福田繁雄の多様なデザイン

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■反戦ポスター

33NO MOR 1968年

 遠くから眺めれば、赤と黒という不気味な配色によって描かれた頭蓋骨にしか見えないかもしれない。しかし、近づいて作品を眺めれば、投下された無数の爆弾によって、2重の意味で骸骨が作り出されていることが分かる。国際反戦ポスター・コンテスト」へ出品された本作品は、3・5センチ大に切り抜いた紙製の爆弾を、ピンセットを用いて、頭蓋骨の形が浮かび上がるように1枚1枚並べるという地道な作業によって生み出された。その爆弾の総数は1286発にも及ぶ。制作にあたって、福田は仕事部屋を閉め切り、小さな爆弾が風で飛ばないように息をほとんど止めるようにして、二昼夜の間、手仕事を続けたという。爆弾という「図」を大量に配置することによって、「地」であるはずの背景に頭蓋骨というもう1つの「図」が作られている。こうしたアイデアを用いることによって、頭蓋骨というイメージだけでは表現できなかった重層的なイメージが表現できると福田は考えた。(Y.H)

8080.VICTORY 1945/ 1975年

 大砲から発射されたはずの砲弾が、その大砲自身に向かって今にもぶつかろうとしている。無論、実際にはあり得ない光景ではあるが、福田は戦争という行為の本質について、戦争相手に損害を与えようと砲弾を撃ち込む側自身にも、その暴力が返ってくるものだと捉えて、戦争の無意味さを簡潔でありながら独創的に表現した。黄色と黒色の組み合わせは視認性が高く、交通標識や鉄道の踏切、エ事現場などで「警戒色」として一般に用いられているが、こうした配色を用いることによって、本作品は、戦争に対する「警戒」を鑑賞者に訴えかける効果を高めている。福田は、第二次世界大戦の資料を作業机いっぱいに集め、アイデアに納得できるまで、数週間イメージの発想に励んだという。結果、本作品は「ポーランド戦勝30周年記念国際ポスターコンペ」で最高賞を受賞している。なお、ポスターはポーランドで市販され、その収益は平和運動の基金に当てられた。(Y.H)

フレンド

『アイデア』133号「アイデアのエレメント35」誠文堂新光社(FRIENDSHIP1975年)

 個展「FRIENDSHIP」のために制作されたシリーズ作品のうちの10点。2つの手が友好のしるし「握手」をしている様子をさまざまなバリエーションで表現しており、色彩は赤、青、黒、白の4色ときわめてシンプルである。握手という世界共通の信頼の行為の裏に潜む人間心理が、福田の解釈によってシニカルにアイコン化されている。有刺鉄線でできた手、心や体から引きちぎられた手(中央下図)、安全ピンで留められた二つの手(左図)、影のような手をつかむ手、導火線で描かれた手(中央上図)。結びつきたいと願う人間の心理とは裏腹の儚(はかな)さ、醜さを象徴する。福田は、「握手の意味」と題した一文の中で「ごくありふれた身振りや行為の中にのみ、アイデアのエレメントは存在するといえるだろう。」と述べている。(M.M)

環境と平和

ヒロシマ・アピールズ1985年ヒロシマ・アピールズ

 黒い太線によってシンプルに描かれたジャングルジムのような地球は、福田作品のトレードマークとして、様々なバリエーションで用いられている。上の本作品では、地球のシルエットと一体化した右腕が、ずれた地球の軸を直す、という図柄によって平和を訴えている。斜めに刻まれた「HIROSHIMA」の文字は、腕の角度と重なって、密かに画面に上向きのリズムを作り出している。」

 JAGDA(日本グラフィックデザイナー協会)は広島国際文化財団と共同して、1983年から1989年まで、毎年、「ヒロシマ・アピールズ」というキャッチフレーズのもと、」JAGDA所属のデザイナーがポスターを制作し、国内外に向けて平和を希求する運動を行ってきた。本作品は、亀倉雄策、粟津潔ら名立たるデザイナーに続く、第3作目の作品である。なお、1990年から制作は一時中断されていたが、2005年の広島被爆60年を機に再開する。福田は、そのときの」AGDA会長でもあった。(Y.H)46

