亀倉雄策の軌跡

111■亀倉雄策の軌跡

永井一正

■1915-1933(18歳まで)

 亀倉雄策は1915年4月6日、父・亀太郎、母・スマの4男2女の末っ子として、米どころ新潟県西蒲原郡吉即一に生まれた。越後平野の日本海寄り、弥彦山に近い小さな町の周囲は一望の水田地帯で、亀倉家は西蒲原郡では有名な大地主であった。幼年期を過ごした生家は広大な敷地を有する大きな屋敷だった。後年、『新潟日報』が新潟県出身者の生家を紹介する記事を連載したことがあるが、現存しか、亀倉家の場合は、病院やアパートなどの建ち並ぶ屋敷跡をヘリコプターから空中撮影して、跡地を点線で囲って見せたという。

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 一方、母方の実家も、裕福な加茂神社の神主(社家)で、風趣のある広い庭園を有していた。のちに棟方志功が新潟地方を旅行中この庭に立ち寄り、そのスケッチをもとに「越後・加茂の社家の庭」と題する板画を発表している。ちなみに、この板画が亀倉と棟方の知り合う機縁ともなったのである。

 その亀倉の家がやがて没落し、家屋敷いっさいを手離して一家をあげて東京郊外の武蔵境に移り住んだのは、亀倉が小学校に入学して1、2年後のことであった。以来青年期までを過ごした武蔵野の地は雑木林が美しく、ふるさととしての愛着はむしろこちらにあるという。中学は日大二中に進む。この頃になると、早くも後年の彼の活躍ぶりをうかがわせるような、個性的で活発な動きが展開されてくる。勉強はあまり好きではなかったが、綴り方と図画が得意で、図画の成績は通常100点が最高のところを亀倉だけは特別に120点をつけてもらったという。絵の好きな仲間を集めて自分たちで展覧会を開いたりもした。綴り方のほうでも、2年生の修学旅行の時の作文が全校の最優秀賞に選ばれている。これは、榛名山の山頂にかかった雲の動きだけを追って克明に描写した文章で、何時に起床して何をした式の作文ばかりの中で、際立ってユニークなものであった。対象を凝視し、そこから1つのキーワードを見つけ出して図像化する彼の鮮やかな手法の萌芽を、ここにすでに見ることができるのではないだろうか。

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 自らの才能・適性に対する自覚も早かった。将来はデザイナー、当時の言葉でいう図案家になろうと決心したのは中学卒業の1年くらい前のことだという。絵画を志す気持は全くなく、はじめからデザイナー志望だったというのが、いかにも彼らしいところだ。そもそも亀倉家は芸術好きの一家で、父親が毎月取っていが中央美術』等の雑誌や沢山あった芸術書を、子供の頃からよく見ていたし、すぐ上の兄は日本画家志望で帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)に進んでいた。しかし亀倉自身は、定規やコンパスを使って描く幾何学的なきっちりとした図形のほうが好きで、中学時代も好んでポスターを描いていた。その彼が、カッサンドルの手になる、パリの百貨店ギャルリー・ラファイエットのポスターの図版を見て大きな衝撃を受ける。

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 そして直感的にグラフィック・デザイナーになることを決心したという。このように出発以来迷うことなくデザインひとすじの亀倉ではあるが、もし幼少年期の環境がもっと違ったものであったらあるいは建築家になっていたのではないか、というのが近頃になって彼のもらすところである。

■1933-1938

 1933年に中学を卒業するとすぐ、太田英茂の主宰する共同広告事務所に入る。

太田英茂

 朝日新開に載った「少年図案家を求む」という募集広告に応募して、200人ほどの応募者の中からただひとりの採用だった。大変な不況の時代で、街には失業者が溢れていた。この事務所には原弘、河野鷹思らが顧問級で関わっており、亀倉が入所したとき常勤でデザインを担当していたのは大久保武であった。亀倉よりひと月遅れて氏原忠夫が入ってくる。亀倉はここではもっぱら「少年図案家のカメさん」と呼ばれた。当時の様子を彼はこう語っている。「原さんと河野さんが来ると、おれなんか、玄関で靴を大急ぎでパーツと氏原と二人でそろえたものだよ。しかられるからね」(『デザイン』1980年8月号座談会より)。大久保によれば、「亀倉君のその頃の作品は、今の作風から想像出来ないような渋くて地味な色彩だった」。

事務所

 また大久保らは「よく感覚養成という名目で、二人を連れて新しく封切られたフランス映画を見に行ったり、新しく出来た喫茶店へ棚排を飲みに出掛けた」という(大久保武「デザインと私」『日本デザイン小史』)太田の事務所での仕事は数カ月でやめ、亀倉はフリーになった。学校に行こうという気はなかった。当時の美校で教える図案とは、たとえば花を写生してそれを単純化する硬化、あるいは連続模様の作り方、といった主に染色図案をさしており、今日我々がデザインと言う時のそれとは全く異なるものだった。「いかに描くか」が問題であって「いかに構成するか」ではなかった。そこには全然、亀倉の求めるものはなかった。

 亀倉の目は、もっと別のところに向けられていた。カッサンドルの、機関車を大胆に単純化しスピード感ある画面に仕上げたあの有名な鉄道ポスターが発表されたのが1927年近代プロパガンダ・ポスターの発生地ソ連で、リシツキーのデザインによる『ussRが創刊されたのが1930年である。ソビエトは革命政権樹立後、イデオロギーの浸透・徹底を進めるために、言葉によらない視覚表現の発達に力を入れていた。表紙からレイアウトまですべてリシツキーの手になる『ussR』で彼のフォトモンタージュを初めて見た時、大変なショックを受けた、と亀倉は言っている。

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 独力で新しいデザインの探究に向かった亀倉にとって、その方向を決定づけたのは、本屋である日見つけたバウハウスの本『staatliches BauhausinWeimar1919−1923』であった。従来の単なる図案ではない、伝達という目的をもった表現様式を模索していく中から、独立後の亀倉の最初の仕事が世に出る。第一書房刊行の、『自由日記』とサン・テグジュペリの『夜間飛行』の装帳である。1934年のことで、亀倉は弱冠19歳であった。この時期の亀倉の活動で特記すべきは、1933年から34年にかけてのほぼ1年余り、総合雑誌『セルパン』に映画批評を書いていたことである。

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 武蔵境の彼の家の近くに、イタリア文学者の三浦逸雄(三浦朱門の父)が住んでいて、子供の頃から顔なじみだった。当時、『セルバン』の編集をしていた三浦は、大の映画好きで新しい映画といえば片っ端から見て歩いていた亀倉に、自分の雑誌の映画評をまかせたのである。ちょうど「巴里の屋根の下」、「三文オペラ」、「自由を我等に」といった欧州映画の全盛期だった。日本でもトーキー時代に入り、小津安二郎、五所平之肋、溝口健二らのいわゆる文芸映画が最も盛んだった時代である。それらのポスターを河野鷹思、山下謙一、栗田次郎らが描いていた。彼らは定規など使わずフリーハンドで筆勢にまかせて描いていたという。                                   2

 その頃は総合雑誌に載る映画評といえば欧米映画を対象とするのが普通で、日本映画の批評はほとんどなかった。亀倉は「人生案内」などのソビエト映画を好む一方、小津安二郎、山中貞雄らの初期作品を積極的にとりあげた。また時にはニュース映画ばかりを集めて批評したこともあった。映画を見てすぐその足で印刷屋に行き、刷っている横で今見てきたばかりの映画の批評を書く。亀倉の名は、一時映画批評家としていささか知られるようになったという。当時早稲田の学生だった田村泰次郎もこの映画評を愛読していて、後に亀倉と会った時、「中でもあのニュース映画批評は傑作だった」と言ったそうである。

 映画評論家・亀倉雄策がまだ20歳にもならない若者であったことは、ほとんど誰も知らなかった。朝日新聞などに映画批評を書いていた評論家・杉山静夫が、滝口修造の家で亀倉を紹介され「こんなに若い人があの批評を書いていたのか。知らなかった」と心底驚いたという話が残っている。

 このようにごく若いうちからひとかどの文章家ぶりを示していた亀倉は、もちろん非常な読書家でもあった。中学時代から熱中して読んだのはジャン・コクトーである。演劇・詩・小説・評論・シナリオ・映画・絵画とあらゆる芸術ジャンルに革新的な活動を続けたコクトーに、少年亀倉は文字どおり魅せられてしまった。

