ドガ(彫刻)

表紙73-1

土方定一

 サンパウロ美術館の厚意によって,同美術館所蔵のドガ(1834年7月19日 – 1917年9月27)の彫刻が日本で展牧されるにいたったことは,なんとも,よろこびに堪えない。ことに,エrガー・ドガが,はじめて公共の場所に,その彫刻のひとつを1881年の第6回印象派展の会場に出品した「14歳の小さな踊子」が日本で公開される外,一点,欠けている外は,すべてのドガの彫刻が見られることである。ドガの「14歳の小さな踊子」をぼくがはじめて見たのは,日本の敗戦直後,パリのコンコルド広場の「印象派美術館」の二階の会場であった。ぼくは,このとき短かいバレエ用のスカートを布地のままで附け,ボディスはブロンズに着色されている「14歳の小さな踊子」のブロンズ像を見たとき,この踊子像の端正な立像と,布地のままのスカートをつけた新鮮さに惹かれたことを忘れない。だが,この「14歳の小さな踊子」が第6回印象派展に出品されたときは,全体は蜜蝋で制作されて着色されており,髪は実際の髪で,それにリボンを結び,薄織りのチェチエ,リンネルのボディスをつけ,それに揺子の上靴をはかせている踊子像であった。それが現在のように,リボンとスカート以外はすべてブロンズに,1921年,オリジナルから鋳られているのであるが,その原像はなかなか想像し難い。この「14歳の小さな踊子」像を見たへイヴメイヤー夫人は「ドガはいまや,ときの英雄となった。ドガの名はすべての人の口の端にのぼり,かれの彫刻は美術界という美術界で議論されている」と書いているように,これまでの彫刻の概念からはずれた,このドガの彫刻は,話題というより非難たるものがあった。

 この14歳の少女はベルギー出身のマリー・ファン・ゴーテンという名の少女で,ドガのアトリエや,ドガがしばしば訪れているヌーヴェル=アテネのようなカフェで,親しいモデルで,かの女のオペラのデビューは8年後であるから,1880年に14歳であったと思われる。かの女は自分の黒い長い髪が御自慢のようで,ドガがかの女の踊っているところを描いたデッサンの背ろ姿は長い髪を垂らしている。

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 このとき,ルノワールとホイッスラーは別として,ユイスマンスだけがなんのためらうこともなく絶讃している。ユイスマンスはドガは「最初の一事で,かれは数年前に絵画の因襲をふりすてたように,彫刻を大胆に近代化した。」とし,次のように書いた。「躍動しているポーズ,動きをとらえることがドガ氏の偉大な個性的達成であるが,ドガ氏の出品作の興味『14歳の小さな踊子』という題名の彫像に集中されてしまった。観衆は驚き不安にさえなり,顔をそむけた。この彫刻の驚嘆すべきレアリテは明らかに不快な念を起した。数世紀にわたって手本とされてきた,冷たく,汚のない純白で,もったいぶった豪華さをもつ彫刻のこれまでのすべてのわれわれの概念は無くなってしまっている。実際に初めからドガ氏は数年前に絵画の伝統をふりすてたように,彫刻の伝統を棄てて古いスペインの巨匠たちの方法に立ち帰って,ドガ氏はれらの方法をドガ氏の才能の独創性によって個性化し,近代化している。洗練されていと同時に野蛮で,その不自然なコスチュームと動いている筋肉によってきづき強められた着色された肉体をもつこの小さな彫像は,わたしが知ている近代彫刻の言語を創る唯一の真実の試みである」。

 ドガがこの「14歳の小さな踊子」の構想を彫刻しはじめたのは1879年(45歳)で,この小さな少女は,オペラの幼年・バレエ・グラス出で,まだか弱ぎこちない肉体であったが,ドガはかの女のすんなりした脚と平べったい胸部に組みあわされた腕にひきつけられ,チュチュをつけた,また裸のの女をデッサンしたと思われる。ドガはかの女を立たせ,片方の足を前し,両手は背ろで握り,或は倣慢なような漠然とした表情で上を向いてるデッサンのシリーズを描き,もう,このときは彫像の準備をしていたとは明らかで,はじめは構想している彫像を制作する前に二つの小さな」子像を制作している。これは裸の若いモデルと衣服をつけた若いモデルニつの彫像であり,その型(等身の4分の3)の点からいっても,この彫像を出品するドガの意図からいっても,ドガが彫刻家として公衆の前に現われた点からいっても,前段階をなす作品として重要な作品といっていい。