平和アピールズ


 ■地球環境ポスター地球と水106-107

左・HAPPYEARTHDAY1982年 右・HAPPYEARTHDAY(1982年)

 緑の大切さを考えてもらうために、自然と人間との関わり方をシニカルに訴えた公共ポスターのシリーズ。なお、HAPPY EARTHDAYとは、HAPPY BIRTHDAYに掛けて福田が創作したキャッチコピーである。緑の種子から芽が生えている様子が描かれた作品(上図左)を良く見ると、その種には世界地図がデザインされており、地球から何かが生まれてくる光景を示していることが分かる。しかし、伸び行く新芽はまっさらな白色で描かれていて、どんなものが芽生えてくるのかは、鑑賞者の思いに任されている

 一方、木々を伐採するはずの斧という道具の先から、小さな芽が生えている作品(上図右)がある。赤と黒を基調にした配色の上に、ぬらりと刃が光った斧が描かれることによって、本作品は一見、暴力的な情景を喚起する。しかし、そうしたショッキングなイメージに抗うように、生まれたばかりの小さな芽の存在は、将来、大樹となりゆくポジティブな可能性をも示唆している。(Y.H)106.HAPPYEARTHDAY1982年107.HAPPYEARTHDAY●(1982年)

106-107 緑の大切さを考えてもらうために、自然と人間との関わり方をシニカルに訴えた公共ポスターのシリーズ。なお、HAPPYEARTHDAYとは、HAPPYBIRTHDAYに掛けて福田が創作したキャッチコピーである。緑の種子から芽が生えている様子が描かれた作品(cat.no.106)を良く見ると、その種には世界地図がデザインされており、地球から何かが生まれてくる光景を示していることが分かる。しかし、伸び行く新芽はまっさらな白色で描かれていて、どんなものが芽生えてくるのかは、鑑賞者の思いに任されている。一方、木々を伐採するはずの斧という道具の先から、小さな芽が生えている作品(cat.no.107)がある。赤と黒を基調にした配色の上に、ぬらりと刃が光った斧が描かれることによって、本作品は一見、暴力的な情景を喚起する。しかし、そうしたショッキングなイメージに抗うように、生まれたばかりの小さな芽の存在は、将来、大樹となりゆくポジティブな可能性をも示唆している。(Y.H)

環境ポスター

JAGDA平和と環境のポスター展「l’m here」1993年

 斧を振りかぶって、樹木を伐採しようとしている男。しかし、その男の足元はまさに樹木のように大地に根ざしていて、新芽すらも育ち始めている。胴体からは、自分自身の持っている斧によって切込みを入れたかのような亀裂が走っている。本作品は、平和と環境に関する意識を深めることを目的として、」AGDAが「l’m here」というテーマを定めて開催したポスター展に、福田が応募したものである。木を切るとは自分を切ること。自然破壊に対する福田のストレートな思いが込められている。匿名性の高いシルエットを用いることによって、特定の団体・人物への風刺という意味合いを無くし、ポスターを眺める私たち一人一人が自然破壊について意識を向けるような効果を上げている。なお、はじめは5つくらいの木屑を飛び散らせていたが、木屑ばかりに目が行ってしまうことを避けるため、福田は何日も考えて、位置と数を決めたという。(Y.H)


