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バウハウス
イッテン
イッテンの世界
分析的な方法
歴史上の巨匠の分析
炎の塔
革命的な牛模様
マン・レイ
1.無頓着、しかし無関心でなく
革命的な牛模様
ここクレーフェルトでは、産業と直結した専門学校の要求を満たすことが重要だ。一般的な芸術性に加え、テキスタイルデザイナーとしての技術的な面を指導することが必要となってくる。・・・ヨハネス・イッテン1983年
■革命的な牛模様
イッテンの広報活動は無駄ではなかった。
1932年に彼は、織物学校の設立と指導のため、クレーフェルトに呼ばれることになったのである
。とりわけ、ドイツ工作連盟の機関誌『フォルム』の1930年の号に彼が寄せた長い論文が、クレープェルトの絹織物工場連合の理事たちの目をイッテン・シューレに向けさせた。その辺の事情についてはイッテン自身、1932年のイッテン・シューレの展覧会を予告する文章に書いている。「絹織物業界がクレーフェルト市とプロイセン州にはたらきかけ、厳しい経済状況のもと、芸術学校の閉鎖が続く中で、あえて織物学校を新設しようとした背景には、イッテン・シューレの挙げた成果が広く世間に呼び起こした反響があった。
この新しい学校は1932年1月の始め、クレーフェルトでわたしの指導のもとに開校した」。授業を実演するという審査を経て、イッテンは正式に着任した。その結果、彼はベルリンとクレーフェルトで8日間ずつ交互に教えることになる。
織物学校は1932年1月1日に開校
、授業が始まったのは同年1月12日であった。イッテンはここで「
実地に即してデザイナー』の養成
を行う」ことに成功した。基礎研究のためには全部で40週が充てられ、それらは最初の4学期に6日間単位で振り分けられた。
教育の重点は、次の9分野である。
経営学、工場運営、商業学、経済学、簿記、織物組織(1935年からはアンネリーゼ・シュレッサーが担当)、織模様の開発、商品学、織り方図。
イッテンはすべての学期で、自然研究、形態論、色彩論を
講じた。さらに、「
コンポジションと織模様素描
」と呼ばれた
デザインの授業
がこれに加わる。彼の授業は、主に素描室で行われた。ここでも、「イッテン・スツール」と「イッテン・ブロック」は大事な道具となった。イッテンの成功は続く。クレーフェルトでもやはり、彼が生徒作品による展覧会を開催する度、革命的な授業法、とメディアは報じたのである。その方法は、大筋においてはこれまで彼が培ってきたものと同じだが、織物学枚という場の性格に合わせ、部分的な変更や追加は当然行われた。ほどなく、彼は新機軸を打ち出す。
織物の模様をデザインするための新たな道具として、スライドを導入
したのである。たったひとつのモチーフから、トリミングと反復という操作によって、布地の原案となる無数の模様が生み出される。そのうちで最も有名になったもののひとつが、
牛をもとにした模様である
。
こうした成功にもかかわらず、イソテンは1938年(50歳)にクレーフェルトでの活動を断念せざるを得なくなる。
政治状況がいよいよ切迫
したため、彼は
ドイツを去り、オランダヘ亡命した。
そこで彼は短期間、
アムステルダム市立美術館を舞台に形態論と色彩論の授業
を行っている。
そもそもの始めから、わたしの授業には固定された外的な目標などなかった。築き上げられるべき、成長する力を宿した存在としての人間それ自体が、教育において自分が努力を傾注すべき課蓮である、とわたしには思われた。感覚を発展させること、思考力をたかめ、魂の体験を深めること、身体の器官と機能を緩やかに解放し、鍛え上げること。それらは教育の責任を自覚した教師にとっての手段であり、道である。・・・ヨハネスイッテン1930年(42歳)
■スイスへの帰還
このあと、1938年12月1日にイッテンは、チューリヒ工芸美術館と工芸学校を統率する館長兼校長に就任した。チューリヒでの展覧会活動や雑誌記事を通じて、彼は美術教師としてすでによく知られていた。例えば、チューリヒ美術館での1う人のスイス人芸術家による展覧会(1922年)に参加したこと、