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だが,ドガはこれ以後,公衆の前に彫刻を示すことはなかった。

 エドガー・ドガがいつころから彫刻を制作しはじめたかの消息はなにもこかっていない。が,恐らくドガは平面の芸術としての絵画と,立体としての彫刻との論理的なつながりを示している薄浮彫からはじめたであろう推定されている。また,ドガの友人である彫刻家ポール・バルトロメの回想によると,ドガは1870年以前に,粘土による大きな薄浮彫を制作していて,それは半身大の若い娘が林檎を集めているところを浮彫りにしたものであったといっている。また,ルノワールは「わたしはドガのアトリエで挨のなかでくずれるままにしてあった薄浮彫を見た。それは古美術のように美しかった」と語っている。この作品を1881年の夏にドガは粘土で制作している。このことは,保護者と一緒にナポリで暮している,いとこのリュシー・ド・ガスにあてた手紙からも推定できる。そして,この手紙は,この薄浮彫のなかの4人の娘のひとりはリュシー・ド・ガスをモデルとしており,いまひとりの娘はアンヌという娘で,おそらくドガの妹のマルグリットの娘のジャンヌ・フェヴルと想像される。このとき,フェヴルはリュシーより,ひとつかふたつ若く,14歳であり,アンヌを「一層,若く,少年らしく」したと手紙に書いている。それはともかく,ドガはこの場合も,一枚の紙に二つのデッサンを描き,1880−1884年のノートブックに数点のスケッチを描いている。

 ドガが1881年の夏に,「林檎をもぐ娘たち」のような大きな薄浮彫を制作しようとした動機について,セオドア・レフ教授は,次のような興味ある推定をしている。「14歳の小さな踊子」が少くとも仲間の作家と批評家に好評であったところから勇気づけられたドガは,この大作を試みたのであろうことがまず考えられる。次に,同時代の二人の指導的な彫刻家であるロダンとダルーがこの時,モニュメンタルな浮彫を制作していた。ロダンは1880年に注文を受けた「地獄の門」の大作を,ダルーは「同胞愛」と「ドルー・プレゼに答えているミラボー」を制作していて,この二つは1883年の展覧会に出品された。ドガが個人的にロダンを知ったのは1890年以前ではなかったが,ダルーとは以前からの知りあいであった。ロダンとダルーよりも,この当時,ドガを感動させたのは自分と同じように画家=彫刻家であるオノレ・ドーミエによって制作された荒けずりに肉づけされた,力強い浮彫「移住者」であり,ドガをして大作を制作する刺戟となった。ドーミエの作品は,それ以前に制作されたものであるが,ドガは1879年のドーミエの回顧展で見たことはいうまでもなく,ドガはその回顧展に展示されたドーミエの石版画のひとつをコピーしている。そのうえ,「移住者」の材料の石膏が粘土の色で色づけされているのは,ドガ自身の粘土の浮彫に似ていた。

 ドガがこの時期,制作した作品で,踊子以外の作品では,「街を歩いている女」としばしば誤って呼ばれている「女生徒」がある。これは見られるように,書物袋を持ち,一方の手で背ろにたはねた髪をもって歩いている娘である。この主題は,この当時,ポピュラーな主題で,ルノワールはパトロン,ポール・ベラールの息子を「小さな男生徒」としての肖像を描いており,ギヨーマンは「男生徒」という題の作品を1880年の印象派展に出品している。この「女生徒」一点だけがサンパウロ美術館の所蔵に無いために遺憾ながら展示できなかった。

