デザイン懇談会

■シンボルマークをめぐって

 大阪万博の開催が決まつたことをうけ、東京オリンピック(1964)のデザインワークを成功に導いたデザイン評論家の勝見勝を中心に、1965(昭和40)年11月18日、デザイン関係者13名(勝見勝、亀倉雄策、剣持勇、河野鷹思、小池岩太郎、豊口克平、原弘、我妻栄、斎藤重孝、早川良雄、樋口浩、真野善一、宮島久七)によってデザイン懇談会(デザイン小委員会)が結成され、同年12月10日、日本万国博覧会協会(以下、万博協会、または、協会)に対して建議書「日本万国博覧会におけるデザイン政策について」を提出、万博におけるデザインの重要性を訴えるとともに、デザインポリシーの一貫性の確立を訴えた。

 公式シンボルマークについては、デザイン懇談会の提案に基づき、1966(昭和41)年2月9日に指名コンペ(審査員長:勝見勝)が行われ、48点の応募作晶の中から西島伊佐雄の作品が選ばれた。ところが、常任理事会で万博協会の石坂泰三会長(経団連会長、元東芝社長)がそれを却下したため、同年4月4日に再び指名コンペが行われ、最終的に、桜の花の形をモチーフにした大高猛の作品が公式シンボルマークとして選ばれた。五弁の桜の花は日本を象徴するものであると同時に、五大州、すなわち世界を意味していた。

シンボルマーク シンボル受賞 マーク製図

 このモチーフは、桜の花によって象徴される“日本”です。日本の国花であるサクラのイメージを生かし、その花びらが五大州、すなわち世界を表しており、ともに手をとり合っての日本万国博への参加を視覚化しました。中央の赤い円は、日本のシンボル、“日の丸”であり、そ(周囲の白の部分は、発展への余裕と伸びようとする意図を言わしています。その安定した全体的な印象は、品位と調和を示し、世界の催しであることを力強く表現してあります。文字は、東洋的な感覚を生かし、最も新らしい文字であるEUROSTILE BOLD EXTENDEDをアレンジして使用しました。(大高猛「日本万国博シンボルマーク制作意図」

■テーマ「人類の進歩と調和」

 1965(昭和40)年9月14日、大阪万博の開催が正式に決定すると、まず、その準備委員会が急いだのは大阪万博のテーマ(統一主題)の選定だった。かつて万博は「もの」を見せるイベントだったが、第二次世界大戦後には、「見せる万博」から「考える万博」へとその性格を大きく変え、テーマ設定が重視されるようになっていた。テーマを中心に万博が計画され、その展示を通じて、テーマが示す人類の課題に対する省察を人々に促すことが万博の役割として期待されるようになっていたのである。

 戦後初めて開催されたブリュッセル博(1958)のテーマは「科学文明とヒューマニズム」であり、モントリオール博(1967)は「人間とその世界」だった。大阪万博のテーマについては、テーマ委員会(赤堀四郎、井深大、大原総一郎、大儲次郎、大来佐武郎、茅誠司、貝塚茂樹、桑原武夫、駒村資正、曾野綾子、丹下健三、東畑精一、豊田雅章、松方三郎、松本重治、村山リウ、湯川秀樹、武者小路実篤)で検討された。第2回テーマ委員会(1965.10・5)において、副委員長の桑原武夫(京都大学教授)は「文化の多様性の容認とその調和的発展」という命題を提示、第3回テーマ委員会(1965.10.20)では桑原武夫のブレーンともいうべき「万国博を考える会」の梅棹忠夫や加藤秀俊らによって作成された「基本理念」の草稿がほぼ原文のまま採択された。

 委員長の茅誠司(前東京大学総長)はその「基本理念」に記された「異なる伝統のあいだの理解と寛容によって、全人類のよりよい生活に向っての調和的発展をもたらすことができるであろう」という部分を集約してテーマとしたいと述べてその方向性を示した。そして、その5日後に開かれた第4回テーマ委員会(1965・10・25)で「人類の進歩と調和」がテーマとして採択され、日本万国博覧会協会の第1回理事会(1965.11.2)を経て正式に承認された。

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 大阪万博が採択したテーマ「人類の進歩と調和」には、アジアではじめて開催される万博としてヨーロッパ文明だけが唯一の文明という考え方をやめ、科学技術の進歩を無邪気に礼賛するのではなく、その負の側面にも目を向けつつ、文明の多様性を基盤に、東洋の「和の精神」で調和のとれた摩擦のない平和な人類社会のあり方についてみんなで考えようという理想が込められていた。

