

▶️舌の付け方ひとつで効果を生むことを計算

 本品は桐の木をほぼ中心で二つ割りにした材を横にして頭や顔などの本体部を彫り出している。下顎部分は別に造って顎の付け根辺りに軸木を通して本体部と繋ぎ、口を大きく開閉できるようにしてある。

 下顎の内面には後方から前方へカーブした鉄製の支柱に舌を鉄釘で打ち付けている。舌は肉厚で先端を反り送らせた生々しい感じさえする表現で、内面にべタ付けにせず、口腔の奥の高い位置から伸び出てくるように付けられており、口を大きく開けたときにダイナミックな視覚坤効果を生む。この鉄の支柱はバネのようにも見え、口を開閉するたびに舌が揺れるかのようであるが、支柱は頑丈で、そうした実際の動きという効果は意図されてはいないように思われる。

 上下の前歯の噛み合わせ面には鉄坂を釘ビめしており、こちらは口の開閉のたびにカチカチと金属音がして、激しい踊りに合わせていっそう賑やかさを増したことであろう。

 耳(右耳は失われている)は、差し込んだ柄が頭部内に長く出ていて、柄の途中には前後方向に貫通孔がある。これにより下顎と連動するようにエ大して、耳を上下させたかと思われるが、よくわからない。

▶️簡潔ながら迫力に富む表現力が生きる

 頭部後線内側から下方へと蔓(つる)のようなものをU字型に曲げて出し、左右を鉄釘各三本でしっかりと留めている。下顎部の後ろから造り出した左右各1本の柄の端には横棒を渡していた形跡があり、この横棒とU字型の曲げ木とを握って本体を保持し、口を開閉したのであろうか。

 彩色は、耳内面や両目の瞼の裏をむき出した部分、口腔内、舌や唇などは赤色を塗り、さらに上顎内面は赤茶と赤で粘膜の皺までもあらわすというリアルな表現である。

 下顎裏面には左右・前方の縁を帯状に残して全面に緑色に染めた毛を粘っている。他の師子の例からみても、現状では木地を露出している顔表面の部分にも毛を貼っていたものと思われる。なお左耳外面には人の顔、柄には手先の墨描戯画などがある。

 両眼を怒らせ、唇は捲(まく)れあがって歯牙をむき出し、そのひとつひとつが誇張された彫リ口であるが、それらは簡潔で要を得た表現で、迫力に富んだ魅力ある作品となっている。(三宅久雄)

■漆金薄絵盤

▶️柄違いの二基がある対の盤

 本品は岩座(いわざ)上に各層八枚の蓮弁を交互にずらして四層めぐらせ、中央に蓮肉を置いた蓮華形の番台である。

 蓮弁に描かれた絵は異なるが、同形同大の甲、乙二基が伝わり、いずれも岩座の裏に「香印坐」の墨書銘がある。また、蓮弁の付け根の銅板上に甲、乙それぞれに「上一」(甲)、「下一」(乙)の銘が整で刻まれている。

 一基のみを使用し、もう一基は代用品としたという説もあるが、相称を意図した彩色の配置や後述するようにを載せる盆が二枚伝わることから、二基を仏前に供えて香を焚いたとみるのが妥当であろう。

▶️蓮弁は宝庫仏具の中でももっとも華やか

 岩座、蓮弁、蓮肉はいずれも木製で、甲の蓮弁が一枚脱落しており、脱落した蓮弁を調査した結果、それについては楠(くすのき)と同定された。

 構造は岩座の上に銅板を放射状に切った八本の柄を四枚重ねて鉄釘で打ち付け、柄の先端には蓮弁が釘づけされている。蓮肉は一木を刳(く)って、上面が平らな半球形に作り、周縁に立ち上がりを作り出したもので、盤の中央に据え置くのみで固定されていない。

 蓮弁は全面に漆を塗った上に白下地を施し金箔や丹、朱、臙脂(えんじ)、藍、群青、緑青、藤黄などの顔料を用いて極彩色の文様を描く。外面には迦陵頻伽(かりょうびんが・上半身が人で、下半身が鳥の仏教における想像上の生物)、獅子、鳳凰、鴛鴦(おしどり)、宝相華(ほうそうげ)などが繧繝(うんげん)彩色で描かれ、各層の蓮弁は寒色と暖色の基調色を対比させるように配置されている。また、内面は雲形立涌文(たてくわもん)と花弁形文を繧繝彩色で塗り分けている。