 ドーミエとドガとの関係の重要な推定とともに,推定でなく,ゴーガンとドガとの興味ある関係が,ドガの肖像彫刻に見られる。ドガの「14歳の小さな踊子」が展示された1881年の印象派展にゴーガンは「小さなパリっ子」と題する胸像を出品している。これはドガの推薦によらてゴーガンが印象派展に出品する機会を得たもので,ゴーガンのこの小さな胸像がドガの注意をひかなかったとは考えられない。このとき,このゴーガンの胸像を賞賛したピサロにあてた手紙のなかで,ゴーガンは三人の作家がこのとき彫刻に興味をもつにいたったことを書いている。「確かに,彫刻にた対する熱狂が高まっている。ドガは馬の彫刻を制作しているし,あなたは牛の彫刻をつくっている」。そして,ゴーガンのこの胸像を1881年の春に見たドガは同時代の服装をした若い女の同じような胸像を,すでに全く天才的に二次元の映像で描いたタイプに従って,ゴーガンよりも整理された形で制作しようと決心した。ドガが若い,経験も浅いゴーガンの影響を受けたなどということは一見,ありそうに見えない。ドガははじめからゴーガンの芸術のもっとも忠実な支持者であり,またドガは自己のコレクションにゴーガンの作品を買った最初のひとりであり,そのなかのひとつは1881年にゴーガンが出品した絵画であった。翌年の印象派展にゴーガンは12点の油絵とパステルと,このとき3歳になった息子のグロヴィスの胸像を出品している。このときも性格化の巧みさと表面の部分のレアリスムがドガに訴えるところがあり,ドガはこのグロヴィスの胸像を記憶で,ノートブックに描いている。このグロヴィスの胸像の頭部は着色した蜜蟻を使用しており・・・トルソーの部分は木を刻んでいる・・・これは明らかにドガの「14歳の小さな踊子」を思わせる。ユイスマンスは,このとき「着色した蜜蟻の技術はドガ氏が現代の彫刻に適した唯一の方法のひとつを発見したものであつた」と書いている。

 ドガとゴーガンとの作品のうえでの関係は,次にゴーガンが今度はドガの絵画によって刻んだひとつの彫刻がある。ゴーガンの1884年に刻んだ木彫の箱を飾っている二つの浮彫で,ドガの「舞台上のバレエのリハーサル」(1874年,パリ,ルーヴル美術館)によっていることを示しているが,ゴーガンがドガの人物の形態をそのままに採用しているわけではないことはいう圭までもない。その後もゴーガンは1886年ころの陶器の壷の飾りにドガの半身硝子によって刻んでいる。この踊子の浮彫は「ゴーガンの作品のなかに象徴主義的な意図を採用した最初の例」といわれている作品である。ここで,ドガのこの期にしかみられない3点の肖像彫刻と,胸像にかえると,1884年の夏,ドガがノルマンディのメニル=ユベールにあるヴァルパンソン家に滞在しているとき,同家の娘オルタンスの胸像の制作をする破目になった。「林檎をもぐ娘たち」と同様に粘土で制作され,今度は粘土に小石をまぜて肉づけがはじめられた。だが,その結果は,ドガの努力にもかかわらず,完成した胸像を石膏にとろうとするとき不幸にも粉々となって毀れてしまった。制作のはじめからドガは複雑な技術的問題と戦わねばならず,ドガの手紙は経験と専門的知識の欠けているのを嘆いている。前に三つのドガの胸像が現在,残っているといったが,その制作の精確な年代と誰の胸像かもわかっていない。だが,ドガはドガの友だちの他の多くの肖像を彫像にしたにちがいなく,少くとも,他の報告がある。ひとつはドガの友人,ヴェネツィアの画家ザンドメネギの肖像であり,ルノワールが「すぼらしい」と思った肖像彫刻であるが,これは未完成であったと推定されている。

 アングルの弟子であったドガの画風は1865年から1870年にかけて徐々に変化しているといわれている。普仏戦争のとき,パリ防衛に参加したドガほ,すでに自己の属していたブルジョア階級の社会が崩壊しつつあることを直感し,これまでの歴史画,また肖像画よりも,より現代的な主題を求める気持になっていた。この決定的な契機となったのは,「草上の昼食」,「オランピア」の画家,マネであり,マネを通じてモネ,ピサロ,パジール,セザンヌと知りあいになり,かれらはマネを中心としてパティニョールの大通り(現在,アヴニュ・ド・グリシー)のカフェ・ゲルボワに集まり,このサークルは版画家プラックモン,デブ一夕ン,画家ファンタン=ラトウール,ギメー,コンスタンタン・ギース,また批評家,作家アストリュック,デュランティ,ビュルティ,ゾラ,テオドル・デュレなどがときに参加していた。マネと印象派の画家たちについては,よく知られているので,ここで説明するまでもないようだ。ギュスターヴ・クールベの主張に従って戸外にでた印象派の画家たちは,次にマネの周囲に集まり,これまでアトリエのなかで構想されていた歴史画の代わりに,戸外の風景を主として描き,そこに影のなかにも色彩があることに驚嘆し,光線が現出する色彩現象とそのマティエールに絵画制作の主要目的を見ることになった。同時代人ではデュランチィとゴングール兄弟の理論がドガに強い影響を与えたようで,デュランティの肖像を1879年,パステルで描いており,ゴングール兄弟の場合は,その小説「マネット・サロモン」がことにドガに影響を与えた。ゴングール兄弟も,デュランティと同様に,芸術家は現代の実存とパリが提供する新しいテーマとモティーフを描く義務を持つべきであるとしている。1874年にエドモン・ド・ゴングールはドガを訪問しており,ドガについて,次のように書いている。「わたしの知っている限りでは,ドガは現代生活の雰囲気と現在の精神をもっともよく把えたひとりであった」(ゴングールの日記,1872-77年)。

