時間地図の試み-2
■足跡としての、時間地図
対談:稔岡正則×杉浦康平−2
■アジアの生きた現象−まさに、動くレイヤー
杉浦: ウルムではドイツ人の暮らしとデザインの関係を見て学ぶことも多かったけれど、帰国後の1972年のアジア旅行の体験で、これではいけないと反省することも多く、次のステップを模索することになりました。
松岡: インドから帰った3日後くらいにお会いしたのですが、「変わったよ」と言われていましたよね。
杉浦: インドのアーメダバードで、ホテルのテラスで朝食をとっていたとき、目の前の大通りをたくさんの車や人が行き交うのを見たのが衝撃でした。10分はどの間に、バス、トラック、リキシャが走り、ラクダ、ゾウが移動していく。サルも走る。人間を含めたあらゆる動く手段、交通の歴史が流れるように目の前を通りすぎた。新旧の全部が共存している。これがアジアの重層性なんだと気づきました。
日本の現実は、それとは対照的です。私は音楽が好きでSP時代からよく聞いていたのですが、LPからCDになると、SPのプレーヤーは消え去るし、レコード針を探すのも大変。たちまちSPが消滅した。日本は時代の先端を素早く駆け抜けるけれど、消し去るのも素早い。その前の文化の層を探すのが大変なんです。でもインドの現在には、歴史の層が目の前に生き生きと重層している。これこそ、ドイツでは感じえなかった、アジア的風景だと感じとったんですね。
松岡: 工業的な印刷工場の中で、レイヤーを徹底期に学習された未に独自のデザイン図法を発見され、そして混沌の中にすべてがある生きた現象のインドに出会われ、それも表現対象になっていくわけですよね。
杉浦: まさに動くレイヤー…だ!松岡さんは相変わらず聞き上手で、まとめ上手ですね(笑)。このような体験後に、松岡さんが手がけた「インド自然学」という、途方もないテキストをデザインする機会が訪れました。
松岡: いえいえ‥インド哲学は、やらなければという使命感と観念の変数もあるので、データでつくる図法をされている杉浦さんにお渡しすればなんとかしていただける…と思ったのがきっかけです。
杉浦: インド旅行を経て、アジア独自の身体観一宇宙の途方もない広がりを人間の体内に呑みこんでしまうという、アジア独特の身体観に惹かれていた。ヨガや禅がそれに相当するのですが、その基本は呼吸法で、体内という小さな場に宇宙の微塵の総体を吸い込んでしまう。その変幻自在ぶりに驚かされていたのです。人間の体内と宇宙は自在に往還するものだという、アジアの古来の秘法を図に取りこもうと試みた。インド哲学が細分化してみせたものを、人間の体内器官になぞらえるような図化を試みた。発端や過程のなかで松岡さんの適切な指示があり、非常に快感がありました。辻修平くんに手伝ってもらった。
松岡: あれはやはり、ヨーロッパ流のデータで組み立てられる変形地図の暑さと、もともと流動的な、善と悪の間にいくつもの変数があるような二分法にならない、アジアの社会文化現象とを、ドローイングのリファインによってダイアグラムにされた最初だと思います。
杉浦: でもヨーロッパの錬金術の作図を見ると、錬金術という摩詞不思議な中世科学の秘法を仲間にどう秘密裏に暗号化し図化するか、ヨーロッパでも秘法の伝達法に腐心していたことがよくわかります。
松岡: そこはヨーロッパのいいところですよね。オカルトのように隠避する、隠しながら記号化したいから変なものになるという。そこをアジアは、分析しないまま出しちゃいます。
■「乱視的世界像」のまま、デザインをやり続けている
杉浦: 身体観のことで言うと、人間は二つのまん丸い眼球で世界を見とる。お椀の内部のような眼球内に映る歪像を人間は修正して見ているんです。立方体も湾曲して投影されている。体内にまず生みだされる歪像の存在を感じとるか感じとらないかは、認識の大きい差につながると思うんです。
松岡: 私が『遊』の創刊号でインタビューしたときに「私は月が9つ見えているよ」というところから始まりましたよね。杉浦さんの、身体値に変換して拡散した情報をもう一度取り戻されているデザイン手法は、眼球にいちばん象徴されていると思います。なのに、眼鏡をかけようとしないで、乱視的な世界像のままデザインをやり続けているなんて、変な人だなあと思ったんですよ。普通は補正するじゃないですか。でも「補正しちゃうと世の中の普通になるんだ。補正しないまま薄膜のような境界の線によってつくりあげる」と言われて、ああ、そうかと納得しましたね。
杉浦: この頃松岡さんが書かれた杉浦論に、「乱視的世界像」というタイトルをつけてくれたのですね。そもそも眼鏡というのは近代の産物で、古代人は眼鏡などしていなかった。
松岡: アリストテレスやゲーテの視力や聴力がわかったら、思想史も変わりますよね。
杉浦: こんな文章を書く人なら乱視に違いない…などと、書き手の視力がわかるかもしれない。やはり眼鏡のような装置を拒絶すると、言葉をこえた「至福」が訪れるんです。