 アンドレ・マルローの名を知ったのは、フランス留学から帰ったばかりの小松清を通してである。小松とは、三浦逸雄を介して親しくなった。滞仏中にマルローと親交を結び、終生、親友であり続けた小松は、その頃マルローの作品の翻訳に励んでいた。その彼の口から直接聞くマルローの話は、若い亀倉の心を大きく揺り動かしたに違いない。また、『夜間飛行』の装帳をしたことがきっかけとなってサン・テグジュペリを読むようになり、中でも『人間の土地』を貪るように読んだのもこの頃だ。この本のことを彼は「僕の人間形成の糧だった」と言っている。思想的な影響は、「結局、19、20の頃に読んだものにつきる」というのが彼の述懐だが、マルロー、コクトー、サン・テグジュペリのほか、「根っからのリベラリスト」をもって任じる彼としては、ジャン・ジャック・ルソーの思想にも感銘を受けたという。

 こうした読書傾向は、当然にも亀倉の交友関係と深いかかわりがある。小松清にかわいがられてしょっちゅう小松の家に行っていた彼は、小松の周辺のフランス文学関係の人達と親しくなっていく。自分でも「ものすごく早熟だった」と言う彼は、齢を言わなかったこともあって、まわりの人達に一人前の大人として扱われていた。「僕は本当に友達に恵まれていた。三浦さんと知り合いになったことで、小松さんやロシア文学の中山省三郎、詩人の春山行夫、美術評論家の柳亮といった人達と顔なじみになって、大学の講義にもまさる色々なことを敢えてもらった。また仕事も紹介してもらった。人の運というのは友達によってもたらされるものだし、特に少年時代の友達は大切だと思う」と彼は語っている。

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 余談だが、亀倉はコクトーその人に会っている。1936年、船旅の途中で神戸に立ち寄ったコクトーは、そのあと東京にやって来た。小松清や堀口大学は東京駅までコクトーを迎えに行った。その後、急病になった堀口に代わって亀倉は、小松と一緒に東京を案内することになったのである。神戸出身の小於が東京をあまり知らないと言うので、深川の察を見せたり、上野の美術館の日本南画展とか、銀座の夜店へ連れて行ったりした。こうして一日中コクトーのそばで過ごした。本を読んで想像していたとおり、この生粋のパリジャンはおしゃれで優雅さと洗練の極致を示しており、若い亀倉は大いに感激した。ちなみに、当時の亀倉はほっそりとした美少年であったという。

 早い時期にやはり小松を通じて親しくなった人物に、滝口修造がいる。亀倉より12歳年長の滝口はその頃まだ無名だったが、彼らの仲間のあいだでは「大した人だ」と評判だった。海外の新しい芸術活動の話が開けることは、亀倉にとって何よりの楽しみで、当時大久保に住んでいた滝口のところに足繁く通った。滝口とのつき合いはその後も長く続く。1938年に亀倉は雑誌『広告界』(『アイデア』の前身)で、内外の最新デザイン情報の紹介欄を執筆している。そのタイトルを”pages a la Page〝(「流動する頁」)と名づけたのは滝口だ。1951年に刊行された『商業デザイン全集』は滝口、勝見勝らが企画したもので、亀倉も編集に参加している。その後、中央公論社のギャラリーで亀倉の個展が開催された(1953年)が、やはりこの時も、滝口から彼一流の洗練された文体で推薦文が寄せられている。

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高橋錦吉-1

 青春時代に親しくなった同業の友人としては、まず高橋錦吉(上図)と藤好鶴之助がいる。高橋は三省堂の図案部に、藤好は『広告界』の編集部にいた。夕方になると3人でよく喫茶店に行く。当時の青年が行く所といえば喫茶店しかなかった。10銭でコーヒーが1杯飲めた時代である。その喫茶店で知り合ったのが勝見勝であった。語学に堪能な勝見はその頃翻訳をやっていた。ロシア・アヴァンギャルドや構成主義に通じていた勝見は、戦後、デザイン評論家として活躍、世界各国のデザイン運動の紹介に努め、一貫して亀倉らを支持して彼らを理論的にバックアップしていくことになる

勝見勝

「日本デザインコミッティーの発足理念」

 美術とデザインと建築は、時代の良き形を追い求める人間活動の、互いに切り離せぬ構成要素である。 これらはしばしば、孤立した文化領域、互いに対立する活動と見なされ勝ちであるが、専門と分化は、人類文明のトータルな進歩を前提としてのみ是認されよう。 われわれは相互の無理解、先入見、専門家がおち入り勝ちの独断を排斥する。 建築家とデザイナーと美術家は、汎地球的な規模における人類文明のため、協力を重ねなければならない必要性を、改めてここに確認する。

勝見勝 創立メンバー/評論家

 高橋の紹介で写真家の土門拳を知ったのもこの頃である。土門と亀倉はたちまち意気投合し、その後生涯にわたる盟友となった。二人の周辺にはいつも人びとが集まってきた。常に新しい仕事に挑戦していく二人は、その周囲につぎつぎと新しくグループを形成しながら、ひとつところにとどまることをしない。そうしながらも、二人の結びつきだけは変わることがなかった。

川喜田・キムラヤ 川喜田煉七郎

 しばらくの間どこにも属さず友人達とのつき合いの中で自らを育てていた亀倉は、やがて川喜田煉七郎 の主宰する新建築工芸学院の存在を知り、そこへ通い始める。川喜田はソ連のハリコフ市に建設される、4,000人収容の青年芸術劇場のための国際コンペに応募して入賞したばかりの、新進気鋭の建築家だった新建築工芸学院における教育は、バウハウスの理念を取り入れつつ川喜田が独自に展開した「構成教育」と呼ばれるユニークなシステムによるものであった。バウハウスの本に自らの求めるものを見い出して独学で取り組んでいた亀倉は、建築雑誌でこの学院の広告を見て、さっそく入学することにした。

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 銀座並木通りに面した小さなビルの屋根裏のような部屋に、夜ごと集まってきた生徒であり、先輩でもある桑沢洋子、画家の高井貞二、橋本徹郎らとともに、バウハウスの構成理論と方法論を学んだ。バウハウスの思想は即物主義と機能主義を根底に持っている。要するに、彼はここでデザインの本質に触れているわけである。なぜバウハウスの理論にそれほど強く心をとらえられたのかについて、亀倉は後年次のように述べている。「私は西洋の作家のように理論的に構成組立てをやる理性はなく、きわめて原始的な人間感性だけに頼ってしまう。その反面私の心情は常に理論的なものに強いあこがれを持っていた。……このあこがれは青年期になって一応デザインの世界を知ってから起きたものでない。むしろ少年期の判断力の弱い時期にすでに起きていたのである。……私自身本能的なカンでしか造形構成ができないもどかしさに対する悲しみだったのである……」(『作品集亀倉雄策』あとがき)。

 ところが、時代を先取りしていた川喜田の教育は、そのユニークさゆえに人々に理解されず、また文部省が認可をしなかったために、開設して数年で閉校を余儀なくされる。亀倉が入ったのはその潰れる寸前の時だった。そのせいか川喜田には大層かわいがられ、川喜田の著書の装偵と編集の手伝いなども引き受けたという。短命だった新建築工芸学院(1931〜36年)の閉校の後始末を手伝ったのちの亀倉(21歳)は、これといって仕事の当てもなかった。というのも、当時はバウハウス的なものは図案とはみなされず、ろうけつ染めの図案風のものが大勢を占めていたのである。それでも東京の中心に身をおいておきたかったので、武蔵境の実家には戻らず、高橋錦吉と同じ東中野のアパートに生活していた。

 この「食えなかった」時代に、それでもぽつぽつと仕事がまわってきたのは、すべて、当時の多彩をきわめていた交友関係から発したものであった。そもそも処女作の『夜間飛巧もからして、三浦逸雄に紹介された第一書房(『セルバン』の発行元)社長・長谷川巳之吉の依頼によるものだったのである。確かに彼は友達に恵まれていた。しかし、友達に恵まれるということは友達を作る才に恵まれるということでもある。周囲の人々の心を捉えて離さない強烈な個性と魅力が、亀倉雄策にはあったに違いない。たとえば、その頃『コドモノクニ』の編集長をしていた婦人画報社の川辺武彦は、中山省三郎から紹介された亀倉に付録の「家族合せ」の作成を依頼したが出来上りが気に入らず、ポッにしたところ、亀倉は原稿料を受け取ろうとしなかった。そのさわやかな態度が強く印象に残ったという。これを機に川辺との交友も長く続き、のちに亀倉と土門拳・勅使河原蒼風共著のエッセイ集『三人三様』(1977年)が出版されたさいには、川辺が編集にあたっている。