チューリヒ工芸美術館で「ヨハネスイッテンの作品・ワイマール国立バウハウスの工房製品」(1923年)を開催したこと
、「チューリヒ画報」にべルリンのイッテン・シューレに関する紹介記事(1930年)が掲載されたことなどである。1943年以降は、こうした重職に加えてさらに織物専門学校の校長にも就任した。どちらの学校でも、それぞれ過に半日だけ授業をもつので精一杯だった。それほどイッテンは、学校や美術館を運営していくための雑多な仕事に忙殺されていたのである。それでも彼は、色彩論の授業だけは自分で行うよう努めた。
チューリヒに着任したイッテンの最大の関心事は、彼が練り上げた教授法を、この地でも直ちに適用することであった。
1939年、イッテンは授業を紹介する展覧会を工芸美術館で企画し、すでに手馴れた手法で、彼の教授法が成功を約束するものあることを公に示そうとした。展覧会カタログで彼は、自身の教育方針を次のように紹介している。「われわれの望みは、一方では、
若い人が自分自身の個性と特徴を伸ばして創造的なままでいるように、そのひとりひとりを教育することである。
他方、われわれは、
芸術の表現手段についてのあらゆる法則性を、彼らに教えなくてはならない。
それに精通してこそ、彼らは、個性的で新しい考えに形を与えることができるのだ」。イッテンはこの後も国内外で数多くの講演を行い、また引き続いて、授業を紹介する展覧会を幾度か開催した。
生徒は、自分が本当に体験できるものだけをテーマとしなければならない。さもないと、形作られたものはことごとく嘘となる。17歳の若者が、ありきたりのリンゴの静物を体験できるはずがない!そんなものは間違っている!・・・ヨハネスイッテン、1943年
■鍵としての体験
美術教育に携わって以来、
全人教育、そして芸術的資質の育成
、という二重の目的をイッテンはつねに追求してきた。こうした不動の目的を定式化する際、その表現は時代の経過とともに変化していったが、核心は微動だにしなかった。イッテンが書いたとされる
ワイマール・バウハウス
のチラシ(1922年)は、予備課程を念頭に置いたものと推察される。「
生徒たちの創造的な力を解放し、自然という素材を把握する術を教え、造形の原則を認識させること、それが肝心なのだ」
。もっとも、1919年のバウハウス宣言によれば、バウハウス思想の最終目的は総合芸術としての建築であったのだが。1927年、イッテンはこの文面を引き継ぎ、ベルリンの彼の学校のため、これをより精細なものに書き改めた。
「人間の裡(うち)に畳み込まれてある創造的な力が開いていくように導き、同時に造形芸術の手段を教えること、それが授業の目的だ。あらゆる種類のわだかまりを解き、身体の能力を伸ばし、感覚や芸術的な思考力・精神力を養い、生徒たちひとりひとりの資質や才能に応じた表現手段を学ばせること、それが教えるものの道だ。大原則として、教える者の目的はただひとつ、教わる者の内部に宿る潜在的な知識が活発化し、それが実現するようにさせることである」
。クレーフェルト織物学校の場合は、テキスタイル産業界との連携が前提となっていたので、学校の目的もより一般性をもたせた表現で述べられる必要があった。「
織物学校は、テキスタイル産業に関わるあらゆる者の芸術性と美的趣味を育成することを目的とする」
。体験・認識・実現という根本原則は、イッテンの教育活動にとってつねに導きの糸であり続けた。なかでも体験は、造形芸術の道に至る重要な鍵であった。体験することによって初めて、見知ったことは組織され、認識が獲得される。想像力や体験能力をたかめるために、イッテンは豊富な比喩を交えて生徒に話を聞かせたらしい。
エヴァ・ノイナー=カイザーは、その時の思い出を次のように書き記している。「イッテンは白衣を着て授業にやって来た。白衣姿の彼は、実際以上に大きく見えた。彼はいつも上機嫌で話題が豊富だった。わたしたちは椅子に座り、興味深く耳を傾けた。そんな時、彼は、芸術や彼自身の体験について、たくさん話をしてくれた」。ベルリンの生徒たちがいかに先生に魅了され、彼に確信を抱いていたかが彷彿とする。あまつさえ、彼らは「イッテン・シューラー(イッテン学徒)」という名のもとに独自のお祭りを催した。祭りを知らせる告知が当時のまま残されており、そこには、