松岡: それが変な人なんです(芙)。そんなことは普通は想定できないですよ。
杉浦: 自分の努力で世界を補っていく。欠落しているものの凄さを簡単に補正してしまうと、その有り難さがわからなくなる。月が9つも見えることを自力で補正しようと努力する、逆にそれを享受する。すると、詩人だったら詩的言語が生まれるでしょう。私はそれをデザインのうえで、どうにか実現しようとしたのかもしれない。
松岡: 私が杉浦さんにお会いしてまもない初期、と言っても杉浦さんにとっては活動の中期以降ですが、キーワードのように言われていたのは「閾値」ですよね。情報がたくさんあるから大きなアンテナが必要なのではなく、うんと小さい単位、ピアニッシモの中に閾値がある方がかえってわかるんだよと。私のデザインはそういうことを目指している、というようなことを言われていました。
杉浦: 松岡さんは、話の細部を本当によく記憶しておられる‥・。閥値というのは結局、知覚できるかできないかを区切る、一種の境界線ですね。注意力の喚起の問題でもある。閥値をまたぐと生、手前で止まると死…みたいなね。境界線の問題は、アジアの神話学では重要なテーマです。
松岡: 開催については、もちろん(ヴアルクー・)ベンヤミンを始めとする人たちも、哲学的に研究していました。人間の知覚は過程の中で変容するんだと。杉浦さんのデザインは、微細なものをうまく埋め込んで、変容させる境界のラインを絶妙に引かれている。「輸郵線は簡単には引けないよJとなんどもおっしやつていたことが、心にずっと残っています。よく考えずに社会的な認知だけで線をひいては子どもの絵になってしまうと。またイスラムやインドの絵では、線が微妙だとも言われていました。私は杉浦さんの奥にはやはり、生物や生命の脈動する閉値の変容がずっとあったと患うんです。
■長きにわたる地図の歴史を、根本的に変えた一多変数表現としての時問地図
杉浦: 本題である「時間地図」の前に、地図の原点を振り返ると、地図とは、地上にある諸現象を腑撤して縮尺し記載する図像ですね。ある領域の空間のひろがり、その特性を感知しうる便利な道具になっている。地下に埋没している地質の重層や、地上の産業分布なども僻撤した地形に重ねて表現しうる。 だが、時間が主役になると、地図上で固定された建物の中には階段やエレベーターがあるから、内部で移動すると時間地図的には大変化が起こるんですね。たとえば階段を回りながら上がると、地図上では位置関係・距離が固定している空間にも、時間軸上ではエラスティックな伸びが生まれてくる。また、時代の推移による文明の網がかかると、たとえば新幹線で行く都市にジェット機が飛ぶと、その都市が急激に引き寄せられる。まるで軽いゴミが掃除機の吸い口に吸い寄せられ、重いゴミが取り残される様子に似ています。軽いゴミは大都会。さまざまな活動が行われているかに見えるけれど、軽チャーの吹き溜まり。一方の重いゴミは、多くの人が足を伸ばしにくい、古き日本が残っている名勝地とも考えられる。いままでの僻撤型の地図表現では見とることができない隠された時間のヒダというものが潜んでいるし、移動速度によって出発地から目的地への到達時間が変わることは、異なる時間のヒダがそこに畳み込まれているともいえるでしょう。
松岡: 時間のシワやヒダを表したいという話は、ずっとされていましたね。
杉浦: こういう変容…文化の振る舞いというか、人間の活動の変化に応じて、地図では不動のものとして表現されている土地・建物がさまざまに変化する。これまでの地図は、地表の不動産の分布図として塗り分けられたものでしたが、私が作図した時間地図では、プロジェクトごとに座標軸を変えて措いている。
松岡: 時間地図はメルカトール、というかプトレマイオスからずっと続いてきた、長きにわたる地図の歴史を根本的に変えたものだと思っていますが、普通は可変的な動向を入れないのが地図ですよね。鉄道の地図であれ、都市の地図であれ、動かないものを基準にその上を自分が動いていくよう読むのに、杉浦さんは地図に動向を入れ始めた。ひとつの世界のいろいろな動向を調べあげ、いまのビッグデータと呼ばれるものに近いものを全部集めて中に入れたことは、それまで全くなかったんじやないでしょうか。
杉浦: このような変形地図、松岡さんがいう動向の地図は、私がオリジナルをつくったわけではない。発想の原形ともいえるものはライシャワーの変形地図なんです。いま見るととても簡素な地図ですが、その衝撃は非常に大きかつた。時間地図も最初の原形はイギリス、ロンドン中心の時間地図。むろん仕上げ方、データの密度には大きな違いがあるのですが…。1950〜70年代はイギリスが新しい地図づくりの中心でした。かつて世界制覇をした国だけに、世界模型としての地図の制作能力が高かったんです。なんのために世界を手に入れたのか、世界をどう意味付けるのかということが、じつに明快に作図されている。
松岡: でも変数はひとつぐらいじやないですか?