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■1938-1945(23-30歳)

 1938年は、亀倉が名取洋之助の日本工房に入った年で、彼の仕事の上でひとつの画期(カッキ・過去と新しい時代とを分けること)となった年と言えるが、もうひとつ、この年の『広告界』1月号から12月号に連載した「流動する頁」の執筆は、まことに注目すべき仕事であった。当時新しかった電気広告などの広告デザインを集めるだけでなく、ポール・ランドやハーバート・バイヤーの紹介から都市計画、宣伝ショー、漫画、飛行機、さらにはヒットラーも登場させるなど、あらゆる事象をここで取り上げた。デザイン関係の雑誌が他に全くなかった時代であった。彼のこの記事が、当時、日本で知ることのできるほとんど唯一の海外デザイン情報であったと言ってよい。のちに早川良雄はこう語っている。

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 「当時ぼくは大阪にいたが、『広告界』に連載された亀倉の「流動する頁」という特集が今も記憶に鮮かである。そのフレッシュな図版の紹介と明快で進歩的な論陣にすっかり魅了されて、毎号切りぬいてはスクラップしたものだった。ぼくが亀倉を意識したのは、その時がはじめてだが、その老成した文章からは、彼が自分と同じ世代とは到底かんがえられなかったものだ。その行間には、ひとりのパイオニアの啓蒙にかけた気負いがあふれんばかりであった」(「亀倉的世界の太い根と幹」『アイデア』別冊1979年)。

 さすがにこの頃になると、従来の図案とは明確に自らを区別した新しいデザイン運動の発展が、ようやく組織化の動きを示してきていた。やはり1938年の春に発会した「広告作家懇話会」の6人の世話人の中に、亀倉は高橋錦吉と共に名をつらねている。さて、日本工房には、さきに親友の土門挙が人社していた。土門から日本工房でレイアウトマンを探していると聞いて、仲間の高橋と藤好鶴之肋は、これはチャンスだから亀倉を入れようという。そこである日、土門の紹介で名取洋之肋のところへ面接に行く。名取はその場で亀倉に仕事を命じた。自分の目の前でやれ、と言う。ライプチッヒで開かれる日本の手工芸見本市のパンフレットの表紙のデザインだった。幸い名取と夫人のメクレンブルグのお眼鏡にかない、無事入社試験はパスした。名取は続いて、そのパンフレット全部のレイアウトを命じた。

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 亀倉はこれを3日間で仕上げたという。日本工房における彼の第一作目である。

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 日本工房では、当時、雑誌『NIPPON』を発刊していた。これは、かつて名取がドイツの新聞社にいた頃、日本から送られてくる印刷物のあまりの拙劣さ(せつれつさ・まずさ)に業を煮やし、帰国後、外国に出しても恥ずかしくない雑誌を、との熱意に燃えて創刊されたものである。匹六四倍判全ページアート紙使用。英独仏西の4ヶ国語で印刷され、年4冊刊。写真・デザイン・編集・印刷ともに画期的なもので、現在の水準からみてもぜいたくな雑誌であった。斬新な表紙の多くは河野鷹思の手になるものだった。1934年10月の創刊以来何回かのスタッフの入れ替わりがあり、戦争による窮迫の中心でも何とかもちこたえて、終戦の年まで『NIPPON』の編集は続けられた。しかし、戦争末期には、せっかく刷り上がったものの空襲のため一瞬にして灰になってしまい、実際に世に出たのは1944年9月頃までであったようだ。

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 亀倉はここで、デザインのオリジナリティーについて名取に存分にたたきこまれた。「名取さんは人の真似が大きらいだった。あの人並優れた体力で、当時ひょろひょろしていた私に、無理に徹夜をつき合わせた。徹夜で仕事をするということは、徹夜で私の作ったデザインをやり直させたということである。私のそばに座っていて、ひょいひょいと天才的なアイデアを思いついては、私にやり直しを命じた。このサイの河原のような夜を幾回もつづけて、あの『NIPPON』という、豪華な英文雑誌を、自費で出版していたのである。」(『東京新聞』1962年11月24日)。

 ともあれ、名取といい、5年前の太田英茂といい、日本のアート・ディレクターの草分けである2人が若い亀倉の力を見抜いたのは、さすがだったと言うべきであろう。

 日本工房には名取の他に、すでに大家として名をなしていた河野贋思がいた。また名取の夫人エルナ・メクレンブルグはドイツの工芸学校を出ており、非常にしっかIりとしたデザインに対する見識をもった人だった。名取の良き肋言者であり、参謀格でもあったという。病弱だった熊田五郎が勤務できなくなり、そこで亀倉が入社した。しばらくたって高松甚二郎が入った。写真部には土門挙がいて、やがて藤本四八が入社。後年ライトパブリシティーを創立する信田富夫がすでに入社していた。ここでの亀倉の初任給が28円、半年ほどで36円に昇給した。大学卒初任給が普通で25円、帝大卒が35円だった時代である。

 仕事としては、『NIPPON』の発行の他に、国際文化振興会事業部からの仕事があり、外部の会社から依頼されるポスターやパンフレットの作成もあった。この方面でも亀倉は手腕を発揮し、芝浦モートルのポスター(1938年)は世の注目を集めたものである。

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 さて、日本工房が銀座にあったことは、まことに好都合だった。画家であり商業美術家、室内装飾家でもあった橋本徹郎は銀座に事務所を開いていたし、桑沢洋子、高橋錦吉、婦人画報編集部の熊井戸立雄らの仕事先もだいたいこの周辺だった。彼らは夜の銀座の街を飲み歩き談論風発の交友を続けていたらしい。その頃の亀倉を、桑沢洋子は「日本デザイン前史の頃の八人」の中で、次のように描出している。

 「‥‥‥若い亀さんは、酒や女より食い気一方で、有楽橋の一膳めし屋で大盛井をペロリと二杯平げるなど、大食漢で有名だった。それでいて亀さんはおしゃれで、舶来品の着る物に措し気もなくお金をかける人だったが、そのわりにはぱっとしなかった。またレコードの蒐集やよい家具には関心が高く、亀さんが溜他に新婚の巣をかまえたとき、寝台や家具調度にいたるまで、凝り屋の彼は自分でデザインしたと記憶している。あとの話だが、大戦災のあと、亀さんの近所の焼野原を通ったとき、あれほど計画的に作った家具調度を灰にしてしまった亀さんの気持をおもうと、自分の家が焼けた以上に悲しかった」。

 よいものに凝るといえば、亀倉は青年時代に海老原喜之助の作品を1点買っている。海老原が『セルパン』の表紙を描いていたことが縁で、亀倉は20歳ごろから彼と知り合っていた。ある日、海老原のアトリエを訪れた亀倉は4号の「市場」(1937年作)を見つけてひどく気に入ってしまう。ぴったりの額縁まで取り合わせて見せた亀倉に、海老原は「お前みたいな貧乏人から金は取れんなあ」と言いながら、額縁代の15円で譲ってくれたという。1940年頃(25歳)のことで、亀倉はまだ独身でアパート暮らしであった。

 ところで日本工房は、亀倉が入社した翌年の1939年、戦況の深刻化と共に、重大な選択を迫られる。戦争への協力なしにはいかなる事業の存続も許されなくなってきたのである。ついに日本工房は国際報道工芸株式会社と改称し、内閣情報局の指揮下におかれることとなった。これは、日本報道写真株式会社に決まりかかったのを、名取が「国際」に同執し、一方亀倉の“顔を立てて〝「工芸」の字を加えたのだという。名取は陸軍情報部の命令により、上海、南京、漢口での文化工作のため従軍。デザイナーの大半も次々と兵役についた。亀倉も一応海軍に徴集されたが、陸軍の要請により10日で退役している。彼が陸軍の機密を扱っていたからである。今や亀倉は、名取の留守を預り、配下に十数人をおくアート・ディレクターだった。『SHANGHAI』、『COMMERCE JAPAN』、『MANCHOUKUO』、『CANTON』、『カウパープ』など数種の雑誌が加わり、仕事は多忙をきわめた。陣容の充実を図るべく、小松清、三浦逸維、古谷綱武、光吉夏弥らの文化人を迎え、高橋錦吉、藤好鶴之肋も招き入れた。しかし戦況の進展と共に、文化人と情報局との意見衝突が重なって、ついに文化人はやめてしまう。その中で名取は、時おり戦地から帰ってくると、亀倉をつかまえては大好きな仕事に熱中した。激しい戦火の下での『NIPPON』発行は名取にとって、もはや執念にも近いものがあった。