 蓮肉は全面に黒漆を塗り、上面を除いて金箔を貼り、側面には赤色で蕊(しべ・雄しべと雌しべ)が描かれている。

 岩座は底裏のみ木地のまま残し、ほかは白下地を施した上に緑色や茶色の顔料を塗り、岩座の上に打たれた鋼板製の蓮弁の柄には緑青を塗る。

 東大寺で行われた阿弥陀悔過会(けかえ)の用品等を神護景雲元年(七六七)に記した『阿弥陀院悔過料資財帳』に「香印坐花二捄(かにきゅう)」とあり、本品をこれと関連付ける説がある。しかし、当時すでに紛失していたとも記されており、確かなことはわからない。

▶️香の印文を作るための盤もある

 なお、この漆金薄金盤の関連品として木製黒漆塗りの平盆二枚と香印押型盤1枚がある。いずれも円形で、周縁に立ち上がりをめぐらせ、底には輪高台(わこうだい)が付き、香印押型盤の上面には忍冬(にんとう)を花形にめぐらせた屈輪文(くりもん)状の連続した溝が刻まれている。

 直径は平盆の方がやや大きく、ちょうど香印押型盤に蓋のように被せることができる。また、平盆と香印押型盤はX線透写真に映し出された木目から三枚とも同材より切り出されたもので、一具をなし、それぞれ蓮肉上で香を焚く炉盤と香印を作る型と考えられる。

 つまり、香印押型盤の屈輪文状の溝に抹香を詰め、さらに立ち上がりの上まで灰を詰めて、その上から平盆を被せて、そのまま上下反転させ、上になった香印押型盤を引き上げると平盆の上に香の印文が残るわけである。そして、香の印文を載せた平盆二枚を二基の蓮肉上に置き、印文の一端に火を着けると印文に導かれて香が順次燃えて芳香を放ったのである。後世の香を長く焚くための常春盤、あるいは時間を計るための時香盤の淵源を為すものである(西川明彦)。

■漆彩絵花形皿

▶️脚を取り外し、重ねて収納できる実用性をもつ

 本品は今日、花形の皿とよばれており、仏前に供物を盛る皿として利用されたものであると思われる。

 器本体となる皿部は、桂様広葉樹のl枚板を刳ったものである。形は、四弁花を中心として、各花弁の間より四方に向けて葡萄の葉を思わせる形を刳りだし、その外郭はほとんど正方形となっている。

 脚も木製で、黒漆塗の後、金箔を押して仕上げたもので、形は唐草の巻き蔓を表している。この脚は、皿部裏面の四か所に取り付けた鉄製の漆塗の箱形金具に差し込み固定するようになっていて、簡単に取り外しができる。また収納時には幾重にも重ね置くことが可能である。

 このような脚付き花形の器は、中国唐時代の金属器に多くみられ、また唐三彩にもその遺例があり、いずれも華やかで複雑な形態でありながら、器としての機能を保ち、なお造形上の統一感を失うことなく造られており感心させられる。

▶️彩色には油絵具に似た技法が使われる

 正倉院には同形のものが29枚伝わり、いずれも全面黒漆塗仕上げであるが、ここに紹介するものを含む六枚には、黒漆塗の地色を生かした彩色が施されている。

 皿部の上面には鉛丹の下地に朱を塗り重ね、外側の面には朱・緑青・ベンガラの混合色(現在、くすんだ褐色を呈するが、元来は朱や緑青と同様の彩度をもつ紫色であったと推定される)・石黄の四種の顔料を用いて花葉文を描き、底裏には外郭に沿って朱線を引いている。また皿部の口縁に金箔を覆輪風(ふくりんふう・鞍・太刀・調度などを金・銀・錫(すず)などで縁取りし、飾りや補強としたもののこと)に巡らせている。

 これら彩色は、いずれも密陀絵とよばれる技法によるもので、荏油(えのあぶら)などの乾性油に密陀僧(一酸化鉛)を混入して、加熱処理し、より乾きやすくした油を用いるもので、正倉院で密陀絵と命名された宝物には下記の三種がある。

①今日一般に行われている油絵と同様に顔料をこの油で溶いたもので描く披法、

②顔料を膠水で溶いたもので描いた後に、この油を全体に塗布する油色と呼ばれる捜法、

③は①と②の併用による技法。

 本品を含む五枚なお、鑑真和上創建の寺である唐招提寺にも、彩色はないが、これらと同形同寸で木製黒漆仕上げの華盤が、一点伝世する。

▶️可憐な小花文は8世紀仏教美術の流行柄

 外側面に描かれた花葉文は、五弁または六弁の小花文とその側面花を主とした複合花文である。

 これに類似した文様は、正倉院宝物のうちでは黒柿蘇芳(すおう)染金銀絵如意箱など多くのものにみられるが、8紀初頭創建の興福寺中金堂の基壇から明治7年(1874)に発掘された鎮壇具(ちんだんぐ)のうちの銀製鍍金唐花文鏡、あるいは8世紀中頃のものと思われる岐阜県護国寺に伝わる金銅獅子唐草文鉢、また、奈良時代末から平安時代初め頃のものであるとされる奈良県当麻寺の当麻曼陀羅厨子などにもみられる。