 ヴァレリィが端的に語っているように,ドガはアングルの教訓とドラクロアの不思議な魅力に板挟みになって苦しんでいるうちに,「時代の趨勢は決まって,現代生活を描写することが絵画の目的となった。大規模な構図は流行らなくなり,ギリシア人やトルコ人や騎士やキューピッドの代りに,何処の壁にも風景画が掛けられた。そしてこの画壇における風景画の制覇は,数年にして主題の観念を覆えし,絵画における精神活動の余地を,マティエールと陰影の色彩とを研究する,狭い範囲に限ってしまった頭脳は純粋に網膜となり,画筆によって,美しいシュザンヌを前にした数人の老人の感情を現すことや,巨万の富を辞退する名医の廉恥心を描くことは最早考えられないこととなった。

 同じ時期に当って,学者の研究や世界探検の結果は,新しい享楽や懐疑の種を斎した。今まではなかった,或は忘れられていた数々の新しい物の見方が画家に提供された。プリミチフ』への好みが人々の口に上り,古代および中世紀の画家たち,ギリシア人やイタリア人,フランドル人やフランス人が持てはやされると同時に,ペルシャの細密画,それから殊に,日本の木版画が観賞され,研究されるようになった。ゴヤやグレコも再発見された。そして最後に写真術が到来した。

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 これらがドガに課せられた諸問題であって,彼はすべてを理解した故に,すべてによって苦しめられた」(ヴルリィ,吉田健一訳『ドガに就て』)。ここにいわれている日本の木版画の影響は,ドガばかりでなく,印象派の画家たちから,ポール・ゴーガン,フィンセント・ファン・ゴッホと,広汎な影響を与えたことは,すでに日本でも詳しく研究されている。その影響は,印象派の影の色彩,ゴーガンの色面の構成の理論から,ロールッグ,またドガの画面のコンポジションにいたっている。たとえば,前景に人物を大きく置くコンポジションである。ぼくはかつてロールッグのコンポジションについて,次のように書いたことがある。「ヴェネツィア・ビエンナーレ展の特別陳列として,ニューヨークのルードゥィヒ・チャレル・コレクションのデッサン,リトグラフの三石余点のすばらしい展観があった。ぼくはどんな小さな作品でも神経の通って緊張しきっているこの厖大なコレクションのなかで,力強く単純化された形態が大胆に構図され,そこにシャ・ウー・カオが立ち,ジャヌ・アヴリルが踊り,その前景にロールッグの作品の特徴となっているシルエットにされた人物が置かれているのをつぎからつぎへと見ながら,また,そこには形態の大胆な構図に一致した明るい大きな色面の調和を持つポスターが点綴されているのを見ながら,ロールックのたったひとつの休息所であった夜のモンマルトルの人間群がロールッグによって,本当に人間的に、そういう意味で大きく威厳にみちて描かれているのに,改めて驚嘆した。