 さて、『カウパープ』は、内閣情報局の指揮のもとでタイ国向けに作られた宣撫工作雑誌である。戦争色は一切出さず、日本がいかに文化的な国家であるかを宣伝するためのものだから、亀倉も結構楽しんで仕事ができた。「流行雑誌を作るつもりで」作ったこの雑誌は、原節子の写真あり、レビューやアメリカン・フットボールやスキーの紹介あり、あるいは流行歌の楽譜ありで、とても戦時下に作られた雑誌とは思えないほどである。彼はこれを、はじめ一人て、編集プランを立て、一人でレイアウトをし、一人で文章を書いて作っていたが、後にカメラ雑誌の編集長だった師岡宏次の協力をえて、その刊行を軌道にのせた。アート紙から高級インク、写真の材料に至るまですべて情報局より配給があり、印刷も当時最高の印刷である。情報局に「生死のカギを握られ」つつも、亀倉はここでもまたその個性をいかんなく発揮し、情報局を相手にかなり自分の意見を通していたらしい。あのうるさい名取が、前線から珍しくほめてよこしたという。

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 亀倉はこの国際報道工芸時代に結婚している。28歳の時であった。そして、名取夫妻が上海に居を移したあと空いた家に入居する。月給120円(これはかなりの高給)の時に家賃が50円という当時珍しい洋風住宅住まいだった。そのためというわけでもあるまいが、忙しい会社の仕事をこなしながらもこの頃亀倉はかなりの“内職”をしている。『婦人画報』に亀倉にまかされたスペースが何ページかあって、そこの執筆から写真、レイアウトまで全部ひきうけていた。毎月連載で2、3年続いた。他にブルーノ・タウト全集、ルイス・マンフォード『技術と文明』などの装帳があった。こうしたものからの収入が月給とほぼ同額だったという。

 棟方志功とのつき合いが始まったのはこの頃である。やはり国際報道工芸が出していた『中華』“CHUNGHUA”という米英向けの中国文化の雑誌に、佐藤春夫が中国の古い怪談を連載していた。その押し絵を誰かに頼もうというので思いついたのが棟方であった。かつて第7回国画会版画部に出品された「加茂の社家の庭」を亀倉は偶然見ており、前にふれたとおりそれは彼の母の実家であったため、その強敵で一風変わった画風が印象深く記憶に残っていたのである。この頃の棟方の窮之ぶりは長部日出雄の『鬼が来た』に詳しく書かれているが、女性編集者が訪ねていくと、棟方は鷲の宮の田んぼの中のわびしい家の中で、冬でも浴衣を重ね着して一心に絵を描いていたという。

 空襲が激しくなってく′ると、棟方は富山県に疎開した。溜池の家を焼け出された亀倉も、武蔵境の実家に戻っていた。終戦後、棟方が上京する時は、いつもこの武蔵境の家に釆て泊まったものだった。彼が富山からかついで釆た米で亀倉夫人が握り飯を作ると、それを風呂敷で背負って、あちこちに出かけて行くのだった。

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 なぜか、若い日に亀倉が出会った人々には、後年それぞれの道の大家となった人が少なくない。これは単なる偶然ではあるまい。彼にはその人間が有っている才能を無意識のうちに予測する言わば鋭い喚覚があった。その鋭い喚覚で、有名無名にかかわらず相手の才能を本能的に喚ぎ分けていたように思われてならない。

 たとえば、土門拳との交友がそうである。若くして出会った二人は、周囲の仲間たちの中からお互いを喚ぎ分けあって結びついたのだと言えよう。土門の写真は亀倉の手になるデザインを望み、亀倉のデザインもまた土門の写真を必要不可欠のものとしていた。こうして互いに認め合った二人だったが、個性がぶつかりあうこともまたたびたびであった。土門の作品集として亀倉の手になるものとしては『筑豊の子供たち』(1976年)がある。名取洋之助によって見出され育てられた二人は、やがて一方は日本の現代デザインの第一人者となり、もう一方は、伝統工芸、仏像から「ヒロシマ」などの一連のドキュメントを手がける、日本の写真作家の代表的存在となっていくのである。

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■1945-1962(30~47歳)

 1945年、終戦の1週間後に国際報道工芸は解散した。終戦間近になるとさすがに仕事はほとんどなくなっており、亀倉が企画して作った戦争画の大特集なども、完成まぎわに空襲で焼失したりしていた。デザイナーの半数以上がすでに戦死していた。そうして、残った人々もそれぞれ思い思いに散っていった。

 フリーになった亀倉はさっそく仕事を開始した。まだ街は瓦礫の山だったが、配給から自由販売になった乾電池のポスターとか、『婦人画報』の表紙、タイトル文字、レイアウトなど、ぽつぽつと仕事は入ってきたらしい。

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 銀座の昭和通りにあった喫茶店の2階の一角を借りて事務所としていた頃のこと、ある土砂降りの雨の日、壁ははがれ落ち窓にはベニヤを打ちつけただけのその部屋に、一人のアメリカ人将校が雨宿りに入ってきた。その時亀倉はちょうど『婦人画報』の「特集・梅幸(ばいこう)と芝翫(しかん)<俳名のこと>」のタイトルの「梅幸」とし、う字を書いている最中だった。将校はそれを見て「梅幸ですね」と言う。話してみると、日本文化や欧米のデザイン関係のことにもなかなか詳しい男だった。彼は彼で、亀倉のアメリカの絵画や文学に対する博識ぶりにすっかり驚嘆したらしい。それからは頻繁に事務所を訪れてきて、軍の図書館から新しいピカソの画集などを持ってきてみせてくれた。彼がアメリカに帰国してからも交友は続き、ずっとのちに亀倉がニューヨーク・タイボディレクターズ・クラブの招きで渡米した時は、彼が亀倉の通訳をつとめている。この人物が、後年日本の天皇とニクソン大統領のアンカレッジでの会見の通訳をした、国務省のジェームス・J・ウイッケルである。

 さて、銀座の事務所もやがて建て替えのために追い出され、亀倉は事務所をお茶の水に移した。この頃の彼の珍しいエピソードとしては、もうひとつ、朴烈との出会いがある。朴烈は、関東大震災の直後、皇太子御婚儀の際の襲撃計画があったとして死刑判決を受けた男である。その後無期懲役となり、終戦後出獄したばかりだった。朴烈事件は、大震災のおり、朝鮮人虐殺の非難をかわすために官憲が仕組んだとも言われ、今なお謎が多いのだが、彼は戦争中から獄中で朝鮮独立運動の準備を始めていたという。日本の敗戦と共にいよいよ動き始めた、左右入り乱れての、さまざまな独立運動の渦中にあって、朴烈も常に反対派につけ狙われている身だった。その大変な人物が、時々武蔵境の家を訪ねてくるようになった。戦争中、三鷹の軍需会社・中島飛行機に亀倉の兄が勤めていたのだが、そこの所長が、出獄後の朴烈を一時面倒を見たことがあり、その所長の紹介で、朝鮮独立のための国旗のデザインを頼みに来たのである。反対派の襲撃を警戒して、彼の同志たちが家の回りを見張っていた。危険な人物ではあったが、亀倉とはウマが合ったらしい。

 が、ある日、お茶の水の亀倉の事務所に朴烈が訪ねてきた。彼を護衛する朝鮮人が数人、家の周りや部屋の入口をガードする。その物々しさに驚愕した家主に立ち退きを迫られ、ついにデザイン室を武蔵境の自宅に移すことになった。その後、朴烈の行方は不明であるという。時おり国外脱出したとか、あるいは殺されたとかいううわさは耳にしたが、確かな情報はなく、今なおナゾにつつまれている。