■錯覚のトリック

エッシャー

落ち続ける滝〈三次元のエッシャーNo.2〉1985

 「M.C.エッシャー(1898−1972)は二次元の画面に三次元ではありえない『不可能な図形』を導入し、交錯させて、独特の不思議な世界をつくり続けたオランダの版画家です」。福田にとってエッシャーとの出会いは『第1回東京国際版画ビエンナーレ』(東京国立近代美術館、1957年)の際で、「そのシチュエーションの正確さ、完璧な構図、発想と技術。本当に魅せられましたね」という。エッシャーと己の共通点として福田は、「常識を少しだけずらすような感じ」を得るために「しっかり絵を描くということ」を挙げている。エッシャーの作品(上図右)をもとに福田は、「立体空間を一点視点の平面として考えはじめて、1982年に≪物見の塔≫、1985年に≪滝≫の三次元立体を完成させた」。(上図左)は『視覚サーカス’85』(松屋銀座・他、1985年)に出品されたが、その原画(参考図版)について、「つくられた水路を流れる水が滝となり、滝つぼに落下した水が一回りして再び滝になって流れ落ちる≪WATERFALL≫など無限に続く非合理の世界」と記している。「あれは、遠近法の応用で、ある一点で見るとちゃんとエッシャーの絵のように見える」。「水路を三分割し、隠れた三個の小型モーターで水流を作るという発想で完成させた苦心の迷作だ」。「先ず、何もないスタジオにモニターカメラをしかけるんですよ。そこにエッシャーの滝の絵を透明の板にプリントアップしちゃうんです。それをはめこんでおいて、モニターを見ながら『柱、もうちょっと右。もうちょっと』なんて言って位置を調整して組み上げていってもらう」という手順で制作された。(l.K)

ランチ錯覚ランチはヘルメットをかぶって・・・1987年

 本作品は、ランチを食べるための食器(ありふれたステンレス製のフォーク、スプーン、ナイフ)848本から構成されている。溶接や成型を繰り返して、作業開始から7日目の夕方にようやく完成した。組み立てられた金属の塊だけを見れば奇妙なオブジェとしか思えないが、特定の高さ・角度からスポットライトを投影することによって、実物大のホンダ製モトクロス・オートバイが影によって作り出される仕組みとなっている。タイヤの細いスポークや、オフロードタイヤのゴツゴツした形態も見事に表現されているためか、「このオートバイの影は本当の影ではなく、床に描いているのではないか」と質問されたこともあるという。なお、同じトリックを用いた作品として、2048本の学童用ハサミによって、帆船・日本丸の影を作り出した≪海は切り離すことはできない≫という作品がある。作品タイトルからも福田流のユーモアを大いに感じることができる。(Y.H)86

ロゼッタストーン

 モリサワ1988年

 写真植字機メーカーであるモリサワの広告用ポスターとして制作された本作品は、ナポレオンがエジプト遠征をおこなった際に発見されたロゼッタ・ストーンを題材としている。なお、ヒエログリフ解読への鍵となったロゼッタ・ストーンについては、最高の文字の記念碑であると、福田は敬意を表していた。ロゼッタ・ストーンは3種類の文字が上下に三分割されて刻まれており、「モリサワ」と社名が繰り返し記載されている上部は、ヒエログリフが記されていた箇所に当たる。古代文字の中に社名を刻むという発想については、モリサワの制作依頼を受ける以前から、文字を仕事として取り扱う写植会社のイメージに相応しいと福田は考え、アイデアを温めていたという。数量的には過剰なまでにモリサワのロゴが繰り返されているが、背景のロゼッタ・ストーンと上手く調和しているため、しつこさを感じさせない見事なデザインとなっている。(Y.H)


■商業デザイン

松屋デザイン

 福田繁雄と松屋の関係を紐解くにあたり、2つのキーワードがある。ひとつは亀倉雄策、もうひとつは日本デザインコミッティー(以下、JDC)の存在である。ここで紹介する松屋関連ポスターは、1950年代、福田が芸大在籍時に制作したものと思われる。しかし当時の松屋には社内に専属デザイナーがおり、ほとんどのポスターは彼らによって制作されていた。ではなぜ学生だった福田が松屋のポスターを手がけたのか。そこに登場するのが松屋のデザイン顧問をしていた亀倉雄策である。「なかなか面白いやつがいるな」と言ったかどうかは定かではないが、亀倉は福田の才能にいち早く目をつけ、松屋のポスターデザインの仕事を手がけさせたのだった。その後、福田は亀倉の推薦で1971年に」DCのメンバーとなり、松屋にあるデザインギャラリーや催事場で『デザイン動物園(1975年)』や『pauIRand:A Designer’s Art(1986年)』などいくつもの展覧会のディレクションを手がける。」DCは「デザインの啓蒙」を理念に、丹下健三、亀倉雄策、柳宗理、岡本太郎ら15名のメンバーにより旗揚げされた組織であり、この」DCの活動をメセナ的に支援していたのが松屋だった。松屋と」DCでの福田を知る関係者は「福田は異端児のような存在だった」という。装飾性を排除し、物事の本質的な美しさを追及する亀倉およぴ」DCメンバーのスタンスと、「便利ではないが、あった方が楽しい」という考えを持つ福田とは対照的だったからである。しかし亀倉が引き上げた「異端」は、JDC内に新しい風を巻き起こし、松屋内を吹き抜け、日本中に遊びとユーモアのエッセンスを広めていくのであった。生活に必要なものから日常を楽しくするものまで様々な商品を揃え、常に斬新で新しい生活スタイルを提案する百貨店という場は、従来のグラフィックデザインの枠にとらわれない福田にとって、格好の遊び場(活動の場)だったといえるだろう。亀倉雄策からJDCへと続く松屋との関わりは、福田のデザイン活動の中で大きなウェイトを占めていたといっても過言ではない。(T.Y)