 奈良時代の植物文様を代表するものであるといわれる大唐花文などとは対照的に、あまり目立たない、あたかも道端に咲く小事をモチーフとしたかのような花文様であるが、8世紀の初め頃から末頃までの間、主に仏教美術の装飾文様として、広く用いられた文様であることがうかがわれる。

 なお、正倉院文書の「絵花盤所解」に記載の加盤を、その記載内容から、これら漆彩絵花形皿のことと考え、天平勝宝9年(757)5月2日の聖武天皇御l周忌の斎会に用いるために制作されたものであるとする説がある。(大山明彦)

■ 馬 鞍

▶️ 8世紀半ばに作られた馬具がはば10セット

 正倉院の中倉には、大刀や鉾・・弓箭などの武器武具類とともに、ほぼ完全なセットをなす10具の馬鞍が伝えられている。中倉に納められた経緯は定かでないが、腹帯の麻布には、常陸国の調布で作られていることを示す墨書と「天平勝宝4年10月」の紀年銘があり、これらの馬具は八世紀半ば過ぎに製作されたものと考えられる。

▶️唐鞍から和鞍への過渡期を示す特徴をもつ

 わが国に乗馬の習慣がもたらされたのは六世紀頃のことで、この時期の鞍は、古墳から出土した埴輪や鞍金具の形状から見て、騎乗者の座となる居木の上に前輪および後輪が垂直に立った新羅鞍の様式を示している。

 これに対して正倉院の馬鞍は、10具すべての後輪が内側に緩やかにカーブし、後方に傾斜している点で出土品の鞍とは大きく異なっている。これは騎乗性に優れた機能的な形状であり、実用性の高い中国大陸の形式を取り入れたものと考えられている。しかし、この時期の中国の鞍は幅の広い二枚居木の上に前輪・後輪をのせているが、正倉院の鞍は居木がすべて左右二枚ずつの四枚居木で構成され、全体に大振りな造りになっている。

 また、10具とも居木が前輪・後輪と臍組(ほぞ)によって結合されるなど、それまでに見られなかった構造となっている。これは平安中期以降のいわゆる和鞍の先駈けをなすものであり、唐鞍から和鞍に移行する過渡期の形態を伝える貴重なものである。なお、鐙(あぶみ)の形状も大陸から伝えられた輪鐙ではなく、より安全性の高い壷鐙が用いられ、後世の舌長鐙へとつながってゆく。

 正倉院の馬鞍が実用か否かを一概に判断することは難しいが、前後の時代の鞍と比較して簡素であることも大きな特色である。藤ノ木古墳から出土した馬具の例や、古い様式を伝えているといわれる奈良市子向山神社の唐鞍にそられるように、古式の馬具は装飾性豊かである。

 また、後世には螺鈿などで豪華に加飾されてゆく鞍も、正倉院の鞍の場合は一部を除けば素地仕上げとなっている。

▶️装着の安定と騎乗の安定を図る装具の数々

 騎乗のための装具l式を馬鞍と呼ぶが、それは普通に鞍と称されている鞍橋と、鐘などの付属品から構成される。(下図参照)

 馬への装着は、まず鞍橋から馬の背への衝撃を和らげるために、山折りになっている屧脊(なめ)を背の左右に振り分別け、ついで(したぐら)を重ね、その上に鞍橋(くらぼね)を置く。これらは鞍橋の左右の上居木(かみいぎ)に掛けられた腹帯革(はるびかわ)を屧脊の穴に通し、腹帯に結びつけて馬の腹に固定する。鞍橋の上の騎座には鞍褥(くらじき)を載せ、鐙は力革(ちからがわ)を介して鞍橋に吊られる。

 この第六号の鞍橋は前輪・後輪に桑、居木に樫を用いた素地仕上げで、鞍蒋、展脊・囁は、騎乗者や馬へのショツクを和らげるため、麻布や(むしろ)などを芯材とし、鞍裾と展脊の表には、正倉院宝物に多用されている唐花と花喰鳥の文様を表わした染辛が粘られており、苛には芯地の表に敏加エした革を粘り黒漆を塗っている。

 また、馬を制御する(くつわ)と手綱(たづな)は、面懸(おもがい)と一体になる。面懸は胸懸(むながい)・尻懸(しりがい)とともに三懸(さんがい)と称され、馬体を飾るとともに装具を馬体に安定させる役割を担っている。

 ほかにも、馬の尾を束ねるための尾袋(おぶくろ)、腹の左右に下げて跳ね上がる泥などを防ぐ障泥(あおり)などが馬具残欠として伝えられている。(樫山和民)