 終戦から4年ほど経つと、GHQ総指令部が置かれた日比谷、銀座の町はバラックながらも少しずつ整理され、街頭に溢れる米軍放出品が人々の心を奪った。目にも鮮やかなパッケージに包まれたアメリカの食料品や雑貨は、人々が久しく忘れていた文明の象徴であった。地方に疎開していたデザイナー達も仕事を求めて続々と上京し、亀倉のまわりは再び賑やかになる。彼らは喫茶店の片隅で、紅茶茶碗に入れてこっそりと出される闇の焼酎を啜(すす)りつつ、飛散した友人知己の消息を尋ね、仕事の抱負を語り合うのだった。とは言え、日本の社会はまだ混乱の中にあり、宣伝活動はその緒についたばかりである。デザインに対する人々の認識は依然として画家の手遊び程度にしか過ぎず、デザイナーの社会的地位など無いに等しい。彼らの話はいつしかデザイナーの団体を作ろうという具体性を帯びたものになってきた。日宣美の母体となる「広告作家懇話会」はそんな彼らの呟きの中から生まれたのである。

 第1回の懇話会は1950年12月(35歳)に開かれた。亀倉、高橋錦吉、原弘、山名文夫、橋本徹郎らの呼びかけに、40名ばかりの懐しい顔ぶれが集まった。復員服にゲートル姿も多かったという。ここで新団体結成の気運はさらに盛り上がり、翌1951年になると創立準備活動が急ピッチで進められた。7人の世話人のひとりとして亀倉も精力的に動いている。ところが、東京と前後して準備を進めていた大阪側が、東京との合流に難色を示し始めた。

商業デザイン全集

 当時『商業デザイン全集』の編集を手がけていた亀倉は、その資料集めも兼ねて、関西のデザイナーと合って意見の調整をはかるべく、大阪に向かった。折衝は上首尾であった。できる限りの力を結集しなければデザイナーの地位向上と社会的発言力の増大は望めない、という亀倉の説得に、大阪側の合意を取りつけたのである。北海道、九州にも参加を呼びかけ、全国的な組織作りは着々と進んでいった。

Hayakawa_Yoshio 早川良雄-1

 この時の大阪行きで、亀倉は早川良雄に合っている。『広告界』などで互いの名前は知っていたが、顔を合わせたのはこれが初めてであった。早川の作品を目のあたりに見た亀倉は、何ものにもとらわれない自由な表現によるそれらの作品の質の高さ、溢れるばかりの色彩とその色感の良さに、改めて驚いた。以来、早川は亀倉にとって最良のライバルとなった。「オレが持っていないものは皆アレが持っている。オレが欲しいと思うものも皆アイツが持っている。しゃくに障るから全部反対のことをした。彼も同じことを言っているが」とは、亀倉の言である。この二人、作風もそうだが性格も正反対である。そのくせどこか気が合うというのが面白いところである。

日宣伝会-1 日宣伝会-2ADC1951

 日本宣伝美術会、通称日宣美の正式発足と同時に、第1回の会員作品展が銀座松坂屋で開催された。そもそも日宣美展をやろうと言い出したのは橋本徹郎だった。亀倉はちょうどその頃、フランスの雑誌でサヴィニヤック(下図)の「アンコミッションド・ポスター」という小さな記事を見つけた。まさにこれだ、と思う。当時、デザイナーたちは必ずしも満足のいく出来上がりの作品ばかり作っていたわけではない。そこで、いっそ全部肉筆で、ということになった。出品点数は88点。新聞の学芸欄にそのデザイン批評が載せられた。デザイン展が新開の批評の対象となったのは、おそらくこれが初めてではなかろうか。日本でデザインの展覧会がこれだけの規模をもって開催されたのもこれが初めてだった。

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 当時はあちこちにポスターや看板を立て、宣伝カーからメガホンでどなって回ったという。その頃の模様を語った座談会から一部引用させて噴く(『デザイン』1970年、8月号)。

早川 たとえば新聞社とか、商工会議所とかスポンサーなどのところへ、揃いの衣裳を身につけてJAACと書いて、あいさつに回りましたよ。恥ずかしかったね。

亀倉 そのころはしょうがなかったね。なにしろ見にきてもらいたいんだから。‥‥‥とにかくデザインというものを認めさせない限り、いつまでたっても、絵描きがいちばん偉いと日本の社会は思い込んでいるから。

板橋 それから、絵描きに対する一つの、大げさにいうと、挑戦であったし、そういうことで絶対に上野では展覧会を開かないと。あくまでも雑踏の街でやろう。当時としては、せいいっぱい画壇に抵抗していたわけなんですがね。

 こうして出発した日宣美は、いよいよ全国的な活動として盛り上がっていき、1953年には、会員展と並行して、一般からの公募作品も展示することになった。この時の応募作品数が669点。その後、一般からの応募は鰻(うなぎ)上りにふえ続けて、1960年には4623点という膨大な数にのばっている。この公募形式が、やがて新人の権威ある登龍門として大きな注目を集めることになったのは周知の通りである。

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■「亀倉雄策グラフィックデザイン展」カタログ 於中央公論自席1953年6月 ■「亀倉雄策グラフィックデザイン展」カタログ於神奈川県立近代美術館1953年6月20日一7月10日 ■パリのサヴィニャツクにて(左)と 1954年

 さて、日宣美創立から2年後の1953年(昭和28)、亀倉はグラフィック・デザインの個展を中央公論社ギャラリーと鎌倉の近代美術館で開いている。(上図) これはグラフィック・デザインと銘うった日本で最初の個展であり、美術館でデザイン展を開いたという意味でも初めての試みだった。グラフィック・デザインという言葉が日本で広く使われるようになったのは、これがきっかけだったと思う。この時のパンフレットに推薦文を書いたのが前述の滝口修造である。「デザイナーとは飛行場みたいなものだ。飛行場から離陸し、どこへでも飛んでいくように見えるが、必ずまた飛行場に着陸しなければならない。画家の飛行機は飛びっぱなしでいい。

 しかし、デザインにとって一番大事なのは、どこへ飛んでいっても必ずここに帰ってくるという安定感を備えていることである」という内容のものだった。のちに(1972年)美術出版社から発行された亀倉のデザイン随想のタイトル『離陸着陸』はここからつけられている。

ポール・ランド-1

 早くから欧米のデザイン動向に目を向け、戦前すでにその紹介も行っていた亀倉だが、実際に海外旅行に出かけたのは1954年(39歳)が初めてであった。バラック建ての羽田から、プロペラ機で二十数時間かかってサンフランシスコに着く。ニューヨークではポール・ランドに会った。この大家がかつて新進の頃に、若い亀倉はいち早く注目して「流動する頁」で紹介したものである。ウエストポートの美しい入江近くの、桂離宮を模して設計したという彼の家に一泊して、夜の更けるまで語り合った。日本の書画や茶の湯にも造詣が深いポール・ランドは、「なぜ日本のデザイナーは西欧のスタイルを求めるのか。日本には偉大な芸術の伝統があるのに」と問う。亀倉は「それを完全に消化してデザインの中で新しく生かすにはもう少し時間がかかる」と答えた。この時の対話から発展した思想が、国際タイポグラフィツタ・デザイン・ゼミナールでの講演「『伝統』について」(1958年)および世界デザイン会議での講演「KATACHI」(1960年)において語られることになる。

ジョバンニ・ピントーリ

 アメリカからヨーロッパに向かった亀倉は、パリでサヴィニヤックに合い、スイスで『Graphis』の編集長ワルター・ヘルデーグに会う。ミラノではジョバンニ・ピントーリ(上図)に会った。「旅行中ずい分たくさんのデザイナーに会った。共通の言葉がないのに、それでも結構コミュニケーションが成りたったのは不思議なくらいだ。今でもランド、ピントーリ、亀倉の3人が仲がいいのは、言葉がうまく通じないという苦しみをお互いに味わいながら、それでも何かを伝えようとしたことに親近感を覚えたからだ」と亀倉は言っている。ローマにはひと月もいた日本を出てからすでに2ヶ月たってそろそろ帰りたいのだが、盛大な壮行会までして送り出されたことだし、当時は海外に出るのはかなり面倒だったこともあってパスポートの期限ギリギリの3カ月滞在しなければ損のような気もしていた。ある日、行きつけのレストランで、カメラを持った日本人が来た、と聞き、木村伊兵衛に違いないと、近くのホテルを一軒一軒尋ね歩いて木村を捜し当てた。この頃木村は心細くて日本人に会いたくてたまらなかったという。亀倉に会った木村は喜んでヴェニスへ撮影旅行に誘った。こうして3カ月の長い旅行を終えて帰国した亀倉は、水を得た魚の如く、また猛然と仕事を始めるのである。

東郷青児-木村伊兵衛

 さて、日宣美展には、すべて原画で未発表のものという規約がある。当時の印刷技術では展示に耐え得るものはまだ少ないという事情もあったし、会員の間でもコマーシャルに対する抵抗が強かったためである。そしてこの未発表に限ったことが、新人達に大きく門戸を開くきっかけとなったことも事実である。