杉浦: むろん、そうですね。だけど、地図表現に変数をひとつもちこむということがいかに大変なことか…が読みとれます。
松岡: 静的な地図の歴史から見れば、画期的かもしれないですね。
杉浦: たとえば音楽とは、音高・音色の変化やダイナミズムを生命とする芸術で、時間軸の流れに沿った変化をどう捉えるかがテーマになりますね。音の楽譜が成立する前後には、舞踊の振付の記録もさまざまな工夫があった。17〜18世紀には宮廷に雇われた舞踊師が振付を教えるために、動き方を記録する舞踏譜をつくっていたんですよね。
松岡: コレオグラフですね。杉浦: そう。たとえばイギリスの振付師のオギルヴイという人が、舞踏譜から発展した道路地図をつくりあげた。ロンドンから地方都市へ曲がりくねる道路を一定の距離で区切り、ロール状の巻物にして作図した。見事な表現です。
松岡: ライン河の地図なども見せていただきました。
杉浦: ええ。こういう先例はいくつとなく集積している。私が作図したオリジナリティのある地図は「時間軸変形地球儀」です。これはまだ、世界に例がないと思っています。
松岡: (スギウラ時間地図〉はものすごく多変数・多変換な表現でした。地球儀が代表的ですが、情報地球を上からの表層でまとめないで、途中を出して∬でスライスしていった。これはユニークでした。
杉浦: 時間軸変形地球儀の発想は、タマネギの構造にヒントをえたものです。歩行、自転車、自動車、鉄道、新幹線、航空機…とスピードが加速するにつれ、二都市間の距離が縮んでいく。これはちょうど、タマネギの皮の内側へとめりこんでいくことに似ている…と気づいたんです。到達困難な場所一砂漠や高山の山頂などを加えて、全部で7層ほどのタマネギの皮を重ねれば、時間を距離に変換した地球儀ができると直感した。タマネギの皮を内側に向かって掘りこんでゆく。空港所有都市が最も小さい皮の上に並ぶことになる…。このような着想を形にすることができたのは、ウルム時代の、やや静寂な時間があったからですね。ドイツという、超極右の分析志向の雰囲気の中で過ごしたことは大きくて…。
松岡: あそこは合理の美の最高府ですよね。
杉浦: ウルム造形大学には、小さいながらも素晴らしい図書室があったんです。世界の最新のデザイン情報が集まっていた。私は時間があれば図書室に行き、新しい資料を直接手にとって大きな刺激を受けていよした。そうした環境のなかで、学生を教える以外の時間が十分にあった。時間軸地球儀のタマネギの各層を一枚一枚措く作図はめちゃくちゃ大変で、できあがってみると、あ、こんなものかという感じなんだけれど…。トレペにロットリングで何十枚もの作図をし、手措きを積み重ね描き直した堆積の結果がこれなんですね。赤・青のセロファン眼鏡で見るステレオ作図もつくりあげた。ヨーロッパ中心部のめり込みがよく見える位置でのステレオ化です(一077頁)。
松岡: これを見ると、ヘルベルトり〈イヤーなんかは、逆にものすごくつまんなく見えますよね。空間がひとつだからでしょうか。形の変化だけにとらわれているからなのか。
杉浦: 見えるものを数量化しているんだ…ということにも起因しているのでしょうね。
松岡: 結局バイヤーは、見える世界をもう一度見えやすくするという技法で描いていますもんね。杉浦さんのは見えないものが出現してくる。
杉浦: 実際には、今日の人間生活の根源に触れるものなんだけれど、それをどう表現したらいいだろうか・‥という未知の主題に、挑戦し始めたんです。
松岡: もはや小説やミステリー、SFに近いですよね。本来見えないものが、本当に見えちゃう…というところまで行かれている。
■歪像への強い憧れと、「日本神話」の重層空問