■公式シンボルマーク指名コンペ

 大阪万博の公式シンボルマークについては、デザイン懇談会の提案に基づき指名コンペで選定することになった。日本万国博覧会協会は勝見勝(委員長)、河野鷹思、桑原武夫、丹下健三、原弘、真野善一、新井真一の7名を審査委員に委嘱し、1966年1月31日〆切で作品を募集した。指名を受けたのは15名のデザイナー(伊藤憲治、大高弓孟、大橋正、片山哲夫、加藤孝司、亀倉雄策、田中一光、仲候正義、永井一正、西島伊三雄、西脇友一、早川良雄、福田繁雄、細谷巌、山城隆一)と2団体(KAK、GK)だった。提出作品はスタンダード(直径約5cm)、縮小(同1.5cm)、拡大(同30cm)の3サイズを白ケント紙に白黒で描いたものとし、拡大サイズについては3色以内の彩色作品を付し、さらに制作意図を記した説明書とあわせて提出することとした。2月9日に審査が行われ、48点の応募作の中から一次選考で16点に、2次選考で5点に絞られ、3次選考で福岡市在住の西島伊三雄の作品が選ばれた。西島作品は、東西の二つの世界や対立する人間関係を表しながら、両側から互いに手を差し伸べ、対立のない平和な世界を作るという理想を表現していた。

 ところが、第3回常任理事会(1966.2.23)においてその説明を受けた万博協会の石坂泰三会長は、西島作品に対して、「誰が見たって上のやつは日の丸だよ(…)日本はいばってやがるという批判を受けるかも知らぬよ、ぼくは感心しないし、わからない(…)ぼくにいわせるとナンセンスだね」「ある特別のインテリだけの理解が得られるようなものであっては僕はだめだと思う(…)大衆性がないといけない」と却下、選考のやり直しが行われることになった。万博協会の会長をつとめた石坂泰三は、第一生命社長や東芝社長を歴任し、経団連会長を12年間(1956−68)にわたって務め、“日本の陰の総理”、‘‘財界総理”とも呼ばれた気骨ある財界人だった。

 万博協会は、前回の指名デザイナーに対して4月2日〆切で再度作品の提出を要請することになり、石坂会長と3名の副会長が審査委具に加わって4月4日、万博協会の東京事務所で2回目の審査が行われた。57点の応募作品をまず39点に、そして13点へ、8点へと絞り込み、最後に残った2点について審査委員全員で決選投票を行った。その結果、桜をモチーフにした大阪市在住の大高猛の作品が選定され、4月20日の理事会で正式に大阪万博の公式シンボルマークとして採用することが決まった。

コンペ

 技術文明の発展により、人類は大きな変革を経験しつつあり さらに、世界の各地域には大きな不均等が存在しているが、多数な人類の知恵を有効に交流し合うなら、理解と寛容を通じ、全人類の調和的発展がもたらされる。このためには、お互いが人間であることの意義をたかめ、手をとり合い、調和して平和な世界への進歩をなしとげねばならぬ。シンボルの左右下部の二つの円はお互いが結ばれて世界を−となし、次の世代への新しい上部の円(平和な世界)を形成する。なお、日本で開かれることの意義を日の丸(上部円)で表現し、東洋的感覚でアレンジした。    (西島伊三雄「日本万国博シンボルマーク制作意図」)

■公式シンボルマークの選考プロセスに対する批判

 審査委員会によっていったん選定された西島伊三雄の作品が、石坂泰三会長の一言によって却下されることになった公式シンボルマークの選考をめぐる紆余曲折をジャーナリズムはさわぎたて、審査委員会、そして審査委員長をつとめた勝見勝に批判の矛先が向かった。例えば川添登は「審査委具は全員辞職すべきであり、少なくとも勝見勝委員長は、委員長を辞任すべきであった」(『科学朝別1966.6)と批判した。

 岡秀行は「抽象を抽象の世界で理解する訓練に乏しい一般人に対して、こんな時にこそデザインのなんであるかを啓蒙し、最後まで専門家らしい毅然とした態度で筋を通してほしかった」(『デザイン』1966.7)、向秀男は「再提出の挙に出てコンペの原則を通せなかったのは専門家が専門家としての意見をチカラに変えられなかったからである」

シンボルマーク選考

 山下芳郎は「再度の募集というのも合点がいかないし、それ以上のものが出るというのもおかしい」(同上書)、和田誠は「デザイン関係者全体が結束して審査委員会の決定を押すべき性質の事件であったはずだ」(同上書)と批判した。一方、公式シンボルマークの再選考をめぐって批判の矢面に立たされた勝見勝は、審査委員会の権限があいまいな万博協会の体制を批判し、「日本万国博のデザインポリシーを一貫させる強力な体制を確立させるためには、協会組織の全般に関係してくるデザイン委員長に事務総長相当の権限を与えない限り、十分なコントロールは不可能である」(『デザイン』1966.6)と述べてデザインポリシーに一貫性を持たせるための体制の整備を訴えた。