蒸気船「イッテニア号」の姿をした「イソテン・シューレ」が描かれている
。それは生徒たちの一致団結ぶりを示して余りある。
共感の練習。呼吸コース。体操。イッテンの時代、後述するこれら、体験へと方向づけられた方法は、ときとして如何わしく秘教的なものとして衆人の眼に映った。だがその分だけ、今日の体験社会という観点からするならば、
彼の方法は・・・自己啓発セミナーや創造性開発セミナーでは、イツテンの方法と類似したものはすでに定評のある方法として実践されている・・・
新たな意義とアクチュアリティーを獲得しているのだ。
造形論・形態論
添削はおしなべて独自性の芽を摘み、創造性を窒息させるものだと思うのです。訂正されると確信は萎(な)え、失われてしまう。しかし自信を強くもってもらわねばならんのです!・・・ヨハネスイッテン、1967年(78歳)
■添削の代わりに討論を
ヨハネスイッテンの授業で描かれた生徒作品は何百と残っているが、一瞥、すでに目を引く点がある。それは、生徒作品には訂正を加えないという決意を彼が守り通した、ということである。全人教育をめざし、生徒個々の人格を尊重する、という彼の教育理念が、添削指導というものを許さなかったのだろう。すでに1908年、ベルン近郊の村で国民学校の教師を勤めていたイッテンは、生徒の作文を赤ペンで添削することを拒んでいる。「作文に訂正を加えることは決まって侮辱的な作用を及ぼし、その結果、とらわれのない子どもの空想は破壊されてしまう。それがわたしの意見です」
出来上がったものを回収してひとつひとつ鑑定し、赤を入れ、評価を下す代わりに、イッテンの教室では、描き終わった作品は床に並べられ、それらについてクラスみなで意見が交わされた。マクシミリアン・デブスは、討論の過程で「課題の本質がはっきりと浮かび上がってきた」と伝えている。
知性、魂、身体のはたらきを直に発揚させるため、わたしは自分の学校で、朝の体操を行うことにした。緊張をほぐす体操、集中力をたかめる体操、呼吸練習や発声練習、これらだけが、自然に逆らわず、人間を全体として精神的に育てることを保証するのだ。・・・ヨハネスイッテン、1930年
■朝の体操
知覚体験の能力を向上させるという目的に資するため、イッテンの授業には全身の訓練が採り入れられた。毎朝、一目の始まりに、彼は生徒たちにまず体操を行わせた。そこには瞑想の要素も含まれていた。この体操によって、彼らを縛るわだかまりやこわばり、そして「アカデミックなもの」すべてが取り除かれ、来るべき体験を受け入れる態勢が整う。体操には3種あった。
「第1に、手足を動かし、全身を屈伸させること。このとき背骨の運動がとても大事になってくる。第2には、立ったり座ったり横たわったりした姿勢で、極力体を動かさずに保つこと。そうやって思考を集中させると、徐々に緊張がほどけてゆく。内臓をリラックスさせるには、このやり方しかない。緊張をほぐし、体をバランスよく調和させる方法の第3は、声の振動を利用するものだ。生徒はまず、発声法の練習をしかナればならない。体のどの部分で声が振動しているか、分かるようにならなければいけないのだ。ハミングの音は、たとえ小声であっても、強い密度をもつものだ。声に心臓の力を込めると、驚くべき効果が発揮される」。
同じく朝の時間に行うものとして、自由な形を描いて手をほぐす「10分間素描」が、プログラムには盛り込まれていた。
眼を閉じたまま、あるいは両手を用いて素描する、といったことも行われた。
イッテンの日記をひもとくと、呼吸練習や体操についての最初の覚え書きは、すでに1918年の時点で現れる。これらはそもそもの当初から、彼による授業の構想の中で重要な要素となっていた。「将来はひとりひとりの生徒についても、この面をさらに伸ばしていこうと思う。それがすなわち、各自をおのれの内奥の道へと促すことになるからだ」。呼吸練習と体操を、イッテンはその後もずっと課し続けた。