■日本万国博覧会EXPO’70,

日本万国博覧-1  日本万国博覧

  1970年3月、大阪千里を会場にして、日本万国博覧会 EXPO’70 がはなばなしく開幕した。77カ国が参加し、会期は6ケ月であった。メインテーマは「人類の進歩と調和」(Progress and Harmony for Mankind)。日本の戦後復興の最初の区切りにあたる。1960年代に始まった高度成長が1つのピークをしるした時だった。経済大国ジャパンが世界の舞台に登場した。この大イベントにあたり、福田繁雄はオフィシャル・ポスターを制作した。1966年に朝日新聞主催の「万国博への提案デザインコンペ」に入選し、翌年の「日本万国博覧会公式ポスター指名コンペ」に参加したのである。このとき38歳。海外公募展にはその2年はど前から入選し始めていた。万博ポスターの応募作品は数種類作られたようだが(図版で確認しているのは9点)、公式採用されたものは2点。1つ目は(上図左)で、図案化された地球のまわりに、5大州をあらわすのだろう5つの円球が寄り添い、下に6つの影‥・これが万博のシンボルマークを示している。2つ日は(上図右)で、EXPO’70の文字は、高さを変えて木工制作した立体を写真撮影したもの。それが林立する旗を因んでいる。旗は万国旗を使えずに色布で撮影したという。地響きをたてて伸びあがってくるような力強さと、はためく旗が好対照である。

 国際イベントを、鮮やかにヴィジュアル化して、デザインの共通言語にうつしかえた。SHIGEO FUKUDAを強烈に印象づけ、一挙に世界へと押し出した。作品は総じて、赤や青によるイメージが明快、同時にトリックめいた遊びを含んでいる。映像にウィットがあって、見飽きない。のちのトリックスターが片鱗をのぞかせていた。日本万国博開幕のすぐあと、赤軍派が日航機「よど号」をハイジャックした。9月、万国博修了。入場者数6.421万人。やがて急激な経済発展の歪みである公害問題が噴出する。そんな将来を見通していたかのような、2ケ月後の三島由紀夫割腹自決事件…。大きなうねりを含んだ時勢の中で、福田繁雄のグラフィックデザインは、以後、急速に色とイメージそして創造性を深めていった。(H.R)


■文化財保護ポスター

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 ピサの斜塔は、一時期、地盤沈下によって年々傾きが大きくなるという事態に陥っていた。そのため、文化財でもあるこの斜塔を守ろうと、イタリアは各国に提案を求めていた。福田は新聞記事でそのことを知り、斜塔を守るためのアイデアを発案した。ただし、福田が考案した対応策は、当然、建築工学的な知見によるものではなく、視覚的なトリックとユーモアによって、ピサの斜塔を安全に立たせようとするものであった。逆の傾斜をもった斜塔を隣に用意して、二つの斜塔でバランスを取る。斜塔の上半分を反対向きに入れ替えて平行を保つ。斜塔の隣に支えとなる斜塔を配置する。斜塔を6つに切り取り、傾いて倒れないように積み重ねる。それらのアイデアをポスター上で実現させた福田は、「自己防衛」というタイトルを作品に付けている。まるでピサの斜塔が意思を持ち、自分自身を守るために様々な対策を試みているシュールな姿を鑑賞者にどことなく想像させる妙がある。(Y・H)


 ■その他のデザイン

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