 しかし、年が経つにつれ、また違った疑問が出てきた。やはりデザイナーは、印刷を通した日頃の仕事によってこそ、訴えるべきではないのか。こうした自らの問いに対する答えが、1955年に開かれた「グラフィック,55」であった。出品作家は亀倉、河野鷹思、原弘、早川良雄、山城隆一、伊藤憲治、大橋正、それにポール・ランド。日本橋高島屋で開催されたが、これは、印刷され実際に使われたものを展示した、という意味において、日本のグラフィック・デザインの真の出発点とも言える画期的な展覧会であった。

 当時大阪に住んでいた私は、この展覧会を見るために、田中一光、木村恒久、片山利弘と共に夜汽車で上京し、そのいずれ劣らぬ個性ある作品の競い合う質の高さに感激して、しばし時を忘れたものであった。あの頃、日常の仕事でもってあの水準の展示ができたのは、あのメンバーなればこそであったと言えよう。

 同じ年、亀倉はグッド・デザイン・コミッティー(現在の日本デザインコミッティー)に参加している。グラフィック・デザイナーとしては亀倉が最初の参加者である。日本のデサイン界もこの頃からようやく本格的な国際化の波に乗ろうとしていたが、その国際活動の中心としての役割を担っていくのが、このコミッティーであった。

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 いっぼう、この頃ともなるとデザイナー亀倉雄策の名は、国際舞台においてもゆるぎない地歩を築きつつあった。シカゴ・タイポグラフィツク・アート協会の主催により、シカゴ・ノルマンディー・ハウスで亀倉の個展が開催(上図)されたのが、1956年。『世界のトレードマーク』(ウィッテンボーン社)を出版したのもこの年である。これは亀倉のシャープな造形感覚がすみずみにまでゆき届いた、非常に水準の高い本であった。彼は世界中に手紙を出してマークを集め、これに碁盤目を入れて一つ一つ手描きで拡大した。10年後に2冊目(『世界のトレードマークとシンボル』)を出しているが、欧米の有名なデザイナーの手許にはたいていこの本が置いてあったという。

 ニューヨーク・タイボディレクターズ・クラブ主催の国際ゼミナールにスピーカーとして招かれたのは、1958年(43歳)であった。戦後間もない頃、進駐軍の携帯食糧のパッケージ・デザインに感動した話もまじえて、日本の伝統文化と近代デザインとの融合とその可能性について語った。この時の通訳には、特に亀倉の希望により、米国務省がつけてくれたジェームス・J・ウイッケルがあたった。終戦直後の銀座の事務所に雨宿りに来た彼との出会いについては、さきに述べたとおりである。息の合った通訳を得て、講演は大成功だった。終わった時は握手攻めだったという。

原子エネルギー

 1950年代の後半に、亀倉のデザイン活動は目ざましい展開を示してくる。1956年、彼の「原子力平和利用」のポスターが、この年初めて設定された日宣美会員賞を受賞した。これは今までの絵画的ポスターあるいは図案といったものとはっきり訣別した、日本の現代デザイン誕生のシンボルとも言うべき作品である。ちなみに、『美術年鑑』にグラフィック・デザインの作品が収録されるようになったのは、このポスターをもって嚆矢(こうし・物事のはじめ)とする。

 また、その前年から作られたニコンのポスターシリーズは、その極めて質の高い抽象性によってカメラの持つ精度を象徴し、ニコンの強いデザインポリシーを確立した。このニコンの一連の作品で1957年の毎日産業デザイン賞を受賞翌1958年にも、同じく「ニコンSPのための一連の作品」によってADC金賞を受賞している。

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 かつて23歳頃の亀倉は、ハンス・アルプの抽象形態に憧れて、何とか自分の作品に採り入れようと試みたことがあった。自分の目には新鮮に映ったが、どこか「飛んでいきっばなし」の感じがあった。しかし、このニコンのポスターには着陸点があった。1955年の2点のポスターができた時、亀倉はスタジオの壁にピンで留めてながめた。「ああ、やっと抽象デザインが出来上がった、やっとデザインが<現代性〉というものに突入できた」という気持で、しみじみ嬉しかったという。

 この「ニコン時代」に続いて、雑誌『デザイン』の表紙を編集顧問の勝見勝の依頼により、1959年10月の創刊号から60年12月号まで毎号制作する。この仕事は亀倉が自分のデザイン活動のうちでひとつのヤマに数えるものであった。

 こうした旺盛な創作活動を続けるかたわら、亀倉は私たち後進のデザイナーにとっても良き先輩としての支援を惜しまなかった。私はその頃大阪で田中一光、木村恒久、片山利弘と共に「Aクラブ」という研究グループを作っていたが、杉浦康平らの発案によって、亀倉と山城隆一を中心に若手デザイナーの杉浦、粟津潔、福田繁雄、勝井三雄、植松国臣、宇野亜善良、江島任、白井止治、仲修正義、細谷巌、村越嚢、それに「Aクラブ」の中から、田中、木村、片山そして私などが参加して「21の会」が結成されたのは、1958年であった。これは毎月21日に例会をもった勉強会で、亀倉がアメリカから持ち帰ったハープ・ルバリンやCBSのドルフスマンらの、新聞・雑誌広告などのタイポグラフィツクな作品を見ては、その新鮮さに興奮したものである。そして亀倉の広い顔により学者や映画監督など巾広い分野の著名人を講師として招いて勉強した。デザイナーもこれからは知性が必要だというので、当時言われ始めたコミュニケーションについて心理学者の南博らに話を聞いたりした。そうしてビジュアル・コミュニケーションの本質に迫ろうとしたわけである。清家清の建築物を見るバスツアーを組んだり、奈良・京都で勉強会を行って室生寺の宿坊にざこ寝したことなどが懐かしく思い出される。毎回100パーセントの出席率であった。この会が世界デザイン会議のグラフィック部門の母体となったのである。

 世界デザイン会議が東京で6日間にわたって開催されたのは、1960年の5月、ちょうど日本の国論を二分した安保闘争の時期に当たる。この会議は、グラフィック・デザイン、工業デザイン、建築その他、デザインに関わるあらゆる分野の人間が初めて横に連繋して、デザインの果たすべき役割とその方向という共通の問題に取り組んだ、記念すべき出来事であった。参加者は日本を含めて22ヵ国から243人。この種の会議としてはあまり前例のない大規模なものであった。このための組織づくりと資金調達に、亀倉は大きく貢献している。会議の席上、亀倉は「KATACHI」と題する講演を行い、日本の伝統的な「KATACHI」の意味と象徴性の解明をこころみた。そして、現代的なデザインの次元でこれを一度分解して新しく組み立てる必要があると説き、「組み立て直したものが、あるいは本当に私が考えていた<かたち〉というものかもしれません」と述べて、日本の現代作家としての立場を明確に打ち出し、非常な共感と賛同を得たのであった。

世界デザイン会議

 世界デザイン合議の開催に先立って同じ年の3月に設立された日本デザインセンターは、亀倉の言葉を借りれば、「日本の財界の巨頭とデザイン界の理想的結合という趣旨」により、財界からの働きかけで生まれたものである。文字どおりデザイン界の話題をさらった大事件であったが、はじめ、当時朝日新聞の記者で日本デザインセンターの設立を企画した鈴木松夫と小川正隆から打診があった時、亀倉は相当返事を渋ったらしい。だが、広告技術の質の向上なくしては企業の発展は望み得ない、そのためにも財界とデザイナーが協力して外国に負けない企業体を作ろう、という鈴木の説得に、亀倉はようやく腰を上げたのである。まず山城隆一と原弘に働きかけて、田中一光、宇野亜喜良、横尾忠則、片山利弘、木村恒久、白井正治、植松国臣、そして私などのスタッフを揃えた。発足の時に、財界の静々たる顔ぶれに伍(ご・かたをならべる。)して行われた亀倉の挨拶は文字どおりの名演説で、我々若手は大層感激したものだった。もっとも、後で聞けば、さすがの亀倉もこの時はだいぶあがっていたらしい。

 日本デザインセンターの出現が日本のデザイン界に与えた影響は、決して小さくなかったと思う。グラフィック畑の人間を糾合(きゅうごう・一つに集めること。)して、それまでのいわゆる広告界の仕事の領域に造形性を持ち込んで、新しい角度から切り込んでいったという意味で、かなり衝撃的な出来事だったと言えよう。また、今日多くのデザイナー達が、企業の経営者にあい対して自らのデザイン思想を真正面から主張するようになったのも、亀倉の姿勢に学んだところが少なくない。事実、これを機に日本のデザイナーの社会的地位は確実に高まったのである。