バウハウスでイッテンに学んだマルティン・ヤーンは、当時を回想して語っている。「週に一度、イッテンの素描の授業がありました。授業の始めにはきまって、緊張をほぐす練習をします。運動しながら素描をするのです。動かすのは、チョークを握った指だけではありません。全身を思いきり使ったスウィングとリズムを、紙の上にしるしていく(紙の上をチョークで走るフィギュアスケートのようなもの!)、
これが大事な点でした。[・・・]完全に没入することが必要です
。当時のわたしたちにとって、
すべては新たな啓示でした
。ずっとあとになって、わたしにはやっと分かりました。これらは、
いにしえからの永遠の真理だったのだと
。ことによると、それは見分けられぬほど草に覆われてしまっているかもしれない。けれども、ずっと変わらず真理であり続けていたのです」。
イッテンが生徒に教えようとしたのは、何よりまず、たゆまぬ練習を通じ、手仕事の能力を動員して、全感覚を瀬え研ぎ澄ませることだった。感覚はきわめて鋭敏になっていき、精神と肉体はゆるやかに解き放たれてほとんど自我の解除にまで至る。そのとき意識は無意識と融和する。・・・マクシミリアン・デブス、1960年
■身体・運動・形態
イッテンにとっては、生徒がどのような身体の姿勢をとるか、またどのような身体意識をもつかが、後に続く演習全般にとっての重要な基礎をなしていた。「制作者の身体は道具だ。そのはたらきによって、創造精神は自らの造形を生み出すのである。
身体機能の質と量が、そのまま造形の質と量を規定する
。身体とその機能を意識的にコントロールすることはまさしく、創造する人間がよい仕事をなしとげるための基盤にほかならない。背筋を伸ばし、肩の力を抜いて、平静さのうちに意識を集中させた状態に感情の基調を定める。それはつまり創造的な意想を受け入れる用意を整え、それを忠実に実現することを意味する。」。円形と無限大のシンボルの形の例を挙げて、イッテンは1930年に「円をその本性に即して描くには?」というタイトルで、どうしたら形態に感応し、それを体験できるのかについて説明している。「まずわれわれのうちに、均等な丸みをもって運動するものの感覚が抱かれねばならない。そこから明確なイメージが像を結び、身体のメカニズムを作動させる。感性を全開にし、創造的エネルギーを充填して円の姿を思い浮かべること。そうすればきっと、手と腕は円の本性を忠実に反映して、一回転の軌跡を描くだろう。体中に、この回転の感覚が目覚めている必要がある。どんな形も、それ固
有の、特徴的な運動作用から描かれるべきだ。
掲載した写真の位置で取られている[イッテンの]手つきは、円を右回りに描くときにのみ有効なものである。円が回転するに従って、関節にも必然的に同様の回転が起こったに違いない。このように身体で回転を感じ取ることによって、円の喚起する感覚は、硬直した視覚的・知的な把握から解放される」。・・・「8の字の印∞を描くときの、各ポイントでの手つき。形態の本性に即した素描の表現を理解するために、正方形と円、そして次にそれらから派生した形を措いてみる。これらの形を、眼の前の空間に大きく描くのだ。するとやがて、内実が正確に満たされるときほど、すぐさま形態のもつ性質の根本的な違いが立ち現れることが、見て取れるだろう。波形であれば軽く流れるような緩やかさ、雷文であれば固くて鋭い荘重さ、といった具合に。ある形態を描くときの手つきは、その形態の運動を逐一反映していなければならない。雷文の直角は、手を正確に90度折り返すことで、はっきりと感じ取れる表現になるべきなのだ」。
運動・体験・形態の同一化
、つまりは身体・魂・精神の一体化について、イッテンは1921年、ブルーノ・アドラー編『ユートピア現実のドキュメント』に寄せたテキストで詳述している。「
運動の性質は形態の性質に等しい
。
このことは、われわれの全探究の基本原則のひとつである