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 ドガの「レースで」(パステル,1883年,カナダ,オッタワ,美術館)でも,「カフェ・コンセール,犬の歌」(1875−1877年,グワッシュとパステル,ニューヨーク,ホレース・ヘイヴメイヤー・コレクション)と挙げはじめると際限がない。ジョン・リウォルドの『印象派の歴史』に附けられている年譜によると,ドガは1861年に馬と競馬の主題に興味を持ち,すでに翌年にロンシャンのレースを描いており,1867年にはじめて音楽家,オペラの場面,後には踊子の主題に興味を持ったとある。それ以後,馬,レース,騎手,音楽家,踊子,舞台をはじめとして,つづいてカフェ,労働者,せんたく女,婦人帽子屋などを描きつづけたことはいうまでもないことだ。ヴァレリィのいう写真術については,ドガの馬の描写とことに深い関係をもつ。イギリス美術のなかで,馬,または競馬の絵画は肖像画と同様にイギリス独自の国民的絵画となっているが,18世紀の終りまでは大陸では流行しなかった。が,まもなくイギリス絵画に刺戟されてカール・ヴュルネの絵画の主題となり,次いでジェリコーによって描かれた。19世紀の小説ではバルザッグからトルストイにいたるまで競馬は重要な役割を演じ画家たちも社会生活の重要な部分となったこの主題に関心を持つようになった。マネは競馬の優雅な社会的光景を指摘しており,ドガは馬の動いている肉体を鋭く観察し,ことにドガの眼は騎手にそそがれ,またしばしば観衆の世界を描いている。1881年9月27日の新聞「ル・グローブ」にイギリス人,ムユイブリッジ少佐のギャロップで駆けている馬の特有の姿を示したスナップ写真が複写されたとき,ドガはこれを動きの研究の案内として使った。イギリスの版画のなかでギャロップして駆けている馬が前脚をのばして描かれているのは,誤りであったことが明らかとなった。ドガの絵画作品でいえば「競走の前」(1878−80年)など,動きの一瞬を集約して いるいい例である。

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 ドガが馬の彫刻をはじめたのは,すでに述べたように,1861年ころからであるが,P・−A・ルモワーヌの回想によると,ドガは馬の制作の専門家であつた彫刻家のキュヴリエと仲がよく,このキュヴリエは1865年と1870年のサロンに蜜蝋で制作した,正確にして優美な騎馬像を出品しているが,これらの作品の目新しさは人々を驚かせ,ドガに影響を与えたことは疑いない。ドガはそれ以後,ドガがバレエを観察したと同じ態度で馬をモデルにしようとし,馬をかれの好きな角度で蜜蝋で制作し,それをかれの絵画作品のモデルとして使うことができた。

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 この推定があたっているとすれば,蜜蝋によって肉づけした馬の彫刻と絵画作品とのなかに描かれた馬との間の相似が考えられてくる。馬の彫刻を絵画作品の補助としながら,ドガはこの彫刻の表現のなかに新しい可能性を発見し,それが後には彫刻を制作することがそれ自身,ひとつの目的としてドガを励ましたにちがいない。1870年以前の2,3年,ドガは競馬場をしばしば訪れ,それをスケッチしないで記憶のノートを思いだすことにしていた。ドガが教条とした言葉に「人は同じ主題を10回も,いや100回でもとり扱わねばならぬ」とある。ドガはさまざまな技術を自由に使ってかれの主題にさまざまな角度・・・線,色,量塊から近づいている。

 ドガが馬を愛する主題としたのは,馬のきびしく訓練された結果として生じた優雅な形態,典雅な誇りある形態であった。ヴァレリィは,次のように書いている。

「競争馬はドガにとって絶好のテーマであった。それは時代と性格とが彼に要求せしめる諸条件を全部満足させた。何か純粋なものを近代の現実のどこに発見したらいいのか。ところで,レアリスムと様式,優雅と厳密とが,競争馬の贅沢なまでに純粋なありかたの中に一体化していた。それに,彼のような洗煉された芸術家,長時間に亙る準備と精密な淘汰とを好む意識家にとって,純血種の馬という生きた傑作ほど魅惑的な題材が,他にあるはずがなかった。ドガは良馬を愛し,理解した結果,彼とは全然異った芸術家でも,彼らの作品に正しく模写された馬があれば,ドガは彼らの価値を認めた」(前掲書)

 ドガの馬は動きのある馬を徐々に制作し,勇敢にどの脚も地につかない速歩の馬の瞬間を把えようとした。ドガは情熱的に馬の革ひもの動きの研究にまで没頭するにいたり,1871年のパリ包囲に際して殺された友キュヴリェの死後も馬を彫刻することを止めなかった。