 亀倉はここで、デザイナーとしてだけでなく、経営者としても一流の手腕を持っていることを証明した。しかも、専務取締役の激務をこなしながら、オリンピックのマークの指名コンペに当選しているのである。

ヘルバルトバイヤー 絵-ハーバート・バイヤー、デザイン-原弘、東京国立近代美術館

 勅使河原蒼風と土門拳の協力により、アメリカCCAから依頼された哲学者シリーズのうちの一作を制作したのも、同じく1961年のことであった。このCCAシリーズはハーバート(ヘルベルト)・バイヤーの企画によって進められたもので、世界的に著名なデザイナーがリレー式に担当している。蒼風とは、7−8年前にまず土門が仕事を通して知り合い、土門と常に行動を共にしていた亀倉も当然のことながら蒼風を知るようになった。姿かたちといい、どこか似たところのある3人は急速に親しくなり、“三兄弟”(もちろん蒼凪が長兄で亀倉は末っ子)と称したりしたが、3人協同しての仕事はこのCCAのポスター1回きりであるようだ。

イサムノグチ

 1953年にイサム・ノグチの作品集『ノグチ』の装帳・レイアウト(写真撮影は土門拳)を手がけて以来、イサム・ノグチとも、親しく交際をしており、おそらく彼にとって日本人としては、最も古い友人の一人の筈だと亀倉はいっている。

イサムノグチと亀倉

 各界一流人士との華麗な交際を繰り広げる亀倉の、もう一つの顔を示すのが、烏ゴロスケのエピソードであろう。亀倉夫妻が手塩にかけてヒナから育てたゴロスケは、ムナーリ、ソウル・バス、ハーバート・バイヤー、ピンツキーら、海外から亀倉宅を訪れたデザイナーたちにも大層な人気があった。「亀倉には子供がない。烏と遊ぶ。亀倉は淋しい。亀倉は烏をよだれの垂れそうな顔で見る。その顔は愛児と遊ぶ父親の顔だ。烏が愛児同様とは淋しい男ではないか」と書いたのは土門拳である。そのゴロスケは1961年(46歳)に死んだ。

■1962-1983(47~68歳)

 財界の大きな支援をバックに、日本デザインセンターは順調なすべり出しであった。しかし、2年後の1962年、亀倉は日本デザインセンターを辞め、フリーに戻ってしまう。

 「僕がデザイナーであることを放棄してね、経営者になれといわれたらなれたんです。もう自分はデザイナーではないんだ、プロデューサーないし社長なんだ……。[でも]やっぱり自分が作品を作りたいわけです‥‥‥。46歳ですからまだ精力的に創作できる時期ですから、俺はいやだといった。別に誰に不満があるっていうわけじゃないですよ。その組織に、僕自身が犠牲になるのがいやだったんですね」(『デザイン批評』2号)。どうしても自分の仕事を自分の手でやりたいという、生まれながらのデザイナーの姿がそこにあった。2年間制作から遠ざかっているうちに失われかけたスポンサーとのつながりを、まず回復しなければならなかった。ソール・バスに、日本デザインセンターを辞めた理由を訊かれて、亀倉はこう答えている。「デザイナーの仕事はちょうど土地を耕やすようなものだ。石をとり草を抜いて肥料をやり種をまいて、そうして良い花を咲かせる」、「他人が耕やして肥料をやったところに自分の種を植えてもうまくゆかない」、「土地はスポンサーで種はデザインである」、「今私は自分の耕やしがいのある土地を探しているところだ」(『テザイン』1964年1月号)。

 さて、日本中を興奮の柑禍に巻きこんだ1964年の東京オリンピックは、日本のデサイン界にとつても忘れることのできない一大イベントであった。中でも、ポスター以下の数々のすぐれた制作物をはじめとする、勝見勝のデイレクションによる一貫したデザインポリシーが、各国の高い称賛をかちえたことは特筆に価する。このデザインポリシーの基本となったのが、1960年に決定した亀倉作のシンボルマークである。

東京オリンピック-1

 このマークの選定は、亀倉、河野鷹思、田中一光、杉浦康平、稲垣行一郎と私の6人が指名されコンペによって行われた。そもそもシンボルマークを作る、それもコンペで、というのは亀倉のアイデアであり、彼が組織委員長の竹田恒徳に進言したのであった。6人の人選には勝見があたった。私は亀倉の作品を見た時のショックを今でもはっきり覚えている。優れたマークとは、ちょうどコロンブスの卵のようなものだ、と以前私はある雑誌に書いたことがあるが、まさにそれだった。一つ一つを切り離して見れば決して目新しいものではない要素を組み合わせて作られたこのマークは、しかし目を洗わんばかりに新鮮で、その明快さと造形性において比類なく見事であった。このデザインは正に亀倉の深い思想によって形成されたものであり、デザインとは小手先からではなくその作家の思想から生まれるものだということを改めて教えられた。

東京五輪 水泳五輪

 そして、このマークを中央に大きく据えたオリンピックの第1号公式ポスター(1961年)、陸上競技のスタートのダイナミズムを見事に昇華させた第2号ポスター(1962年)水泳をテーマたした第3作目(1963年)(上図左・右)がつぎつぎと作られる。この三部作は、亀倉、村越嚢、早崎治という当代きってのデザイナー、フォトディレクター、フォトグラファーの力が渾然一体となって生み出し得た記念碑的作品であり、世界のポスターの歴史の中でも最高傑作のひとつに挙げられるに違いない。国内外の教々の貨を受賞したのは極めて当然のことであった。歴代のオリンピックのポスターの中でこのような臨場感あふれる写真を使って制作したものは初めてであり、オリンピック史上に初めてデザインの現代性を定着させた、と言える。オリンピックのマークとポスターによって亀倉雄策の名は、特にグラフィック・デザインに関心があるわけではない一般の人々の間にまでポピュラーになった。しかし亀倉の仕事のもう一つの側面を代表するという意味で重要なのが、1965年に英米独日の4社共同によって出版された『世界のトレードマークとシンボル』であろう。

世界トレードマーク

 これは前回の『世界のトレードマーク(1956年)にこめられた思想を一層鮮明化した

もので、ある意味では亀倉による時代の記録と言ってよいかもしれない。マークやシンボルの卓越した作り手である亀倉は、それらのもつ機能と造形性について余人の追随を許さぬ深い洞察と見識を有しているのである。レイアウトもまた、亀倉の緻密な計算に基づいて大小のバランスがつけられ、マークがリズミかレにそれぞれの個性を謳歌するような、すばらしい効果を上げている。亀倉は、デザイナーよりもむしろ経営者や団体の責任者たちにマークのもつ意味を理解してもらうために、「マークやシンボルが豊かな表情を持って生き生きと活動していることを知ってほしいために」(序文)この本を作った、と言っている。マークやシンボルを扱った本は無数にあるが、その多くは、同じ大きさのマークがただ機械的に並べられているに過ぎない。この本は、世界の名だたるデザイナー達によって作られたマークを相手に、亀倉がしっかりと四つに組んだ、彼だからこそできた労作だと言えよう。

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 すでに世界的な巨匠と目されるに至った亀倉は、例年のように話題作・受賞作を発表していく。1968年の第2回ポーランド国際ポスタービエンナーレでは、万博の海外向けポスターと国土計画のスキー場のポスターが、金賞と部門賞をそれぞれ受賞した。これを記念して3人の受賞者、亀倉とアンデイ・ウォーホル、ジュリアン・パルカの展覧会が、1970年にワルシャワで開かれた。この時ちょうど私も第3回ポーランド国際ポスタービエンナーレの国際審査員のひとりに選ばれ、亀倉と同行した。亀倉の国際的な知名度の高さと顔の広さを随所で感じ、同行した私まで誇らしく思ったものである。また、夜寒いからというので言葉の通じか−私のために自ら毛布を頼んでくれるなど、日ごろ豪放と見られがちな亀倉の繊細で心優しい一面にも度度ふれることができた。

 その帰途、彼はミラノに立ち寄り、ピントーリに会って、カッサンドルの死を知らされる。中学生の亀倉にデザイナーへの道を決意させたあのポスターの作者は、自殺したのであった。「−なぜ、こんな歴史的な大人物がなぜ、近代デザインの創始者であり、フランスの誇りのような人物がなぜ、・・・・。