。生命あるものはみな、人間に対し、運動という手段を通じて自身を明かす。生命あるものはみな、形態のうちに自身を明かす。それゆえ形態はみな運動なのであり、運動はみな形態のうちに明らかとなるのだ。芸術作品を体験する。運動は形態を生み、形態は運動を生む」。ヴィックが推測するように、すでにシュトウツトガルト時代、つまりシュールレアリストらが「
心理的オートマティスム
」をプログラムに掲げる以前に、ヘルツェルを通じてイッテンは、
「創造的オートマティスム」の意義を洞察するようになり、それを創作の重要な原動力と考えるようになったらしい。
イッテンの初期作品のうち、1915年から1919/20年にかけてのものには、際立って特徴的な運動の要素が共通してみられる。
■授業のテーマ
イッテンの授業では、さまざまなテーマが演習課題となった。その範囲は幅広く、個々の物品から、静物、風景と点景人物、街、群集、美術作品、気分、感覚、運動、幾何学的形態、そして空間状況にまで及んだ。これらはイッテンが自身の作品で取り扱ったものでもある。
ひとつのテーマがひとつの目的・方法に対応している訳ではなく、同じテーマがさまざまな角度から探究された。写実的再現、構図線の分析、色彩分析、リズムへの共振、幾何学的構造の抽出、形態分析、空間分析といった具合に。個人的にもっと深めてテーマに取り組んでもらうため、授業以外にもいわゆる「月間課題」というものが与えられた。「自分であれこれと考えてみるための例題。月ごとに、しばらく時間をかけて生徒が任意に家で行うための課題が出された。例えば、遠足、動物園、自分の部屋、サーカス、カーニバルなど」。
■作品と教育
イッテンの教育活動を方法論的に分析しようとする試みでは、作品の価値評価は保留されたまま、授業と作品との間に平行関係が措定される。例えばローツラーはこう書く。「教師と芸術家というふたつの領分は、互いに切り離せるものではないし、また対立し合うものでもない。作品と教育は緊密な一体をなし、互いの原因となりまた結果となる」。だがそうした状況から、イッテンは逃れようとしたのだ。1963年12月12日、日記にこう記した時点では。「何百人もの生徒が、わたしに美術表現の手段について熟考を促し、方法を練り上げさせた。けれどもわたしはと言えば、方法なしに制作しているのである」。
とはいえ、晩年の彼が芸術家として、教師であることから離れようと試みたとしても、ニコラ・ボルガー=ケヴュローが詳細に論じたように、作品と教育の両者は、やはり結び付いたままなのだ。そう言うことがどのレヴュルまで妥当なのか、それについては、個々の方法やテーマに即し、選り抜かれた作品や著述を参照することで、ひとつずつ明らかになるだろう。
ものみなに通ずるコントラストの教え。わたしの造形論はそこに始まり、そこに帰着した。・・・ヨハネスイッテン、1966年(78歳)
■コントラスト
■コントラスト研究
イッテンの造形論・形態論の基礎
には、常にふたつのものがある。それは彼が教育活動に携わり出した当初から、いくつもの学校を経ても変わることはなかった。そのふたつとは、コントラストの原理と、過去の巨匠が描いた作品の分析である。創作活動の方では、すでに初期・・・シュトウツトガルトでヘルツェルに触発されて、彼はコントラストの問題に取り組んでいる。いずれも1915年に制作された2点の油彩、
≪水平・垂直》と≪奥行きの階層》
は、イッテンのコントラスト論を要約しているようにみえる。そこでは、対極的な形態や方向性のコントラストが、鮮やかに輝く補色コントラストと組み合わされている。「
コントラスト効果(対極のコントラスト)
。人間は感覚器官の助けを借りて、現象界を認識する。眼前にある具体的な形態が知覚認識されるとき、それは必ず感覚器官という門を通る。そして感覚のはたらきは、コントラスト効果の法則と結び付いている。
つまり、われわれが明るさを見るのは暗さが対置されているからであり、大きいと感じるのは小ささとのコントラストによってなのだ。形態と色彩の領域では、この事実は大きな意味をもっている」。「ある形態を、他と切り離して
それだけで眺めると、多かれ少なかれ生気を欠き、硬直してみえる
