木村恒久の「矛盾の壁」
「世界」セクションに展示された「矛盾の壁」は、科学技術の進歩の負の側面である戦争、原爆、公害など、現代の人類が抱える深刻な問題を、高さ3m、幅約30mの向かい合う2つの壁面にフォトモンタージュで表現したものだった。このデザインを担当した木村恒久は、当初「戦争」「破壊」「平和」という3つのテーマでまとめたフォトモンタージュを提案した。
「戦争」には終末的な核戦争を連想させるキノコ雲が、「破壊」には戦争によって破壊されたがれきの上に横たわる人間の足が大きくクローズアップで映し出されていた。このフォトモンタージュは原爆投下直後の広島や長崎を撮影した記鐘写真をもとに制作したもので、広島で開催された常任理事会(1968.9.26)で承認され制作準備が進められた。
ところが、万博開幕の約1か月前に開催された政府の万国博推進本部会議(1970.2.5)で、「表現がなまなましく悲惨すぎる」「人物写真を出すのは人権侵害だ」といった意見が出されたため変更を迫られ、最終的には赤や青の色彩が強調され、原爆写真の悲惨な内容がほかされた壁面に仕上げられた。
■万博/反博とは何だったのか
大阪万博には先鋭的な活動を繰り広げていたデザイナー、美術家、音楽家、建築家、映像作家が多数参加し、現代の芸術諸分野の壮大なる実験場ともいうべき様相を呈していた。万博会場には時代を先取りするかのように未来的なデザインのパビリオンが建てられ、その中では現代音楽が流れ、マルチスクリーンで映像が上映されるなど、情報化時代の到来を告げるかのように先端的なテクノロジーを使った実験的なディスプレイが行われた。当時、美術やデザイン関係の雑誌ではあいついで万博特集が組まれているが、なかには万博反対という立場(反博)をはっきりと表明する美術 関係者もいた。
例えば、美術評論家の針生一郎は大阪万博を、国家プロジェクトヘの総動員体制、安保反対闘争の矛先をそらし情報革命のスローガンのもとに芸術と産業の一体化をはかるものなどと批判した。そうした状況の中でデザイナーは建築家や美術家たちと協力しながら、ときには摩擦にさらされながらも、万博だからこそ実現可能となったスケールの大きな仕事に取り組み、あるいは、先端的な情報技術を使った展示プランを構想し、デザイナーの仕事の領域を広げていった。
■反万博デザイン例
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