 『仕事がなくて貧乏したんだ』とピントーリがポッンと言った。

 私はしばらく言葉もなかった。冷たいパリ。冷たいパリのデザイナー。冷たい世界のデザイン界。デザインは『歴史』だけじゃないというだろう。なるほどデザインには昨日も明日もない。あるものは今日だけ。それもきびしく冷酷な『今日』だけ。

 カッサンドルの自殺はその『今日』をわれわれに鋭くつきつけたのだ」(『アイデア』1970年9月号)。

 同じく1970年(55歳)に起こった日宣美の解散も、やはり「今日」が鋭く「歴史」にぶつかってきた出来事と言えようか。日宣美の活動は1960年にその頂点を示したが、これ以降次第にマンネリズムの兆候が現われき、若手デザイナー達による社会問題に対する意欲的な提案や個々の表現技術の著しい向上があったにもかかわらず、その内容の質的低下は年を追うごとに顕著になってきていた。急激な社会変動やデザイン領域の拡大に対して、展覧会だけに頼るという日宣美の行き方ではもはや対応しきれなくなってもいたのである。

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 こうして、展覧会形式に対する疑問、目宣美のもつ権威性に対する反発、さらにはあまりに巨大化し過ぎた日宣美の機構に対する不満などが内部にあったところへ、外からは折しも最高潮期にあった学生運動により、日宣美の持つあまりにも巨大な権威性が日量美に入賞・入選できないデザイナーとの差別を生じているため日宣美は潰したほうがよいという意味の揺さぶりをかけられ、日宣美はあっけなく崩壊してしまったのである。内にいる者も外にいた者も、誰もがあきれ返るほど簡単な幕切れであった。もともとがデザイナーの地位向上のために出発した作家的な職能団体であり、今や約400人ものあらゆる考え方の会員を擁するこの畑織に、運動体としての一つの方向や思想性を求めるのは、無理な話だったとも言える。そして、学生達の要求に対して、それを真剣に受け止め、自己反省したところがいかにも日宣美らしい純粋さだった、とも思う。日宣美の村社会的責任を貴くべく、その最後の暗まで努力を傾注した亀倉は、後日「目宣美始末記」を書いて当時の彼の考え方と行動を記録にとどめている。

 1971年に美術出版社から刊行された『作品亀倉雄策』において、勝見勝は亀倉を評して次のように書いている。

 ≪ボス≫という俗語ほど、「亀倉の大きな存在を、適確に表わす言葉は、他に見あたらない」。この言葉は「実力に対する敬意と、親分肌に対する親しみとを含んでいるからである」。彼の言動には「しばしば本能的な政治性を感じる」が、それは「デザイナーとしての問題意識から出発し、その解決を求めようとするところに、自然に生れて」きたのであり、時に率直にすぎる彼の発言の背後には、「いつも現実をよく把握したヴィジョンが横たわっていて、結局は、周囲を説得する力となっている。「彼の政治力は、陽性で開放的な政治力」である。そして「亀倉の本能的な政治性は、彼の男らしさ、闘牛の具えているような≪雄≫としての闘争意識に帰納できるかと思う。その一つの表われが、彼のコンペチション好きで、亀倉ほどコンペチションの好きなデザイナーも珍らしい」。いろんな公共行事関係のデザインについて「鼻先にコンペチションを提案するのは、いつも亀倉である。これは彼の大きな自信の表われであると同時に、男らしいフェア・プレーの精神の作用でもある」。

 彼自身、「どういう訳か、創立だの設立だのといった仕事は全部僕の所にかかってくる」と言ぅように、戦後のデザイン界における組織活動のほとんどすべてに指導的な役割を果してきた亀倉は、今も、日本グラフィックデザイン協会JAGDA)で創立(1978年)以来会長をつとめている。そして、相変わらず「僕はコンペが好きだ」と明言するだけに、70年代以降もなお、沖縄海洋博のアイキャッチマーク(1972年)、日本伝統工芸品の統一マーク(1975年)、「モリサワ」のロゴタイプ(1982年)などをコンペによって制作している。(下図)

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 実際、周囲からはもはや「大御所」と目されているはずの亀倉は、あたかも疲れを知らぬかのような精力的な創作活動を展開しつづけている。ごく近年では『李朝の民画』(講談社)の編集 およびレイアウト、『佐藤忠良作品集』(現代彫刻センター)の装帳、コレクションシリーズのポスターがあり、1983年に入ってからも「Hiroshima Appeals」のトソプバッターとして第1作目のポスターを制作またもやグラフィック界を超えた多くの人々の絶賛を博した。この「Hiroshima Appeals」のポスターは、核の火で焼かれ燃えながら落ちていく蝶の群れを横山明のイラストレーションによって表現したものであるが亀倉の発想の新鮮さに驚かされる。(上図)

 核反対のアプローチにこのようなヴィジョンがあったのかと感嘆すると共に、その表現のあまりに美しい残酷さに戦慄する。このようなポスターがこれほど格調高く表現されたことはかってないのではなかろうか。亀倉のこのところの充実ぶりは目を見張るものがある。また新しい大きなうねりに乗っているという感じがする。このポスターは、1983年のADC会員賞を受けた。

 彼は自分を、のん気で楽天家だという。「何よりもデザインが大好きだ。好きだが、また嫌いでもある。いいものが出来た時は、こんないい気持はないし、下手なものを作った時のイヤさ加減といったら‥‥‥町を歩いて色々なデザインを見るのもいやだと思う。だから逆に面白くもある」。いくたびかの修羅場をくぐり扱けてきたこのデザインは、こともなげにこう言うのだ。彼の陽気で屈折のない人間的魅力にひかれる人間は多い。かつて市川混、サントリーの新聞広告で、次のように亀倉像を描出した(1969年10月)。

 「丸顔。尻あがりの眉。人を疑わぬ純粋な目。つやつやした額と頬。木目込人形のおひなさまのような感じ。高い調子の声。話術は巧みだ。酒が入るとさらに流暢。同じ話をなんども聞かされる。年のせいというのは失礼だ。同じ話をくりかえしくりかえし喋るからこそ、話に磨きがかかって、聞く者の心に食い入る。落言的名人芸、しかり。己れの話を己れが面白そうに笑う。・・・」。

 市川昆はこのあと続けて、東京オリンピックの記録映画を引き受けたのは、亀倉の赤い太陽のポスターに魅かれたからだ、と述べている。

 一方、亀倉の人なつこさ、賑やかなことの大好きな外見のうちに、多くの人は孤独の翳(かげ・物に遮られて、日光や風雨の当たらない所)を見る。彼の妥協を知らない仕事ぶりは、同時代の作家達の中にあってかなり特異なものだったからである。現在も、作品をいかに見せるかにとかく意識が傾きがちなデザイナー達に対し、亀倉は、デザイナーが相手にするのは企業やコミュニケーションの受け手であって決して同業の仲間たちではない、と喝破する。ジャーナリズム受けするからといってスポンサーやその受け手を無視してひたすら自分の作品を作ろうとするある種の作家とは違って、亀倉は真にスポンサーたる企業の立場に立って発想する。亀倉はスポンサーに対する姿勢の厳しいことでも知られており、そのことでかえって企業の人々から信頼を寄せられている。仕事を通して経済界にも多数の友人を有するに至った亀倉は、彼らから経営上の相談を受けることもあるという。造形における作家性と事業に対する企画性を兼ね備えている点が、亀倉をしてわが国随一の大型デザイナーたらしめているカギでもあろうか。

 「僕はデザイナーになりたくてなった。絵描きになれなくてデザイナーになったのとわけが違う。だから誇りをもってデザインしかやらないんだ」と明言する亀倉の歩みは、文字どおりデザインひとすじである。天才とは努力を持続できる才をいう。かつて小泉信三の講演で聞いたこの言葉に亀倉が強い印象を受けたというのも、彼の歩みを振り返ってみるとき、なるほどとうなずけるように思う。そして、彼の足跡を辿ることは、日本の現代デザインの歩みを辿ることとほとんど同義であったことに気づき、改めて驚かされるのである。

 半世紀にわたる輝かしい軌跡をえがいて、1983年亀倉は68歳になる。そして今日もなお第一線に立つ彼は、まさに日本を代表するグラフィック・デザイナーであり、誇り高いソリストであり続けるのである。(グラフィックデザイナー)