ものだ。しかし、これがもうひとつ
別の形態と関連づけられるや、両者の間には内密な生命が息づき始める。
ふたつ、あるいはそれ以上の形態を組み合わせ、そこから
高度な生動感を導き出す
ことは、感受性に恵まれた創造的な人間だけが、能くなし得ることである。が、いわゆる生まれながらの芸術家と同じように本質をつかむ能力は、たとえ多くの場合、未だまどろみの状態にあるにすぎぬにせよ、疑いなくすべての人間に具わつている。コントラストの基本を厳密に、本質に向かって求心的に究めるならば、生徒は、知力では解き明かしがたい神秘、色と形の生命に満ちた世界に、通じることができるようになるだろう」。
授業で生徒は、ありとあらゆる
「対極の」コンポジション
を、個別に、あるいはいくつか組み合わせて研究するよう求められた。大一小、長一短、広一狭、濃一淡、黒一自、多一少、直線一曲線、軽一重、透明一不透明、連続一断続、流動的一固定的、甘一酸、強一弱、声高一小声、といった具合である。イツテンによれば、
コントラスト効果というこの方法は、生徒みなが、造形活動をさらに発展させるための基礎としてまず知っておくべきものだった。
これを踏まえることにより、実地の訓練によってのみ身に付く事柄が適切に組織されていく、と彼は考えたのである。
■濃淡を段階づける練習
造形芸術家の表現手段となるコントラストのうち、絶大な効力を発揮するものの筆頭は、イッテンによれば
明暗のコントラスト
である。「もし光と闇がなければ、人間にとっての感覚の要、すなわち眼に対し、現象界は閉ざされたままだ。
明暗のトーンを音楽的に響く和音として
、一体となってはたらきかけるものとして、ある程度まで使いこなせるようになる。
第1の練習
:
濃淡を階層化したスケールを作成
する。段階づけられた各部分の幅と高さは予め決められているが、その間を白や黒の線で区切ってはならない。また、段階ごとの明度の差は一定に保ち、色味も変化させずにスケール全体がモノトーンに収まるようにする。
濃淡に対する感覚
に・・・光についてと同等に、陰影についても、
質・量・強度
といったことに注意を払わねばならない。・・・2本の道を通って、
明暗の感覚
はもたらされる。1本は、光と影それ自体の効果(静物を参照)、もう1本は、物体の各部分に応じて生じる明るさと陰りの効果である。・・・
現象界での知覚はすべて、関係性の法則に支配される
」。明暗のコントラストを見極め、また表現する力を養うため、生徒には、
黒・白の間の濃淡を段階づけるスケールの作成
が課せられた。イッテン・シューレの生徒が伝えるところによれば、
44段階
も
の濃淡が判別
できるものが作られたこともあったという。
形態を意識することで明暗研究が本題から逸れてしまわぬよう、イッテンは・・・「色彩コントラストの習得の際と同様・・・階層化の作業を、まずは予め設定された正方形の枠内で行わせた。その後で、花、静物、動物といった自然のモチーフがコントラストと濃淡の階層によって分析され、さらに独自のコンポジションへと移し換えられていく。また、様々に背景を変えてあるひとつの対象を描く、という演習課題によって、濃淡の階層の効果や、その組み合わせの可能性が検証された。
「ではこれから、いくつかの練習について説明しよう。これによって生徒たちは、まず
明暗の質に対して敏感になり
、さらには個人差があり、12段階から60段階までの幅がある。この練習を行うことで、眼の感度は2、3倍に強化される。その上、これは描写技術を向上させるのにもよい訓練となる。
第2の練習:
単純な明暗のコンポジション。同じ大きさの正方形を横に四つ並べたフォーマットを用いる。この四つ、ときにはそれ以上の正方形に、明度差(音程)を施し、明暗の響きないし和音を作り出す。濃淡の組み合わせがコントラストを生む場合あるいは協和する場合の、それぞれの効果が研究できる。
第3の練習
:
第2のものと同様だが、正方形の並びが水平・垂直の両方向に広げられる。平面が拡張していく感覚が著しく呼び起こされる。
第4の練習:
第2の練習の発展。正方形の幅はもはや一定ではなく、濃淡の効果がもたらす質に応じて伸び縮みする。この練習ではふたつのコントラストが作用する。ひとつは明暗のコントラスト、もうひとつは、そこから導き出される広狭のプロポーションのコントラストである。この練習の際、生徒が最初にプロポーションを決めてから、それを明暗で階調づけるようなことがあったら、それは言語道断だ。濃淡の調子とその空間的広がりとは、あくまで不可分な一体として見られ、感じ取られなければならない。
第5の練習:
第4の練習を、第うの練習と同じ要領で押し広げる。
第6の練習:
現実の対象を明暗で捉え、それをコンポジションとして表すという課題へと移行する」。
■コンポジションの練習
コントラストを応用するためのテーマ
として、イッテンは様々なテーマを設定した。例えば、大都市と果実、明暗のコントラストの中に置かれた果実、あるいは建築のコントラストなど。そして最後に任意のコンポジションが制作された。
また、コントラストの分野でのコンポジションの練習にあたってイッテンは、高い山と一軒の小さな家を描く、という課題を出している。むろん、“ありふれた光景’’を描けというのではない。効果的な大小のプロポーションを探り、それをこのテーマに当てはめる、というのがここでの眼目である。これについてイッテンは、1930年に刊行された『イッテン日記』の中でも触れている。
このテーマを授業で取り上げたのと同じ時期、イッテンは自らの作品でも山と家を描いている。1928年の彼の日記には、この設問についてのコメントがスケッチとともに記されており、問題を適切に解くにはどうすれば良かったのかが述べられている。それによれば、家は山との関係で出来るだけ小さく描かれるべきであり、結果、山は大きさの感覚を失わず、大地の盛り上がりそのものとして知覚される。1年後、同じ題材に基づく水彩が制作され、
1929/30年には油彩による大作≪山》
が描かれるに至る。≪山》は、
ベルリン時代のイッテンの代表作のひとつだ
。この作品はコントラストという観点からだけでなく、
日本絵画への関心にも基づいて制作されたという
。
■服飾モードへの応用
イッテンはクレーフェルト織物学校でも引き続きコントラストの練習を実践し、それを布地の模様に応用させた。生徒たちは、太さの異なる線や面、また直交する線や面を用い、実験を行った。続いてそれは色彩コントラストとも組み合わされ、格子模様として結実するのだった。
新しい模様を見つけ出すのにたいへん有効だったのは、例えば正方形といった既存の幾何学的形態から、ポジネガをなす形態を派生させ、それを反復して隣り合うように並べる、という方法だった。この方法によって、生徒のひとりディアマンティディは1936年、のちに有名になった龍のモチーフを案出している。「チェス盤、この完壁な平面コンポジションでは、面はただ一種類の、自己反復する形態に分割される。
面を余さずに分割できる形態をさらに挙げるなら、長方形、菱形、三角形、正六角形となる。これらの基本的な平面分割をもとにして、新たな形態をいくらでも導き出すことができる。ポジ・ネガで反復される同一形態は、平面を分割する形態として最も厳格なものだ」。
幾何学的な形態に一部変化を与え、ポジーネガをなしつつ自己反復させたモチーフを、イッテンは1935年に自作でも試みている。このようにして開発されたモチーフが、
油彩の大作≪海辺の鳥たち》
の出発点だったのだ。
何枚ものスケッチや習作を重ねて彼は、密に群れをなして飛び交いつつ上空へと向かう鳥たちをどう描写するか、その可能性を探った。このモチーフは、1930年にイッテン・シューレで出版された『イッテン日記から窺い知ることができるように、
エジプトの装飾に起源をもつ
。それをイッテンは鳥の飛翔に結び付けたのである。もうひとつ、同じ年に彼が同様の方法で作り出したモチーフがある。
それはチューリップの花の輪郭を様式化
してかたどったものだ。
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