 ジョン・リウォルドはオルタンス・ヴアルパンソンの消失した胸像については,たくさんの報告があるが,それに比較するとドガの後年の彫刻について,われわれは実際になにも知っていない、ことにドガの動きの研究についてなにも知っていない,と書いている。どういうモデルがポーズしたかはわからないが,少くとも1900年ころからドガがモデルを使ったことは確実である。だが,ドガは「14歳の小さな踊子」以後は,自己の彫刻のための準備的なデッサンはしなかったように思われる。そして,ポーズの型も限られた型に一層,好みが集中され,デッサンと彫刻とが関係しあうようなことがなくなり,デッサン家は紙に托し,彫刻家はプラスティックな材料に托しているように思われ,同時にかれらを支配している問題の解決は厳密に材質の限界のなかで行うことに努めた。ドガはしばしはかれのモデルに同じような,多かれ少かれ困難なポーズをとるように頼み,1910年ころ,たとえば,ドガはモデルが左足で立ち,右手で右足を背後から持つような彫像に着手することがある。だが,ドガの彫刻家としての主要な関心は当然に,量塊と運動に向けられており,踊子のすべての彫像は動きをさがすドガの情熱を語っており,すべては一瞬を不動のものにするポーズが把えられ,そこでまさに完結し,次の動きに移ろうとする停止したシテュエーションである。ボードレールの言葉を借れば,ドガは「物質的な調和としての,動きを加えた美しい建築として,人体を愛した」

 ドガは1885年以後,視力の衰えによって制作がさまたげられはじめた。それにもかかわらず,ドガは方々に旅行に出ている。たとえば,1887年にはポルディーニとスペイン,モロッコに,1890年にはバルトロメとブルゴー ニュに旅行している。だが,1892年以後,ドガの視力は危機的な状態となり,油絵を描くことを断念せざるを得なかった。1904-06年にドガは完全に盲目となっていたと,ヒュッティンガー,その他の研究者は書いているが,ドガの姪であったジャンヌ・フェブルは,次のように回想している。「何人かの伝記作者が,ドガは晩年かなり長い期間ほとんど眼が見えなかったと書いています。しかし,叔父が完全に眠が見えなかったことは,一度もなかったのです。確かに,片眼は全く見えませんでしたが,もう一つの眼は,瞬間的に見えなくなることはあっても,死ぬ時まで見えていました」。(ジャンヌ・フェアル,東珠樹訳『叔父ドガ』東出版)。それはともかく,絵画を描くことができなくなったドガは踊子と高の彫像を制作することに慰めを見出していた。といっても,ここでも,画家の余技としての彫像でなく,20世紀のアヴァンギャルドの彫刻のもっとも重要な先駆者としてめ,19世紀の偉大な画家=彫刻家であった。

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 ドガの晩年の彫刻は粘土に飽きるとプラスティシネ(塑像用の粘土の一種)を使うこともあり,蜜蝋にわるい材料,たとえば牛脂をまぜたりして制作していたが,前掲のジャンヌ・フェプルの回想にみえるように,気に入らない作品のときは次から次へとたたき壊してしまい,また悪い材料を使ったりしているために自然に毀れてしまうことも,しばしばであった。1911年ころ,ルモワーヌはドガがそのすべての時間を,彫刻をつくるために費していたと語っている。その翌年,ドガは長い間,生活していたヴィグトール・マッセ街の家から移らざるを得なくなり,この家の近く,プールヴアール・ド・グリシーの家の部屋とアトリエを借りることとなった。このヴィグール・マッセ街の家とドガの生活とについては,ヴァレリィやジョン・リウォルドが詳しく書いている。ドガは,このプールヴァール・ド・グリシーの部屋で1917年9月27日,83歳で亡くなっているが,その死後,アトリエと部屋に約150点のよく保存された,またそうでない彫刻作品が発見された。そのうち,3点が以前に石膏に型どられていたが,僅か約70点が完全であったり,また修復することができた。ドガの個展をした唯一の画商ポール・デュラン=リュエルが遺産目録を作成した後,これらはバルトロメの監理下に鋳物師エプラールの二倉庫にドイツ軍の爆撃から護るために保管された。エプラールは1919年にブロンズに72点(「14歳の小さな踊子」像を除いて)を,1点につき22箇,鋳造し,最後に「女生徒」は,5箇,遺産相続者のために鋳造した。

■踊り子の彫像