松岡: 先はど眼球のことを話されていましたが、それは視像は一定ではないということでした。表とl削よひっくり返り得るとか、(ユルギス・)パルトルシャイティスがアナモルフォシスというように、杉浦さんはアナモルフォシスを恐れないというか、歪象への患いが強いんでしょうか。地図上でもつくられていますが、普通、至急って奇形になっちゃうんですよ。格好のいいアーティストたちも、せいぜいフリークで終わる。でも杉浦さんは科学的なデータや社会的なデータや現象に基づいて歪曲させていくのに美しい。また整然と見えてくる。これは杉浦さんのもうひとつのグラフイズムです。たとえばLSDを飲むと末端現像が肥大するとか、(ワイルダー・)ベンフィールドが脳を書返したらこういう絵になるとか、ひよつとしたら歪曲への憧れのようなものがあるんですか。
杉浦: 私は「摩詞不思議大好き人間」なので、歪曲図像は宝物にしていましたね(笑)。
松岡: やっぱりね。私はフリークも面白いと患うし評価はするんですが、憧れだけで終わるんですよ。でも杉浦さんの世界はリバースモードで、行ったり来たりということに十任をとられている。フリーク感覚というのは、行きっばなしが多いですから。一方、杉浦さんは印刷の軽族から得られたデザイン図法でリバース像をつくっている。変形地図、地球軌ょものまく変化をしているようで、実は元に戻ることができるという感覚があります。
杉浦:「日本神話の時空構造」では、松岡さんから事前に手描きの資料を渡されました。これがすでに空間構成的な資料だったので驚いた。それを元にしてレイヤーとレベル分けをする。たとえばイザナギ、イザナミが行きっく黄泉国は地下階だと考えればいい、高天原と出雲神話は天と地の二階建ての建造物のように、また日向神話は地上世界に近づけて…とか。その結果、重層空間のような流れ図になった。
松岡: 実科は伊藤清司さんと一幸削こつくったものです。あれはいまでもみなさん随分と利用されています。これを片手に、日本神話やF古事記』を読む人が増えている。
杉浦: ダイアグラムの元資料になった松岡作図が、すでに相当ユニークなものだった。松岡さんの意外な才能の一面を見る思いでした。私はそれを雲上に配したり、結線の複雑さを整理したに過ぎない。作図には中垣信夫くんと渡辺富士雄くんが参加してくれました。
松岡: でも、あれはもともと杉浦さんから見せていただいたワーグナーの解説書に刺激されたんです。r登場人物の線がこんな風になるんだよ」と。それを見てダイアグラムに人物や神さまが入るのもいいんだと思ったんです。
杉浦: イギリスのデッカレコード、日本のキングレコードが出したワ一グナーのオペラ。全1う枚のLpの『ニーベルングの指輪』に付けた単行本のような解説書で、台詞の翻訳に加えて、登場人物の関係図を作図していたんです。しかし松岡さんは、そんなことまでよく覚えているね…(笑)。あれが元だとするならば、この図は三段跳びの最終段階ま で行っている。大跳躍ですね。
松岡:それはやはリゲルマン人と日本人の、ストーリーの構築の速いかもしれないですよね。日本神話は義美を行き来して、日向パンテオンがまた三輪・大和パンテオンに戻ってきたりしますから。
杉浦: 神話自身の流れがビビッドですね。高天原神話と出雲神話の重層性のなかで、とりわけアマテラスとスサノオの関係が変化に富んでいて、相当に面白い。天界・地上界をまたぐスサノオの動きだけ色を変えて表現してもいいほどだった。
■地図の始まりというのは、足跡
松岡: 杉浦さんのグラフイズムの奥には、今和次郎の考現学のように不思議な痕跡的現象学がありますよね。その多様な痕跡群をタイムスペースアクシスの中に、グラフ状に表現されていく。ただ、グラフ理論というのは折れ線や棒グラフやドット分布にプロットなどで表され、少々複軌こなってもせいぜいx_Y_Zのデカルト座標の変換に、ユークリッド幾何学やトポロジーがあるという程度です。杉浦きんのダイアグラムには、それらが多軸考現学のように表出していました。
杉浦: いま松岡さんが、今和次郎を挙げられたけれど、さすがに慧眼ですね。なぜならば『百科年鑑』の編集部が目指していたのは、まさに考現学的年鑑だったんです。年鑑の全体にわたって、この時代の日本人の姿、日本人の生活が見えるようにしようと、編集部全体ががんばっていた。