■案内標識

 会場内に設置する案内標識については、1967(昭和42)年11月、GKインダストリアルデザイン研究所と磯崎新と福田繁雄による万国博デザイン計画グループによって、モントリオール博に際して制作されたサインマニュアルを参考に、サイン計画の原案(1968・3)が作成された。その原案に対する勝見勝(デザイン顧問)と丹下健三(基幹施設プロデューサー)の助言をふまえて1968(昭和43)年10月「日本万国博覧会表示標識規格(一般規格)」が作成された。案内標識に用いる書体については、和文は写真植字特太角ゴシック正体(または見出角ゴシック正体)を、英文と数字についてはユニバース65を使用することとし、日本文字1,327字、英字60字、数字10字をマイクロフィルムにGKインダストリアルデザイン研究所による方向指示標識ポール取付方式24おさめ原形とした。

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 標識は原則として和文と英文の2か国語併記とし(ただし外国の出展者に対しては日本語を含む2か国語以上の併記とすることを要請)、標識に使用する英字は大文字のみと定めた。なお、一つの標識板には原則として1か国語のみを記載することとし、和文と英文を併記する際には漢字の高さ5に対し英字の大文字の高さを4とし、視覚的には同じ大きさに見えるように定めた。標識は横形と正方形の2種類とし、横形の標識は、縦1に対し横8の比率を基準とし、使用する文字については標識の大きさに応じて高さ15〜400mmの9段階を定めた。

■ヒストグラム

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■プロモーション・・・ポスターと会報

 大阪万博は当初から想定入場者数を3,000万人に設定(後に5,000万人に上方修正)されたビッグイベントであり、準備段階から潤沢に予算を使ってさまざまなかたちで広報活動が展開された。万博協会は、1966(昭和41)年3月に報道、広告、貿易観光、映画の各代表者と学識経験者の17名で構成される広報委員会を設置、以来、大阪万博への出展招請のキャンペーンのため、また、観客動員をはかるため、ポスター、ガイドブック、ニュースなど、さまざまな広報資料を制作し配布した。広報活動には運営費の約10%にあたる21億6,000万円(国内14億円、海外7億6,000万円)
が使われた。

 1966(昭和41)年9月、大阪万博の最初の公式ポスターとして、シンボルマークを大きく描いた青、赤、緑の3種類のポスターが制作された。大阪万博の公式シンボルマークを浸透させることをねらい広告代理店によって制作されたものだったが、デザイン懇談会を素通りしてポスターの制作が進められたことに対してデザインポリシーの一貫性を危ぶむ声があがった。

 その後万博協会は、

①アジアで初めての万国博が東洋と西洋の接点といわれる日本で1970年に開かれること、

②万国博は楽しい雰囲気の人類交歓の場であること、

③万国博は未来に踏み出す大きな転回点であること

の3点を強調してピーアールするという方針を定め、公式ポスターについては指名コンペを1967(昭和42)年1月と同年12月の2回行い3種の公式ポスターを制作、さらに、万博協会のアートディレクターとなった大高猛のもと1969年に2種、1970年に2種の公式ポスターを制作した。

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■公式ポスター第1回指名コンペ(1967.1)

 1967(昭和42)年1月17日に公式ポスターの指名コンペ(第1回)が行われ、指名を受けた早仙良雄、大高猛、永井一正、福田繁雄、河野鷹思、亀倉雄策の6名が計28点の作品を提出した。その中から海外向けポスターとして選定されたのは亀倉雄策の作品だった。公式シンボルマークを中央に配し、そこから放射状に拡散する248本の金色の線によってコミュニケーションの発達を象徴的に表した図柄で、コンペにはシルクスクリーンで印刷した黒地に金、白地に8色、黒地に8色の計3種類の試作品を提出した。その中から選ばれたのが黒地に金のパターンで、黒をベースに金と朱をつかったこの色の取り合わせは日本の漆器を意識した彩りでもあった。この亀倉のポスターは1967年のADC(東京アートディレクターズクラブ)金賞を受賞した。一方、国内向けとしては五大州を象徴する薄紫、青、緑、董、深紅の5色の球体が浮かび上がり、その影として銀色の公式シンボルマークを描いた福田繁雄の作品が選ばれた。

29日本万国博覧会(海外向け第1号公式ポスター)1967

■公式ポスター第2回指名コンペ(1967.12)

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