松岡: 「百科年鑑」でのダイアグラムで、フローとストックといった変換をおやりになるなかに「痕臥を入れられています。ダイアグラム以前からr犬地臥のようなアニマルトラック図も制作されていましたよね。杉浦さんのデザインの奥には痕臥杉浦:足跡への関心というものが見られます。
杉浦: 痕跡、そして足跡は、私が関心を持つばかりでなく、たとえば初期のアボリジニの絵というのほ実ほ足跡にょる「地図」なんですよ。祖先の魂がたどった道臥心の軌跡というもの…、この世界と石器時代以来の感性をもつアボリジニがどう関わってきたかが読みこめるよう、画面に無数のドットを散らし、ときにはちゃんと足跡を印して描いている。地図の始まりというのは、やばり足跡ですよ。だから私が犬地図でまず行ったことは、どのような道筋を犬が歩いたか…という場の設定、道筋の設定です0それなしには犬地図は掛ナない。公衆電話ボックスのにおいを喚ぎ、ベンチの足元におしっこをかけ、道の真ん中を歩いたかと思うと、車の音がしたので少し脇にそれてみたり…というような、いろいろな設定をしながら犬の足跡を想定する。それぞれの変化点で、なぜそのような行動に移ったのかというファクターを考え、道筋を組み立てていきました。
松岡: あれはビデオやメモの記録ではないんですか?私はてつきり誰かの観察記録から始められたのかなと思っていた。
杉浦‥ いやいや、そうじゃない。犬の気持ちになっていた(笑)。こういう空間なら、このような行動をするだろうという。日頃の犬の行動を重ねてみながら、その一挙手一投足を人の感性でなく犬の感性で捉え直してみたいという思い…。
松岡: そこが面白いですよね。私はあるとき、バックミンスクー・フラーに会って話を聞きましたけど、素晴らしい人なんですが、自分のことばかりに思いが入っちやつて、製図されたものや彼が世に発表したものの多くは、外酎ヒ、製品化されていない。実現化されたものは再生可能なものではありますが、それに彼の思いが入っているかというと、そうではなく誰もが入れられるというものになっている。犬の気持ちなどと言えるものじやないんですよ。普遍的なXさんの世界なんです。
杉浦: なるほど。それはまさに西欧人的な感性でもありますね。
松岡: それはそれでユニバーサルであり、まさにユニバーサルデザインです。そういう意味で杉浦さんのデザインは、個々の一即多のユニバーサリズムでもありますね。
杉浦‥ アジア体験をした後には、私の場合はできるだけ「対象になりきる」、「寄り添う」ということにシフトしていったから…。さらに「多主語」というキーワードが加わってくる。
松岡: ということは、杉浦さんの痕跡学には、本当の足跡とともに、思いの痕跡も入っているんですね。
杉浦: そうなのかな‥・(笑)。これは一種の恋文なのかもしれないね…。
■味覚地図=陣界り四大料理を比較する・・・
[味覚地図]朝日百科・世界の食べもの』136号、1983(朝日新聞出版)一日本・中国・フランス・インド料理の「味覚体験」地図化の試み。一人の食研究家の味覚体験にもとづき計量化した。
◉味の変化、量の推移、満足度(黄金色の雲や虹で表現)など、刻々の味覚体験に加え、食卓上の道具や飲み物・・・なども記している。
◉日本料弘小さな皿や小鉢が次々に供される「列島型」。複数の皿料理がほぼ同時に出され、複数の組み合わせで陶酔感を誘いだす「小集団型」の中国料理。「小集団型」の中国料理。フランス料理は、メインにボリュームたっぷりの肉料理が聳えたつ「アルプス山脈型」。皿に盛られた複数のカレーとライスを右手で巧みにせ、口に運び、その辛味がガンジス河の流れ」のように続くインド料理など、それぞれの特徴が明瞭に浮かびあがる。(監修=玉村豊男 Co=渡辺富士雄+谷村彰彦+佐藤篤司)
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